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第四節 半身の身体

 目が覚めると、強烈な朝日に目が眩んだ。どうやらカーテンを閉めるのを忘れていたようだ。春の陽射しとはいえ、束になって寝ぼけた眼に飛び込んでくると痛みを感じるほどだ。

 時計を見ると七時少し前だった。普通の高校生なら普通の起床時間だろうが、六時にはコンスタントに起きる隼にとっては遅い起床だ。いつものように悠々と朝を過ごしたかったが、今日は急ぐ必要があるらしくうんざりした。

 ベッドを下りながら、それにしてもどうして今日は遅く起きてしまったのか、とぼんやりと思った次の瞬間、昨夜の出来事が脳裏に蘇ってきた。

 幽霊サナリとの『契約』。

 隼は部屋の中をざっと見渡した。あの頼りなさそうな少女の姿は無い。

 ──彼女と話をしている間、ずっとこれは夢ではないかと半信半疑だったが、やはりそうだったのだろう。そうでなければやっぱりおかしい、幽霊なんて都合の良いものが、都合よく自分の目の前に現れるわけがない。話題の種として、或いは今後やらないであろう夢診断のネタとして、ひとつ、心に残しておいて、忘れたら忘れたで別に悔いもしないような、そんなものだったのだ。

 そんな心持で、少し憂鬱な朝を始めようとした矢先、どこからともなく小さな寝息のようなものが聞こえてきた。

 隼は固唾を飲んでまた部屋の見回したが、誰の姿もない。でも、誰かの息が聞こえる。

 幽霊はこの世の法則に縛られないと言っていた。だとしたら、ぱっと見て分かるはずもないような所、例えば床下だとか、壁の中にいるのかと思ったが、そんなところにいて寝息が聞こえるのはおかしくはないか。しかし、この世の法則を無視しているなら、逆にどこにいてもその吐息は耳に入ってくる?

 面倒くさい方向に進んだ思考を破棄して、隼はとりあえず動いた。

 ベッドの下を覗きこみ、次に勉強机の下を見て──、固まった。

 そこでは幽霊の少女がだらしなく横たわって熟睡していた。

 それだけでも、もう昨晩の夢の様な出来事が現実だとはっきりしたわけで、改めて驚愕と緊張とを味わうことになったのだが。

 あろうことか、彼女は一糸もまとっていない、生まれたままの姿だった。

 華奢な身体つきに色白な肌は、触れてしまったらそこから壊れてしまいそうな風で、扇情的というよりは芸術的なその裸体を前に、当然ながら隼は半ばパニックに陥った。もしや昨夜記憶の無い間になにか大変なことを、或いは大胆なことを? もしこれが家族に見つかったら……。

 いや、流石に落ち着け、と隼はすぐ我に返る。意味がわからないが、とりあえず机の下なんていうおかしい場所で寝ているところからして間違いは無いだろうし、第一幽霊なのだからほかの人が見ることはできない。

 とりあえずさっさと起こして、服を纏ってもらわねば。

 少し躊躇ったが、幽霊だし構わないだろうと思って、思い切り身体を揺すった。体感的には人のそれと変わらなく、温かみすら感じる。唐突に恥ずかしさが湧いてきたが、ここまで来て引き下がれないので続行した。

「朝だぞ、起きてくれ」

「……んー」

 サナリは不機嫌そうに声を上げて、薄く目を開いた。ここでガバっと起き上がられたら、サナリは平気でも隼が机の裏に頭をぶつけると思ったので、さっさと身を引く。

「あ……お、おはようございます……」

 やがて、すぐに頭が覚めたらしく目をパチパチさせながら、サナリは言った。

「おはよう。とりあえず服を着てくれ」

「えっ……、ふええっ!」

 隼が努めて平静に指摘すると、サナリは自分の格好に気づいて素っ頓狂な声を出した。それを見届ける前に隼は彼女が見えないところに移動して、未だ素早く脈打つ心臓を落ち着かせる。

「ええええ! ほんとに私、裸です! やだあああ!」

 朝から何をやってるんだか。

「あの、ごめんなさい……」

 少し後の、サナリの声に振り向くと、いかにも幽霊といった感じの真っ白な衣を着込んで立っていた。容姿は自由に決定できると言っていたので、おそらくはその延長線上で服装も自由にいじれるのだろう。

「で、なんで裸なんかで寝てたんだ」

 隼は当然行き着く疑問を口にした。サナリはひどく恥ずかしそうに、

「そ、それは……たぶん、気が緩んで……」

「気が緩んでって……」

 気分次第で勝手に容姿が変わってしまうとは、かなり不便な身分だ。

 少し呆れ気味の隼だったが、サナリは却って真面目な顔で主張してきた。

「は、裸って本来気持ち良いものなんです! 服なんて身体を拘束するものに過ぎません! だから、寝てる時に気持ちよくなってくると、自然と裸になってしまうんです。……この身体になってから、眠るときはずっとこうなってたみたいですが、別に認めてくれる人が居なかったので気づかなかったんです!」

 眠る時、裸になっていると教えてくれる人がいない、つまり不可抗力だと言いたいらしい。

 そこまで言葉が上手くなく、それでも言い繕おうと必死な様がどこか微笑ましかったので、隼は軽い口調で言った。

「それならずっと裸で居れば良い」

「えっ! ……えと……、それとこれとは、話がまた違います……」

 驚いて声を上げた後、顔を赤くして言葉を詰まらせる。大体予想通りの反応だった。

「まあ、俺も目のやりどころに困るから、できるだけ自重してくれると嬉しい」

「は、はい」

 サナリは素直に頷いた。

 話が一段落ついたところで、隼はさっさと学校へ行く準備をしなければいけないと思い出す。いつもより起床時間が遅いのだ、のんびりしていたら遅刻する。

「それで……どうも夢じゃなかったらしいな」

 隼はシャツを脱ぎながら、言った。サナリは質問に答えず、「ひゃっ」と女々しい声を上げて背中を向ける。

「……流石に寝間着のまま学校には行けないだろ」

「そ、そうです、わかってます……!」

 誰にも認められず世界を練り歩いてきた幽霊なら、自分が見られることはなくとも自分が見たことはあるだろうと、こういう場面にも耐性があると思っていたのに、そういう反応を取られるとこっちも困る。隼は急に気恥ずかしくなって、いつもよりも制服を着るスピードを上げることにした。

「……えっと、夢じゃない、とは?」

 顔を背けたまま、サナリが訊く。

「正直俺は昨日の出来事をずっと夢だと思っていた、けどどうもそうじゃないらしいってことだ」

「……今も、夢かも知れないですよ?」

 隼はYシャツを羽織りながらサナリの言葉を聞く。それもそうだ。眠りが覚めそうな時に見る、やけに濃度の濃い夢なのかもしれない。

「じゃあ夢から覚ましてくれ。このままだと寝坊して遅刻しそうだ」

「ええ……」

 ネクタイを締めながら、隼はサナリの背中が動揺するのを見た。それだけで、これは夢ではないと分かる。もし夢だったら、問答無用で頬に張り手を食らっていたとしてもおかしくない。

 そういう一連のやりとりを含めた隼なりの冗談だったのだが、サナリはどうも本気だったらしい。

「んーっと……、も、もう服を着ましたか?」

「……そう言われると俺が裸だったみたいだな……、まあ、少なくとも裸じゃない」

 隼が答えるとサナリはくるりと振り向いて、まるで子どもが遊園地で元気に闊歩するきぐるみにじゃれつくように、その身体を隼の身体にぴったりとくっつけてきた。そのまま自分の両腕を隼の片腕に絡める。

 突然の突飛な行動に、隼は表情も身体も硬くして眼球だけサナリの方へ向けた。二の腕あたりにある、サナリの目と視線が合う。いたずらをした相手の眼の色を窺うような顔。

「どうですか、夢ですか?」

「……夢みたいだ」

 かろうじてそれだけ口にする。ぴったりとくっついたサナリの身体は温かさがあるが、重さは感じられなかった。腕にかかるのは絡ませた腕の力だけで、なんだか妙な感覚だった。

 しかし隼の腕が感じるものは、それだけでなかった。彼女の身体をなぞる起伏さえもはっきりと伝わってきた。

 ──柔らかくしがみつくものの、圧倒的な質感が。

「……この通りです」

 隼の顔が紅潮しきる直前に、サナリはそう言って身体から離れた。なんだか嬉しいような残念なような、複雑な気分になる。

「な、何がこの通りだって?」

 隼は落ち着いて口に出したつもりだったが、声は少しばかり震えていた。

「私の体温……感じてくれましたよね? これが、私とあなたが契約を交わした証」

 サナリはそう言いながら、隼の手を取る。隼なら片手で包み込めてしまうほど小さな手だったが、その温もりははっきりと『生』を主張している。

 その温かさと対照的に、隼の背中には冷たい汗が伝った。

 ──まさか、本当に幽霊と契約してしまったとは。

 すっかり夢のなかの話だと思って、軽く考えてしまっていた。こんな荒唐無稽な話を鵜呑みにするほど、隼はもう子どもではない。現実のものと確信していたら、すぐに結論を出さなかっただろう。

 しかし、仮にそうだったとして、果たして最終的な結論を自分はどうつけただろうか。

 不思議なことに、断るという気がしなかった。いつまでも決定をうやむやにし続けても、最後にはこの契約は結ばれる……そんな気がする。

 何故だろう。

 別に刺激的な毎日への憧れとか、退屈な日常に嫌気が差しているとか、そんなことは無い。この幽霊がもたらす能力も、あったら便利だとは思うがさして使い道が思いつかないから、自分にとってそれほど必要無いものなのだろう。

 そんなことを考えながらサナリの顔をじっと見ていると、彼女は小首を傾げた。

「夢じゃないって分かりました?」

 理屈で考えにくいことは、感情で考えると容易に解決できる。

「……ああ」

 半ばため息のような返事をして、隼は後ろを向くように指で合図した。サナリははっとしたふうに振り向く。

 制服のズボンを手に取りながら、なんとお人好しなことかと思った。

 至極簡単なことだ。自分のためではない。他ならぬこの幽霊のために、契約を結んだのだ。死してなお孤独の海を漂い続けてやっと掴んだこの機会を、隼の即物的な判断で退けるのはあまりにもサナリが可哀想だった。

 全くもってお人好しだ。

「じゃあ今の俺は、学校までワープできるってことか?」

 どんな感情の経緯があったにせよ、契約を結んだということは、そうした霊的な能力が使えるということ。動機がわかった次は、機能について知っておきたかった。

「えっと……一応、それはできますが、行けるのは生身だけですよ?」

 サナリは否定をしない。いよいよ本格的になってきたな、と隼は感じた。

「生身ってことは……あっちについたら裸になってるってことか?」

「いえ、服はもちろんついていきますよ、立派な身体の一部ですから。そうでなければ、私は常時裸ですよ!」

「……それと関係なく眠ってる時は常時裸らしいけど」

「その話はもうやめてください……」

 弱点をくすぐられているイヌのような情けない声でサナリは言った。

「で、服はついていくのに生身だけってどういうことだ」

 予想通りな反応を見届けた後に、ずれた話を隼はすぐに戻す。サナリはそれで本題を思い出したように、

「えっと、つまり荷物が持っていけないんです。学校に行くんですから教科書とか、ジャージの類は必要でしょう?」

「なるほどな」

 つまり、登下校はまあ良いとして、学校で忘れ物に気がついてもパッと取りに戻ることはできないということだ。なかなか現実は思うようにいかないらしい。まあ、それができてしまったら他の都合の良いことも大抵叶ってしまうはずだ。

 上手く出来てるな、と思いながら隼は着替えを終えると、教科書や筆記用具をカバンに突っ込んで支度を整えた。

「あんまり時間が無い。詳しい話は学校に行きがてら教えてくれ」

「は、はい!」

 サナリは慌てて振り向き、勢い良く言った。


「とりあえず、なんか超能力じみたことをする時は、私に言って下さい。あっ、言わなくても心で強く念じるだけでも平気です、たぶん……、それで、私が使用可能と判断したら使います。……けど、壁抜けとかワープとか派手なのは、傍からみたらかなりヤバい行為なので、できれば誰もいないところでやって欲しいです……」

 隼は小さく頷く。了解の合図だ。

 彼は今、駅までの道を歩いていて、その少し後ろをサナリが言うべきことを指折り数えながら説明している。

 隼がそれに返事をしないのは、無論人目を憚ってのこと。隼以外はサナリを認識することができないのだから、隼は会話をしているつもりでも独り言を言っているようにしか見えないことになる。幽霊じみたことをするのにも人目を気にするのは、同じような理由からだろう。

「その他、色々なステータスを私の力を介していじれます。容姿でいえば、背を高くしたり低くしたり、鼻を高くしたり低くしたり、もう同一性が破壊するくらい変更が効きますが……あんまりオススメしません。ちょっとイケメンになるくらいが良いんじゃないですかね?」

 その辺は適当にやってくれ。

「あと身体の中身もいじれます。例えば筋肉の量を増やしたり神経を強くしたり脳細胞を若返らせたり、そんな具合なことができるので、頭を良くしたり脚を速くしたりできます……が、これらのチカラはあんまり意志的に変えることができなくて、無意識に望んでいるような形へ漸進的に『進化』していくかたちになります」

 この辺りまで来ると、もはや作り話のように思えてならない。あまりにも荒唐無稽な、信じるのにはあまりにも都合が良すぎる話だ。

 つまるところ、自分がなりたい自分に自然と、何の努力もなしになれるということ。

 どんな力が働けば、そんな夢物語が実現するのか気になるところだが、生憎とサナリの言うそれがまだ真実と決まった訳ではない。信じるのは尚早だと思っていると、

「疑いますか?」

 そんな彼の心中を見透かすように、サナリは言った。

 隼は一瞬、ギョッとしたがなんとか顔に出ないようにして、また小さく頷く。ここで嘘をついてもすぐにバレてしまいそうだ。

「すぐに信じますよ……、あなたは勉学に対してかなり向上心があるようですから、きっとその方面の成長は今日中に実感できるはずです」

 それが本当なら、これはとてもいい契約だ、成立させて良かった、と手を打って賞賛すべきところだろう。

 隼がそんな気分になれなかったのは、この話のウマさがどうも引っかかるからだ。持ちかけた側も受けた側も、双方が現実として有り得ないほどの利益を授かっている。

 それがノーリスクということは絶対に有り得ない。確実に今後、何か代償の引き落としが待っている。

 隼はサナリにバレないように、こっそり胸の隅っこでそんな危惧をしていた。



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