2.
見渡す限り、新しい世界。
本で読んだのと少しも違わない――夢にまで見た、人の住む街。
賑やかな雑踏の中を、私は歩いていく。
あの人は、何をする人だろう?
このお店には、どんなものがあるだろう?
あっちの大きな橋は……。
初めて見る光景の連続に、私はただただ嘆息する。
行き交う人々の喧騒も、行儀よく整列した建物も。
道路を走る車も、道に転がった空き缶でさえも――。
私にとっては、気の遠くなるほど輝かしい世界だった。
遠くを見ると、ビルの合間にひときわ高い建物が見える。
今度は、あっちへ行ってみようか……。
*
「……はぁ」
虚しい。
すごく、虚しい。
……あ、どうも。おはようございます。
勿論、ここはベッドの上。結局お勉強のあとアルは戻ってこず、仕方がないので一人でお昼ごはんを済ませて、あとは…………あれ、何でしたっけ。
読書をして、お勉強をして、それからまた読書をして……。他には、何かあったかなぁ。毎日同じようなことばかりしているせいもあって、記憶がすぐにごっちゃになっちゃうんですよね。特に寝起きは頭がぽーっとしちゃって、考えるのには向かないのです。アルがツレナイさんなのもいつものことですし。
……そうそう、聞いてください。アルったら、ひどいんですよ。出かけるなら一言くらい言ってくれればいいのに、いっつもまばらな時間に、しかも黙って出て行っちゃうんです。今日も知らぬ間にいなくなっていましたし……。行ってらっしゃいぐらい言わせてくれたっていいじゃないですか。まったく困った化け物さんです。彼は彼なりに最大限の『じょうほ』をしてくれているのだと思っていましたが、どうもそれも疑わしくなってきているんですよね。最近は何というか、意図的に意地悪をされているような気も……いや、元からでしょうか。構ってくれるのは嬉しいのですが、もうちょっとお手柔らかにお願いしたいものです……。
しゅん。……どうして私は、一人で勝手にしゅんとしているのでしょう? それもこれも、アルのせいです。全く全く、困った化け物さんです!
……なーんて愚痴ってるうちに目も覚めちゃいましたから、本題に戻りましょうか。
閑話休題。
お昼ごはんのあとはいつも通りに洗い物をして、やるべきお仕事は全部かたづけちゃったんですよね。それから暇に任せてベッドに入った次第ですが、朝起きてから六時間ほどしか経っていなかったせいでしょうか。名残惜しくも、夢の時間は一時間ぽっちであっけなく終わってしまいました。言ってしまえば、お勉強だって殆ど寝てるのと一緒ですからね。私はちょっと寝すぎたのかもしれません。
そんなこんなで、現在お屋敷には私ひとり。アルが出かけてから帰ってくるまでのあいだは、話を聞いてくれる人もなければ、思考を読み取ってくれる化け物もいない――私が過ごす一日の中で、最も退屈な時間である。
横たわったままの私を包み込むのは、いつも通りの寂れた空間。いつも通りのはずなんだけれど、今は心なしかいつもより少し広く、閑散としているようにも感じられる。お昼のお話タイムをスキップされてしまったせいもあって、今日は何だか消化不良な感じだった。
やりたいことは特にないし、やるべき家事も残っていない。あるのは空白の時間だけ。見渡す限り、見飽きた世界です。
……アル、早く帰ってくるといいなぁ。
時刻は午後三時。いつもと同じなら、アルはあと数時間は帰ってこない。どうしようもなく手持ち無沙汰になってしまう私は、一人遊びだとか、お昼寝だとか、そういったことに時間を費しながら彼の帰りを待つことになる。結果的に私はお昼寝の方を選んだわけだけれど、これはあまりいい選択とは言えないものだった。
はぁ……。
時間というものは、どうしてこうも天の邪鬼さんなのでしょう? 夢を見る時間は長く、お留守番をする時間は短くあってほしいというのが私の希望なのですが、時間はそんな願いなど聞いてはくれない。聞いてくれないどころか、これじゃ希望の真逆です。お留守番タイムは短くていいんですよー……。
あんなにいい夢を見たのに、終わってしまえば心はブルー。いい夢だっただけに、現実へ戻ったときの反動も大きい。それに――何故でしょう。思い返してみれば、たまにしか見られないはずの夢の続きだって、今はなんだか空虚なものであるように感じられてしまった。
ここから出たいかといえば、答えはもちろんイエスだ。今までにも幾度となく夢見たことだし、それが実現できたらどんなに素敵なことだろうと今この瞬間も考えている。
ここから出れば、できることはグッと増える。自由に外に出られるし、退屈な日々を過ごすことだってない。外に出たら、街に住んで、いろんなところに行って、いろんな人とお話をして……。
たまには、アルにも会いに来たいなぁ。
……思い馳せれば馳せるほど、なんだか虚しくなってくる。
何かが足りない。励みにしようと思っても、なぜだか心が沈んでしまう。もちろん気持ちの問題もあるんだろうけれど、一日に何時間も、それも毎日のように一人遊びをしろというのだから、うすぼんやりと卑屈な感じになったり、急に時間に文句を言い始めたりしてしまうのはちょっといったん大目に見ておいてほしい(大目に見てください、お願いします)。
これが世に言う『ぎゃくせつ』というヤツなんですねー……。
とにかく、虚しさの原因はともかくとして、今それを考えたところで何が変わるわけでもない。度を越したポジティブはネガティブのもと。ポジティブシンキングに持って行こうと考えれば考えるほど、かえって虚しさは増していく。空振りの空元気ほど虚しいものはありません。私はそれをよく知っています。
そんなわけで午後はテンション低め。エネルギー節約モードでまいりましょう。
私は枕と毛布を一緒くたに抱きしめ、二度寝を試みた。
願わくば、もっと楽しい夢に出会えるように。
願わくば、悪い夢にうなされることのないように。
眠くない目を無理やり閉じて、眠気がやってくるのを待った。
こんな無意味な時間を過ごしていると、「何故そこまでしてお屋敷に篭もるのだろう」と思われてしまうかもしれない。私だって、これが普通じゃないということくらいは分かっている。だからこそ夢を見るし、ときどき深く考えて落ち込んでしまうこともある。
お屋敷を出たい。街へ出て、自由を謳歌してみたい。その意志は何度寝て何度起きても変わっていない。これからも、ずっと変わらないと断言していい。
それでも。
それでも、私にはぬきさしならない事情がある。それは、私がここにいる理由であり――私が、アルと出会った理由。
えーっと、簡単に説明するとですね。
……やっぱり、「悪い化け物もいる」ということなのです。
もともと、アルは「地球の現状を見に来た」のだと言っていた。彼らの種族が残していた《ゆごす》という星の記録に、大昔の地球と、その頃の人類に関する記述があったのだそうだ(詳しくは教えてくれないけれど、それはそれは酷い書かれようだったらしい)。
その記述をもとに地球へと辿り着き、予定通りに調査を開始。ややあって人間……というか日本人に興味を持った彼は、そのまま地球に滞在し、進化した人類について、さらに深く調査をし始めた。イースという生物の存在に彼が気付いたのは、私と出会って以降のことだった。
アルの言うことには、彼が言っていた《イース》こそがこの状況を作り出した元凶であり、彼を監視する謎の生物。その化け物はアルが持つ能力に似たものを使うだけでなく、条件付きではあるものの、別の生物と身体を交換したり、時間を超えて未来へと跳躍したりといった能力まで備えているらしい。実は《イース》は遠い昔に大きな争いに巻き込まれており、絶滅を避けるためにその能力を使って遠い未来へと逃げたのだから、そもそも今この地球に《イース》が存在すること自体がおかしいのだという。
何を目的としているのか。なぜアルの様子を探っているのか。そして、なぜ現在に存在するのか。残念ながら、それは今も殆ど分かっていない。それでも彼は最悪の場合を考慮し、イースの動きを監視している。互いに監視し、牽制しあう――言わば、にらみ合いの膠着状態である。
二年前、森のなかで倒れていた私をアルが発見し、この場所に匿ってくれた。幸い大した怪我はなかったものの、目を覚ましてみれば何も記憶がなく、アルが名前や住所を尋ねても、私は殆ど答えを返すことができなかった。記憶がないんだからもういいじゃないー、となるかというとそうではなく、イースがアルを敵視して情報を探っている関係上、アルに保護された私も、安全な状態とは言い切れないと彼はいう。さして切迫した状況でなくとも、イースとの件が済むまではここにいなければならない。でも――。
裏を返せば、それまでの辛抱なのである。
イースの件が済めば、街へだって自由に行き来することができるようになる。アルの手を借りれば街に住むこともできるし、いずれは両親のもとにも帰れるかもしれない……と、実はこれもアルから聞いた話なんだけれど、そんなお話が私を元気づけてくれいるというのもまた事実。だから、寂しくなんかないのです。
……とはいえ、やっぱり深く考えるのはよくないですね。空元気が空振りしちゃいそうですから。
私はベッドから背を起こし、セットしておいた目覚ましを解除した。果報は寝て待てとは言うものの、これ以上寝て待つことはできそうもない。さて、これからどうしましょうか。何かできることは……。
頭の忙しさに反して身体は手持ち無沙汰なままなので、とりあえず窓に歩み寄り、お庭を見下ろしてみた。
灰色の雲の向こうから差す、ぼんやりとした光。朝には心地よく私を迎えてくれた太陽も、今は雲の後ろから遠巻きにこちらを眺めている。動物の一匹でもいれば観察してみてもいいのだけど、生憎、見えるのは葉の落ちはじめた木ばかりだ。小鳥に話しかけようとしたことのある私でも、流石に木とお話をするのは難しい。
吹き込む風に身震いしつつ、ぱたんと窓を閉じる。
うー、寒い。考えるのはやめておくとして、とりあえず着替えようかな。お屋敷から出ることがなくとも、寝間着のままでは気持ちがしまりません。
私はベッドの端から飛び降り、タンスから適当な服を選び出して着替えはじめた。
無地の服の上に、ちょっと大きめの黒っぽい上着(《だっふるこーと》とか言われていた気がする)。そして、下はショートパンツ。冷え込んできたので長いものを履きたいところではありますが、アルの話や映画から得た知識によれば、どうもそれは男の人、あるいは大人の女の人が着るものらしい。アル自身がそもそも人間ではないという点はさておき、実際に丈の長い服を着た姿を想像してみると、なるほど、確かになんだか背伸びをしている感じに思えて恥ずかしい気がします。長いものを堂々と履けないのはちょっとばかり不便ですが、私にはこれで充分なのです。
着替え終わると、畳んだ寝間着の隣に腰を下ろし、斜め上に視線を傾ける。
うーん、何しようかなぁ。お仕事は残ってないし、今朝読んでた本も読み終わっちゃったし……そうですねぇ。
音の嫌いな同居人もお出かけしてしまったことですし、暫く音楽室にでも篭るとしましょうか。蔵書室に行くのも悪くないのですが、読書ならいつでもできますからね。
と、まぁそんな感じで、行き着いたのはいつも通りの結論。お昼寝から一人遊びへと方針を改めた私は、先程とは別の引き出しからひざ掛けを取り出し、のそのそと部屋をあとにした。
秋の末、十一月の昼下がり。夕暮れまでは、まだまだ遠い。
目的のお部屋は、ダイニングを抜けた先。空き部屋を含めた個人のお部屋が面積の大半を占める二階に比べると、一階には先ほど挙がったダイニングを筆頭とし、蔵書室やお風呂などといった共用の設備が揃っている(もちろん、アルが使うのはダイニングだけですが)。普通のお家の三倍はあろうかという大きさなのに、住んでいるのは二人だけ。長い廊下を歩き、空き部屋の横を通り過ぎるときのやるせなさったらありません……。
二階の廊下から一階へと降り、部屋を出てから一分弱。音楽室へと到着した私は、沈んだ心を僅かに浮かせながらドアを押した。
音楽室というと大きな部屋やホールなどが思い浮かぶかもしれないが、この部屋はそうではない。この部屋はむしろ、他の部屋に比べると少し狭いくらい。内装はそれらしい感じに仕上げられているものの、もともとは別の目的で作られた部屋らしく、防音性能は皆無である。そんな部屋がなぜ《音楽室》と呼ばれるのかというと……それは簡単なお話。私がそう呼んでいるだけなのです。
白い壁と浅葱色の床が清潔感を演出するなか、このお部屋の主役ともいえる黒いピアノは、壁際で静かに私を待っている。ほかに楽器はないけれど、このピアノが電子ピアノであったのは不幸中の幸いというものでしょう。これなら、弦が切れる心配もありません。
私は棚からお気に入りの楽譜を抜き出し、小さな机の横を抜けてピアノの前の椅子に座った。ピアノの下には、その存在を誇張するかのようにして朱色の絨毯が敷かれている。
選んだ楽譜は『G線上のアリア』。数ある本のなかでも楽譜は貴重品であり、アルがいないときは結構な頻度でこのお部屋を訪れるので、この曲にかけては私は熟練者さんである。
私はひとつ息を吸い、胸を張って鍵盤に手を置いた。
見ていてください。今からこのピアノで、心震える見事な旋律を――。
『ただいま』
「ひえぁっ!」
――奏でることはできず、ただ短い悲鳴と、椅子の倒れる音だけが部屋に響き渡った。
「いったぁ……」
腰とお尻の中間あたりをさすりながら後ろを見ると、言わずもがな、そこにいたのはおぞましき化け物さんである。
『どうしたんだい。そんなに驚かなくたっていいじゃないか』
どうしたもこうしたも、私だって驚きたくはなかったんですよ。
「なんで急に出てくるの……しかも後ろから」
鈍痛にあえぐ腰を手でかばいながら、私はゆっくりと立ち上がった。待っていたのは確かですが、それでもタイミングというものを少しは考えてほしいものです。考えた結果としてあのタイミングを選んだのなら、それはあまりにも悪辣な判断で――
『ただいまって言ったよ。聞こえなかったかい?』
いや、聞こえたけど……痛っ! あー、もう。埒が明きません。
「早かったね。何かあったの?」
腰の痛みと胸に秘めた思い(主に不満)を押し殺し、倒れた椅子を起こす私。アルは何も言わず、しかし何か言いたそうに、その様子を眺めている。
こういう反応をするとき、アルは多分心のなかで私のことを小馬鹿にしているんですよね。私は『まぞひすと』ではないのでそうは思いたくありませんが、そうとしか思えないのが現状。うむむ、考えていたら柄にもなくイライラしてきました。腰の痛みもまだジワジワと尾を引いています。
「なにかあったの?」
彼に対するささやかな反抗として、私は少しだけ語調を強めた。
『言っておきたいことがあったんだ。それだけだよ』
それだけなら、今の妙な間は何だったのでしょう。心を読まれていたせいか、彼は私の反応を全く意に介していない様子。でも、彼が言おうとした言葉というのには少しばかり――いや、かなり興味があります。こんなムチャクチャな内容でも、やっぱりお話は楽しい。
「なあに? 教えてよ」
『うん。さっき、森で珍しいものを見たんだ』
珍しいもの? アルらしくもない、じらすような言い回しですね。珍しいものなら毎日のように見ている気もするのですが、こう思わせぶりに言われると、私としてもそのお話を掘り下げないわけにはいきません。
「もー、もったいぶらないで教えて。何を見たの?」
こうなったらとことん付き合ってもらおうと笑い混じりで問う私に対し、アルは少しだけ間を置いてから答えた。
『人だよ』
――瞬間、私は言葉を返すことができなかった。
数秒の静寂。座りかけたままの体勢で硬直する私は、アルに肩を抑えられて椅子の上に着地した。同時に走った鈍痛は、もはや気にも止まらなかった。
『もったいぶらないで言ったんだけど、おかしかったかな』
脳内を駆け巡る、思考の奔流。このゴチャゴチャの思考はアルにも読めなかったようで、彼は不思議そうに、トントンと私の肩を叩いた。
落ち着け。
落ち着くのです、私。
森といっても、この森は広い。人を見たって言ったって、街の近くかもしれないし、その反対の山のほうかもしれないじゃない。この森がすごくすごく、すっごく広いっていうこと、私はちゃんと知ってるんですよー! ……うん、その通り。『人だよ』の三文字だけで浮かれるのは時期尚早というものである。
「えっと……どのへんが見たの?」
速まる呼吸と鼓動を制しながら、私は期待半分不安半分の質問を投げかけた。焦って日本語がおかしくなっちゃったけど、彼なら思考を読んで理解してくれるはず。質問を質問で返しちゃってごめんなさい。とにかく落ち着きなさい、私。
『すぐ近くだ。森の中は危ないから、ここで保護しようと思う』
「ほ、ほんと? 嘘じゃないよね?」
『僕は無駄な嘘はつかない』
……駄目です、落ち着けそうもありません。
私は背筋をぴんと伸ばし、両手をお膝にぴっちりとつけ、くいっと視線を上げた(自然とそうなってしまった)。
アルの《隠れ家》になっているだけのこともあって、この森――とりわけこのお屋敷の周辺には、滅多に人が立ち入ることはないらしい。そんな森に人が入って、なおかつこの近くまで来ているなど、私にとっては年刊の大見出しを飾りかねないレベルの大ニュースである。
『そういうことだからさ。二階の空き部屋、綺麗にしといてくれないかな』
私は無言のまま、コクコクと頷いた。訊きたいことは多々あれど、それを取捨選択していられるほど私は冷静ではなかった。
記憶のある範囲では、初めてのお客さん。どこから来たのか、なぜ森に入ったのか。それからそれから、普段は何をしているのかも――嗚呼、話したいことだらけ。考える前から、次から次へと話題が浮かんでくる。
うーん、やっぱりお話は後でゆっくりすることにしましょう。当面は、お客さんをお迎えする準備ですよね!
『そうだね、宜しく頼んだよ。準備が済んだら部屋で待っててね』
宜しく頼まれました。お任せくださいっ!
羽を広げながら部屋を出て行くアルに「いってらっしゃい」を言い、私は満ち足りた表情で余韻に浸るのでした。
そんなわけで、お掃除の時間。不幸にもこの森に迷い込んでしまった来訪者さんには申し訳ありませんが、彼の帰りを楽しみに待たせていただくことにしましょう。