五日目
「……」
ハッと目を開けると、窓の外からひぐらしの声が聞こえてきた。もう夕方か。
まだ少しだけ眠いかな。私は昨晩のことをぼんやり思いながら、隣の少女の感触をもう少し楽しもうとして――
「いない!?」
そこで意識を覚醒させたのである。
家のどこを探してもいない。どうにも玄関に靴はなく、おまけに従兄弟の靴と車も姿を消していた。
騙されたような気分のまま仏頂面でテレビを見ていると、控えめに玄関の開く音がした。
駆け付けたのは言うまでもない。
玄関にあったのは従兄弟の姿だけだった。
私はすっかり落胆して、
「あの子は……?」
と絞り出すように言った。
すると従兄弟は申し訳なさそうに、
「家まで送った」
なんてことを言うのだ。
私は思わず掴みかかりたい衝動に駆られたが、今そんなことをしても意味がないと自分に言い聞かせてその獰猛な、獣じみた怒りを押さえつけた。
それから少し落ち着いて、私は問う。
「……なぜ起こしてくれなかった」
と。
「あの子の頼みでな」
その答えに、私は思わず座り込んで、視界が潤むのに黙って従った。目頭は勝手に熱くなって、涙はぽろぽろこぼれ落ちていく。
「なんで……帰っちゃうんだよぉ……! まだ何もしてあげてないのに……! まだ何も伝えきれてないのに!」
私の心を、悲しみだけが通り過ぎていく。
従兄弟はそんな私の肩に手を置いて、おどおどした表情を浮かべてぎこちなく謝罪を重ねた。
「すまん……その……断れなくてな。いや、あの子にとっても辛い決断だったそうだ。なんでも顔を見たら、言葉を聞いたら帰りたくなくなってしまうとか」
私はその言葉にただ頷いた。
なんだか呆れたような従兄弟は、私に言う。
「なーに。また遊ぼうと言ってたぞ、あの子。明日にでも会えばいいのさ、ほら元気出せ!」
「や……っかましいわい……この若禿げ!」
その言葉をしかと受け取って、ようやっと目覚めた私の寝坊助ぶりを恨みながら、私は遅いスタートを切ることにした。
◆◆◆◆◆◆
何もない一日というものはやはり、とんでもなくつまらない。
そういうわけで、私はまた縁側で星を眺めながらうつらうつらとうたた寝気分に浸っていた。
胸に一抹の――電話がかかってくるかもしれないという――期待を抱いて、私はまだ眠る気にはなれなかった。
しかしそんな自分勝手な期待に応えてくれるわけもなく。私は虚しくも、たった一人で一時間弱星を見るハメになった。
そんな時ふと。ああ、あの子もあの時、こうやって何かを待っていたのかもしれないな、なんてことを考えた。
しかしそんなことを考えたって、あの子は電話をしてこないわけで。
そんなこんな、私はスマホの画面と睨み合いながら、ついに自分から電話をかけるに至ったのである。
もちろん慣れるほどに数はこなしたことがない。そのために最初の言葉は「もしもし」だなんて出てこない。なんだか喉の奥が変なふうに鳴るのである。
「……、……あ、あの。夜分遅くに申し訳ない」
『姉さん……? いえいえこちらこそ、今日は勝手に帰ってしまって』
「そんな、気にすることは、ありませんよ」
私は結構傷ついたけどね。とは言わない。
『本当にごめんなさい。なんだか姉さんを起こしたら自分のことを放り出してしまいそうで』
電話越しに、少女が苦い笑みを浮かべていることが想像できる。
『でも大丈夫ですからね』
「それは……良かった」
元気ハツラツならば、いいけれど。どうにもそうは思えない。……追い討ちをかけるようなことは極力したくはないのだが……。それでも、私は私に我侭なのだ。
「あの。明日……会えますか?」
『明日ですか……? それはまた、どうして』
少女は素直に疑問を口にした。
今まで私から持ちかけることがなかったためだろう。単に物珍しさを持っただけだ。
「なんというか……買い物に付き合って欲しいのです」
『買い物……ですか』
「はい。少しだけですので」
どうだ?
『それなら……はい。分かりました。では何時頃に?』
「そうですね……」
頭の中で、チラと財布の中身を鑑みる。
帰りの電車賃。夏祭りで遊ぶ金。そこから考えると、どうしたって明日を遊ぶには資金不足か。
ここは苦渋の決断をすべきかな。祭りを存分に楽しむためにも、この決断は――欠かせないだろう。
「明日は……昼時に。そうですね、十一時のバスでお願いします。そこに私も乗り込みますので待っていてください」
『明日の……十一時……はい、了解です』
快い承諾にほうと胸をなで下ろす。そこ、下ろすものがないとか言わない。
『では、姉さん。いい夢を』
「ありがとう。おやすみなさい」
◆◆◆◆◆◆
「従姉妹、早く寝ろ」
「いやもう少し起きてるよ」
「こんな田舎、起きていてなんのメリットがある? いいから寝ろ寝ろ」
「ええいやかましい。寝れないったら寝れないんだ、寝かしたいなら逆立ちしながら耳元でデスメタルでも歌ってくれ」
「よしきた!」
「やらんでいい!」
なんでやろうとするんだこいつは、阿呆なのか。いや阿呆なんだ。そういえばそうだった。
ともあれ居間でテレビを見続ける私に対し、従兄弟はなんとも心配そうな目を向けた。
「なんぞ……気になることでもあったか」
「は? なんの冗談だ」
私の隣に腰掛けて、従兄弟はコップ一杯の水を飲んだ。
「……なぁ従姉妹。これは真面目な話なんだが」
そう言ってから、従兄弟は深く深く、それはまた、今まで見たことがないほど、大きく深いため息をついた。
従兄弟はさらに間を置いて、どうやら私を焦らしているように感じた。
なので私はピリピリして、
「なんなんだ、真面目な話とは」
と、聞いた。……私はそれを――後悔しているのだろうか? やはり今でも分からない。
従兄弟はもう一つだけため息をついた。
「お前、あの子に惚れてるだろ」
私が頭を抱えたのは言うまでもない。
それは――それはもう。なんと言うのだろう? それはもう。どうしようもなく。
それは言葉が出ないほど、傍目から見たって明らかで。
私はどうにもおかしなように喉を鳴らした。
それ以外声を出せなかったからに他ならないが、私の首は何をやったってじわじわと絞まっていく。
なので私は突っ伏したまま聞くことにした。
「やっぱり分かる……?」
すると従兄弟は呆れたように天井を見上げた。
「なんというか……俺だから分かったのかもな」
そんな小っ恥ずかしい言葉に私は頭に打ち付けるに至った。
私がしばらく話せないことを悟った従兄弟は更に続ける。
「ほら。俺が知らないお前の一面と言えば、惚れた相手を前にした時くらいだろう? つまりだな、あの子といるお前は俺の知らないお前だった」
従姉妹は更に水を飲む。
何と言うべきか。こいつはどうして……こんなに私のことを知っているのだろう。
私の知らない一面だと言った。……惚れた相手を前にするのを。
「そんなだから……独り身なんだよバーカ」
私はぼそりと呟いた。
「やかましい」
従兄弟の地獄耳はそれを拾うも、その真意を知ろうとはしなかった。
「俺のことはどうでもいいだろ……あのな」
「分かってるよ。――ああ分かってる」
きっと、従兄弟からすれば、それは避けて欲しい道なんだろう。
「…………そうだとも。好きだよあの子が」
だがもう遅いのだ。
「仕方ないだろ! ああもう! どうしたって好きなんだから!」
強く机を叩いて起き上がる。従兄弟はびくりと体を震わせた。
「なんとでも言えよ……言えばいい……馬鹿な女と笑えばいいさ。だけどこの気持ちを曲げるつもりは毛頭ない!」
「い、いや、とやかく言うつもりは――ないと言えば嘘になるが」
「ほらぁ! やっぱり馬鹿な女って思ってるんだぁ!」
「だから思ってないって……」
「でもとやかく言うつもりあるって……」
「それはだなぁ……はぁ、くそ。なんて面倒な」
禿げ頭の天辺を掻いて、従兄弟はしっかりと私を見据えた。
その目には強い意志があって。そんなに黒い目をしていたっけ、なんて少しだけ思った。
私はその目に見つめられると――どうにも弱ってしまうらしい。物も満足に話すことができなくなった。
そんな私に向かって、従兄弟は言う。
「従姉妹が本気であの子を好きならそれでいいと、俺は思ってる」
堂々たるその言葉は、威厳溢れるその姿は、私を再びうずくまらせるのには十分だった。
「どうなんだ、従姉妹」
「私は! 私は……その……」
口にしようとした言葉は後一歩、私の意志によって外へ吐き出されることは阻止された。従兄弟はそれを見て、なんだかいらついたように机を指でリズミカルに叩く。
「はっきり言え――」
「は、恥ずかしいんだよ! それくらい分かれっこのバカ! 阿呆!」
指で机を叩く。従兄弟。その片手間では、私による猛攻はその悉くが阻止されていく。対する私はというと恥ずかしさのあまり従兄弟に向かって腕を打ち付ける行為を無限に繰り返していた。
「この馬鹿! バカバカ馬鹿馬鹿バカ馬鹿! このハゲ散らかしの阿呆がァ――ッ!! 言ってほしいのか!? だったら言ってやるとも!」
もうなんというか、恥ずかしさと、それを引き出そうとした従兄弟に対する怒りと、私の中にある感情がごっちゃになって、とにかくまともではなくなっていた。
「私はあの子が大好きだァ――ッ!!」
次の日の朝、体を起こせないほどの死にたさに襲われたのは言うまでもない。