5.
回れ右をして扉を押すと、固まったままの背中が目に入った。
「あはは……どうも、お待たせさまですぅ」
「お、おかえりぃー……」
曖昧な笑みを交換しつつ、私はユーリさんの向かいの椅子をひいた。
「……で、あいつは?」
あっ、やっぱりそれは訊くんですね。
予想はしていたものの、いざ問われてしまうとどう答えたものか少しだけ迷ってしまう。大丈夫ですよーちょっと後ろに化け物がいただけじゃないですかー、なんて開き直るほどではないにせよ、笑顔で誤魔化し通すのはかなり無理がありそうな感じである。
なので、ぼかして言うのです。
「大丈夫ですよ。もう戻ってもらいました」
「ふーん、そっかぁ」
私の配慮が功を奏したのか、彼女は余裕の表情だった。
「はぁー……やっぱりね」
……と思ったのは、どうやらフェイントだったらしい。
「やっぱりアイツだったんだ。アイツが後ろに立ってたんだ……うぅ」
溜め息ひとつ。湯呑みから上がる湯気が、なんともいえない哀愁を漂わせている。
「まぁまぁ。アルだって、悪意があってやってるわけじゃないんです」
「私もそう思いたいんだけどねぇ」
彼女は顔を上げ、憂鬱そうに答えた。私には優しく接してくれるのに、リアクションのアツさとは裏腹に、アルに対してはとことん冷たい。彼女から見れば、アルはまだ恐怖の対象でしかないのでしょう。
でもです。それは、誤解なんです。
「ほら。アル、これを取ってきてくれたんですよ」
私は机の陰からバッグを出し、向かい側に差し出した。それを受け取るユーリさんの表情は、喜びというよりはむしろ驚きに近いようにも見える。ほーらアルは怖くないんですよー、と目で訴えつつ、私はユーリさんの反応を窺った。
「へぇー、確かに私のだ。手間かけさせてごめんね」
「お礼ならアルに言ってあげてください」
「うん。ありがと、レインちゃん」
「い、いやいや、お礼はアルにですね……」
「ありがとう、レインちゃん」
お、おぉう……。
これはちょっと一筋縄ではいかなさそうな感じですね……。身から出た錆とはいえ、ちょっとだけアルが可哀想になってきちゃいます。ごめんなさい、もう暫く地下にいてください、アル。
でも、ジョークを言うほど余裕が出てきたんだと考えれば結果はオーライ。『そーふぁーそーぐっど』ってヤツですよね。話したいことも話してほしいこともまだまだありますから、ここで怯んでなんかいられません!
「えーっと、ところでユーリさん」
「なあに?」
ユーリさんが荷物を確認し終えるのを待ってから、私は次の話題を切り出すべく声をかけた。彼女は荷物の中にあった携帯電話(私が知っているものとはちょっと形が違う)を手に、また少しだけ浮かない顔をしている。ラジオ同様、やはり電波は届いていないようだ。
「連絡のほう、大丈夫ですか? 言ってもらえればアルにお願いしておきますよ」
「えっ、あいつに?」
「はい。アル、人間の姿にもなれるんです。だから、メールか書き置きだけでもできないかなーって」
「へぇー、そんなこともできるんだ。なるほどねぇ……。でもまぁ、今回は遠慮させてもらおうかな」
「やっぱり、アルのことは信用できませんか?」
「うん」
一片の迷いなき即答。
「そ、そうですか……」
「それにね。実は、書き置きはしてあるんだ」
お、おぉ、なるほど。アルが信用されていないという点はひとまず諦めるとして、連絡に関しては大丈夫そうですね。
「それなら安心ですね。よかったです」
「うーん、どうかなぁ。あの子のことだから、本当は直接電話したいとこなんだけどなー」
「あはは……ヒトミさんって、本当に心配症な方なんですね」
「普段は優しいんだけど、心配かけるとすっごく怒るんだよねぇ」
私の言葉に、ユーリさんもぎこちない笑みを返す。それから数秒ほど何ごとか考えたあと、彼女はおもむろに背筋を伸ばし、「そうだ」とひとこと呟いた。
「どうしました?」
「ほら、これこれ」
机越しに首を傾げる私の前に、ユーリさんの携帯電話が差し出される。画面には、綺麗な紅葉をバックに笑うユーリさん……と、三人の男女の姿が映っている。どこかの公園で撮った写真かな?
「高校の友達と一緒に撮った写真だよ」
「へぇー、お友達さんですか」
「うん。休みの日は、よく四人で遊びに行くんだ」
「それじゃあ、このユーリさんの右に写っているのがヒトミさんですか?」
「そうそう」
腰をかがめてピースサインをするユーリさんの右には、鏡合わせのように左手でピースをする女性の姿があった。その女性――ヒトミさんはユーリさんよりも少しだけ小柄で、銀縁の眼鏡をかけたつり気味の瞳に肩のあたりで揃えた黒髪と、全体的にクールな印象を与える風貌である。見た目のわりに髪質が柔らかいのか、片側だけ結んだ横髪は注意しないと見落としてしまいそうなほど自然でさりげない。そんなところに左手のピースも相まって、クールな反面なんだか可愛らしくもあった。
クールなのにチャーミング……。うーん、私もクールになりたいなぁ。ましてやその上チャーミングなんて、いいとこ取りもいいところです。つまりは凄くいいところですね(?)。
「その子とは小さい頃からの付き合いなんだけどね。色々あって、最近はちょっとナーバスになってるみたいなの」
「はぇー……高校生さんって大変なんですねぇ」
画面に映る写真へ視線を戻すと、二人の笑顔がこちらを見つめ返す。その後ろでは、更に二人のお友達さんが肩を組んで笑っている。こちらはお二方とも男性だ。
ユーリさんの優しい笑顔の隣で、ヒトミさんはたおやかな笑みを浮かべている。こうして見比べてみると、初めて見る人なのに『心配性』という言葉についてはかなりしっくり来るものがあった。確かにちょっと気が強そうではあるものの、彼女はあまり物事を簡単に考えるふうではなく、むしろ思慮深そうというか、面倒見のいいしっかり者といった感じで……って、私はいったい何を言っているのでしょう。
思うところはあれど、見ず知らずの人間があれこれと邪推をするというのはちょっとばかり失礼な話だったかもしれない。自分のはしたなさを省みつつ、お話の続きをお願いさせてもらうことにした。
「ユーリさん。後ろのお二方は、どんな方なんですか?」
「……」
…………あれ?
「ユーリさん?」
「えっ……な、なあに?」
呼び直すと、彼女はようやく目を合わせてくれた。それまでは合っていなかった。ずっとこちらを見ていたのに、である。
私は彼女の様子を窺いつつ、首を傾げて疑問符を浮かべた。
「ユーリさん、大丈夫ですか? 何だかぼーっとしちゃってるみたいでしたけど」
「あぁ、うん、大丈夫だよ。ちょっと考えごとしてただけ」
「考えごとですか」
「そうそう。今のはね、えっと……」
私が怪訝な顔をしたのを見てか、ユーリさんは言葉を探すようにして視線をそらし、立てた人差し指をくるくると回しはじめる。
「今のは、その…………レインちゃんって、ちっちゃくて色白でかわいいなー、ってね!」
「へっ? わ、私ですか?」
予想外の変化球だった。
「あんまり可愛いからつい見入っちゃった。ごめんね」
「そ、そんなこと……」
えーっと……な、何ゆえに私は褒められているのでしょう?
場を和ませようとしてくれているのは何となく伝わったのですが、こう唐突に褒められてしまうと、和むどころか私はむしろしどろもどろになってしまいそうです。
「そんなことあるよ。ほら、こんなに真っ赤になっちゃってさ」
「あ、あの、えっと……そんなに急に褒めないでください。どうしたらいいか、分かんなくなっちゃいます……」
「その髪型も、すっごくよく似合ってるよ!」
「あの、いや、だから……」
「照れると上目遣いになるんだね。かわいいなぁ、もう」
「や、やめてくださいってばぁっ!」
分かっていても照れてしまう。顔が熱くなる。あたふたと反応に困る私の向かいで、ユーリさんは悪戯っぽい笑みを浮かべている。おのれユーリさんめ、確信犯ですか。そうなんですか。
「もう……からかわないでください。本当にそれだけなんですか? 何かあったら、無理せずに言っていいんですからね?」
「大丈夫だって。本当の本当に、それだけだからさ」
そう言ったところで、ユーリさんはようやく攻撃の手を止め、乗り出していた身体を引っこめてくれた。
あー、暑い……。
「さて……ごめんごめん、話が逸れたね」
「逸れすぎですよ、もぉ」
彼女は、なんだかちょっと安心したような顔をしている。方法はどうあれ、リラックスしてくれたのならこれも結果オーライ……なのかなぁ。色々とフクザツな気分ではありますが、とりあえずは及第点ということにしておきましょうか。
「それで、何の話だっけ?」
「はい。このお写真のことで……あれっ」
「画面消えちゃってるね。横のボタン押してみて」
「これですか? ……あっ、つきました」
ユーリさんに教えてもらいながらも、何とか消えた画面を呼び戻す(ボタンはともかくとして、画面を直接触って操作するというのはちょっと驚きだった)。
「えーっと、それでですね。後ろのお二方……」
「おっ、やっぱり気になっちゃう?」
「はい」
言い方がちょっとアレな気がしますが、その通りです。
「その二人は高校に入ってから知り合ったお友達でね。髪が短いほうが眞坂くんで、背が高いほうが飯野くんだよ」
ユーリさんは、ヒトミさんの後ろとその隣の人を順に指した。
「二人とも優しくて、すっごく頼りになるんだよ!」
「へぇー……」
見た感じだと二人は対照的で、活発そうな印象の眞坂さんに対し、飯野さんはちょっと大人しそうな感じ。ユーリさんたちと気が合うのもなんだか分かる気がする。
「……で、レインちゃん。どっちが気になるの?」
「ほえぁ?」
――まさかの第二球。
唐突すぎて、思わず間抜けな声が洩れちゃいました。
「い、いや、あの……そんなんじゃないですよ?」
「またまたぁ。隠さなくてもいいからさ」
「隠してないですっ!」
「あっ、また赤くなった」
「ユーリさんが煽るからじゃないですかぁ……」
「正直なところ、私もあんまりそういうのには興味ないんだけどね」
「なら何で煽るんですか」
「だって可愛いんだもん」
「確信犯ですか!」
「お詫びといってはなんだけど、他の写真も見る?」
「……見ます」
「オッケー。やっぱり素直だね、レインちゃん」
満足げに笑うユーリさん。携帯電話を彼女のほうへ返すと、彼女は慣れた手つきで画面を操作し(《すらいど》という操作らしい)、別のお写真を出して見せてくれた。私もようやく気を取り直し、恥ずかしさを振り払って画面に集中する。
画面には、和服姿のヒトミさんが映っていた。橙色の光の下、襖の並ぶ廊下に立ち、照れくさそうに微笑んでいる。
「これはね。ヒトミと二人で嬉野に行ったときの写真だよ」
「おぉー、浴衣ですか!」
「ヒトミったら、似合いすぎて仲居さんみたいになってるでしょ?」
「あはは、そうですね。ちょっと憧れちゃいます」
お風呂上がりなのでしょうか。髪を下ろしているせいか、写真に写るヒトミさんは、もう仲居さんにしか見えないほど浴衣がよく似合っている。そんな彼女のことをカメラを構えながら煽るユーリさんを想像すると、ちょっとほっこりしてしまった。うん。可愛いぞ、ヒトミさん。ひょっとして、ユーリさんは照れさせ名人さんなのではないでしょうか(もちろん勝手な想像です)。
「楽しそうですねぇ、お二人とも」
「えっ、私も?」
「はい。私も混ざりたいくらいです」
「そっかぁ。レインちゃんにも似合いそうだよね、浴衣。イメージとしては……そうだなぁ。小料理屋の娘さんって感じかな」
「小料理屋? 浴衣でですか」
「あれぇ、ダメかな。いいと思ったんだけど」
ユーリさんは明るく笑う。釣られて私も笑ってしまう。
もとから明るい性格なのは自覚しているし、一人でいるとき以外は明るく振る舞うように努めてもいる私なのですが、彼女といるとことさら明るくなれる。意識しなくても自然に笑顔になれる。
ここに来る前の私も、こんなふうに誰かと笑ってたのかなぁ……。そう考えると、なんだか本来の自分に戻れたような気がして嬉しくなってきちゃいます。ワクワクしすぎて、思わずまた足がパタパタしちゃってます。
「綺麗なお宿ですねぇ」
「うん。安いとこ探してたんだけど、結局奮発しちゃった」
「お部屋はどんな感じだったんですか?」
「ちょっと待って……あ、あった。ほら、こんな感じだよ――」
それから暫くの間、私はお写真を見せてもらいながらユーリさんと話し続けた。見れば見るほどワクワクするし、聞けば聞くほど想像力が掻き立てられる――彼女のお話には、私を引き込む魔力があった。
差し込む光、手足の感覚……それから、風の匂いまで。
その場にいるつもりになって詳細に描いていけば、まるで彼女とい出を共有できたかのような気分になれた。
本や映画で見るよりも、ずっとずっと幸せな気分だった。
「これは、近所の駅で撮った写真」
「ふむふむ」
「これは、お誕生日パーティの写真」
「おー、楽しそう!」
「こっちはボウリング。眞坂くん、すっごく上手なんだよ!」
「いいなぁ、いいなぁ……」
進めたり戻したりしながら思い出話を聞かせてもらい、話すこと一時間あまり。全てのお写真を見終わる頃には、時刻は午後六時を回ってしまっていた。お外はきっともう夕焼け空である。
名残惜しくはありますが、ここで一旦おひらきの時間ですね。
「……さて、ユーリさん。そろそろ私はお夕飯の準備をしなくちゃいけませんから、一旦お部屋に戻りましょうか」
「もうそんな時間?」
「はい。もう夕方の六時ですよ」
「そっかぁ。私、そんなに寝てたかなぁ」
「そんなにって程じゃないですよ。ほんの二時間程度です」
その言葉を聞いた瞬間、何故かユーリさんの動きが止まった。
「……え?」
「あれっ、どうかしました?」
驚いたように携帯電話の画面を覗き込むユーリさん。机の向かいから疑問を投げかけると、彼女は「う、ううん。何でもないよ」と笑って顔を上げ、首を横に振った。彼女はまだいまいち落ち着かないというか、たどたどしい挙動が目立つ。
正直、ちょっと心配です。
「何もないならいいのですが……。何か気になることがあったら、本当にすぐに言ってくださいね?」
「うん、ありがと。なんだか疲れちゃってるみたいだから、お夕飯まで上で休ませてもらおうかな」
彼女は笑って席を立つ。
「そうですか。じゃあ、お部屋まで一緒に……」
「いやいや、お気遣いなく。流石にそこまでさせちゃ悪いよ」
後について立ち上がろうとした私を席に戻しつつ、ユーリさんは引いた椅子を戻し、廊下側の扉に向かって歩き出した。
「あっ、ちょっと待ってください」
私が呼び止めると、彼女は急ブレーキをかけて振り返る。
「な、なあに?」
「ユーリさん、苦手な食べ物とかあります?」
「苦手なもの? ……えーっと、蕎麦がアレルギーで食べらんないけど、他は特にないかな」
「そうですか。分かりました」
「……じゃあ、私は上で待ってるね!」
ぱたん、というドアの音を最後に、部屋は静寂に包まれた。
私のほうから戻ろうと言い出したのに、何故か置いてけぼりを食らったような気分だった。
うーん……。今の微妙な反応は何だったのでしょう? そして、彼女は何故あんなにアセっていたのでしょう? 先程から、どうもユーリさんの様子がおかしい気がする。元々そういう方なのだという可能性を考慮しても、只今の反応はちょっと不自然すぎます。いったい何が原因なのでしょう……?
思い返して考えてみたけれど、これといって思い当たるふしはなかった。アルが怖いなら一人になろうとはしないはずですし、私自身が下手なことを言った覚えもありませんし……。他に何かあるかなぁ。知らず知らずのうちに気を遣わせてしまっていたのだとしたらと思うと、なんだか申し訳ない気持ちになっちゃいます。
うがー、スッキリしないなぁ。お夕飯の準備の前に、ちょっとアルに相談してみようかなぁ。間違ってもユーリさん本人には訊けませんよねー……。
アルが真面目に話を聞いてくれるかは別として、彼女自身にあれこれ問いただしては、却って状況を悪化させてしまうのは目に見えている。ならばそれよりはマシだということで、とりあえずはアルに相談してみるのが無難な選択である。うん、あんまり無難じゃない気がしないでもないのですが、まぁ無難にいきましょう。
そうと決まれば行動開始。時間が押すとお夕飯が遅れてしまうので、もたついている時間はない。
「すううぅ、はあぁ……」
向かう先は、もちろん地下室です。