四日目・夜(其の二)
「……」
「バカもん……上せる前に上がれと伝わっていたはずだろが……」
「知るか阿呆め……」
私は横になりながらまた天井を眺めていた。今度は居間のそれである。
「ちゃんと調整をしろ調整を」
「分かってるとも……ああ……」
ぐったりしながら私は天井を睨み付けた。
「卑怯だぞ……あの子を差し向けるなんて……」
落ち着いた体を起こして、私は従兄弟を睨む。
ドライヤーは手の届くところにあるのでそそくさと乾かしながら私は従兄弟に熱烈視線を浴びせた。
「どうした従姉妹。視線から別方向のもんを感じるぞ」
「よくも見せてくれたなあの写真を……」
「ああ――いやすまん、自慢したくてつい」
私が繰り出した平手をひょいと避け、従兄弟はさも恐ろしいとでも言いたげに手を挙げた。
「何もそんなに怒るこたぁないだろう」
「怒るわ! まったく……祭りの日にお披露目するつもりだったのに。それ以前に私の許可なしにとはいったい如何なる狼藉か。訴えれば勝てるぞ」
これは参ったなんてことをぼやいた後に「悪かったな」と素直に謝った従兄弟はどこかバツが悪そうで、むしろ私が何か悪事を働いたような気持ちに――いいや錯覚だ。見せたくないもんは見せたくない。
まぁ、好評価だったから良しとしよう。だがこれ以降は許さない。決して許さない。なぜなら私のイメージに関わるからだ。
「いやしかし、あの子も驚いてたぞ。まさか見惚れるとは思いもしなかった」
「どういうことだ?」
「あの子がな。お前の写真――」
「従兄弟さん! それは言わない約束です!」
「ああ。これは失敬」
「まったくもう……」
私の部屋から居間に戻ってきた少女は「二人揃って本当に……」とかなんとかつぶやいた。
「ん、む……おい従兄弟」
「どうした従姉妹」
「やめんか酒は。今日は飲まんぞ。その子もいるんだしやめんかい」
「なに、俺はお前がきてからというものほぼ毎日一人で飲んでいるんだぞ? 今日くらいはいいじゃあないか」
「だから無理だと言うたろう。私にはお相手がいるのだからな。――ささ、お茶でも如何か?」
「ありがとうございます、姉さん」
「ぐぬぬ……」
やはり風呂上がりは喉が渇くのか、コップ一杯の茶はあっという間に少女の体内に消えた。
さてと……まだ寝るには早いかな、テレビでも見よう。
「あーお腹すいたなー。お腹すいたなー従兄弟。お腹すいたなー」
「なんだお前は……今日はつまみはやらん。どーせ一人酒なんだし」
私が顔をしかめると、隣の少女はそれを見て微笑んだ。私はどうにもそれに調子が狂ってしまって、しかめ面に面白いように微笑みが混じった。
憎たらしいことに従兄弟はそれを見たってあまり機嫌を直さずに、つまみを作ろうともしない。
どうやら一人酒を決め込んだようだ。
「テレビつまらん。歌番はないのか歌番は」
「やかましい。今日はもうやっとらんだろ、こんな時間だ」
酒を片手に従兄弟は愚痴をこぼした。酒が入ると愚痴っぽくなるのだ。まぁ、普段からそれだけ溜め込んでいるという証拠に他ならないが……。
しかしまぁ、私にとってはどうでもいいことだ。今この瞬間を堪能することに忙しくて、正直従兄弟に構っている暇がない。
私の隣には少女がいて、ひたすらテレビを眺めているものの、その体温はごく近くに感じ取れる。なんというか、ただそれだけがこれだけ安心で――うん、味わったことのない幸せだなこれは。
私はすっかり腑抜け顔を晒して、少女よろしくテレビを見ていた。
すると掌に温かい感触を覚えた。
「あの……如何した?」
「え……? あ――ごめんなさい。ただなんとなく、こうしていたくって」
照れたように顔を赤らめる少女の手は私と重なっていて、知らずのうちに互いの指は絡み合う。それが私もなんだか恥ずかしくて。
どうやら無意識のうちに、ぎこちない笑顔を浮かべていたらしい。
「姉さん?」
「なんですか?」
私が聞き返すと、少女はクスクスと笑った。
「――大好きですよ」
その言葉に、ちょっとだけ泣きそうになった。
泣きたい理由なんて決まっている。決まっているだろう? だってそれは――
「時に残酷な言葉ですね、大好きって」
――とても残酷な言葉なんだから。
途端に歪んだ視界に、私は思わず俯いた。
悟られまい。知られまい。私はそれだけに必死になって、どうやら何も見えていないのかもしれない。でも……同じだろうな、どんな時だって。私はいつでも自分のことで精一杯だから。
「従兄弟! 従兄弟!」
「なんじゃあ従姉妹」
「酒だ酒! 私は酒を飲みたいぞ! 早く注げ!」
「おお! その気になったか! よし来たとことん付き合うぞ!」
「姉さん……」
「まぁまぁいいではありませんか。夏休みだけですよ、ええ」
そう言いながら、私は渡された酒をぐいっと一杯飲み干す。
「ぃよっいい飲みっぷり!」
「ふふん。敬え敬え。ふふんふん」
嗚呼やはり苦い。今日の酒はなんて苦いのか。でもたまにはこういうのも悪くないだろう。
「びっくりです。まさか飲酒し出すだなんて」
「ふふふ。ここで私達二人の出会い、その種明かしを致しましょう」
従兄弟がつまみを取りに台所へ消えたのをいいことに、私は少女の肩をぐいと引き寄せた。
「つまりはこういうことなのです。酔いが入ると大胆になるタチでしてね。酔いがなければ我々の出会いはなかったんですよ」
そのまま私は少女にまで酒を勧める。もちろん断られること前提なのでそんなに強くは迫らない。
するとやはりやんわりと断られたので、私はさも愉快だと言うように――実際楽しいけど――口を開けてわははと笑ってみた。少女はそれを見て、意外そうに目を丸くするのだ。
私にだって、こういう明るい一面があるんだぞ? とでも言うように、私はしばらく笑い続けた。
◆◆◆◆◆◆
つまみがなかったらしい。
なので今ここにあるのは従兄弟の手料理に他ならない。またうまいんだ、これが。
「なぁ従兄弟。今年の祭りはどうなるんだ?」
「屋台か? なんかお役御免を喰らってな。今年の俺はフリーなんだ」
「そうかなるほど……ではどの時間にでも送ってくれるし迎えに来てくれるんだな?」
「そうなるな……なんだ従姉妹。企みでもあるのか」
「姉さん……そろそろ眠いのですが……」
「ふむ……失礼した。先に寝ますか?」
私の問いかけに少女は首を横に振る。
「一緒に寝ます」
「そんな……無理をせずとも……」
「いいえ! 友達と寝たいんです!!」
「友達と……まぁいいでしょう。ではもうしばらく付き合っていただけますか」
「もちろんです」
「酷なやつめ……ガキは早く寝ろ」
「やかましい。私たちをガキ扱いするでないよ」
「偉そうなことを言いおって……これで老けてるとか言ったらまだうら若きどうたらと言い出すんだろ都合のいいやつ」
分かってるじゃないか。私に口応えするだけ無駄だと言うことはしっかり学習しただろう。
「……今年の祭りも花火がある。楽しみにしとけ」
「ほう。そうかそうか期待しておく」
「あいや、いざ期待されるとな……いやはや、やはり期待はしないでくれ。中々ロマンティックではあると思うが」
従兄弟はちらりと少女を見た。もちろん少女は首を傾げ早とちりした私は顔を上気させていく。
「阿呆! 何を言っとるかお前は……そんなまさか私がそんな……」
すかさず従兄弟の「何も言ってない」との言葉が飛んだあと私は過ちに気がついて、数日ぶりの死にたさに襲われた。
私は案の定「ぐああああ」なんて無様な叫び声を上げる。
それを微笑みとともに見守るのは言わずもがな少女である。
「ぐ……く……いや、なんでもない! ないでもないからな! ええ! なんでもありませんよ!」
「ぷくく」
「何がおかしい!」
「いやいや? ふーん。したいんだなそんなこと」
「やぁめぇろぉ!!」
「そんなことって」
「それはほら、あんなことやこんなことですわな」
「やめろっつってんだろォ!!」
思わず上がった咆哮に少女はビクリと肩を震わせた。私も同じく肩を上下させるがそれは呼吸のためである。
いや、冷静になって鑑みれば、それほど怒鳴るようなことでもないんだが、少なくともその時の私は酔っていた。
しばらく私の怒号によって沈黙が流れた。沈黙を破ったのは「ぷはァ」なんていう可愛げもない従兄弟の吐息である。
私はなんとなく従兄弟から話始めることに怒りを覚えたので無理矢理にでも私から話を切り出すことにした。
「馬鹿馬鹿しい。まったくもって馬鹿馬鹿しい。あのな従兄弟、そりゃ私だって夢見たりするわけだよ。だがしたいというわけでもない。なんせ相手がいないのだからな」
「今年はお相手いるんじゃあないのか?」
「いない! いないといったらおらん。おらんと言ったらいないのだよ、分かったか? 分かったらこれ以上その話をするな」
「いや続けるつもりもないぞ?」
「いいからやめろと言っとるだろ!」
つまみをちまちま口に放り込みながら、従兄弟は途端つまらなさそうに口を尖らせた。
どうやら話すことがなくなったか。ここは私から話題を振ろう。
「どうなんだ従兄弟は。いないのかいい人」
「だから……いないと言ってるだろが。何年前から言ってると思う? 毎年毎年同じことを言わせるな」
「いやだから、今年こそはと期待を込めて聞くわけだ」
「そんなもん応えられるか馬鹿」
ぐいっと豪快に酒を飲み干し、本日三本目の缶を開ける。
「ええ、おい。俺はな……そういうのから開放されようとここに来たんだ。お前とはまた違う」
「仕事しやすいからだろ阿呆」
「そんなことない……とは言いきれないが。そういえば」
「どうした?」
「彼女はなぜここに?」
「ああ」
確かに……言われてみれば気になるな。詮索しようとも思わないが。……そもそも詮索してなんになるのか。
標的にされた当の少女はぽかんとした様子で私達二人を交互に見た。……そういえばあんまり話してないな。
「え……私、ですか?」
「まぁ、そうですね。なぜこんな田舎に来たのか……と。案外気になるもんでして」
「えーっと」なんてことを言いながら、少女は気まずそうに目をそらす。それから「詮索しないでいただけると」と消え入りそうな声で言って、またいつも通りの笑みを浮かべる。
「そんなに大した理由でもありません……ええ。知ったところで得はないですし」
「いや、損得の話ではなく……まぁ、あなたが嫌と言うならば仕方のないことですがね」
いよいよ酔いが回ってきたのでちびちび酒を飲んでいると、半分ほど空いたグラスに従兄弟はまた並々と酒を注いだ。
私は「何をコイツ」と従兄弟を睨むが肝心の従兄弟は知らんぷりである。
仕方ないから飲むとして。
しかし、それきり少女はすっかり黙ってしまって、私はなんだか申し訳ない気持ちに襲われる。
「まぁ……ここに来る理由なんて、人それぞれのもんでしょう。でもこれだけは言えるんですよ」
「何がです?」
「ここに来る人は誰もがどこか思いつめている」
それは、それだけは同じだ。私も従兄弟も、そしてこの子も。何もないことに癒しを求めるほどに疲れきってしまった証としてこの場に足跡を残す。
そうして多くのものは挫折を抱えたまま、ほんの一握りのものは新たな志を胸に、元の居場所へ帰っていく。だからこそ何もないことは人に愛されるのだ。――そこに意味を見いだせるか否かで人生は大きく変わっていく。
「その点で言えば従姉妹。お前も丸くなったな」
「そうかね」
「そうだとも。中学の時はひどいのなんのってな……」
従兄弟は突然涙ぐんだ。
「成長したなぁ本当に……胸は相変わらずだけど……それでも感情豊かになったよ……」
「胸は関係ないだろが……」
「昔の姉さん……」
「ええそりゃもう、昔は可愛げもなくてね。それこそ儚さみたいなものはありましたがね、ホント今にも泣き出しそうな顔でね……」
「そうだったんですか……」
「大変でしたよもう……帰りたくないなんて駄々(だだ)をこねて……深夜に家まで送るなんてこともあったんですよ」
「だーもう! いいだろその話は!」
黒歴史を掘り起こすな! 私の再びの怒号に、しかし今度は静まらない。
「本当にねぇ! 一人で風呂にも行けなかったんですよ! 何もしたくないとか言って寝てばかりでねぇ! そのくせして見る見る痩せてくから心配したのなんのって!」
「やめろ! やめろぉ!」
「コイツが初めて飯食ってくれた時どれだけ嬉しかったか! しかもコイツ「美味しい」なんて泣くんですよ! もう感動ものですよ!」
「やめろぉぉおお!!」
頭を抱えて机にうずくまる。私にそんな時期があったことは事実だしどうしようもないが、あまり思い出したくはないのだ。まだそれを、笑って振り返れる様な強さは身につけていない。
「あ――あのなぁ。放っておけば好き勝手言いおってからに。確かにそんな時期はあったがな、だが客人の前で言う事か? あまり語って欲しくはないのだが」
「それは素直に謝ろう」
少女は私たちのやり取りをただ黙って聞いていた。それはそれは興味深そうに。
ああやはり、この子は好奇心によってのみ動いているのだろうか? 私の想いは伝わらないのだろうか。嗚呼なぜ世の中はこんなにも理不尽で不条理で、こんなにも勝手なんだろう?
「なぁ従兄弟。私は今でも、生きているのは好きじゃあないんだ」
「……それはまた、どうして」
「なぜってそれは――」
私はちらりと少女を見た。
するとその視線にすぐさま気がついて、少女は同じく私を見つめ返す。
少女は微笑む。……私は思わず目を逸らして、ゆっくりと瞼を落とす。
「生きたいなんて、それはひどいエゴじゃあないか」
そう、それはひどく虚しいエゴイズム。自分勝手でどうしようもない感情なのだから。
そして私はそのエゴに屈して、今ここにいるだけで。
「私はただ――よく分からないだけなんだ。恋心が、生きたいって意志が、人の心が。だから知りたいし分かったことは書いて吐き出したい。それだけなんだ」
そのためだけに生きている――なんて、少し言い過ぎかも知れないけれど。
少なくとも、私は今理解しようとしている。限りなく近い場所にいる。恋心がなんなのか、私はもう、自分の深い部分では分かっているのかもしれない。
――だから知りたい。もっと深く。
「……ふむ、もう遅い。私は寝るとするよ」
「ん――おぅ、悪かったなこんな時間まで」
「謝るならこの子に謝罪しろ」
言って、私は小さく少女の肩を揺らした。
「あ、姉さん……もう寝ます?」
「ええ。……申し訳ない、お待たせした」
もうこんなにも、夜は深い。
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