初日
「……」
ガタン、ゴトンと電車が揺れる。
私は物憂げな表情を浮かべ車窓の外を眺めた。トンネルを抜けた先には海が広がっている。
まったくこう、どうして太陽というやつは燦々燦々と輝いて、水面というやつはそれをこう、ギラギラと跳ね返してくるのだろうか? 私はつくづくそう思いながら海を眺める。
海、それ自体は嫌いじゃないのだが。寝ぼけ眼の私には少し眩しい。
ガタン、ゴトンと電車が揺れる。
線路脇の植え込みに視界が遮られたところで、アナウンスとともに車掌がこちらにやってきた。特急列車だというのに車内はまるでがらんどうである。
そのせいもあったのか、そこそこに若い車掌は私を見て驚いた顔をした。
そして「はぁ、一人旅ですか。まだお若いのに」なんて失礼なことを言う。
何クソ、誰がこんな廃れた電車、好き好んで乗ると言うのだ。ちくしょうめ。私は未だ十七の、うら若き乙女だぞ。貴様その乙女に心遣いの一つもないのか。
とは言わず。そもそも私はそんなことを言う性分ではない。
「ええまぁ、一人旅もいいもんですよ。たまにはね」
なので差し出された切符を奪い取るついで、できるだけの毒を含んでそう言ってやった。
――いやはやまったく、誰がこんな夏本番のこれからに、こんな誰も乗らない電車に乗って、誰もいかないような終点まで行かなきゃならないのだ。
行かなきゃならないのは、他でもない私だが。
◆◆◆◆◆◆
徐々に減速した特急は、ついに停車し動かなくなった。
終点である。それを除けばただひたすらに田舎であった。
さて予定なら、今しがた探し人がここについたはずなのだが。
「おぅ、従姉妹。久しいな」
「おぅ、従兄弟か。待ちくたびれた」
なんて考えていると探し人――もとい従兄弟殿が現れたので、挨拶ついで嘘を押し付ける。
「ハッハ、嘘つけ。今着いたとこだろうが」
対し従兄弟は華麗にその嘘を見抜いてみせた。
この男、齢にして二十代前半。歳が四つは離れていたか。
浅黒い肌にそこそこ逞しい肉体が特徴だ。頭は何を思ったか丸く短く刈っていて、そのハゲかかった頭髪に拍車をかけている。
「まったくお前は、何を好んでわざわざこんなとこまで来たんだ従姉妹。夏はまだまだこれから本番だろうが」
「やかましい。都会が嫌いなだけだ、それにこんなところにわざわざ住んでいる物好きはどこのどいつだ従兄弟。さっさと家まで車に乗せろ」
へいへいと承諾した従兄弟の車の助手席に乗り込む。道中従兄弟は私の好きな90年代の曲を延々とかけてくれたので、私の機嫌はずいぶんと良くなった。
以下は車内の会話である。
「まったく従姉妹、お前と言う奴は。毎年夏休みになればこっちに来るじゃないか。俺としては嬉しいが、恋人の一人でも作ったらどうなんだ」
「えぇいやかましい。皆が皆私のような根暗者に寄り付かんだけだ。まったく。私がその気になれば恋人などちょちょいのちょいやと言うものだ」
「へいへいそうかい。だったらこの夏休みに本気になってはどうなんだい」
「誰がそんな。馬鹿か貴様は、私は他人に本気は出さんよ」
「そんな性格だったか」
「こんな性分でしたとも」
「無い胸張るな馬鹿」
「言うな阿呆。悲しくなる」
「そういえば髪伸びたな」
「ふふん。伸ばしたのだ。如何せん切りに出るのが面倒でな」
「つまり降り積もった面倒の集大成か。おのれ綺麗だと思った自分が馬鹿みたいじゃないか」
「ふふん。しかし面倒ついでに綺麗に育ててやったのだ。褒められて当然というものさ」
「…………想い人でもできたのか?」
「……やかましい」
それきり二人は黙ったまま。
従兄弟の車は一軒家の前で動きを停めた。
毎年思うことだがまぁ、ずいぶんとこの従兄弟にしてはどでかい家だ。よく手を出した。いや、よくぞ手を出した。そのおかげで毎年泊まりに来れるというものだ。こればかりは感謝しなくては。
「今年も今年とて、えらく少ない荷物だな」
「いやはや、貴様は私が大層な荷物を持ってくると思っていたのか? 阿呆め、ここに来るのに要るのは衣服と財布と紙とペンだけだ」
「いや、土産は」
「ない」
「はあ……」
従兄弟は呆れたようにため息を吐いた。
ひょいと何気なく私の荷物を強奪し、従兄弟は玄関を開け中に入る。私も急いでそのあとを追う。
そういえば、時刻はすでに夕暮れだ。
「まぁ、遠路はるばるご苦労。適当に居間でくつろぎな」
「お言葉に甘えよう」
開け放たれた窓からは、夏特有の少し温い風が吹いていた。これでも都会よりははるかに涼しいもので、畳の上に寝転がりながらうたた寝するにはもってこいな心地よさを演出していた。
そんなわけで私はその演出に乗ることにした。
◆◆◆◆◆◆
おはようなんて声をかけられた頃にはすっかり日は落ちていた。
言わずもがな夕飯の時間だ。
「ふむ……」
どうやらすでに配膳まで済ましてある。
「申し訳ない」
「いやまぁ、客人なんだから図々しくしてて構わないんだが」
「面目ない」
で、こう言ってはなんだが、図々しくも私の前にはビール缶が何本か置かれていた。
私はうら若き十七の乙女だ。
なんと驚くべきことに、最近の乙女は未成年飲酒もこなすのだ。犯罪だなんて硬いことは言わないで欲しい。夏休みにしかやらないし。
「ま、ま、今宵はまずぐいっと一杯」
「ありがたい従兄弟殿」
ビールの注がれたグラスで乾杯してから、二人で一気にぐいと飲む。
あーいい気分だ。
「料理の腕を上げたな従兄弟。うまい」
「どうも。今年で一人暮らし三年になるな」
「貴様も独り身か。おのれ生意気にも私の恋路を気にかけおってけしからん。彼女の一人でも作ってみせろ」
贅沢煮をつつきながら私は従兄弟に問いかけた。
「何を従姉妹め。俺は一人の時間が好きだから彼女などいらん」
すると負け惜しみが返ってきた。好きなものも満喫しすぎると飽きるというものだ。
「従姉妹と違って俺には人が寄り付くからな」
「まったくもってけしからん!」
「ふはは、妬くな妬くな」
「妬いてない!」
馬鹿にするな。
「して従姉妹」
「なんじゃい」
「明日はどうするんだ」
「出掛けるかな。海の見学にでも。――今年の夏祭りはいつだ?」
「えーっと……祭りはたしか一週間後かな」
ふむ、一週間後の夜は祭りか。それまでは時間がたっぷりとある。
「明後日はいっしょに出掛けるか?」
「いいの?」
「ああ。俺も丁度暇しててな」
「万年暇、の間違いじゃないのか?」
「じゃかぁしい」
明後日はお楽しみだな。期待しておこう。
私のグラスにはまた並々とビールが注がれた。缶はすっかりすっからかんである。
「学校には行ってるか?」
「いやまぁ、極力行くようにはしているが忙しくてな?」
「ふーむ。つまり今年もまた詰まりに詰まったと」
「そういうことになる」
まぁ大丈夫だろう。家には書き置きを残してある。
「ま、今年もゆっくりして行きんしゃい」
「そうさせてもらうよ」
夏の夜は、都会でも、田舎でも、同じように過ぎていく。
◆◆◆◆◆◆
ほんの少し飲みすぎたかもしれない。外に出て酔いを覚ますことにしよう。
こんな田舎だが徒歩数分のところにコンビニがある。中々便利な世の中だ。
そんなわけで私は田舎道をよたよたと歩いていた。
これは道中の出来事である。
家から程よく距離が置かれた地点で、私は一人の少女を見た。
――というのも本当にただ見つめていただけで、私はしばらく声をかけなかったのだ。
要するにぼーっと見ていたのだ。アホヅラ晒して。
「……?」
それは不思議な少女だった。
Tシャツを着て、短パンを履いた、白い肌の、同じくらいの身長をした、なんとなく年下のような少女。
そんな少女が横に結った髪を夜風に揺らして、その大きめの瞳で空を仰いでいた。
私はアホヅラを晒しながら、ぼーっとながらこう思った。
――綺麗な人だ。
サンダル履いてジャージの上に、アホヅラ晒した私とは比べ物にならないくらい、その少女は美しかった。筆舌に尽くし難いので書かないが、私はたぶん心奪われたのだろう。
私はその、空を仰ぐの少女にすべてを奪われてしまったように感じて――まるで、彼女を見つめる機能以外、我が聡明な頭脳は一時だけ、忘れ去ってしまってのだ。
私は黙って彼女を見つめる。
風が山を撫でて降りてくる。
彼女は突風に乱れた髪を押さえた。
目にかかった髪が気にならないほど、美しいその様に。
私はほぅとため息をついた。
彼女は星を仰ぐのをやめてため息をついた。
それからコンビニに背を向けて。
不意に私と目を向けた。
――夢を見ているのだと思った。
街灯が照らす、無機質なコンクリートの道だけが、切り取られてしまったような。
そんな狭い光の中だけが、そこにいる二人だけが、まるでなにもかもになってしまったかのような。
そんな不思議な錯覚の中で。
世界はぼんやりしているはずなのに、なぜだか彼女の瞳だけ、はっきり捉えることができる。
黒い瞳。小さな顔に、不釣合いなほど大きな目。二つのそれらが二つとも、私にまっすぐ向かっているというのだから性質が悪い。
私はすっかり彼女に見つめられていることすら忘れてしまって、二つの黒い光によって金縛りにされてしまったかのようで、私は彼女のその黒い大きな瞳が、どうやら私を拘束するような、そういう一種の不思議な力を帯びていることに気が付いた。
だから声かけようとか下心丸出しの考えが顔を出したのはその少しあとだ。
「あのー……一体何をしていらっしゃる?」
言い訳させてもらうなら、その時の私は酔っていた。だからこの――まぁいいや。
とにかく私の声に、その少女は反応した。
「え? あ……」
見られていたことに驚いたようで、少女の顔は恥ずかしげに上気していく。
こりゃホンマ勃起モンやでぇ……。
「あの、その……星が綺麗だなって」
「ああたしかに。都会じゃ中々見られませんからね」
するとなんだ? この子はずっと星を見ていたと? 首痛くないのか?
「ええ、本当に。こんなにいい場所には始めて来ました」
「はぁ、ここがいい場所ですか」
とてもそうは思えないが。しかしこの少女が言うのならこの子にとってはそうなんだろう。
「毎年毎年来てるとね……薄れるもんですよ」
「毎年、ですか」
「ええ、まぁ。筋金入りの暇人ですから」
それにしてもここでは始めて見る顔だ。たまたま今年の旅行先がここだったとしたら、まぁそれは気の毒なもんだが。
「あの……もしかして、この土地にお詳しいとか……あります?」
「そりゃ、そこそこに。何せ毎年来てますからね」
……なんだか嫌な予感がする。
嫌な予感というものは、どういうわけかよく当たる。そしてそれは今回にも――
「じゃあ! 案内してくれますか?」
――やっぱりなぁ。
「案内ですか」
「はい。あの……嫌ならいいんです」
「あいや、嫌というわけではないんですがね」
嫌な予感は的中した。なんでかなぁ、なんでこういうのばかり勘がいいのだろう。中々悩む。
「その……予定と言いますか。今日はもうすっかり夜も更けておりますし、明日など」どうでしょう。言いかけた私よりも先に答えたのは眼前の美少女で。
「じゃあ! 明日の……そうですね……朝九時またここに来ていただけますか?」
「はー……明日の九時……」
予定はなかったはずだが。にしても、ちーと早くはないかねお嬢さん。
しかしまぁ……いいだろう。下手に遅く起きてもその日のやる気が削がれるだけだし。
「承知いたした」
そんなわけで、私はその美少女と、明日の約束を交わしたのであった。
◆◆◆◆◆◆
「ぐあああああ」
家に帰った私は突然として猛烈な死にたさに襲われた。
主な原因は美少女に話しかけたことにある。
「どうした従姉妹……らしくはあるが」
「ぬううう、どうしたものか……なんというか猛烈に死にたい」
「おぅしやってやろう。如何様な死に方がお望みだ」
「阿呆冗談が分からんのか妖怪若禿げ」
「よし貴様は擽りの刑に処す」
「やめんか阿呆! 冗談が分からんか、いや、やめ、ちょ、うわやめんか貴様! うら若き乙女の柔肌にうわはは、何をするいひひひ!」
「なにくそ、誰が好き好んで禿げるというのか! ええいなんと無慈悲な世の中か! 南無三! 南無三!」
「やめろ阿呆! 離れろ阿呆! ぐははは! うくく、やめい! やめい! やめだやめだ! 妖怪若禿げは撤回しよう!」
くそこやつ、調子にのりおってからに。そういえば私が擽りに弱いとバレたのは何年前だったかな。
そんなことはどうでもいい。
「従兄弟、従兄弟。私はどうするべきだと思う」
「それは分からん従姉妹よ。何せ何があってそうなったのか一言も話してないからな」
「そういえばそうか。ならそれでいいありがとう」
「教えてくれないのか?」
「教えないとも」
教えられるわけがない。まったく我ながらどれだけ自分らしくないことをしたのか。自覚はあるが昔の自分はもう責められないし変えられない。いやはやまったく時間とは無慈悲だな。
「くそぅ……もういい、寝る。今日はこれにてお開きだ。二次会はやらん。寝る寝る」
「従姉妹が言うなら仕方ない。今日は一人で飲むとしよう」
「そうしてくれたまえ、従兄弟殿」
さてもう寝よう。本当に疲れた。
「そうそう」
「どうした従姉妹」
「明日は七時に起こしてくれ」
「承知した」
◆◆◆◆◆◆
朝である。なんと起きたのは予定より1時間も早い朝六時のことだった。……自分はよほど緊張しているらしい。
しばらく天井を眺めていると、遠くの方で何やら滑るような音がするのに気がついた。
時間帯からして、従兄弟は工房か。
特にすることも思いつかないのでとてとてと工房の方へ足を向ける。案の定、従兄弟は木にかんなをかけていた。
「お早いな従兄弟」
「おぉ、従姉妹か。そちらこそ早いな」
シュッ、なんて凛々しい音と共に、薄っぺらな木くずが飛び出した。
「らしくもない。ここに来れば昼まで夢の中と相場で決まっていたのに」
「用事だ用事。それ以外にはない」
「その用事が気になるな」
金槌で刃を叩き、従兄弟は私に一瞥もくれない。言葉はかけても、どうやら作業の方に集中しているようだ。
「そんな気にかけなくとも……」
「デートかね?」
「は!? 誰がそんな!」
「そりゃそうか」
見え見えの動揺も、どうやら今は従兄弟にとってどうでもいいらしい。木の相手がそんなに忙しいか。ともかくバレなくて良かった――いや、何を安心しているんだろう。何も隠すようなことはしていないのに。
「して従姉妹。朝飯まで時間もあることだ、先にシャワー浴びてこいよ」
「な……」
「やましい意味は微塵もないぞ」
「分かっとるわ!」
◆◆◆◆◆◆
そういえば昨日シャワーを浴びてなかったな。
さっぱりした。ちなみに過去系だ。
「ふー……従兄弟、あがったぞ」
「お前……下着同然でうろちょろするな。早く服を着ろ服を」
「ん? なんだ欲情したのかこの私に。どうだどうだ魅力的か? ん? どの辺にエロスを感じずにはいられない?」
「あのなぁ、家に下着姿の変質者をあげる物好きがいるか?」
「おらん」
「だろ?」
「うん。正論だな」
ひどく興が削がれた。
「あードライヤーだがな、お前の部屋に置いてある。何せ縁のない代物だしな……脱衣所に置く気にならなんだ」
「ふふん。丸刈りの貴様に文明の利器は使えまい?」
早く乾かさなければ。せっかくここまで育てた黒髪なのだから無駄にするわけにはいかない。……それに今日は、特別見せたい相手がいる。
「そんじゃ……あー、急ぐのか?」
「何がだ」
「予定だよ」
「あぁ――うん、急ぐな、確かに。八時の半には家を出る」
「して、昼はどうする」
「……考えてない」
「丁度いい。弁当を持っていくがいいさ」
「感謝する」
「ではシャワーを浴びてくる。先に飯の前準備を頼んだぞ」
従兄弟は一つ欠伸をして、鈍い足取りで工房を後にした。
◆◆◆◆◆◆
「ふーむ、どうも怪しい。何かが怪しい。如何にも怪しい」
「な、なんだ。何が怪しい」
「そわそわ、そわそわと。一体全体どうかしたか。飯は落ち着いて食え従姉妹」
「やかましいぞ従兄弟。つまりそれは、私がのっぴきならない状況であることの他ならぬ暗示ではないか」
「だからつまりだな、そののっぴきならない状況を作り出しているのは何なのかということをだな」
「教えぬと言ったろ」
まぁ、この従兄弟にとって、そわそわの正体を見抜くことなど文字通り朝飯前だろう――実際朝飯前に見抜かれたし。
「はー……まぁ、もう十七のお前さんをそこまで監視するつもりはないんだがね。如何せん、心配症なたちでな。無茶はするなよ?」
「……心得てるよ」
完結できたらいいなあ。
もちろん完結させる意気込みでやります