守るために
『ティノジアの諸君。こんにちは。あぁ、この時代の人々には初めましてか』
陽気な、妖艶な、紳士的な、そして何よりも悪意に満ちた声がティノジア全土に響いたのは、レイリアで討伐軍とギルドが『人間軍』を結成してから一月が経った頃だった。
空に響く声は、おそらく拡声魔法によるものだろう。そして、何より肝心な声の主は、
『初めまして。魔王キルバライガです。キルバと呼んでもらって構わないよ』
魔王。その言葉に、建物の中にいた人々が続々と外に出て空を見上げた。
『今回こうして人間の皆さんに声を届けているのは、懐かしい人間軍を結成した御祝いを届けるためです』
「いやな予感しかしないな」
隊長室の椅子に座ったまま顔をしかめるガイアに、アデルも頷く。
『御祝いというのはー……黒炎竜!』
「黒炎竜……!?」
コマチ、ユリ、トドロキと共に任務地へ向かっていたユタカは、思わずその名前を声に出してしまう。
「黒炎竜ってーと……」
「千年前の戦いで現れた黒い竜。大型魔物最強と言われていた」
「そ、そんなのが来るんですか?」
『あっと、ガッカリしたそこの君、安心して。普通の黒炎竜じゃ、お強いうえにノリに乗ってる人間軍様には適わないと思って、ばっちり強化済みです! 悪魔化黒炎竜、お届け日は明日となっております、お楽しみに』
「……コウタ隊長」
「そうだね。今回ばかりは待っていられない。モーゼズ、早急にヨウを探して呼び出そう」
その言葉に頷いたモーゼズは、手元の電話を手に取り、どこかに連絡を取り始める。
『というわけで、以上、魔王キルバでしたー』
黙って空を見上げていた、シア、キョウカ、ニコールの三人は、魔法が切れると顔を揃える。
「悪魔化黒炎竜、ですか」
「今晩辺りに緊急集会があるだろうな」
「なに? 今晩はコマチとディナーの約束が……分かってる。ちゃんと出るからそんな可愛い顔をするな。浮気したくなるだろう。特にそっちの白い髪の……キョウカといったか」
「!?」
そう言うニコールの傍らには全身切り傷だらけの魔獣の死体が転がっている。その傷の九割が彼女の双剣によって付けられたものだ。
「性格はともかくとして、流石は二大ギルドの長ですね。悪魔化した中型魔獣をこうも容易く倒せるなんて」
「性格はともかく? シアさんは意外と毒舌なのか? いいな。新しいタイプの美少女だ」
「えっ……」
ヨウが軍を辞めて以来、初めて彼に助けを求めたくなったシアであった。
そんなヨウがいるシジンの里に魔王の声は届いておらず、彼は、コハル、ヨシの二人と、青空の下、社のある崖を見上げていた。
コハルは巫女装束、ヨシは和装と普段通りの格好だが、ヨウだけは違う。綺麗に修復された灰色のローブを風にはためかせ、崖の上に睨むような視線を向けている。
そんな彼の横顔を、コハルは心配でたまらないといった落ち着きのない表情で見ると、
「や、やっぱり止めませんか……?」
と、小さな声で言った。
「ですがお嬢様、ここで止めてしまっては、ヨウ様はこの里から出られませんぞ」
「だ、だからヨウさんなら誰かに言ったりしないと……」
「ヨウ様がどのような人物であるかは私にも分かっておりますが、それは関係ございません。そういう前例を作ってしまうことが良くないのです」
ヨシの言葉に「むむむ」としか言い返せないコハルに、ヨウは苦笑する。
「コハルって意外と諦めが悪いのな」
「む!?」と頬を膨らませたコハルはヨウに顔を向ける。
「誰のせいですか! 大体ヨウさんは勝手すぎます! 急に元気になったかと思えば『シジンを倒して里出てく』なんて!」
「急って一ヶ月前の話だろ。その間修行したし」
「一ヶ月しか修行してないから心配なんです!」
「男子三日会わざれば刮目して見よって言葉が地球にはあってだな……」
「三ヶ月もウジウジしてた人が言っても意味ありません!」
「う、ウジウジはしてねーよ。あれだ。準備期間。充電が終わってなかったから動かなかっただけ。俺が本気だしたらヤバいから」
「働かない人の言い訳ですか!」
両拳を握って力強くツッコむコハルを、ヨシが「お嬢様」と窘める。
「ヨウ様とはこの一ヶ月で存分にお話しましたでしょう。こういう時、見送る側は黙って送り出してやるものです」
その言葉にコハルが首を横に振る。
「私、見送る側になるつもりなんてありません。一緒に社には入れなくても、外からずっとヨウさんを見守っています」
その力強い目に、ヨシは「やれやれ」と溜め息を吐き、ヨウを見上げた。
「ヨウ様、お嬢様を上までお連れいただけませんか?」
「そりゃあいいけど……」とヨウはコハルを見て、
「長い戦いになるかもしれないぞ?」
「構いません」と即答する。
「一日でも、一週間でも、一ヶ月でも待ち続けます。ですからどうか……」
とコハルの瞳に涙が溜まっていく。
「どうか、ご無事にお戻りください。シジン様を倒せなくてもいいので、ただ無事で……」
俯くコハルの頭に手を置き、ヨウは歯を見せて笑う。
「安心しろ。勝算無しに向かうわけじゃない」
コハルは頷くと、ヨウの首にそっと腕を回した。ヨウはコハルの肩と膝裏に腕を回して抱え上げると、ヨシに身体ごと向き直る。
「じゃあ、行ってきます」
「うむ。お嬢様の胸を十分に堪能してから頑張ってくだされ」
「婆ちゃん相変わらずだな」
くっくっく、と喉を鳴らして笑うヨシに笑みを返してから、ヨウは踵を返して崖と向き合い、強く地面を蹴った。
シジンと戦うのは、この里を出るため。だが、それだけではない。
『ヨウ様、ヨシでございます』
昨晩、ヨウが暮らす小さな家に、ヨシが尋ねてきたことを思い出す。
家に上げて茶を出すと、ヨシは深々と頭を下げてからゆっくりと口に運び、
『三十点』と言った。
早速追い出したくなったヨウだったが、顔をしかめながらも用件を聞くと、ヨシは一つ頷き、星座したまま背筋をピンと伸ばす。
『明日、シジンに挑むヨウ様に、言っておきたいことがございます』
『言っておきたいこと?』
『はい。お嬢様や里の者と話し合い、ヨウ様には伏せておりましたが、この里には、もう一つ秘密があるのです。巫女の大切な役割が、もう一つ』
その言葉に、ヨウは嫌な予感がして眉を潜めた。そして、その予感は見事に的中する。
『新たな巫女が生まれた時、現在の巫女はその力を失います。では新たな巫女がシジンを抑えられるほどに成長するまでの十年間、誰がシジンを抑え込むのか』
『誰って、巫女の代わりは大司祭にすら出来ないんだよな?』
ヨシは当然のように頷く。それこそが、『巫女』が特殊な天命である理由なのだから。
『シジンを十年間抑えるすべは、生贄しかございません』
聞き慣れない。だが耳にした瞬間、胸の中に嫌なものが溜まっていくような言葉に、ヨウは表情を強ばらせる。ヨシは、僅かに頭を下げたままヨウの表情を横目に見てから言葉を続ける。
『前任の巫女を生贄に捧げることによって、シジンの怒りを十年間抑える。そうしてこの里は、千年続いてきました。私も、昔はそのことに何も感じなくなった頃もありました』
しかし、と力が籠もり震える言葉でヨシは深く頭を下げる。
『あの子が死ぬところは見たくないのです。里の者でもないアナタに勝手なことを言っているのは承知しております。しかし、どうか……コハル様を救ってくだされ……!』
しわしわの顔を涙で濡らすヨシの言葉に、一ヶ月前の夜のことを思い出す。
里のために命を削っているコハルに、ヨウが言った言葉。
『コハルは無力なんかじゃない。一人で里を守ってるじゃないか』
あの時、コハルはなんと言おうとしたのだろう。何故それを、ちゃんと聞いてやれなかったのか。
『あー……』
ヨウが頭を乱暴に掻くと、ヨシが頭を上げて謝罪を口にした。
『申し訳ありません。突然、このような……』
『いや、そうじゃなくて、ちょっと後悔してるだけ。でも、知らなきゃもっと後悔してたと思うから、教えてくれてありがとな、ヨシさん』
社の前に着地したヨウは、ゆっくりとコハルを地面に下ろす。
シジン。千年前から残っている伝承によると、白い布切れのようなローブを身に纏った魔物。その容姿は人間をそのまま大きくしたようなもので、金色の髪と細い肉体を持つ中性的な男性だという。
ヨウに緊張はない。その代わり、と言えるのかは分からないが、コハルが眉をハの字にして口を強く噤んだまま表情を強ばらせている。
「俺が出てきたらコハルがぶっ倒れてんじゃないか?」
「そ、そうなる前に出てきてください」
「そうならないようにしてくれ」
コクコクと頷くコハルだが、表情を見るとどうしても心配になる。
「まぁ、なるべく早く戻ってくる。里を出る前にコハルに言いたいことあるし」
「えっ」と顔をうっすらと赤くしたコハルを見て「ん?」と首を傾げてから、ヨウは顔を前に向けて社を見る。
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
そう言ってヨウが社に向かって足を踏み出した頃、崖下にいたヨシのもとに、出稼ぎへ出ているはずの里の男が駆け寄ってきた。ヨウがシジンに挑むことを里の者には告げていない。社に行くヨウやコハルを見た者も、日課の掃除くらいにしか思わないだろう。しかし、男の表情は切羽詰まったものだった。
「ヨシさん! ヨウは社にいるかい!?」
「どうしたんだい、そんなに慌てて。帰ってくるときは事前に連絡を入れるようにと」
「そんな場合じゃないんだ! 明日、悪魔化した黒炎竜がティノジアを襲う! 空に響いた魔王の声がそう言っていた!」
ヨシの垂れ下がった瞼が、大きく開かれる。
「人間軍は既に各地で戦闘準備を始めている。ヨウもそこへ呼び出されているんだ! ヨシさん、この里の秘密も大事だが、世界が滅んだら意味がない! 数日間でもいい! ヨウの外出を許してやれないか!?」
ヨシは掌を額に擦り付け、悔しそうに呻いてから、手を脱力させた。
「ワシもそんな事態ならば許可してやったが……少し遅かったの。ヨウは今頃、社の中じゃ」
社の中に入り、どれくらい歩いただろうか。少なくとも、通常であればとっくに社の壁に辿り着いているほど歩いている。
辺りは光魔法でさえ照らせない完全な暗闇。耳に届くのは、自分の足音のみ。
不意に、月明かり程度の薄暗い場所へ足を踏み入れる。というより、コハルの言っていた空間を抜けたのだろう。
そこには、荒廃した大地が広がっていた。緑のない、赤茶色の世界。木は枯れ、池は乾き、空は不気味な赤色をしている。そんな世界を照らす月だけが黄金に輝いていた。
そして、その満月の光を遮るように、シジンは空に浮いていた。
黒い布切れのローブ、深くかぶったフードの奥に見えるのは、肉体ではなく骸骨の顔だった。
「シジンって聞いた時から、こんな感じかもって思ってたけどさ」
ヨウは空間から西洋剣を取り出しながら言う。
「良い神様が変わり果てた姿って思うと悲しいな」
それに答えるように、シジンも巨大な鎌を手に持つ。
「まんま、死神じゃねーか」
シジンが獣のような声で吼える。
「似た者同士仲良くってわけにはいかないけどな」
全身を黒で塗り潰したような大型の竜がレイリア上空に突如現れたのは、正午を過ぎた頃だった。
国民は揃って空を見上げて目を見開いてざわめき、それに不安を感じた子供や赤子の泣き声があちらこちらで響く。
鱗の継ぎ目すら確認出来ないほどの黒。翼はまるで悪魔の羽のように刺々しく、だが本来の強靭さを残しており、牙や爪もまた、中型魔物程度なら容易く切り裂けそうなほど凶悪に伸びている。
そして、その口からレイリア王城に向けられた炎は、まるで燃え盛る闇だ。
「やっぱりここに来たのね」
レイリア王国の空中障壁が割れると同時に、黒炎竜から離れた場所にティアクリフトが宙に浮かんだ状態で現れる。その髪は、白ではなく青色だ。
「……人間軍の力試しにはちょっと過ぎた相手かしら」
無表情、無関心のまま、そう呟いたティアだったが、すぐに「まぁいいわ」と言うと、両腕を斜め下に広げる。
すると、レイリア王国全土が青色の淡い光に包まれて、次の瞬間には消えた。国民達のざわめき、泣き声とともに。
「これに勝てないようなら、どうせ魔王にも勝てないもの」
そう言うと、ティアの姿はその場から消える。
それを地上から見ていたコウタは、よし、と小さく呟くと、コートを風に靡かせながら、待機していた魔法使い達へ一斉に号令を出す。
「魔法発動! まずは叩き落とす!」
その声とともに、城下町の至る所から大小の水系統魔法が黒炎竜に向けて打ち上げられていく。
それらの全てを一息の黒炎で防いだ黒炎竜に、更なる追撃、雷魔法が上下から襲いかかる。
何発か魔法を喰らいながらも、黒炎竜は大魔法だけを避けると大きく息を吸った。その視線の先には、城下町の中央広場がある。
「させない」
ノゾミの魔法により、黒炎竜の背後に転移したアデルが胸の前で合わせた両手の間には、眩しいほどに橙色に輝く玉が浮いている。
アデルの全力、極限まで濃縮した灼熱魔法だ。
「そして、出来ることならこれで死んで」
その瞬間、王都上空を真っ赤に染めるほどの灼熱の炎が背後から黒炎竜を襲い、そのどす黒い翼を焦がす。
隊長格の全魔力を注ぎ込んだ魔法でも、黒炎竜が火に対する耐性が高いことを考えても、その程度だ。しかし、これで人の領域に持ち込むことが出来た。
焼け焦げた翼でゆっくりと城下町に巨体を下ろそうとする黒炎竜に、再び各属性魔法による総攻撃が四方から行われる。大魔法をその身に受けながらも家屋が連なる長い屋根の上に巨体を下ろした黒炎竜を、予め先回りしていた十人ほどの部隊が囲む。部隊を指揮しているのは、『風組』隊長、フウズイ。齢七十を超え、戦闘魔力も殆ど衰えた小柄な老人だが、その莫大な魔力は未だ健在だ。
十人が両手を前に出すと、黒炎竜の足元の屋根に鋭い傷が無数に付く。そしてその一秒後には、黒炎竜を囲むように巨大な竜巻が発生した。ただの竜巻ではない。一流魔法使い十人分の風の刃によって作られた竜巻だ。中型魔物、いや、並の大型魔物でもこれだけで倒せるであろう威力。
だが、黒炎竜は身体中に細かい傷を作りながらも平然と竜巻から歩いて抜け出す。そうして屋根から地面へと降りた黒炎竜の首に魔法を波状攻撃が襲いかかった。そして、その反対方向から、激高状態のガイアが大剣を手に突進する。完全に不意を突いた、人間軍最強の攻撃力を誇る斬撃。長い首のちょうど真ん中に向けて振るわれたそれは、鱗を剥がし、皮膚に僅かに傷を入れただけだった。その硬さに、大きく後退しながら歯を食いしばるガイアだったが、黒炎竜の身体を見ると、先程の風魔法により、手足や腹部には細かい無数の傷ができていた。
首だけ特別硬いってこと?
それを確かめようと、こちらに背を向けている黒炎竜を睨み前傾となったガイアに影が落ちる。その正体を確認する前にガイアが横へ飛ぶと、先程までいた場所へ巨大な尻尾が叩きつけられた。
「ここまで届くの……!?」
屋根の上からその様子を見ていたフウズイは、妙な気配を感じて、遥か後方を振り返った。今にも雨が降り出しそうな黒く分厚い雲が、遥か遠くまで続いている。
しかし、フウズイの見つめる先の空は、明らかに暗すぎた。それが、空を埋め尽くすほどの悪魔化魔物だと気付き、フウズイが思わず表情を強ばらせた瞬間、部下の一人が彼の名前を叫んだ。咄嗟に振り返ると、黒炎竜が凶悪に尖った爪を振り上げていた。しまった。そう思うと同時に、振り下ろされた爪とフウズイの間に何者かが割り込む。手に持っていた巨大な盾で爪を防ぐが、足場が衝撃に耐えきれず、二人は屋内に落下した。
「いつつ……。すまんな、キョウカ嬢」
「私は大丈……」
言葉を区切り、穴のあいた天井を見上げたキョウカは、フウズイを抱えると窓を割って外へ飛び出す。巨大な尻尾が振り下ろされ、立派な石造りの家屋が一瞬にして潰される。
「キョウカ嬢、東の空からとんでもない数の魔物がこちらに向かってきている。他の場所にいる隊長格に伝えてやってくれ」
「分かりました!」
黒炎竜から少し離れた場所でフウズイを降ろすと、キョウカはすぐに駆け出した。
「いつつ……」
それを確認してから、フウズイは右手で腰を押さえる。戦闘魔力が殆どない彼にとって、先程の落下程度でも負傷の原因となってしまう。そして、何よりも彼は七十を超える老体だ。
「だが、この程度で音をあげてはおられん」
フウズイは木製の長い杖を空間から取り出して、黒炎竜に向けて構えた。
シジンの里にある社の前には、コハルとヨシを除いても二十人を越す里の者が集まっていた。皆、シジンに挑みに行ったというヨウを心配して来てくれた者達だ。中には、コハルやヨシと同じように昨日から付きっきりの者もいる。
ヨウが社に入ってから、ちょうど一日が過ぎた。時が過ぎるごとに皆の顔に影が差し、口数も少なくなっていく。
そんな時、小さな足音とともに、三人の子供が息を切らせながら坂を登ってきた。
「ヨウ兄ちゃんは? まだ戻ってこないの?」
先頭を走っていた茶髪の少年、カイトが、近くにいた男に問う。
男が「あぁ」と頷くと、カイトの後ろで話を聞いていた少女、リシャの目に少しずつ涙が溜まっていく。
だが、先に泣き声をあげたのは、リシャの後ろでずっと俯いていたソウタだった。それにつられてリシャも泣き出し、そんな二人に狼狽えるカイトの目にも少しずつ涙が溜まっていく。
「二人とも、どうか泣き止んでください」
社の前で膝を着いてずっと祈っていたコハルが、腰を上げて二人の前にしゃがみ、頭を撫でる。
抱きついてきたリシャの背中を優しく撫でながら空いている手を伸ばすと、ソウタは溢れ出てくる涙を拭いながら首を横に振った。
「ごめんなさい、コハル姉ちゃん。オイラが兄ちゃんに色々言ったんだ。それできっと、兄ちゃんは……」
そう言ってわんわんと泣くソウタの手を取って、そっと抱き寄せる。
「大丈夫。ヨウさんは誰かに強制されたわけでも、懺悔のために戦いに行ったわけではありません」
「でも、兄ちゃんが死んじゃったらオイラ……」
その言葉に、コハルの瞳が滲む。
「大丈夫。大丈夫です……」
そしてコハルは、自分に言い聞かせるように二人を強く抱き締めた。
三十分前から降り出した雨が、レイリアを赤く染めていた人と魔物の血を洗い流す。
戦闘開始から四時間。まだ夕刻だというのに、空を覆う分厚い雨雲のせいで、辺りは薄暗い。
そんな街中を、ニコールは一対の剣を両手に持ったまま疾走していた。その身体には小さな傷が多数あるが気にした様子はない。
城下町の中心、ニコールも見慣れている中央広場で、現在、討伐軍の隊長格達が黒炎竜と戦っている。
「ニコール!」
斜め後方から聞こえた声に走りながら振り向くと、ユタカがニコールに向かってきた。
「君の方も終わったのか」
「あぁ。だが、殆どの者が体力や魔力の限界を迎えている」
「僕の方も同じようなものだ」
「数には数で対抗するしかないからな」
そう言ったニコールは黒炎のあがった中央広場に目を向ける。既に広場周辺の建物はほとんどが倒壊するか全焼している。黒炎は、雨程度では消えてはくれない。
「まだアレと戦えるか?」
「……いや、すまない。魔力がもう底をつきかけているんだ」
行っても、足手纏いにしかならない。暗にユタカはそう言っていた。
「そうか」
「君は行くのか? 君だって、大分消耗しているだろう」
「まだ動けるし、あの場にいるシアには恩もある。それに、シアを助ければ、アイツへの借りも無くなるだろ」
その言葉にユタカは薄く笑うと、ゆっくりと足を止めた。
「僕の仲間を頼む」
「当然だ。私の仲間でもあるからな」
去っていくニコールの背中を見送ってから、ユタカは近くの民家の壁に背中を預けてそのまま脱力するように腰を下ろした。
ニコールが中央広場へ着いて目にした光景は、地面にうつ伏せで横たわるガイアを守るように立っているコウタの姿だった。
考えるより先に身体が動く。
近くの家に登り屋根を蹴ると、コウタとガイアに向かっていた黒炎竜の首に右手の剣を振る。
金属を叩いたような音が響き、黒炎竜の首には傷一つ付いていない。そうだろうと思っていた。ただ、気を逸らせればそれでよかったのだ。
首を後ろに回して近距離で吐かれた黒炎を間一髪避けたニコールは、近くの屋根に着地して、コウタとガイアを横目に見る。
コウタの手に抱かれているガイアは、完全に気を失っているらしく、両手が力無く垂れ下がっていた。髪色も激高時の燃えるような赤ではなく、元の薄い金髪に戻っている。
激高がリタイアか、とニコールは唇を噛む。周囲を見ると、シア、キョウカ、フウズイ、ラウール、そしておそらく隊長付きの隊員が数名、王国軍兵士が数名、ギルドメンバーは、主力はニコールのみのようだった。そして、コウタがガイアをラウールに渡したところを見ると、既にラウールの魔力は底をついている、あるいは切れかかっていて、この場には指揮のために残っているようだった。同じ隊長であるフウズイもまた、肩で息を繰り返しているのが遠目にも分かる。
ラウールにガイアを任せたコウタは、黒炎竜を気にしながらもその場で口を開く。
「最大まで巨大化させた魔剣で首を跳ねる」
その言葉に驚きを見せつつも、ラウールはすぐに頷いた。これ以上戦いが長引けば、どうしようもなくなることは目に見えている。ならば、フウズイの魔力が残っていて、ニコール達がまだ動ける状態にある今、どうにかするしかない。
ラウールは、隣に立っている二十歳ほどの女性、『水組』隊長補佐のクレアに目を向けて、大きく頷く。
クレアは水色の長い髪を揺らして頷き返すと、自身の胸にそっと両手を重ねて置いた。
『コウタ隊長が最大威力の魔剣で攻撃を仕掛けます。各自援護をお願いします』
中央広場付近にいる人間に向けられた通信魔法は、当然フウズイとニコールの頭にも届く。
「これで終いにしてくれよ、地組の……」
フウズイはヒビの入った杖を捨てて、新たな杖を握る。
「まぁ、それしかないな」
ニコールも頷くと、黒炎竜を攪乱させるため、屋根を蹴って距離を詰める。
その様子を確認したコウタは、一つ深呼吸すると、魔剣になけなしの魔力を流し込む。
ガイアの大剣ほどの大きさになった時点でコウタは駆け出す。黒炎竜の首まで飛べるほどの重量を考えなければ、いくら巨大化させても意味がない。
ニコールの攪乱、そしてフウズイの風の刃により、完全に黒炎竜の気が逸れている。その隙を見てコウタが駆け出そうと前傾姿勢になった瞬間、巨大な尾が振り払われる。
咄嗟に地面を蹴って尾を避けたコウタは、そのまま剣を巨大化させながら、黒炎竜の首まで飛ぶ。
だが、黒炎竜はコウタの存在に気が付いていた。ニコールの斬撃も、フウズイの風魔法も意に介さず振り返ると、コウタに向けて大きく息を吸う。
瞬間、
「やめろ!!」
その一言で、黒炎竜の動きは止まった。フウズイが驚きに満ちた表情を向けた先には、屋根の上で膝に手をついて息を切らしているユタカがいた。
コウタの雄叫びが中央広場に響く。彼の手に握られている魔剣は、大きさだけ見れば、黒炎竜の首を容易に断てるであろうほどになっていた。
雄叫びをあげながら魔剣を振り下ろす。その刃が、ガイアが付けた傷口を捉え、硬い鱗を砕き肉に食い込むと、黒炎竜は咆哮をあげながら暴れ出す。
まだだ。
一度剣を戻したコウタは、黒炎竜の右手を足場にして、再度高く跳ね上がる。
今の攻撃で三分の一ほど首を斬ることが出来た。次は、邪魔な鱗もない。
魔剣を振り下ろそうと柄を握る両手に力を込めたその瞬間、コウタの右半身を、強い衝撃が襲った。
暴れていた黒炎竜の左手が当たったのだ。おそらく、狙った攻撃ではないだろう。そのため、幸運にも爪が刺さることはなかったが、体力、魔力ともに限界間近だったコウタには十分すぎる一撃だった。
「コウタさん!」
殴り飛ばされたコウタの近くに偶然いたシアは、慌てて彼に駆け寄り、怪我の具合を見る。
爪が刺さらなかった、引き裂かれなかったことは幸運だが、右半身の損傷は酷く、右手、右足は間違いなく骨折している。戦える戦えないの問題ではない。
「っ! シアさん!」
「え?」
痛みに喘ぎながら薄く目を開けたコウタの叫びにシアが振り返ると、黒炎竜が二人に向けて大きく息を吸っていた。
ニコールとフウズイがそれぞれ攻撃を繰り出して黒炎竜を止めようとするが、間に合わない。
唯一間に合ったのは、キョウカだった。
『範囲防御?』
なんだそれ? と言いたげに聞き返してきたヨウにキョウカは頷き、空間から盾を取り出す。
ナズベキニア帝国にある小さな村での任務で同じ部隊になった二人は、昼食後、腹ごなしに村を散歩していた。そんな時にキョウカが口にしたのが、先程ヨウが繰り返した言葉、範囲防御である。
『簡単に言えば障壁みたいなものだ。魔力使うしな』
そう言ってキョウカが構えると、盾からキョウカを包むように透明な壁が現れた。
『ほぇー』と興味があるのかないのか分からない間抜け面をするヨウを白い目で見てから壁を消す。
『それに、並の障壁よりは大分固い。盾で防御出来る範囲をそのまま広げる技だからな。当然、範囲を広めれば広めるほど、防御性能が高い盾であればあるほど、魔力消費は激しくなるが』
その説明に、間抜け面をやめたヨウが「ん?」と眉間にしわを寄せる。
『それってつまり、防御した分だけキョウカにダメージがくるってことか?』
『相変わらず妙なところだけ鋭いな』
キョウカは盾をしまいながら肯定する。
『普通に攻撃をくらうよりかは大分軽減されるが、確かにその通りだ』
『……使いどころは考えろよ?』
『分かってる。コウタ隊長やモーゼズ隊長補佐にも同じことを言われた。当てにされないよう、基本黙っておくように、とも』
『ならいいけど』
そうして会話に一段落付けて散歩を再開した二人だったが、ヨウがふと口を開く。
『ん? じゃあなんで俺に?』
この頃のヨウはまだ指揮官でもなんでもなかったため、そう思うのは当然だろう。
キョウカは、気付きやがったか、と言いたげに口元を引きつらせて、ヨウから顔を逸らすと、普段より小さな声を出す。
『いや、なんというか、お前には色々世話になった……わけでもないが、今のスタイルを見つけられたのはヨウのおかげと言えないこともないわけではないし……』
『何が言いたいのかさっぱりなんだが』
『とにかく!』とキョウカは大声を出すと、僅かに紅潮した顔をヨウに向ける。
『大した理由はない! なんとなく……報告しとこうと思っただけだ』
誤魔化しの言葉にヨウは眉間にしわを寄せて首を傾げてから、
『そうか。ありがとな』
と言って、笑った。
黒炎が消えると同時に、キョウカの手から黒く焼け焦げた盾と刀が離れ、地面に落ちる。
キョウカ、シア、コウタの三人を飲み込むほどの炎だったにも関わらず、後者の二人は無傷だった。
シアは目を大きく見開き、目の前のキョウカを見る。二人の盾となり、たった今、膝を着いたキョウカの身体からは煙がくすぶり、皮膚の焦げた匂いが辺りに漂う。
コートや頬が黒く焦げている中で、最も酷い火傷を負っているのは、盾を持っていた左腕。肘の辺りまでが黒く焦げ、数本の指は先端が焼けてなくなっている。途中から両手で支えたのか、右腕も刀を持てないであろうほどの状態だ。
キョウカは身体の熱を逃がすように荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと振り返る。
そして、二人が無事であることを確認すると、前に向き直り、足に力を込めて、ゆっくりと立ち上がった。その視線の先には、再び大きく息を吸う黒炎竜の姿がある。
「キョウカさん!」
シアの悲鳴に、キョウカは口元に笑みを浮かべて、空間に右手を入れる。
そこから取り出したのは、先程のものより少し小型の盾。ティノジアで、キョウカが初めて手にした守るための武器。
「私は、あの時何も出来なかったから」
炎で喉が焼けたのだろう。掠れたような声でキョウカは独り言のように呟き、盾を両手で構える。
『シアはお前が守ってやってくれ』
笑わなくなってしまったヨウの言葉が脳裏に蘇る。
「シアやコウタ隊長が死んだら、あいつの帰る場所が本当になくなる」
熱い身体に、雨が心地よかった。
「絶対に、それだけは守ってみせる……!」
身体の前に構えた盾から、三人を覆い隠すように透明な壁が現れると同時に、黒炎がキョウカ達をのみ込んだ。
その身を包む熱気に、シアは両手を顔の前で交差させて目を閉じる。
「キョウカさん……!」
返事はない。ないと分かっていながらも、呼ばずにはいられなかった。
その熱気が収まり瞼を開いても、辺りに黒い煙と砂埃が舞い、視界を覆い隠していて黒炎竜の姿すら視認出来ない。
ただ、前に立っているキョウカの背中は見える。身構えたまま動きを止めているキョウカの手から、盾が落ちて金属音が響いた。
「キョウカさん……?」
返事はない。先程までの、苦しそうな呼吸も聞こえない。
キョウカの全身から力が抜けて、そっと前のめりに倒れていく。
それを、誰かがそっと抱き止めた。
シアは気付く。地面に落ちたキョウカの盾に、焦げ痕が一切ないことに。
彼女が顔を上げると同時に強い風が吹き、視界を遮るものを飛ばす。
黒いローブを頭までかぶり、その顔は見えない。
だが、その後ろ、黒炎竜とシア達を遮る黒の障壁は、彼が彼であることを何よりも示していた。
地面から吹き上がる風により、フードが外れる。
額に汗を滲ませ、頬の切り傷から血を流しながら、彼はそこに立っていた。
「ヨウさん……」
涙を含んだ声にヨウは顔を向けてから目を伏せると、キョウカをシアの横に寝かせ、踵を返し、空間に手を入れる。
黒の障壁が割れ、黒炎竜と向かい合うと同時に、彼の手には巨大な鎌が握られていた。
威嚇するように咆哮をあげた黒炎竜は、ヨウに対して右手を振り上げる。その瞬間、その腕に、白く輝く紐が巻き付いた。
紐を追った先、雨に打たれ、巫女装束を風に靡かせながら民家の屋根に立っているのはコハルだった。
黒炎竜が左腕を動かそうとしていることを察したコハルは、ゆっくりと両腕を広げる。すると、彼女を囲むように白い光が現れ、そこから十本の紐が飛び出した。
左腕だけではなく、首、尻尾、胴体、全ての動きを封じるように巻き付いた紐に、黒炎竜は天に向けて大きく吼える。
「ぐっ!」
両腕を広げたまま、コハルは両拳を握る。シジンに勝る力。おそらく長くは持たない。
でも、とコハルは顔を上げる。それで十分だと彼女は確信している。
吼える黒炎竜に向けて、ヨウが大きく飛び上がる。狙うは一点のみ。
首まで到達したヨウは、横に構えた鎌を身体ごと振る。
黒いローブをはためかせながら鎌を持つ姿は、まるで死神だ。
死神の鎌が、先程コウタが付けた傷に向けて振るわれる。そしてそれは、勢いを殺されることなく、黒炎竜の首を断ち切った。
黒炎竜の咆哮が止み、辺りは途端に静寂となる。
抵抗を感じなくなったコハルが両腕を下ろして紐を消すと、黒炎竜の長い首がずれて、頭部分が地面へと落下した。
「うお!?」
そんな声が聞こえてコハルが下を見ると、いつの間にか地面に降りていたらしいヨウのすぐ横に頭が落下していた。
文句を言いたげな顔のヨウにコハルが苦笑を返していると、黒炎竜の身体が地響きを起こしながら倒れ、そして、辺りに再び静寂が降りる。
雨音だけが響く中、この場にいる者達の視線を一身に受けていたヨウの身体が不意に揺らぎ、黒炎竜の血と雨が混ざった地面へと倒れていった。




