第五節 日常の敷居
いつものように混み合っている電車に揺られている間、サナリは窮屈そうに網棚に座っていた。このぎゅうぎゅうに詰まった人だかりのうち、自分を除いて誰もこのシュールな光景を見れていないというのは、かなり不思議な感じがする。
どうしてそんな妙なところに居るかといえば、「人に限らず、なにかものと重なるのはあんまり好きじゃない」かららしい。かといって、網棚に載るのもかなり見た目的に際どいと思う。だが、注意するために口を開けば、周りの乗客から白眼視されることは間違いないため、隼は極力携帯の画面を見るようにしていた。
なんとなく、衣桜にメールでも送ろうと思ったが、内容が思いつかなかったのでやめた。大体、メールのやり取りは夜にすることが多いし、無理に送らずともその時になれば自然と文通は始まっていたりする。
結局いつものようにニュースサイトを巡っていると、目的の駅まで到達した。今日はやけに電車に乗っている長く感じた。
この駅は緋伊庭高校を始めとした学校がある以外は、普通のベッドタウンとしてあるのみなので、電車から降りてくるのはほとんどが制服姿の学生ばかりだ。
隼はその中に見知った顔を見つけた。
「石地」
「……あ、井代君か」
石地恭也はびっくりとした顔を隼に向けた。顔を半分ほど隠すほど長い前髪と、丸い眼鏡が似合う細い顔立ちの男子だ。
そのほとんど唯一の接点というのは、英太がよく主宰する、放課後に適当な空き教室に集っては、適当に手持ちのもので遊ぶというところに顔をだすというところである。昨日はライフすごろくとかいう、大掛かりなものだったが普段は手軽なゲームなどをする。
知識は英太が凄まじいヘッドハンティングで引き入れたのだが、恭也は隼が引き入れた。無論、英太のような超場当たり的な勧誘とかではなく、孤立気味だった彼を隼が誘ったのだ。今では、前と比べて明るくなって、友達も増えたらしい。
「珍しいね、こんな時間にいるなんて」
改札を出て、恭也が言った。いつもはもっと早い時間の電車に乗っているために、もしダイヤが乱れでもしたら遅刻しかねない時間帯に来るのはほとんど初めてだ。
「昨日は夜更かししてな。朝起きたらこんな時間だ」
「へえ……僕は夜更かししなくてもこんな時間だよ」
恭也の半ば自嘲気味な物言いに、隼は軽く笑った。
「まぁ、それも羨ましいな。思い切り一日を寝潰してみるってことがしてみたくなる……まあ、大学生になってからでいいけど」
「徹夜とかすれば普通に翌日そんな感じになるけどね」
「お前はしたことあるのか?」
「まあ、月一くらいかな……、あ、そういえばさ」
さらりと、隼にとっては瞠目に値する発言をしてから、恭也は思い出したように、
「うちの部活で面白いボードゲーム仕入れたんだけどさ、やらない?」
「……いや、あのな、言っておくが俺がやりたくて遊んでるわけじゃないぞ」
隼は渋面を作ってそう言った。あれは英太が無理やり乗せてくるだけであって、隼としてはさっさと帰りたいところを付き合ってやっているだけだ。それがどうも、暇な生徒が集まってわいわい遊んでいる、非公式で惰性的な部活動として認識されることが多々ある。
恭也はそんな勘違いをしているうちの筆頭だ。
「いや、絶対に面白いって! だから、今日の放課後みんなで行くから待ってて!」
新しいゲームを買った子供そのまんまな誘い文句だが、しかし気の弱かった恭也がここまで言ってくるようになったのだから、それだけ信用されているということだ。
隼は嬉しくもあったものの、今の状況にあっては、面倒くさいというのが正直なところ。
「いや、今日は寄り道したいところがあって早めに学校を出る必要があるんだ。悪いが英太を相手にしてくれ」
「そう……、じゃあ明日はきっとね」
残念そうな恭也の顔を見ながら、隼は「え?」と思わず口走りそうになった。それを抑えたのは、文脈的におかしくなるから、とかいうとても理性的なものだったが、口に出そうになった理由はその文脈が勝手に出来上がったから。
今の言い訳は自分が言ったのだろうか?
さっきまでの流れでは、確実に隼は嫌々ながらゲームに参加させられることになっただろう。いつもなら、それがお決まりのパターンであって、逆に恭也や英太が隼にそういう誘いをもたらす理由になっていたりする。
だが、今、自分でその流れを断ち切ったのだ。まるで演劇を見ているかのように、そんな自分の台詞も相手の反応も、遠くから見ているような心地がした。
ふと、サナリが申し訳なさそうな顔をして、近くを歩いているのに気がついた。
隼はそれを見て、なんとなく今の不自然さを納得することができた。
もしかしたら、一時的に身体を、いや口と舌だけ乗っ取られて、今の言い分を言わされたのかも知れない。そうしたら、このサナリの、勝手に使ってごめんなさい、と言わんばかりの首のすくめ具合に納得がいく。
「あ、ああ、明日はな……」
隼は歯切れ悪く、恭也へ返事をした。
どうしてか、自分の声に違和感を感じざるを得なかった。本当に、この声は自分のものなのだろうか、と。
「ああ、もしもし」
隼は空いたベンチに腰掛け、通じていない携帯を耳に押し当てて、言った。
昼休みの中庭は、昼食を楽しく食べようと目論む結構な人数の生徒があちこちにいるお陰で、賑やかな学校の様子としては申し分のない景色になっている。
その隅っこで、隼が電源の落ちた携帯相手に喋っているのは、自然にサナリと会話するために他ならない。
「とりあえず、今朝、何をしたのか教えてくれ」
「ええ、えっと……」
サナリは別に頼んでもいないのに、地べたに正座していて、隼を見上げて言った。
「あなたが私の能力を使えるみたいに、私もあなたの身体をちょっと使うことができるんです」
ある意味この契約は、お互いフェアなところがあるから、そういう権利があってもおかしくない。
「……それで、俺にあんなことを?」
隼は訊ねた。
あんなこと、とは恭也の誘いを断ったこと。まあ、それで深刻な被害が出たという訳ではないが、その真意を知っておきたい。
サナリは勝手にその権限を行使したことを、よほど申し訳なく思っているらしく、そのまんま叱られている子どものような顔で頷いた。
「えっと……今日は、ちょっと顔を出しておきたいところがあるので……」
「……実界にあるところだよな?」
「は、はい、もちろんです。えと、も、もう契約を結んでしまった私は、この契がある限りもう冥界に戻ることはできないので……」
それは隼の念押しを裏付けるための情報だろう。それが本当のことならば、サナリはもう冥界での孤独とは、隼が死ぬまで無縁の生活ができることになる。
即ち、生涯サナリと共に生きることになる。サナリと隼と、二人分の意識があってこそこの身体が機能しているということは、ほぼ一心同体で暮らしていくということだ。
──そんな身体で本当に、自分は真っ当に死ねるのだろうか、という一抹の不安は拭えない。
とにかく、サナリは今日の放課後、行きたいところがあるらしい。恭也を適当な理由で突っぱねたわけではない、ということが分かってホッとする。
「なるほどな。で、どこに行く?」
「契約者達が憩う、支部と呼ばれる場所です。幽霊と契約した人は、それぞれの地区にあるそこへ挨拶にいかなければいけないのです……」
「……そんなに契約者って、数がいるのか?」
「まあ……一応、一生ものの契約ですし……、数が少ないとはいえ認識してくれる人を求めて彷徨う幽霊は無数に居ますから……」
なるほど、と思いつつ、見るからにおどおどとこちらの様子を窺うサナリを見ていると、なんだかこちらの居心地も悪くなってくる。
「それについては分かった。それで、えーっとな……」
隼は前髪をいじりながら言った。
「お前、俺にはもっとフレンドリーにしてくれ、って言ってたけど、俺もお前にもっとフレンドリーに接してもらいたいんだが……?」
「は、はあ……で、でも……私は、死者ですし……」
サナリは背中を丸めて、両手の指をうじうじとつけたり離してしている。そのままにして置いたら、風に吹かれて消えてしまいそうな感じだ。
隼は身を乗り出して、まっすぐサナリを見て言う。
「いや……この際、死者とかそういうのは良いだろ。そもそも俺と契約した時点でもう冥界に戻れないなら、生きてるも同然じゃないか。だから、もうちょっと……遠慮無く、というか、気兼ねなくしてもらえると嬉しい」
「……はい」
目をパチパチさせながら、サナリは頷く。
そんな風に言われたところで、ずっと持ってきた意識がすぐに変わると思えないだろうとは思う。特に生者から死者なんていう不可逆な経験をしてしまった彼女にとって、その難しさは想像がつかない。
お前に何が分かる、なんて言われてもしょうがないと、隼は言った後から後悔し始めたが、サナリは意外にも柔らかく笑ったのだった。
「……良い人ですね」
「……まあ、お人好しではあるな」
段々恥ずかしくなってきたので、隼は視線を逸らしながら自嘲気味に答える。
「あなたで、良かったです」
だが直後に、極めつけと言わんばかりに、そんなことを言われてしまったので、隼は電話を切る素振りをしてからさっと立ち上がった。
中庭はさっきよりも賑やかになっていて、あちこちから笑い声も聞こえてくる。
そのうちのどれかが、サナリのもののような気がしてならなかったのは、きっとそれだけ彼女の言葉が身に沁みたからだろう。
隼は教室へ歩いて行きながら、そんな風に思った。
すぐに、その日の放課後になった。
隼はさっさと荷物をまとめて、サナリが言っていた契約者達の憩いの場とやらに行く準備をしていた。
そこに声が掛かったのは、果たして、と言うべきか。
「よう、ジュン」
下野英太が手ぶらで準のもとにやってきた。クラスも違うのにご苦労なことだ。
「なんだよ。今日は早く帰るから付き合わないぞ」
「そう石地から聞いてな、これはマズイと思って来たんだよ。今日、どうしても伝えたいことがあってな!」
伝えたいことがあるなら、携帯でメールなりなんなりをすればいいのに、直に来たということはきっとろくでもないことに違いない。
隼が良くない予感を抱えている目の前で、英太はバッとトランプを取り出して、
「どうしても帰りたかったら、俺とババ抜きで倒してから行け!」
案の定、謎の宣言。
「何でだよ、さっさと通してくれ」
「いや、聞けって。昨晩眠れなくてさ、だから俺の半生を回想してみたんだけど、お前にババ抜きで勝ったシーンが見当たらなくて……これはマズイ! ってなったんだ」
「そもそも、お前とババ抜きをした記憶が無いんだが」
「あー、だからか……って、それじゃ尚更ダメだ! 墓場に持っていく思い出は一つでも多いほうがいいからな!」
「どうせ明後日には忘れてるクセに」
隼の意見などお構いなしに、もう既に英太は隼の机に二つのトランプの山を分けている。ここで強引に断って帰ったら、後日どんな面倒を背負わされるかわかったものではない。
わざとらしく溜息を吐いてから、少し待っててくれ、と目配せをするつもりで、隼はそっとサナリの方を見た。
サナリはロッカーに座って、退屈そうにあくびをしていた。
それから、隼の視線に気づいて、
「あっ……み、見ましたか……」
なんて、恥ずかしそうにしている。
今度は素で溜息が出てきた。溜息を吐くごとに幸せが逃げる、という迷信が本当ならば、是非とも逃げた分をサナリに捕まえてきてほしいものだ。
隼は観念して、英太と机を挟んむように座り、カードが配られるのを待った。教室は既に閑散としていて、立ち話をしている女子達から好奇の視線を向けられているのが気になる。そう珍しいことでもないので、すぐに飽いてくれるだろうが。
隼は配られたカードの中身を見て、初めの儀式を始めた。二人でやっているのため手札が分厚いぶん、調子良く捨てられる。
そこへ、サナリが様子を窺うように寄ってきた。英太にそれが見えたなら、喜び勇んで一緒にやるよう猛烈に勧誘するんだろうが、生憎とサナリはカードを持つことはできない。
そういえば、サナリが使わせてくれる超常のうちに、透視があった。それを使えばさっさとこのゲームの片が付きそうなので、テストがてらに使っても良いのでは。
「……」
そのことをサナリに伝えようと、危うく口を開きかけた。
「ん? どうした?」
英太は隼のそんな様子に目敏く気がついて、
「あ、もしかしてそのままアガリか! 不戦勝は認めんぞ!」
「い、いや違う、なんでもない」
隼は慌てて言い直した。あまりにも自然にサナリが居るものだから、つい言葉を発してしまいそうになる。そして当のサナリが不思議そうに首を傾げているのだから、救われない。
「言わなくても心で強く念じるだけでも平気です」と言っていたのをすぐに思い出したので、隼は半信半疑に念じてみると、サナリはすぐにハッとしたように手を口に当てて、急に責任感を帯びたような顔つきになって頷いた。
「よし、じゃあ、ジャンケンだな」
英太にそう言われて、隼は急いでそちらへ意識を戻す。
そして、思わず笑いそうになった。
英太の持つ手札はすべて裏表逆で、こちら側に全て中身が見えてしまっている……ように見えたのだ。それなのに、秘密を隠せていると信じ込んでいる英太の姿は凄まじくおかしいように映る。
何とかそう思ってることを悟られずに、隼はジャンケンに勝利してゲームが始まる。
が、どれがいいか、と言わんばかりに公開されたカードをずらりと並べてくるのだから、負ける要素が一切ない。
隼は適当に接待してやるような具合で遊んでから、さっさとそのゲームを片付けてしまった。
「な、何ー! やっぱり負けるのかー! やはり俺は永遠の二番手なのかー!」
「そうかもな。そんじゃ、俺は帰るぞ」
謎の三文芝居をする英太を尻目に、隼は荷物をまとめて立ち上がる。
「あ、そうそう……、石地がなんか新しいゲーム抱えて来るらしいぞ」
「あー、聞いた聞いた。んじゃ、俺は一人寂しくそれを大人しく待つとするかなー」
英太はあっけらかんと言い放って、隼が座っていた椅子にドカッと座り直し、机の上に散らばるカードを集めてシャッフルし始める。この男ほど寂しいという字面が似合わない人間は居ないのではないかと思うが、それを言うことは藪を突ついて蛇を出すことに変わりがない。
結局何の声もかけずに教室を出ると、サナリがいたずらを成功させた子どものような笑みを浮かべて立っていた。
「どうですか!」
「面白かった」
小さな声で呟くように答えて、その脇を通り過ぎる。立ち止まるのは周りから見て不自然だと思ったからだ。
「ですよね、私も面白かったです」
くすくすと笑いながらついてくるサナリは、とても楽しそうだった。
なるほど、こんなとんでもない能力の代償が、こんな単純なことに吊り合うのも尤もなことだ、と隼はそんな反応を見て思う。純粋な意味での孤独を知る者だからこそ、こんな楽しそうな様を見せることができる。普通に生きている人間ならば、こうはいかない。もっと下賤な笑みを浮かべることだろう。
そんなことを思いながら下駄箱の前まで来たところで、隼は佐々江知識を見つけた。
「よう」
「……あっ」
軽く声を掛けたつもりだったが、知識は想像以上に驚いたようだった。身をすくめて、丸くした目をこちらへ向けてくる。
それから、少し目を泳がせた後に口を開いた。
「帰るの?」
「ああ。お前は?」
「……図書館に、行こうと思って」
何故か、いつもより知識の言葉の歯切れが悪いような気がした。何か嫌なことでもあったのだろうか。
「英太なら、俺のクラスに居座ってるぞ」
「──えっ」
「用が済んだら、行ってみるといい。喜んでゲームに混ぜてくれるぞ」
フォローのつもりでそんなことを言うと、知識は一瞬きょとんとした顔になったが、すぐに少しいじけたような表情になる。
「ゲームはいいんだけど、別に下野は、どうでもいい、かな……」
言葉の末にはもう完全にそっぽを向いていた。
隼は内心で苦笑しながら、
「そうか。ま、その辺は気分に任せてくれ。そんじゃ」
「うん、じゃあね」
知識はやや早口に言うと、踵を返して図書館の方へ歩いて行った。きっとあの調子だと、なんだかんだ言って英太のところへ行くことだろう。
「そんじゃ……、行くとするか」
隼は靴を履き校舎を出て、傾きつつある陽を見上げながら言った。




