3.
甘く見ていた。
自分がどれだけ暇だったか。どれだけの時間をお掃除に費やしてきたか。そして、最後にお掃除をしたのが何日前だったか。知らないわけではなかったけれど、まさかこれほどまでに抜かりなく、完璧にお掃除を済ませていたとは思わなかった。
私の部屋のお隣さん。気合を入れて部屋に入ったのはいいものの、思い出してみれば、その部屋は三日前に掃除したばかりだ。いくら暇だっただけとはいえ手を抜いた覚えはないし、あれから三日のあいだ、この部屋は使うどころか扉を開けることすらもしていない。
当然、掃除すべき場所などどこにも見つからないのです……。
同じお屋敷の同じ階にある部屋というだけあって、この部屋は私の部屋によく似ている。目に見えて違っているところといえば、テレビがないのとタンスがクローゼットに変わってるのと、あとは……うん、それくらい。白いベッドもベージュの壁も、トランプの裏面みたいな柄をした敷き物だって、私の部屋にあるものと殆ど変わらない。
そんな感じのお部屋が、全部で三部屋。部屋の数だけ似たような作業を繰り返しているのだから、お掃除の腕が上がってしまうのも道理というものだ。我ながらあっぱれ、過去の私の完全勝利である。
ぐぬぬ、どうやら私は負けてしまったようです。今日は負けが込んでいますね。
……しかし、敗者とて黙って引き下がるわけにはいかない。なんてったって、初めてのお客さんをお迎えするんですからね! 普段より更に綺麗にしますよー!
気合十分。私は部屋の中をウロウロと歩きまわり、部屋の中の状態を事細かに調べて回った。
ベッドや机の下を見て、クローゼットを開けてみて。絨毯の裏や窓枠も、しっかりしっかり見てまわり……。最後に、もう一度入り口から部屋を見渡す。アルが見つけたときには部屋中にホコリが舞い散り、窓は花粉まみれになっていた(らしい)このお屋敷も、思えば随分と綺麗になったものです。一年半ほど前からは最低でも半月に一回は私がお掃除をしているし、繰り返すようだけどつい三日前にも掃除をしたばかり。へっへっへ、抜かりはないのですよー。
つまりは……えー、はい。やっぱり掃除するところなんかありませんですね……。お掃除は諦めたほうが良さげです。他に何かできることがないか考えてみましょう。
何かないかな、何かないかなー。
絨毯の上を往復しながら暫く考えた後、探しものをするようにして部屋を見回してみる。一番に目につくのは、やっぱりベッドの横のクローゼットですねぇ……。二メートルをゆうに超える巨躯を持つそれはお隣さんのお部屋のタンスよりだいぶ大きく、私の手には余る代物です。
私は再びクローゼットの前に立ち、両開きの扉を開いた。
中身は女物の服。私の部屋にしまってあるものとは違い、この部屋のものは少しサイズが大きく、色やデザインについても幾分『大人っぽい』印象を受けるものが多い。二階の三部屋はもともと個室だったらしく、部屋ごとに違った特徴を持つ服が綺麗に分類されて保管してあるのだ(内装にも特徴をつけてくれればよかったのにー、と思うのは私だけでしょうか)。
そんなこんなでまぁ、とりあえず出来ることをやっておきましょう。えーっと、まずは夏物をしまって、それから冬物を出しておいて…………。
……って、ちょっと待ってください。お客さんの背格好ってどんな感じなんでしょう。このハンガーに掛かってるのでいいくらいですかね? それとも、下の引き出しに入ってるのくらい長身かも……。というか、そもそも着替えが必要なのでしょうか。男の人だったら、更にまたお隣さんのお部屋から服を持ってくる必要がありますし……。
そんなことを考えながら、クローゼットとにらめっこをすること数分。結局のところ決着はつかず、とりあえず平均的なサイズの冬服を出しておこうということでその場は手打ちとなった。
「……んっ」
ちょっと爪先立ちになりながらも、ささっとお洋服の入れ替えを済ませる。いちばん上の段(たぶん帽子か何かを入れるところなのでしょう)には届かなかったものの、それはまぁ仕方がない。さーて、次は何をしましょうか。
自信たっぷりにお掃除を引き受けた手前、できることというのは意外に少なかった。どうしましょう。何しましょう。とりあえず落ち着きましょう。
私は窓のそばに椅子を置き、縹色のカーテンを開いて仄暗い光を浴びた。
ふう……。
何かできることないかなぁ。アル、あとどれくらいで戻ってくるんだろう。
身体の動きが止まると、頭の動きはより一層活発になっていくもの。気がつけば、私の頭の中は未だ見ぬお客さんのことで一杯になっていた。
お客さんって、どんな人なのかな。
男の人かな。それとも女の人かな。
歳はどれくらいだろう。どんな姿をしているんだろう。
背格好は? 服装は?
優しい人だといいなぁ……。
訊かなかった私が悪いとはいえ、アルがいつ戻るか分からないのはちょっともどかしい。これじゃお茶も入れられないし、お客さんの背格好がわからないから着替えの用意もできない。
うー、どうしよう。お風呂でも沸かしてようかな。それともお食事かなぁ……。
心はドキドキ、足はパタパタ。
仕方がないので、このまま座って待つことにしました。
「嫌だ! いやだぁ!」
叫び声を聞いた私が一階へ降りたのは、あれから二十分ほど後のことでした。
「はなしてッ!」
廊下に響く、女の子の声。階段の途中で立ち止まって玄関を覗くと、アルに羽交い締めにされ、もがきながら引きずられていくジャージ姿の女性の姿が見える。髪は茶色みがかったストレートロングで、歳は、私よりもひとまわりふたまわりほど上……たぶん、十七か十八くらいかな?
そう。
待ちに待ったお客さんは、なんと年上のお姉さんだったのです!
…………。
……いやいや、違う違う。そうじゃなくて……アル、もうちょっと優しく連れて来ることはできなかったのかな? それじゃあ、保護じゃなくて捕獲だよね……。
『あ、レイン。この子に何とか言ってやってくれないか? どうも僕のことを信用してくれていないみたいなんだ』
確かにまぁ初めて見るから仕方ないとはいえ、この怖がり方は尋常ではない。そして、その原因の大部分(だいたい十割くらい)は、アルにある。
『呆けてないで、何とかいってくれよ』
「とりあえず、引きずるのをやめて!」
『こうかい?』
階段の踊り場から呼びかける私に対し、アルは……うわぁ、翼をはためかせて天井近くまで飛び上がりました。
「違う違う、それじゃ逆効果だよ!」
『大丈夫だよ、安心して。僕は暴力が嫌いなんだ』
一体どこに安心できる要素があるというのでしょう。お客さんはもがきつつも私のほうを見やり、はっとしたような表情を見せた。
「あ……貴方、早く逃げて!」
鬼気迫る声。ごめんなさい、逃げようとしたことはあるのですが、今は逃げようとは思っていません。
「何してるの、早く!」
実情がどうあれ、普通の人から見たら今の私も襲われているようにしか見えないみたいですね。ここはひとつ、『さっきゅう』に状況を説明して安心させてあげなくては……。
「えーっと……その子は、悪い子じゃないんですよ。私と一緒に住んでるんです」
アルと一緒に階段の前へと着地するお客さんに対し、私はできるかぎり簡潔に、できる限りの優しい声で説明をした。
『そういうことだ。分かってくれるかな?』
「何言ってるの! こいつは……」
お客さんは、そこまで言いかけたところで……。
「……っ」
あらら、気絶しちゃいました。
初めてのお客さんを前に緊張してしまったせいか、私の言葉は彼女を安心させるには至らなかったようです。うぅ……申し訳ない。
『慌てないように何度も言ったんだけどなぁ』
お客さんを抱きかかえ、顔を覗き込むアル(最初からそうしてくれればよかったのに)。私は階段を降り、彼に歩み寄る。
『仕方のない子だね。とりあえず、部屋で寝ていてもらおうか』
うーん、仕方がないですねぇ……。
私はアルの後ろについて階段をのぼり、お隣さんの部屋へと戻っていった。
『さて、と』
お客さんをゆっくりとベッドの上に降ろすと、アルは数歩後ろへ下がった。
『レイン、ちょっとこの子を見といてくれるかい? 僕は買い出しに行ってくるよ』
「……うん。早く帰って来てね」
私は、お客さんに毛布をかけながら応えた。
『ああ、そのつもりだ。僕がいないとどんな無茶をするか分からないからね。その子が目を覚ますまでには帰ってくるつもりさ』
それなら安心……なのかなぁ。
まあ、森の中に逃げ出しちゃったら本当に危ない目に合うかもしれないですからね。そうなるよりは、ずっと前の私みたいに、アルに怯えながらでもここにいる方がいいに決まっています。私と違ってお客さんには外に出られなくなるような理由もありませんし、とりあえずはここで過ごしてもらって、頃合いを見て街へ送り届ければいいんですよね。
『その通り。じゃあ、僕はもう行くよ』
アルはそう言い、ドアの方へ歩き始める。私はすかさず振り返る。
「いってらっしゃい、アル!」
言い逃すまいと慌てて手を振る私。彼は『あ、そうだ』と言って私のほうへ向き直り、こう残した。
『もしも僕が帰る前に彼女が目を覚ましちゃったら、無茶をしないようにってことだけは念を押しといてね』
無茶をしないように、かぁ。
「……うん、そうだね。だいぶ混乱してたみたいだし、もしかしたらすぐに出て行くって言うかもしれないよね」
私は冷静になって手を引っ込め、そばにあった椅子に座った。
『そうだ。もし無茶をしたら、とっても危険な目に遭っちゃうからね。イースに見つかりでもしたら、それこそ最悪だ』
とってもキケン……。そういえば、お屋敷から離れた場所には大きな動物なんかもうろついているんだと聞いたことがあります。
「うぅ……やっぱり、森の中ってとっても怖いところなんだねぇ」
私の言葉に答えが返されることはなく、アルは小さく頷いてから部屋をあとにした。
アルが見えなくなったのを確認すると、私はお客さんのほうへと視線を移し、椅子から立ち上がってベッドの脇に座り直した。部屋のなかには、私とお客さんだけ。室内は静寂に包まれ、お客さんの寝息を除いては耳に入る音もない。
さて、さて。色々と予想外の出来事もありましたが、とりあえずは一段落しましたね。アルの言いつけ通り、私はここでお客さんの様子を見ていたいと思うわけですが……。
うーん、じっとしているのはやっぱりもどかしいです。今日の私の落ち着きのなさには、『ひつぜつ』に尽くしがたいものがある。別にやらなくても何とも思わないようなことばかりだった昨日までの日々に対して、今日は、私の興味を惹きつけてあまりある存在――初めてのお客さんがいて、彼女はいま私の横で寝息をたてている。それは私にとって、落ち着きを失うには十分すぎる理由なのです。
私はベッドから立ち上がると、お客さんの姿をまじまじと見つめ、頭の先から足の先に至るまでを事細かに観察しはじめた。
観察といっても、大部分は毛布で隠れちゃっているのですが……。まず目に入るのは、やっぱりこの綺麗なロングヘアでしょうか。引きずられたり空を飛んだりと散々な目に遭ったというのに、胸の下くらいまで伸びたこの髪には一片の乱れも見られません。私なんてどんなに念入りに乾かしてもすぐに寝ぐせがついちゃうのに、この髪にはどんな秘密が隠されているというのでしょう? これは是非とも聞かせてもらわねばなりませんねぇ……。
そんなことを考えながら、身体の全体を眺めてみる。身長は百五十から百六十センチ程度で、アルよりちょっと高いくらいかなー。とりあえず、私が出しておいた服は問題なく着ることができそうですね。流石にこの紺一色のジャージでずっと過ごすのは厳しいでしょうから、着替えを用意しておいたのは大正解だったようです。へっへっへー、やっぱり私に抜かりはないのですよー。
外見については、他には……具体的には言えませんが、この方は私よりだいぶ『大人』ですねぇ。同じ年頃の方と比べるとどうなのかはよく分かりませんが、私と比べる限りにおいては……ぐぅ。どんなに低く見積もっても、私の倍以上はある感じです。恐るべし、大人のジョセイ。
……とまぁ、最後はちょっとだけ脱線しそうになっちゃいましたが、ぱっと見て分かるのはこれくらい。詳しいお話は、彼女が目を覚まして、ある程度心が落ち着いてきた頃にゆっくりと聞かせていただくことにしましょう。幸い過去の私のように悪夢にうなされているような様子もありませんし、私はもう暫くはお客さんとのお話タイムに思いを馳せながらアルの帰りを待つことになりそうです。