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雨と日暮れとまた雨と  作者: 鳩崎茂萩
1/5

1.

 ひとことで言えば、それは「慣れ」というものなのでしょう。

 今ならもう夢と現実の区別はつくようになったし、さらに言えば、今この状況――今まさにお屋敷から出ようという状況が夢だと分かっても、私はもはや落胆することはない。落胆するどころか、今はむしろ開き直って夢を楽しむぐらいの気持ちだった。覚める前から落胆なんて、考えてみれば気の早い話である。

 お屋敷の扉を開くと、木々の間から太陽が顔を出して私を迎える。振り返ると、お屋敷の窓もなんだか心配そうに私を見下ろしている。毎回少しずつオチのパターンを変えてくるこの夢は、今回はどうやら情で落としにいく作戦らしい。歓迎と惜別の板挟み攻撃に少しだけたじろぎつつ、私は石畳の上を歩き、木漏れ日の奥に霞む道を見据えた。

 ――この先には、私の知らない世界がある。

 今すぐに街に住めなくたっていい。いつかは叶う夢なのだから、ゆっくりゆっくり待てばいい。……そう言い聞かせて、はや二年。いくらか時間を潰すのも上手くはなったものの、退屈なものはやっぱり退屈だし、時間を潰すのにも限界があった。

 だから、ちょっとだけ。一日だけでいいのです。

 一日だけ、夢を見させてください――。

 意を決してお庭の外へ踏み出した瞬間、森の奥から吹き抜けた風が、私の視界を真っ白にフェードアウトさせた。

『朝だよ』

 と、聞き慣れた声が私を呼んでいた。


『おはよう、レイン』

 一日の始まりは、いつも彼の声だった。

 ゆっくりと目を開ければ、いつも通りの朝陽が私を迎える。いつも通りの部屋の中、いつも通りに背を起こせば、やっぱりいつも通りに私を見守る同居人さんの姿が、ぼんやりと見えてくる。ベッドの脇に佇む彼は、唯一の同居人である『アルベルト』――縮めて『アル』だ。今日も変わらぬ朝に少しだけ気怠さを感じつつ、今日もおあずけだったなぁー、と覚めたばかりの夢を回想しつつ、私も潔く朝を迎え入れることにした。

「おはよー、アル……」

 そんなこんなでベッドの上。はぐれそうになった思考をなんとか呼び戻し、私も朝の挨拶を返す。言わずもがな、今日もまた彼に起こされてしまった……ということなんだけれども、ちょっと待って。信じてください。私にだって夢と現実の区別はつきます。だから私はねぼすけさんではありません。ええ、決して。

 だって、これは仕方のないことだと思うんです。具体的な年齢は分からなくても、私だってもう一人で起きることができて然るべきお年ごろ。そんな事実を自覚して私も毎日目覚ましをセットしてはいるのですが、どんなに早い時間にタイマーをセットしても、彼のほうが目覚ましより早く起こしに来ちゃうんです。このお決まりのパターンもそろそろ二年が経つ頃かなぁ……。

「あれ、めざまし鳴らなかった?」

 寝ぼけ眼をこすりながら、枕元の目覚まし時計を確認する。もしかしたら今日こそ本当にお寝坊をしてしまったのではないかとも思ったけれど、それはやっぱり無用な心配でした。短針が指すのは八時の少し前。セットした時間の数分前――うん、いつも通りです。

『君がそのうるさいベルをセットしなければ、止める手間も省けるんだけどね』

 彼は遠回しに抗議した。大きな音は、彼の苦手とするところだった。何のことはない理由だけれど、それだけで二年間も、それも毎日私を起こしに来るのだから、彼も筋金入りである。

「また止めちゃったんだ。わざわざ起こしてくれなくていいって何回も言ってるのに……」

『そうかい?』

「うん、私は平気だよ」

 起こしてくれてありがたいと思っているのは事実ですが、やっぱり自分で起きたいという気持ちがあるのもまた事実。ですから、わざわざ起こしに来てくれる必要はないのですよー!

『……なるほど。じゃあ、起こすのはやめようかな』

「えっ」

『起こさなくていいんだろう?』

 い、いやいや違うんです。違うんですよ。

『僕は構わないよ。君が起きなくたって、僕は大して困らない』

 今のは違うんです。ごめんなさい、嘘つきました。明日もまた起こしに来てほしいです……。

『何だい、はっきりしないね』

「だってぇ……。アルが困らなくても私が困るんだもん」

 実のところ、私は自分で起きるということについてはそれほど気にしてはいなかった。そんなことより、こうして彼と話ができるということのほうがずっと大事だった。

 いつも生返事を返すか正論でやりこめるかばかりの彼でも、私にとっては貴重なお話相手なのです。最近はなんだか口数が増えているようで、私としては嬉しいかぎり。冗談を言うと今しがたのようにポーカーフェイスで返されてしまうものの、これは実は彼が私の意図を汲んでくれた結果なのではないかと勝手に思っている。

 今夜も、目覚ましはセットして寝ようかなー。

 考えながら、毛布の端を指先で探し、膝の上で四つ折りに畳んだ。アルは何も言い返さず、ベッドの脇でタンスをいじり始める。そんな彼の姿をベッドの端からぼんやりと眺めつつ、私は次の言葉を待った。

 記憶にあるかぎりでは、もうすぐ三度目の冬。それでもアルとの生活には慣れたような、まだ慣れないような……。いつ見ても、彼は不思議な同居人さんである。一応は人間の言葉を話しているし、私としても人間であってくれたほうが接しやすいとは思う。そう思うんだけれど――まこと残念ながら、彼は人間ではなく――平たく言えば、化け物だった。

 それを何よりもよく証明しているのは、彼の外見。身長こそ私と頭の高さが並ぶ程度ではあっても、とにかく姿が普通ではない。その姿は虫のようであり、なおかつ植物のようでもあり、部分的にいえば、それらとも全く別の生物であるようにも見えた。

 他に考えることがないせいもあって、私はよくアルのことを考える。だから私は私なりに、彼のことはよく理解しているつもりである。……でも、分からないことも多い。なかでも『彼がどういう生き物なのか』という疑問は、私がここに来て以来ずっと『お屋敷七不思議』の筆頭に君臨し続ける、いわば永遠の謎のようなものなのです。彼はいったい何者なのでしょう?

 ……虫かな?

 植物かな?

 それとも、別の何か?

 尾っぽはちょっと爬虫類っぽいかなぁ。

 手足だって、先っぽは鳥みたいにも見えるし……うーん。

 様子を窺いながら考えてみたものの、考えれば考えるほど、彼のことを的確に表現する言葉などないのではないかと思えてくる。手足が虫で羽がコウモリで、身体が赤くてやや猫背。楕円形の頭には、無数の触角のようなものが生えている。本当にそうだから、なんともかんとも表しようがない。……いや、本当ですってば。いろんな生き物を混ぜこねたみたいな子なんですよ。本当の、本当にです。何というかこう、何も知らない人がいきなり見たら石化とかしちゃいかねない感じっていうか……とにかく、最初は私だって冗談抜きで殺されちゃうと思っちゃったくらいなんです。

 この二年間で知り得たことを『かみ』してみても、やっぱり彼のことは化け物という他なさそうだった。外見もさることながら、実をいうと、本質だって立派な化け物さんなのである。化け物が彼だけじゃない、という話はまぁ何とか信じられたものの、出身が宇宙の外だなんていうお話を聞かされたときは、流石の私も信じるかどうかちょっと迷ってしまったくらいだ。地球人でもなく、宇宙人でもない――そんな彼をあえて「化け物」以上の言葉で表すとすれば、たぶん「言葉で表せない」というのが最も適切な説明ということになるのでしょう。

 そんなことを考えながらまじまじと観察する私の視線などまるで意に介さず、アルは背中と呼んでいいのかも分からないような人間離れした後ろ姿を半分だけこちらに向け、黙々とタンスをいじり続けている。遠い昔からこの場所に住んでいたかのごとく、姿はともかくとして、その所作は不自然なほどに自然である。

 一方の私はというと、この生活に馴染み始めたのは、彼に保護されてから少なくとも数ヶ月が経ってからのことだった。流石に怯えたのは最初だけだったけれど、それから状況を把握して、徐々に生活に馴染んで……としていくうちは、毎日のように悪夢にうなされていたのを今でも覚えている。ちょっと失礼な話だけど、アルに襲われる夢も何度か見てしまった。彼の姿に見慣れて、悪夢の頻度が下がりはじめたのは、年が明けてからのことである。

うーん。我ながら、どうしてこう……私の記憶って、イヤなところから始まっているんでしょうか。一応は姿を消したり人間の姿を真似たりといったこともできるそうですが、私には化け物の姿しか見せてくれないんですよねー……。

 ともあれ、アルこそが私にとっては唯一の同居人であり、私を保護し、養ってくれている恩人でもあるというのもまた事実。人は見かけによらないというけれど、じつは化け物だって見かけによらないのです。そんな彼を困らせないためにも、私はそろそろベッドから離れることにしましょう。

 私は寝ぐせのついた髪を揺らしながらベッドから降り、大きく伸びをした。見ると、彼もようやく目的のものを探し出したところらしかった。

「タオル探してたんだ。一番下の段にまとめてなかったっけ?」

『僕もそう思ったんだけどね』

「おかしいなぁ。おととい整理したときに間違っちゃったのかな」

『だろうね。直しといたから、顔を洗っておいで』

「うん、ありがと」

 ベージュの壁に、フローリングの床。棚も机も珍しいものじゃないし、絨毯やカーテンだって特別派手なわけではない。そんな()()()()()部屋の中、鉤爪のついた手(……いや、前足?)が差し出すタオルを受け取り、私は一階の洗面所へと向かう。


 暖かい室内にいたせいか、廊下は少し肌寒く感じられた。秋を見送り冬を迎えようかという時期なのだから当たり前といえば当たり前ではあるものの、床が冷たくなってしまうのはちょっと困る。薄暗い上に傷んでいて、歩くとギシギシと音を立てるこの廊下を二十メートル近くも歩くというのは、特に寝起きの私にとっては大変なことだった。

 こんなことだって相手さえいれば話の種にできそうなものだけれど、悩ましいことに、私の同居人さんは暑いとか寒いとかいった話には一切興味がない様子。彼と人間とのあいだには共通の理解というものは殆ど存在しないようで、私のほうから話を振っても、大抵の場合は話が噛み合わずにカラ回りしてしまう。そんな肌と心と背筋の寒さを感じつつ、たまに上手くかみ合う話題を見つけて一喜一憂するのが、私なりの冬の過ごし方なのです。

 突き当たりの階段を降りれば、洗面所はもうすぐそこ。コケないように注意しつつ階段を降り、ダイニングの前を一度通過して洗面所へと辿り着いた私は、軽く背伸びをして蛇口をひねった。それから顔を洗ってうがいをし、ショートヘアのてっぺんに居座る寝ぐせとしばし格闘を繰り広げるうちに、目はすっかりさえてしまっていた。


    *


「たまごやき、たまごやきーっと」

『……何だい、その歌』

 朝のひとときは、私のお気に入りの時間。一般の家のそれと違ってこのお屋敷の朝には余裕が満ちあふれ、何に追われるでもなくゆったりと流れる時間は、よく言えば『ゆうが』である。普段は私のおしゃべり攻撃を軽く流しがちなアルも、この時間には私のお話に応じてくれたり、逆に彼のほうから話を振ってくれたりすることが多い。

 ついでに言うと、今しがた私にツッコミを入れてくれた同居人さんはお料理が大の苦手だったりするので、お料理……というか、掃除や洗濯を含めた家事全般は、私の役目なのである。

 これは意外かもしれないし意外じゃないかもしれないんだけれど、彼は今まで、ただの一度も、私に食事をとる姿を見せたことがなかった。彼曰く「人間の食べ物は苦手だから、ここでは水分があれば十分」とのことで、その水分に関しても、水以外のものをとることは殆どない。それならわりかし植物寄りの生き物なんじゃないかなー、でも明るい場所は嫌いだって言ってたしなぁ……なんて考察をしながらお皿を選んでいると、キッチンの向こうから『草呼ばわりされたくはないな。僕は僕だ』と、妙に説得力のあるツッコミが飛んできた。

 彼の言葉に苦笑を返しつつ、焼き上がった玉子焼きを皿に盛り終わったタイミングで、セットしておいたトースターもお料理終了の合図を出した。こんがり焼けたトーストをつまんで玉子焼きの隣に載せ、私はアルの向かいの席に座った。彼は机に向かって立ち、四本の脚を使って器用に本を読んでいる。

 背表紙を見ると、それはどうもお料理の本らしかった。

「アル、どうしたの。お料理の本なんか読んで」

 いただきますの挨拶の後、トーストをかじるのもそこそこに、さっそく浮かんだ疑問を投げかけてみた。彼は本を置き、ゆっくりと頭を私のほうへ向ける。

『うん。そろそろ、これも理解できる頃だと思ったんだけどさ。相変わらず人間ってのはよく分からないな』

「そう? 私は好きだけどなー、お料理」

『僕は、そうは思えないな』

「一回やってみてよ。アルも、試してみれば案外楽しいかもしんないよ?」

『いやいや、それはない』

 うぐっ、即答ですか。

「もー、ツレナイなぁ。どうしてそう思うの?」

『無駄だからさ』

「無駄?」

『そう、無駄だ。だって必要ないじゃないか』

「うーん。それはまぁ、アルから見たらそうかもしれないけど……」

『おっと、僕を変わり者みたいに言わないでもらいたいな。残念ながら、変わり者は君の方だ。百歩譲って食べることは必要だとしても、料理なんて無駄な手間をかけるのは人間だけ。動物の中でも少数派だよ』

 うぐぐっ。

「で……でもでも、アルはその人間のことをもっとよく知りたいんだよね? だったら、お料理のことだって!」

『違うな。僕はあくまで共存の道を探っているのであって、必要ないものまで取り入れてしまおうという気はない』

「まーたそんなこと言って……。必要かどうかなんて、やってみないと分かんないんじゃない?」

『僕は必要ないと断言したばかりだ。人間にとってそれが必要なら、人間が勝手にやればいい』

「そ、そっかぁ」

 精一杯引き込もうと『かくさく』する私の言葉は、彼の正論にことごとく叩き潰された。もしかしたら彼がお料理をする気になって、それとなーく私にアピールをしてきているのかもしれないとも思ったのですが、それは淡い期待というヤツだったのでしょう。彼は料理の手順ではなく、料理という行為そのものに疑問を持っているようだった。百歩も譲らないと食べることすら認めてくれない化け物さんには、確かにちょっと難しいお話だったかもしれません。

 そう考えるうちにも、彼は『君たち人間から見て僕が異端であるように、僕から見たら君達が異端なのさ』なんてもっともらしいことを言っている。私には、それ以上は返す言葉が見つからなかった。彼はいつもこうだった。物腰は優しいのに、意外にツレナイ化け物さんなのである。

『そう、僕はツレナイ化け物だ。よく知ってるね』

 ……とまぁ、こんなふうに人間の心を読むこともある程度出来てしまうので、下手なことを考えるとすぐにテレパシーでツッコミが飛んでくる。ツレナイんだかノリノリなんだか、よく分かりません。因みに、私としては後者であってくれると嬉しいかなー。

『少なくとも、ノリノリではないよ』

「えー、なんで?」

『君に合わせていると疲れるからだ』

「そうかなぁ」

『そうだよ』

「ふぅん。アルも疲れることってあるんだ」

『だから、疲れるような行動は避けてる』

「むぅ。……アルってば、冷たいんだから」

 こうしたやり取りのあと、話題はいつも、決まりごとのように本や映画の話に収束する。たまーに気まぐれでアルが話してくれる身の上話はお食事中の私にはちょっぴり刺激が強いので、アルも気を遣ってか、お部屋に様子を見に来たときを除いては、その手の話題は避けてくれているようだった。

「そういえばアル、いま読んでる本のことなんだけどさ」

 私は横目から姿勢を戻し、いつもどおりに本の話へと話題を移した。これは、「もう他に話せそうなことがないよ」という弾切れの合図でもあった。

「――でね。その鳩がもう、かわいくってさぁ」

『うん』

「――そういえば、こういうことって本当にあるのかなぁ」

『どうだろうね』

 私が話をするあいだ、アルは『うん』、『うん』と、適度に(適当に?)相槌を打ってくれた。興味のなさそうな反応に見えるかもしれませんが、それはきっと気のせいです。

 それから一方通行ながらも話を聞いてもらい、登場人物のこと、展開のこと、初めて知ったものごと……とひとしきり話題を消化し終える頃には、机の上のお皿は空になってしまっていた。

 私は立ち上がり、使った食器をシンクへと運んだ。その間も丸みを帯びた彼岸花のような頭は私を追うように動き、こちらの様子をじーっと観察している。この時間は食事の時間であり、おしゃべりの時間であり、アルにとっては人間観察の時間でもあるのだ。

 なんでも、彼が思考を読むには条件があって、それを満たしている人間は今のところ私しかいないんだとか。おおかた、思考が単純だとか付き合いが長いとか、そんなことが条件なんだろうと思う。

『……レイン、どうかしたかい』

「へへ。なんでもないよー」

 ……いい加減な理由だと思いつつも、頬がちょっとだけ緩んでしまう。悪い気はしない。彼も私のことを分かろうとうとしてくれてるんだー、と『かいしゃく』すれば、そんな理由だってむしろちょっとこそばゆい。

「そういえばアル、今日はお出かけするの?」

 私はふと思い出し、キッチン越しに尋ねた。彼岸花は、視線をこちらに向けたまま『まだ決めてないよ』とだけ答えた。



 洗面所で歯磨きを済ませてから二階に戻ると、私はベッドへ直行し、その上に背を倒した。

 差し込む光の奥から、小鳥のさえずりが聞こえてくる。

「ふー……」

 小さく溜め息。私はぼんやりと天井を見上げる。

 お部屋に戻ってしまえばできることは意外に少なく、やることといえば読書かお昼寝くらいのものだ。一応はテレビもあるけれど、肝心の番組が届かない。インターネットも同じ理由で駄目だし、ラジオに至ってはもはやただの騒音発生器である。

 なぜ使えないのに置いてあるのかというと、それは私にもわからない。多分、アルにも分かっていない。このお屋敷自体、彼が勝手に使っているだけで、何のためにここにあるかも、いつから無人で放置されていたのかも分からないのだ。

 人の手を離れ、娯楽に欠けたこのお屋敷。私も極力ヒマを作らないように過ごしてはいるのですが、それでも時間は余ってしまうもの。ヒマだなぁー、と声に出してみたところで、返すのは閑古鳥の声だけだった。

 アルのところに行こうかなぁ。すっごくお願いしたら、マンガとかゲームとか用意してくれないかなぁ……。雑誌の特集に載ってたんだけど、スペースインバイターとか得意そうだよね、アル。

 そういえば、アルが買ってくるものには、なぜか日本語表記のものと英語表記のものが半々の割合で混ざり合っている。なかでも日用品には英語のものが、食料品には日本語表記のものが多いのだけれど、本と映画の一部が英語なのはちょっと困る。理由については「出先で仕入れているものもあるから」とか言ってた気がしますが、アルの出先って、一体どこなんでしょう――。

 アルに関しては、私から見てもまだまだ謎だらけだった。出自からして「宇宙の外から来た」なのだから、彼の話を頭から信じろというのは少し難しいお話である。しかし、そんな奇想天外な身の上話も、彼に限っては冗談では済ませられない。むしろ、下手な洒落より説得力があるくらいだと私は思う。外見然り性格然り、彼がそんな無駄な嘘をつくユーモアを持ち合わせているようには思えなかった。

 そんな感じで人間との接し方が驚くほど不器用な反面、彼の持つ技術力には人間のそれを遥かに超えるものがある。このお屋敷だって、設備は見当たらないのになぜか電気やガスが通っているし、おまけに明らかに不自然な地下室がついていたりもする。その地下室は、もともとは食料庫で、彼が自分用に研究室として改造したものらしい。つくづく、底の知れない化け物さんである。

 数分ほどベッドに横たわってあれこれ考えたあと、私はゆっくりと背を起こして部屋を見回した。

 デッキの中には見飽きた映画。机の上には、読みかけの本。寝間着のままだけど、べつに着替える必要もないし……。今日は、読書にしようかな。

 『ダビデの自嘲』と題された本を手に取り、机の横の椅子に座る。このお話はなかなかに生々しい感じで、私にはちょっと早いような気がしないでもない。

 私は本を開き、落ちた栞を机の上に置きなおした。

 本は、私の知らない世界を垣間見せてくれる。私以外の人だってきっと知らないような深い世界を、間近に思い描かせてくれる。だからこそ私には難しいかなーと思う本もいっぱいあるのですが……。ともかく、本は貴重な教養の源なのです。アルも『知的な人は好きだよ』と言っていましたし、教養を得るというのは人にとっても化け物にとっても大事なことですよね。

 現実の落ち着いた空気とは打って変わって、本の中。こちらは犯人の居場所を突き止め、嫌味な上司さんに報告を行っているところである。

『万田警視、奴のヤサが割れました』

『持ち場に戻れ、真崎。寝言を言う暇はないはずだぞ』

『ヤサが割れたと言っているんです』

『……確かなのか?』

『はい。裏も取れています』

『真崎。お前は二件のヤマに繋がりがあると踏んでいるようだが、人員ならやれんぞ。今は葦原組の一件のほうが急務だ』

『構いません』

『そっちの帳場に戻してやれる班はないと言っとるんだ』

『構いません。我々だけで取ります』

 真崎さんなら、この分からず屋の警視さんも動かしてくれる――そんなことを考えながら、ページを捲った。

『……まぁ、考えておこう』

『考えておく、では駄目なんです。今すぐにガサ状を取ってください。これを逃せば、奴は間違いなく飛びます』

『泳がせておけばいい。それが上の意向だ』

『万田警視!』

『やぁレイン』

 あ、ちょっと待って…………くれなさそうですね。本はひとまず置いといて、後でゆっくり読み直すことにしましょう。

 のほほんとした現実に、同居人の登場だ。絵面としては本の中に負けず劣らず緊迫した状況ではありますが、私にとってはこれが日常。栞を挟み直して本を置くと、同居人さんは扉をくぐって部屋に入ってきた。私は椅子に膝をついて後ろを向き、「どうしたの、アル」と彼を迎える。タイミングはともかくとして、彼がお話をしに来てくれるのはやっぱり嬉しかった。

『ちょっと用があってね。それにしても、今日も読書かい』

 彼はゆっくりと歩み寄り、部屋の真ん中あたりで立ち止まった。

「今日も? 私、そんなに毎日読書してたかな」

『うん。一昨日のぶんで、もう蔵書室の書架一台分くらいは読み終わったはずだろう?』

「そうかなー。言われてみれば、そんな気もするなぁ」

 そんな気はするのですが、蔵書室を制覇するにはあと書架五台分も読まなくちゃいけないんですよね。私にはひと月に二十冊のペースが限界ですから、まだまだ先は長そうです。

『いや、流石にそこまでしろとは言わないよ』

「いいの。だって……」

 他にやることないんだもん。

 言葉の先は、伝えるともなしに伝えてみた。

 でも、普段の容赦のなさに比べると、彼がこういう言い方をするのはちょっと珍しいかもしれない。気が付かないうちに、私もちょっとは彼の理想とする《知的なジョセイ》に近づけていたということでしょうか? 悪い気はしませんが、彼に言われるとなんだかフクザツな気分です。赤面したほうがいいのでしょうか、それとも青くしたほうがいいのでしょうか? ……うーん、難しい問題ですね。

『確かに多少は知的に見えなくもないけど、記憶力は皆無みたいだね。僕の記憶が確かならば、君がその本を読むのは三回目だ』

「えっ」

 なんですと。

『どうかしたかい』

 あ、あれあれっ? ああ、いや……うん。

 た、たぶん、アルも冗談で言ってるんですよね! 彼なりのユーモアというやつでしょうか? 照れ隠しだなんて、まったく全く困った子ですねぇ。もっと素直になってもいいんですよ? そりゃあ大好きだと言われたら困ってしまうところでは――。

『冗談なんかじゃないよ。今朝だって、この本の話をするのは三回目だった』

 ごめんなさい、降参です。トドメを刺さないでください。

 かくしてカウンターからのノックアウトを鮮やかに決められたところで、読書の話題は終了せざるを得ないようだった。ほんの冗談のつもりだったのに、結局のところ、私の顔は真っ赤である。それに比べてアルときたら、何くわぬ顔ですましてやがりますね。顔がなくても分かりますよ。

「えっと……ご用はなあに?」

 傷を広げるまいと心を鎮めながら、私はすぼめた肩を少しだけ戻した。

『ああ、そうだったね。僕としたことが、つい君の茶番にのせられてしまった』

 その茶番のおかげで、うら若き乙女の心は多大なるダメージを負ったわけですが。

『うん。特に重要な話ではないよ。お勉強に呼びに来ただけさ』

 なーんだ、そんなことか。変に前置きするからてっきり楽しいお話かと思っちゃった。ちょびっとガッカリ……。

 でもでも。私の記憶が確かなら、そして不定期更新の『お勉強の予定メモ』によれば、今回の科目は家庭科で、新しいお料理のレシピを教えてもらえることになっていたはずである。ほんの三日前の会話をもう忘れてるなんて、私ってやっぱり記憶力ないのかなぁ。いや、これはもはや『けんぼうしょう』の疑いが出てくるレベルかもしれません。何もないのに記憶がなくなるなんて、ちょっと不思議ですね。

『馬鹿なこと考えてないで、早く準備して』

 敗者は従属あるのみ。彼の言うことも尤もなので、私は準備に移った。私は敗者にこそ優しくするべきだと思うんですが、それじゃあ回らないのが世間ってヤツです。

 準備といっても、本や筆記具を取り出すわけではない。ここでいう《準備》というのは、専ら心の準備のことである。ではなぜ彼が準備を求めるのかというと、他でもない。お勉強の部屋といえば、このお屋敷の中では恐らく最も大きく、それでいて最も怖い――あの地下室のことなのです。このお屋敷のことをそれはもう知りに知っている私とて、心の準備を怠るわけにはいかない。備えあれば憂いなし、である。さらっと馬鹿って言われたのは聞き捨てならなくなくもないですが、ここはお勉強を優先して聞き捨てておくことにしましょう。

 深呼吸をして、心をニュートラルに……。

「すうう、はあぁ……」

 流石に心を落ち着けるなんて慣れたもので、毎日化け物を見ている私ともなれば、もはやルーチンワークだった。


    *


『よし。いつも通り、そこに座って』

 部屋の真ん中の大きな椅子に座り、灰色の部屋を見回す。

 壁も床も、棚も机も。湿った匂いや、硬い椅子の感触だって。

 感じる色は、ぜんぶ――ぜんぶ、灰色。

 全てが鉄とコンクリートで出来ているかのような重苦しい部屋の中、机に並ぶ機械の画面だけが色彩を放っている。部屋の隅には何やら鉱石のようなものが置いてあるけれど、それもまた苦しいまでの灰色だった。

 ――この部屋は、やっぱりちょっと怖い。

『リラックスして。緊張すると、効率がガタ落ちだからね』

 仰向けに背を倒すと、巨大な灰色に押しつぶされそうになる。灰色のほかに私を見下ろしているのは、蛍光灯の無機質な白だけだ。

 アルが作った地下の部屋。ここは、モノクロームの世界。

 私はもう一度深呼吸をし、心を落ち着かせる。この部屋の雰囲気のせいか、アルもいつもより怖く、無機質な存在に見えてしまう。

 そんな彼を見つめるうちに、まぶたがだんだん重たくなってくる。

 次第に意識は遠のき、私は無の世界へと落ちていく――。


 ……目が覚めてから考えてみれば、やっぱりお勉強なんて楽しいものではなかった。椅子に座って眠って、目が覚めたらお勉強は終了しているのだから、それで楽しいなんていう人がいたら逆に心配になってしまうくらいである。楽しくなんてないし、怖さだってそんなにない。そんなことでどうやってお勉強をしたのかといえば、ひとえにアルの技術のおかげだと言わざるを得ない。初めはすっごく怖かったけれど、彼のことを信じられるようになってからは怖さも徐々に薄れてきていた。

 灰色の天井を見上げたまま、アルが戻るのを待った。寝かせたままどこかに行っちゃうなんて、いい加減な先生だなー……なんて思いつつも、実は生徒の私も、何を教わったのかは知らなかったりする。アルの言うことには……なんでしたっけ。『脳に直接記憶を流しこむんだー』なんて言っていましたが……。いや、だめだめ。やっぱり怖くなっちゃいますから、詳しい話はナシにしましょう。

 ふと隣に置かれた机を見ると、そこには見覚えのあるお料理本が置かれていた。

 その本を開く気にはなれなかった。

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