胸に秘めた決意を
北の果ての地、ユーズクラフにある深い森。鬱蒼と生い茂った草木のみが広がる森に、人の歩くような道はない。それもそのはず。ここは『禁忌の森』として、ティノジアの世界で暮らす者なら誰もが知っている場所だ。
そんな森の中を、長い黒髪の少女が駆けていた。白い小袖に緋袴と巫女のような服を身に纏って走りづらそうにしながら、それでも懸命に走る。
そんな彼女に、体長二メートルを越す大熊が四本の足で地面を蹴って迫り来る。
「な、なんで……」
息を切らせながら少女は思わず口に出してしまう。
彼女が身につけている装束には、並の魔物を寄せ付けない効力がある。あの熊が二メートルを越すとはいえ魔物の中では特別大きなわけではない。よくよく魔物を見れば、その身体のいたるところに悪魔化の前兆が見られるのだが、少女にそれを気付くほどの余裕はなかった。
得意の魔法を使う暇もなく、疲労と絶望で少女の目に暗い色が差した瞬間、背後から魔物の短い悲鳴が聞こえて彼女は思わず足を止めて振り向く。
そこに立っていたのは、あちこちが裂けて血の滲んだ灰色のローブを身に纏っている者だった。フードをかぶり、背を向けているため顔どころか男女の判別もつかないが、その手には赤黒く長い刀が握られていて、少女は咄嗟に一歩後ずさる。
あの刀が、魔物の首を跳ねたのだ。
ローブ姿の人物が振り返る気配を感じて、少女は拳を固めた両手を胸に当てて更に後ずさる。
しかし、彼女と相手の目が合うことはなかった。
その人物は、振り返り様、そのまま地面へと倒れていったからだ。
「え、え」
突然の出来事に狼狽する少女だが、おそるおそるローブ姿の人物に近付き、少し距離を置いたところにしゃがんで顔を覗き込む。
自分とさほど歳の変わらない少年だった。汗で濡れた額に、自分と同じ黒色の髪がくっついている。
「ど、どうしましょう……」
袖から取り出した布で少年の額を拭きながら、少女は弱々しく呟いた。
片平祐輔は、一言で言えば、鬱陶しい教師だった。最も、それは小学生だった浦島陽から見た彼の印象でしかなく、実際は生徒や保護者、教員からも信頼される良い教師だった。そのことは、幼い陽にも理解出来ていたと思う。ただ、それ以上に鬱陶しかっただけで。
「ねぇ、陽。片平先生、なんか病気で入院したらしいよ」
陽が中学生になってすぐ、幸太からそう聞いても、「へぇ」くらいの反応しかしなかった。人のことを気に掛ける余裕など、この頃の彼にはなかったから。
その年の八月中旬、陽が両親とともに墓参りへ行くと、多数並べられた墓石のうち、奥の方に置かれた墓の前で、片平祐輔と少女の姿を見つけた。
『俺にも陽の一つ歳が下の娘がいるんだけどな、これが凄く良い子でな……』
と親バカを炸裂させていた姿を思い出す。
だが、今の少女はとてもではないが良い子には見えなかった。大声で泣き、その両肩に手を置いている片平も困った表情だ。
『凄く良い子でな……。でも我が儘の一つも言わないから心配でもあるんだ。なんかこう、何したら喜ぶかな?』
『知るか。女子に聞きなよ』
「よかったじゃん、先生。我が儘言ってもらえたみたいで」
見舞いの花束を手に持ったままそう言った陽に、片平は苦笑を返す。
「参ったな。見られてたのか」
上半身を起こしながら花を受け取ると、横の棚の上に置き、陽に椅子を薦める。
「すぐ帰るから」
「いいから、座ってくれ」
相変わらず強引だ、と思いながら陽は学生鞄を椅子の横に置いてから腰を下ろす。
「……やっぱり、アレが先生の娘なんだ」
花束を置いた棚にある写真立てには、片平と少女が写っている写真が入っている。
「あぁ。シアっていうんだ。ポエムとかの詩に亜大陸の亜で詩亜」
「例えが分かりにくい」
歯を見せて笑う片平を見た陽は思わず顔を逸らす。
「それにしても、陽が見舞いに来てくれるとは思わなかったな。幸太から変わりないとは聞いていたけど」
「嫌み言いに来ただけだよ。もう帰る」
「相変わらず、何もかもつまらなそうな顔をしてるな」
鞄を手にとった陽の動きが止まる。
「陽は嫌みだけでわざわざ来るような奴じゃないだろう。聞きたいことがあるなら聞いていけ。心配で来てくれたのならそう言っていけ。今のまま帰っても後悔だけが残るぞ?」
鬱陶しい。心に、その感情が広がりながらも、陽は鞄から手を離した。
「……一応遠慮したつもりだったんだけど、じゃあ聞く」
真剣に頷く片平に、陽は俯きがちに問う。
「なんで先生の娘泣いてたの?」
「……陽はなんでだと思う?」
「母親が死んだ時のことを思い出したとか」
その答えに、片平は予想外の笑みを浮かべた。外れていても当たっていても、怒鳴られたって仕方がない予想だったにも関わらず。
「なんで笑うんだよ。当たり?」
「いや、まぁニアピンってところかな。ただ、なんだかんだで陽は人のことを見てると思ってな」
「そ……」
そんなことはない。ただ、なんとなくそう思っただけだ。
「でも、人のことが人より少し分かるからこそ、考えすぎてる。他の人なら全然気にしないことをいつまでも気にして、心に残して、後悔になる。こうして考える時間がたくさん出来て、脳天気な俺もようやく陽のことが分かってきた気がする」
「先生こそ色々考えすぎだよ。俺はただどうでもいいだけで」
「なら陽はここには来なかったよ」
その言葉に口を噤んだ陽に、片平は話を戻して当初の問いに答える。
「なんで詩亜が泣いていたのか。詩亜が成長したら言おうと思ってたことを言ったんだ。あの子の母親、俺の妻は、詩亜を生んで死んだってことをね」
陽は俯きながら目を見開く。
「成長って、まだ小学生だろ?」
「あぁ。やっぱり少し早かったみたいだ。詩亜があんなに取り乱しているところは初めて見た」
「中学生の俺でも早いって分かるよ」
呆れた声に、片平は苦笑を返す。
「確かに、親の我が儘だったな。でも、俺の口から言っておきたかったんだ」
ヨウが目を覚ますと、柔らかな日の光と、額に冷たさを感じた。
額に乗っていた濡れタオルを右手で取って上体を起こすと、掛け布団が身体からずれ落ちる。
畳、襖、障子。日本に戻ってきたと勘違いしてしまいそうになる内装だが、布団の横には綺麗に畳まれた灰色のローブとその下に着ていた服が置いてあり、ここがティノジアであることを認識させられる。
自分の身体を見下ろすと、紺色の浴衣を着ていた。森の魔物と戦って付いた傷も綺麗に消えている。
どこかの村の人に助けてもらったのか。と考えながら、外から聞こえる子供の声に耳を澄ませていると、障子の向こうから一人分の足音が聞こえて、部屋の前で止まった。
コトン、と何かを置いた音に続いて、スッと障子が開くと、俯き気味にしゃがんだ巫女装束姿の少女が姿を現す。床に置いていた盆を室内に置き、自身も低い姿勢のまま室内に入り、丁寧に障子を閉めて前を向いてヨウと目を合わせると、
「ひっ」
と短い悲鳴を上げて、たった今自分で閉めたばかりの障子に後頭部をぶつけた。
「あっと……、大丈夫か?」
痛くはないだろうが、障子には穴が空いてしまっている。
「は、はい! 申し訳ありません、まさかもう起きておられるとは思ってなくて……」
膝の前に手をついて謝る少女に、ヨウは驚き狼狽える。
「いや、そんなに謝らなくても……」
「いいえ! 命の恩人に対してあのような態度をとるなど有り得ないことです! 私に出来ることならなんでもいたしますのでどうかお許しを……」
「うん。とりあえず今の言葉二度と言うなよ?」
「はい。分かりました」
その意味は分かっていなさそうな少女に、ヨウは疲れたような顔をする。
「えーと、俺はヨウ。あんたは?」
「私はコハルといいます。もしや、ヨウ様は地球の方でしょうか?」
「あぁそうだけど……名前的にコハルもか?」
その問いに、コハルは首を横に振る。
「いえ。私はティノジアの者です。ここの里の者の名前は外の世界と少し違い、どちらかというと地球の方に近しい名前となっているようです」
「へー」と返すヨウだったが、コハルの言葉の一部が引っかかった。
「外の世界?」
「はい。ここ、シジンの里は、ティノジアの北、ヨウ様が私を助けてくださったユーズクラフに隠されていますので」
「隠されてる?」
「はい。この里は……」
コハルが口を開こうとした瞬間、
「お嬢様!!」
という声とともに、障子を勢いよく開いて小柄な白髪の老婆が部屋に入ってきた。
「婆、どうしたのです?」
「どうしたのです? じゃあありませんよ、お嬢様! 今、この者に里の秘密を話そうとしていたのを婆は耳にしましたぞ!」
その言葉にハッと片手を自身の口に当てるコハルを見て、老婆は大きく溜め息を吐いてヨウに目を向ける。
「旅の方、私はコハルお嬢様にお仕えしているヨシと申します。お嬢様を助けていただいたことには深く感謝いたします。しかし、どうかこの里のことは何も訊かず、そして誰にも話さずにいていただきたい。それが約束出来ないならば、この里から出すわけには……」
「いや、ヨシさん? 訊くな話すなは別にいいけど……」
ヨウの言葉にヨシは、他に何か? と首を傾げる。
「この里がユーズクラフに隠されてることってのは聞いてもいいことだったのか?」
その言葉に、ヨシの傾いた首がそのままコハルに向く。
コハルは照れるように頭を掻きながら、
「えへへ……。つい言っちゃいました」
「お嬢様!!」
「ご、ごめんなさい!」
勢いよく頭を下げるコハル。
「な、なんでもするって言った以上、断れなくてつい……」
「つい、じゃありません! 隠していることだけならまだしも場所まで……なんでも!? なんでもするって言ったのですか嬢様! 何をされたのですか!」
「何もしてねーよ」
「お嬢様の歳に似合わない豊満な肉体を前にして!?」
「何言ってんのこの婆ちゃん」
ぜぇぜぇと息を切らしたヨシは、一度大きく深呼吸をすると、再度ヨウに顔を向ける。
「旅の方、申し訳ありませんが、あなたをこの里から出すわけにはいかなくなりました」
「はぁ。別にいいけど」
「文句があることは分かります。しかし、私達も乱暴な真似はしたくない。どうか聞き分けていただけると有り難いのですが……」
「この婆ちゃん、耳遠いの?」
「ヨシは八十にして頗る健康ですよ。目もいいです」
「そうなのか」
「ところで」とコハルは小首を傾げながらヨウに問う。
「本当によろしいのですか? この時勢に旅をしているということは、何か目的があったのでは……」
「いや、なにも」とヨウは即否定する。
「ただ俺は逃げてきただけだから」
「……な、何かご犯罪をお犯しになったので……?」
障子まで後退りしたコハルに、「いやいや」と首と手を何度も横に振ると、おそるおそる戻ってきた。
「ま、とにかく、目的も行く宛もないから、ここで暮らすのも悪くないかもしれない」
「そうですか」と安堵の表情を浮かべるコハルの横で、ヨシはまだ架空のヨウへの説得を続けていた。
その後、ちょうど昼食の時間ということもあり、三人は木張りの廊下を歩いて茶の間に向かう。
「……コハルって結構お嬢様なのか? そう呼ばれてるくらいだし」
廊下で擦れ違った着物姿の、おそらく給仕と見られる女性を振り返りながらヨウが訊く。ローブは汚れが落ちていたもののズタボロだったので紺色の浴衣を着たままだ。
「お金持ちというわけではないのですが、私は『巫女』として生まれたので……」
「巫女? 天命か? 初めて聞くけど……」
「はい。巫女はこの里限定の天命ですので」
「ちなみにこれも機密事項ですので、ヨウ様はますますこの里から出られなくなりました。ふふ。後悔はしてないですかな?」
「なんなのこの婆ちゃん。俺に逃げてほしいの?」
「ヨシはこんな時のために捕縛魔法を覚えていますので、一度実戦で使ってみたいんだと思います」
ヨウが絶対に里を抜け出そうとしないことを心に誓っていると、先頭を歩いていたヨシが足を止めて、一室の襖を開いた。
畳の上にテーブルが置かれていて、それを囲むように三枚の座布団がある。テーブルの上には既に料理があり、空の茶碗がそれぞれ置かれていた。
「……なんか本当に祖父ちゃん祖母ちゃんの家みたいだな」
テーブルの足の傍に置かれた飯釜を見てヨウが呟くと、コハルがクスクスと笑う。
「さぁ、二人とも早く茶碗をくだされ。婆がよそいますので」
釜の横に正座したヨシが、入り口に立ちっぱなしの二人に向けて細い手を伸ばす。
二人がそれぞれ座布団に座ってから茶碗を渡すと、山盛りというよりロケット盛りされた茶碗が戻ってきた。
「こんなに食えるか……?」
ヨウが茶碗を手に持ち、見上げながら言うと、ヨシは「ふふ」と笑う。
「男児が何を情けないことをいっておられるのですか。お嬢様はこれを三杯は食べますぞ」
「ヨシ、私そんなに食べません! 平均二杯です」
「それって三杯食べる時もあるってことじゃ……」
「それではいただきましょう」
コハルが合掌しながら言うと、ヨシも頷き手を合わせる。視線を感じたヨウも手を合わせると、
「いただきます」
と二人は声を合わせて小さく頭を下げる。
マジで日本だな、と思いながら、ヨウも「いただきます」と口にするのだった。
「それでコハル、巫女ってのは何が特別なんだ?」
魚の煮付けに箸を伸ばしながらヨウが問うが、煮付けを箸で掴んでも、それを口に入れても、そして咀嚼を終えて飲み込んでも返事はない。
見ると、コハルは黙々と食事を進めている。
「……あぁ、もしかして食事中は会話禁止なのか?」
「いえ、お嬢様は食べることに全神経を集中しておられるだけです」
「あ、そう」
「代わりにこの婆が答えましょう」
ただし、と口からご飯粒を飛ばしながらヨシが凄む。
「これを聞けば、本当にこの里から出ることは適いませんぞ」
「そんな気ないっての」
「ならばお話いたしましょう。後で里の中を案内する際に立ち寄ることになりますが、ここには社があります。代々里に継がれる特殊な天命『巫女』に選ばれし者は、そこに封じてある神を見張る役目があるのです」
「神を、見張る? 社って神を奉るものじゃないのかよ?」
ヨシは首を横に振る。
「いえ。少なくともここにある社、そしてこの里は神を封じるために存在しております」
「この里も?」
「万が一封印が解けても、魔物にはここを抜け出すことが出来ません故」
「魔物って、神じゃないのかよ」
「そのどちらでもあります。魔物であり、神でもある」
ワケが分からない話に顔をしかめるヨウに、ヨシは言う。
「千年前の戦いで魔王によって魔物化した神。それが『シジン』です」
「……神が魔物化?」
そんなことがあるのか? という表情のヨウに、ヨシは黙って頷く。
「そして、その神を封じた者達が作った里が、ここシジンの里なのです。巫女の役目は、時折暴れ出すシジンを押さえ込むこと。それは大司祭様にも出来ないことです」
「おかわりです! ヨシ!」
ヨシが言い終えると同時に、横から茶碗を持った腕が伸びてくる。
「…………このコハルが?」
「信じられない気持ちは分かりますが……」
昼食を終えたヨウとコハルは、料理の後片付けがあるというヨシと別れて屋敷の外へ出た。
二人の後ろにある、代々巫女が住むことになっているという屋敷以外の家は、土壁にかやぶき屋根といった、ヨウにとっては歴史の教科書くらいでしか見たことのないものだ。
里の者達も、ヨウの着ている物よりも使い古された、遠慮ない言い方をするならば、ボロボロの着物を着ている。しかし、決して生活に困っているわけではないことは、彼等の表情を見れば分かる。家の隣にある小さな畑を耕している男性の顔も、洗濯物を干している女性の顔も、追いかけっこをして遊んでいる子供の顔も、みな活き活きとしたものだ。今のヨウからは、特にそう見える。
「里の民は全員で約二百。出稼ぎに行っている民もいるので、今、里にいるのは半数程度です」
コハルの説明を聞いていると、年端もいかないような子供三人が寄ってきた。
「巫女様ー。こんにちはー」
薄紫色の髪の少女がコハルに挨拶をして、
「この人誰ー?」
茶髪の少年がそう訊き、
「オイラ知ってるー。巫女様を助けた外の人だろー」
ハナタレ小僧が偉そうに言うと、外の人、という言葉に反応した二人の子供がワイワイとヨウを囲む。
「外の人、外の話して!」
「ドラゴンの話がいいな!」
「オイラはなんでもいいや」
そんな三人の子供と、自分とコウタ、そしてシアの姿がかぶる。
いや、俺こんなハナタレじゃないし。と自分で茶化して誤魔化して見ても、心に生まれたモヤモヤは消えない。
「はい。みんな。今からヨウさんを案内しますから、質問は後にしてくださいね」
「はーい、巫女様」
「分かったよ」
「オイラはこんなやつ興味ないけど」
「ムカつくな、俺」
それでも似ていると思ってしまう辺りがどうしようもない。
わー、と元気な声をあげながら離れていく子供を見送りながらコハルが苦笑する。
「申し訳ありません。子供達にとって外の方はすごく珍しいんです。得もあの子達は外に対する憧れが強くて、出稼ぎの人がたまに戻ってきてもあんな感じで……」
「そうなのか」と前を見たまま短く返すヨウの横顔をコハルはじっと見つめて、
「ヨウ様は子供がお好きなのですか?」
「いや、別に好きでも嫌いでもないけど……なんでだ?」
「優しい目をしておられるように見えたので……」
「初めて言われたぞ、そんなこと」
そう返しながら、二人はゆっくりと歩き始める。
小さな里だ。全員が親族のようなものなのだろう。コハルを見つけると、誰もが足を、手を止めて、何かしらの挨拶をする。中にはヨウのことを怪訝そうに見る者もいたが、大抵の者はコハルを助けたことに対する感謝を述べた。そういうことに慣れていない、そして苦手なヨウは終始押され気味で、その度にコハルが可笑しそうに笑っていた。
家や畑が並ぶ一帯を抜けると、丸く切り取られたような高い崖が目の前に立ち塞がる。
「この上が社になります」
と言ったコハルは、崖の端にある坂道を登り始めた。
よく見ると、崖を回るように斜めの道がずっと続いている。
「……歩くの大変じゃないか?」
崖はかなり高く、天辺にあるという社はここからではまったく視認できない。
「大変ですが、道はこれしかありません。これも修行の一つとして割り切って……」
「俺ならコハル抱えて跳んでいくこと出来るけど」
「それで行きましょう」
この嬢様、しっかり者に見えてぐうたらである。
コハルの肩と膝裏に腕を回していわゆるお姫様だっこの状態で抱えると、ヨウは膝を曲げて、とりあえず一段上の道へ跳んでみる。
「きゃ」と小さな悲鳴をあげたコハルに、着地してから「大丈夫そうか?」と訊く。
「は、はい。慣れればなんとか。ヨウ様こそ、重たくないですか?」
「あぁ全然」
ただ、胸に押し付けられる柔らかい感触は慣れる自信がないヨウである。
それからは止まることなく連続で跳び、二人はあっという間に社へ到着する。
シジンが封印されているという社は、ヨウが知っている日本の神社の本殿そのまんまだった。ただ、鳥居も何もなく、それだけがぽつんと建っているため、若干の違和感はある。
しかし、その大きさはコハルの住む屋敷よりも小さなものだ。
「シジンって小さいのか?」
「いえ。言い伝えでは、四メートルを越す人型の神だと言われています。あの中は、少し変わった空間になっているのです。正確には、シジン様がそう作られたのですが」
「作った?」
「はい。あの空間は、必ず一人でしかシジン様の元へ辿り着けないようになっているのです。たとえどんなに大人数で入ろうと」
なるほど、とヨウは思う。元神とはいえ何故討伐してしまわないのか不思議だったが、確かにこれでは出来ない。人型魔物を一人で倒せる者など――。
不意に、アカネの笑顔が頭に浮かぶ。アイツなら出来たかもしれない。人型最強と言われたムソウとあそこまで渡り合ったアカネならば。
「ヨウ様?」
突然目の前に横から現れたコハルの顔に、ヨウは我に返る。
「今度は悲しい目をされておりました」
「……巫女は目を見て人の心を覗く能力でもあんのか」
その冗談にコハルは真面目な顔で「いいえ」と答える。
「ヨウ様の目はとても正直です。優しいも悲しいもすぐに分かります。その目の奥にある陰りも、なんとなく」
「……マジか」
顔を引きつらせるヨウに、コハルは笑みを向ける。
「その陰りが、この里での生活で晴れることを願います」
その表情からヨウが眩しそうに目を逸らしても、コハルが笑顔を消すことはなかった。
マキシムと一悶着を起こして以来、討伐軍内でユタカの評価は下がる一方だった。どれほど戦果を上げようと、ギルドに協力を断られる度に、その全てが陰で彼の所為になるためだ。しかし、実際にその噂を耳にして、軍との協力に消極的となっている中小ギルドもいるであろうことから、彼自身も隊長格もこの件に関しては何も言えずにいた。
しかし、誰もがユタカを責めて、嫌っているわけではない。隊員の中にはその指揮を認めているものも少数だがいるし、そもそもギルドとの不和は自分達の力不足が起こしたものだと認識している者もいる。
だが、大型魔物、中型悪魔化魔物、中型魔物の討伐に追われる彼らにはそれ相応のストレスが溜まり、軍の雰囲気は一時期と比べ物にならないほど悪化していた。
軍の食堂は以前にも増して人はまばらで、誰もが無言のまま食事をしている。
「……火組の隊員、悪魔化魔物に二人やられたらしいよ」
女性隊員の小さな声が、食堂内に響く。
「隊長格が来るまで足止めってやつだろ? 作戦っていうか、完全に捨て駒だよな」
その向かいに座っていた男性隊員が苛立ちの籠もった口調で答えると、女性隊員も同調するように苛立たしげに言う。
「大体、私達がこんなに苦労してるのはギルドとの協力が出来てないからでしょ? そのことについてそこの指揮官さんはどう思ってるの?」
女性隊員の言葉に、金髪の少年、ユタカが振り返った。その表情は、女性隊員に劣らないほど怒り一色に染まっている。
「うるさい。文句を言うことしか出来ない能無しが」
「文句を言うことしか出来ない? それはあんたでしょうが! それでギルドとの関係を無茶苦茶にしたことを」
「やめろよ」
椅子から腰を浮かせた女性隊員とユタカの間に入ったのはトドロキだった。彼は、視線を向けてユタカを椅子に座らせると、女性隊員に身体ごと向ける。
「ギルドとの関係がこじれたのは、そもそもはアカネやヨウに頼りすぎていた俺達の力不足が原因、自業自得だ。特定の誰かの所為じゃない」
「誰かの所為じゃない? その誰かさんが辞めちゃったせいでこうなってるんじゃないの?」
その言葉に、食堂の隅にいた少女の動きが止まったことに気付く者はいない。
「勝手に希望持たせて、どういう関係だったのか知らないけど仲のいい仲間が一人死んだくらいで辞めて。本当は、こうなることを予想して逃げたんじゃないの?」
少女がテーブルを叩き、勢い良く立ち上がる。その音をかき消すほどの大声で、ユタカが吼えた。
「ふざけるな!!」
静まり返る室内。止めに入ったトドロキさえも、ユタカの声に驚き、身体を固めている。
「アイツが逃げる!? そんなことは有り得ない! アイツは誰よりも、自分のことよりも人のことを考えている! 君はアイツの気持ちを考えたことがあるか!? アイツは僕とは違う! 隊員を駒のように思うことが出来ない甘い奴だ! そんな奴に頼れるだけ頼って甘えていた奴に、アイツのことを悪く言う資格はない!!」
そう言い切ると、肩を怒らせて食堂を出て行こうとしたユタカの背中に、女性隊員の小さな声が届く。
「だったら、簡単に強くなれない私達はどうすればいいのよ……」
その言葉に唇を噛んで食堂を出たユタカを、食堂の隅にいた少女、シアが追った。
「あの、ユタカさん」
ユタカは振り返ると、シアを見て目を大きく見開き、そっと逸らした。
「……君もいたのか」
「はい。あの、ありがとうございました」
そう言って深く頭を下げるシアを、ユタカは神妙そうに見つめる。
「いや、僕もアイツを許したわけじゃないんだ。礼はいらない」
顔を上げて、少し悲しそうに目線を落としたシアに、ユタカは問う。
「君はどうなんだ? アイツに怒りを覚えてないのか。失望していないのか」
「……詳しいことは何も言わずに行っちゃったことは、悲しいですし、ちょっとは腹が立ちますけど、でも、私はあの人に救われた身ですから。迎えに来てくれるまで、私を必要としてくれるまで、ここで待っているつもりです」
その言葉に、ユタカはしばらく黙った後、「そうか」とだけ言うと、踵を返した。
ヨウとシア。この二人を見ていて、ずっと思っていたことがユタカにはあった。ヨウのように守る力があれば、自分とコマチもああやって一緒にいることが出来たのだろうか。だからこそ、シアを置いてどこかへ行ってしまったヨウには怒りを覚える。まるで、昔の自分を見ているようで。
ユタカが向かったのは、男性寮でも軍拠点でもなく、ギルド『マキシム』だった。
扉を開けると、ギルドメンバーの溜まり場となっているバーがある。そこにいた複数のギルドメンバーが、ユタカを見て顔をしかめた。
「おい、お前さんまた来たのか。今度こそ協力関係が完全に終わっても俺はしらねーぞ」
「あぁ帰った方がいいぜ。最近のボスは特に機嫌が悪い」
「ということは、ニコールはいるんだな」
ユタカはそう言うと、隊員達の横を通って奥の扉へ向かう。
「おい、マジで止めとけ。俺達だって、せっかく出来た軍との協力を壊したいわけじゃねぇんだ。ただ、今は動くべきじゃないだろう」
腰に剣を携えた筋肉質の男に腕を掴まれてユタカは足を止める。
「離せ」
だが、その言葉と僅かに向けられた視線に、男はユタカの腕を解放した。恐怖を感じたわけではない。ただ、従わなければならないと思ったのだ。
扉を抜けて廊下を進んだ突き当たりの部屋の前で足を止めて、二度ノックをしてからドアノブを回す。
「……ユタカさん」
「また来たのか」
その場には、ニコールとコマチがいた。コマチの腕は折れているのか固定されて肩からぶら下げられている。病院の再生は、おそらくどこも軍関係者で満員なのだろう。
「また文句を言いに来たのか? せっかく前は見逃してやったというのに」
「違う」
「ならコマチを迎えに来たか? 人材不足の軍に引き入れるために」
「違う」
怪訝そうな顔をするニコールの前で、ユタカはゆっくりと床に両膝をつく。それを見て大きく目を見開いたコマチの横で、ニコールは頬杖をついたまま興味深そうに眺めている。
膝に続いて、ニコールからでも分かるほど震えている両手をつき、ゆっくりと頭を下げる。
「以前は、失礼なことを言ってしまい、申し訳ない」
震える言葉で、ゆっくりと謝罪の言葉を紡ぐ。
「そして、今一度お願いしたい。どうか、討伐軍に力を貸してくれ……!」
「何故」
短い問いに、ユタカは顔を上げる。己の感情を押し殺している彼の顔は、それでも憤りや恥、情けなさ、そして何よりも無力感が浮き彫りになっていた。
「……軍は今、疲弊状態にある」
「お前は、ここの人間が楽して生きているように見えるか? そんなもの、この時勢、程度の差はあれどこでも一緒だ」
「だが……! 軍とギルドが更に深く連携を取れば、更に効率的な魔物討伐も可能に……」
「そうすればうちのものは絶対に死なないのか?」
その言葉に、ユタカは言葉に詰まる。戦場で、絶対などは有り得ない。
「だから、私が訊きたいのはそういうことじゃないんだよ。なんでそんなプライド投げ捨てるような真似をしてまで軍なんぞを救いたいのか聞いてるんだ。理由を考えるなよ? 思い浮かんだままに話せ。即答しなければ、その瞬間会話はお終いだ」
その問いに、ユタカは顔を歪めたまま口を開く。
「……理由など、僕が指揮官であることだけで十分だ。これ以上大切な駒を……」
「ユタカさん!」
ニコールが頬杖を止めようとした瞬間、コマチの大声が室内に響いた。ニコールは頬杖をつき直し、ユタカは驚いた表情でコマチを見る。
「私は、ただの駒ですか? だったらなんであの時、身体を張って私を助けてくれたんですか?」
ユタカ。本名、武部豊は、裕福な家庭で育った。将来は父親の会社を継ぐことが生まれた時から決まっていて、本人もそれに何も疑問を抱いていなかった。
だが、ティノジアに飛ばされてすぐ、偶然近くに飛ばされていたコマチをがむしゃらに助けた時、彼は今まで味わったことのない喜びを感じたのだ。
『ありがとうございます』
たった一言。今まで何度も耳にした筈の一言が、彼を変えた。
必要とされる喜びを初めて知った。だから良いところを見せようと無茶を繰り返した。その結果が、彼女を傷付けた。自らを不必要な存在へと変えた。そう勘違いしていた。
ユタカは涙で瞳を滲ませると、それを隠すように勢い良く頭を下げた。
「仲間をもう、僕の所為で傷付けたくはない! 傷付くところを見たくない! 君が軍を嫌っていることは分かっている! それでも、僕にとっては、こんな僕を受け入れてくれた大切な場所なんだ! 頼む……!」
絞り出したような声で床に額を付けながら言うユタカを見て、ニコールは小さく溜め息を吐いてから、机に両手を着いて立ち上がった。
「断る」
その言葉に、ユタカの身体の震えが止まり、コマチが大きく目を見開く。
「私の仲間の安全は結局誰が保証するでもなく、ただ自分の仲間を助けて欲しいから? 感情論ばかりで話にならない。さっさと帰れ」
「ニコールさん!」
それでも顔を上げないユタカの前に立ったのは、顔を怒りに歪めたコマチだった。
「なんだ?」
「……私を助けてくれたのも、アカネさん達の感情です」
「だからなんだ? あいつらには自分の感情を貫き通せるほどの力があった。だが、そいつにそんな力はない」
「なら、私がユタカさんの力になります」
その言葉に、ユタカは驚いた表情で顔を上げる。
「……ギルドを辞めるということか」
「ニコールさんがユタカさんに協力しないというのなら」
ふぅ、と小さく溜め息を吐きながら頭を掻いたニコールは、不意に口の前に人差し指を立てる。
キョトンとするユタカとコマチの横を足音無く通り過ぎ、ドアノブを掴むと一気に引いた。
「……あ」
そこには、先程までバーにいた複数のギルドメンバーが扉に耳を当てる形で固まっていた。
「お前ら、乙女の花園を盗み聞きするとは良い度胸だな」
指の関節を鳴らすニコールに「ひぃ」と悲鳴を漏らしながら後ずさるメンバー達だが、そのうちの一人、先程ユタカを止めようとした筋肉質の男が床に両膝をついた状態で前に出た。
「でもボス! さっきから聞いてたらあんまり過ぎますよ! そりゃあウチも余裕ないのは確かですけど、最近の討伐軍と比べたらまだ……」
「本音は?」
「コマチがいなくなるのは嫌です!」
情けない台詞を吐きながら頭を下げる男に同意するように遥か後ろから「そーだそーだー」という声が聞こえる。
「男女しかいないここで、コマチは俺らの癒しなんです!」
「あぁん?」
「ひぃ!」
ニコールは「情けない……」と額に手を当てて大きな溜め息を吐いてから、男共を睨み付ける。
「お前ら、そんな情けない理由に命を賭けられるか?」
「当然!!」
即答で声を揃えた男共に再度大きな溜め息を吐いたニコールは、疲れた表情でユタカとコマチを振り返った。
「というわけだ。今コマチがいなくなれば、マキシムは……少なくとも、この馬鹿共は死に体になる。仕方がないから軍に協力してやろう」
だから、とニコールはコマチに顔を向ける。
「マキシムを辞めるなよ?」
目に涙を溜めて大きく頷いたコマチに笑みを向けると、床に手をついたまま呆然とした表情で固まっているユタカを見る。
「いつまでそんな蛙みたいな格好してる気だ? 話し合いは終わった。さっさと立て」
「あ、あぁ」
ゆっくりと立ち上がったユタカに、ニコールは向かい合う。
「ギルドの男共がうんたらと本当のことを言うのは流石に恥ずかしいからな。今回は、お前の説得に負けたことにしといてやる」
「……そうか。助かる」
そう言ってユタカは微かに微笑む。そんな彼の横顔をじっと見ていたコマチに、ニコールは「む」と顔をしかめると、
「だが、コマチはやらん。私のだ」
と、コマチの手首を掴んで自身の胸へと引き寄せ抱きしめた。
「これを機に一気に親密に、なんて絶対に許さんからな」
威嚇するニコールに、ユタカは怪訝そうな顔で首を傾げてから、
「あぁ」
と当然のように答えた。
「……おいコマチ、こいつもしかして……」
「はい」とコマチは苦笑しながら小さな声で答える。
「ユタカさんは、かなりの鈍感さんです」
ヨウがシジンの里で暮らし始めて三ヶ月が過ぎた。長い間空き家となっていた家で一人暮らしをしていて、日々、農作業や魔物狩りの手伝いをしながら暮らしている。
その日、里の隠し場所に侵入しようとする魔物の狩りを終えたヨウは、星空の下、広場で行われている宴会に参加していた。
「なー、兄ちゃん。今日の魔物はどんなだった? やばい奴か?」
地面に胡座をかいて座り、騒いでいる酒飲みと広場の中央で燃え盛る炎を遠巻きに見ているヨウの足の上に座ったハナタレ小僧のソウタが聞く。
「ヤバくない魔物なんていないからな」
「兄ちゃんでも? 父ちゃんが兄ちゃんはメチャクチャ強いって言ってた。ネンピは悪いけどって」
「燃費か。確かにそうだな」
苦笑するヨウを見て、ソウタは首を傾げる。
「なぁ兄ちゃん。また外の話をしておくれよ」
「また作り話でもいいか?」
「いいよ。兄ちゃんの作り話面白いし」
「それじゃあ、今日はこの前の続き、首切りお化けっていう化け物と戦った時の話な」
ヨウの声は、騒ぎ声に混じって夜の空気を静かに震わせる。
それが子守歌のように聞こえたのかは定かではないが、話し終えたヨウが目線を落とすと、ソウタはヨウの胸に体重を預けて眠りについていた。
「……残念だったな。この話はもう話さねーぞ」
「そうなんですか?」
ソウタに向けて小さく呟いた言葉に返事が聞こえて、ヨウがゆっくりと振り返ると、そこには地面にしゃがみこんだコハルがいた。
「巫女様が盗み聞きか」
「こんな場所で盗み聞きもなにもありません」
そう言うと、コハルはズリ足でヨウの横に移動してペタンと地面に腰を下ろす。
「悲しいお話でしたね」
「あぁ。子供に話す内容じゃなかったな」
「続きはどうなるんですか?」
興味津々といった具合に瞳を輝かせるコハルに、ヨウは「さぁ」と返す。
「考え中。もしかしたら何も思い付かないで終わりかもな」
「そうなんですか……」
と残念そうに呟くコハルの横顔を横目に見る。
近頃、シジンが暴れる頻度が多い。平常に見えるコハルだが、確実に疲労は溜まっているはずだ。
「もう夜だぞ。子供は寝ろよ」
「子供じゃありません。ヨウさんより年上です」
「一ヶ月分だけな」
「それでも、私がお姉さんです」
胸を張って腰に手を当てるコハルに、ヨウは思わず笑い、そして、すぐに俯いた。そんな彼を見て、コハルは困ったように笑う。
「相変わらず、ヨウさんはちゃんと笑ってくれませんね」
「笑顔は苦手なんだ」
「嘘ですよね」
その言葉にヨウが顔を向けると、コハルは得意気に自分の目を指差し、
「目がそう言ってます」
と言って、
「それはヨウさんがまだ悩んでいるということです」
でも、とコハルは続ける。
「悩むことは、悪いことじゃありません。どうでもいいと投げ捨てるより、ずっと辛く、大変なことです」
でも。
「その辛さをわざと自分に課しているのなら、どうかおやめください。それは誰も幸せにしません」
ヨウの頬に、そっと両手を添えてコハルは口を開く。
「ご自身が笑っているところを思い浮かべてください。……傍にいるのは誰ですか? それが私達でないのなら、やはりヨウさんはこの里を出るべきなのです」
コハルは、少し前からこういうことを口にするようになった。出稼ぎに行っていた者からヨウの話を聞いたのかもしれないし、もしかしたら本当にただ何となく察しているだけなのかもしれない。
しばらく黙ってコハルを見つめ返していたヨウが、そっと口を開く。
「……誰もいない」
その言葉に、コハルは悲しげに瞳を揺らす。
「俺と笑い合える奴は、誰もいない」
「それは、アナタが笑えていないからです。今の自分に納得していないからです」
俯きながら涙声で言うコハルに、ヨウは薄い笑みを浮かべる。
「コハルは、俺が嫌いか? 出て行ってほしいのか?」
その問いに、俯いたままのコハルの瞳から、涙が地面へ落ちた。両手をヨウの頬から離して顔を覆う。
「日々無気力になっていくあなたを見るのは辛いです。惰性的にこの里を好きになるあなたは悲しいです。陰りすら分からなくなるほど沈みきったあなたの目を見るのは耐えられません。過去のことを悲しいで済ませてしまうようになったあなたが寂しいです。そして、そんなあなたに何もしてあげられない自分の無力さが嫌いです」
ヨウは、そんなコハルを眺めて思う。少し前までの自分なら、なんと声を掛けただろう。泣いている女の子を前にしたことが、ずっと前にもあった気がする。なんだったっけ。
「コハルは、無力なんかじゃない。一人で里を守ってるじゃないか」
「……私だって、本当は……」
「お嬢様!」
突然のヨシの声に、コハルは涙で濡れた顔を上げると、社のある崖を見上げた。
社に付けられた鐘が鳴り響いている。
シジンが暴れているのだ。
コハルは袖で涙を拭い立ち上がると、ヨシと共に社へ向かって走り出した。
宴会場には静寂が訪れ、みな心配そうに社を見上げている。
ふと、視線を感じてヨウが目線を下に向けると、ソウタの目が合った。
「起きてたのか」
「兄ちゃんは行かないのか?」
どこに、とは訊かずとも分かる。
「俺が行ったところで何も出来ないからな」
「そうなのか?」
とソウタは首を傾げる。
「でも、コハル姉ちゃん言ってたぞ。兄ちゃんに抱えられて社まで行くの好きだって」
「……そうか」
そういえば、いつからだろうか。社まで行くコハルに付き添うのを止めたのは。そして、何故止めてしまったのだろうか。
あぁ、そうだ。自分に何も出来ないことが分かったからだ。シジンを押さえ込む度に魔力を使い果たしてボロボロになるコハルを見ていられなくなったから、止めたんだ。
「コハル姉ちゃん、心強かったって。兄ちゃん何もしてないじゃんってオイラが言っても、今まで殆ど一人だったから、傍にいてくれるだけで嬉しかったって」
「……そうか」
フツフツと、後悔が沸き上がってくる久し振りの感覚。最悪だ。でも、先程までよりはマシかもしれない。
思い出した。泣いている女の子に、詩亜に、自分が口にした言葉。
「あと兄ちゃん、コハル姉ちゃん泣かせただろ。駄目だぞ」
「その通りだ」
怒りを浮かべるソウタの頭を強めに撫でると、ヨウは笑顔を浮かべて立ち上がる。
「兄ちゃん、行くのか」
「あぁ」
「それでこそオイラが認めた男だ」
そう言って親指を立てるソウタに、ヨウは呆れたように笑いながら同じように返して、強く地面を蹴った。
『俺のとこ来るか?』
陽がそう言うと、詩亜は先程よりも大きな涙をこぼし始めた。
狼狽える陽の頭に様々な行動が浮かぶが、どれも気恥ずかしくて行動に移すことは出来ず、ただ、目の前にしゃがんでこう言った。
『俺は、お前を泣かせたりしない』
絶対に守る、という言葉は、やはり気恥ずかしくて声に出せなかったため、心に誓った。