最終節 紅蓮、蒼白、立ち返りて晦冥
原付が駆ける。向かう先は轟音の響く、道路の彼方だ。
いま、隼を後ろに乗せて原付を繰っているのはバイスだった。風を受けて、バタバタと黒いコートが暴れる。結構なスピードが出ているようだった。
創夏は再び日本刀を携えて、先にサナリの方へ向かっていた。コアを露出させるためだ。原付よりも走ったほうが速いなんてバカげてるが、そもそもこんな状況がバカげているのだ。隼は何も言わずに創夏を見送った。
「……ハンカチは持ってるか?」
バイスが訊ねてきた。隼は首を振る。
「なら俺のを使う。──なに、ゾンビみたいに雑な仕事はしない」
「……まあ、でも、どっちにしろあんま関係ないですよ」
「く、俺にはお前を日常に戻す義務がある。後のことも考えてもらわないと困るな」
やがて、『滓』が道路の端から姿を現した。さっき見た時と違って、脚の数が随分と減り尻尾もだらしなく垂れ下がっていた。『滓』も疲弊してきているのだろうか。だが、あの眼玉だけは相変わらずうろちょろとしていた。
その巨体と対峙している創夏は、ちらっとこちらを見て隼たちが近づいてきているのを認めると、颯爽と地面を蹴って日本刀を振りかざす。
「手筈通りだ」
バイスがくぐもった声で言う。まず創夏が脚と眼玉を動かす触手を切断して、バイスが隼をコアのところまで運ぶのだ。
大量のワイヤーがまとめて切断されたような硬い音を立てて、脚がバラバラと道路へと転がっていく。それにともなって『滓』はバランスを崩しながら失速し、やがて派手に地面を削るようにして倒れ伏した。
「私の出番終了ー!」
ぐるっと『滓』の図体を巡って脚の切断をしてきた創夏が、隼たちの方へ駆け寄ってきて日本刀をバイスに手渡した。鈍色の刀身はあんな硬そうな脚を何百と斬り伏せたというのに、ほとんど劣化が見られない。バイスはそれを握りこんで一振りすると、もう一方の空いている手で隼の腹をがっちりと掴んだ。
「う……」
「我慢しろ」
バイスはつれなく言う。実際、痛みは全くないのだが不可解な気持ち悪さはあった。そのよく分からない感覚に戸惑っているうちに、バイスは思い切り身を屈めると──大きく跳躍した。どこかのゲームの竜騎士みたいな大ジャンプだった。口を大きく開いたら心臓が遠くに飛んで行ってしまいそうだ。
「俺の背中に吐くなよ」
バイスに注意されて、隼はようやくこの気持ち悪さが吐き気であることに気が付いた。それはマズイな、と思い切りどこか虚空に向けて、喉の奥から叫びをぶちまける。流動する声は口腔を少し焼きながら飛び出て、この半端な世界のどこかへと消えていった。
着地の瞬間は割とすぐに訪れた。突然、無重力な感覚が消え失せて隼は投げ出される。べちゃっ、と背中が何かやわらかいものに落っこちた。
咳き込みながらあたりを見渡すと、もうそこは『滓』の体の上で、バイスがちょうどあの紫色の目玉を支える触手を根っこからぶった切ったところだった。
「こいつもそのうち再生してくるだろう。急ぐぞ」
刀身にこびりついた体液のようなものを払い落しながら、バイスが言った。切断された目玉は死んだセミみたいに地面に落ちてから少しばかりじたばたしたのち、おもちゃのようになった紫色の瞳を明後日の方向に向けて静止する。それを見ていると、さっきとは違った気持ち悪さ喉にこみあげてきた。
バイスはやがて、あの目玉が生えていた地点を刀で掘り始める。さっきまでの斬撃と違ってそれは美しいというには程遠いさまだったが、隼は黙ってみていた。
「く、遺跡の発掘作業みたいだな」
やがて、バイスは屈みこんでその穴を広げる。肉の避ける音がして、『滓』の身体が身悶えするように揺れた。隼は歩きにくいその身体の上をよたよたと歩き、バイスの方へと近寄る。
「……」
隼がその中身をのぞき込むと、そこには青色の物体が埋め込まれていた。ぶよぶよとしていて、何かに呼応するようにその表面が波打っている。
これが、サナリなのか?
バイスは刀を『滓』の肉体に突き刺すと、両手でその真黒なコートのポッケを探り始めた。
「お前がさっき言ったとおり、このコアの中は冥界に属している。実界に生きているお前が手を伸ばしたところで絶対に届かない」
「こっちの腕は折れてますしね」
隼はすっかり動かなくなった左手を見やって、言う。
バイスは手を止めて、
「で、本当にやるのか?」
「当然です」
「もし実界に戻れたら、お前はそのせいでハンデを負うことになる」
「構わないです」
「ふん……俺にもついに人を斬る時が来るとはな」
バイスは残念そうに呟いて隼のほうに近寄っていくと、ポケットから真っ白なハンカチを取り出した。普段着ている漆黒の衣装とのコントラストがあまりにも劇的なので、隼はその純白の布きれを凝視してしまう。バイスはそれを隼の左腕に巻きつけてきつく縛り、言った。
「さよならだな」
次の瞬間、黒い手袋が、刀の柄を掴んで引き抜いた。細く、鋭い音が短く響き、銀光が閃いて天へと舞い上がる。
「……あ」
隼がその刃につられて見上げると、そこで宙を舞っているのは──自分の左腕。
複雑なハンドサインを送っているかのように、でたらめに回転しながら空をさまよっている。やがて、自分の左腕のほうを見やるとそこにはもう何もついておらず、真っ赤な血がどぼどぼと滴り落ちていた。痛みはないが、それを見てさっき消し飛ばしたはずの吐き気がまたぐっとこみあげてくる。俺、やっぱり死ぬんじゃないか、と怖くなった。
「俺はあれをすぐ始末する。お前は……サナリの方に」
「わ……わかってます」
バイスは冷静にそう告げると、隼の片腕に向けて跳躍する。隼はそれを見届けないで、さっきバイスが開けた穴へと近づいていく。血がほとばしっていく感覚がとても不快だった。自分の中から、どんどん生きているという実感がどんどん抜けていく。頭も膜がかかったようで、視界がぼんやりとする。
もう既に目玉の再生は始まっていて、穴の脇から小さな眼球を乗せた触手の芽が顔を出していた。脚も生え揃ってきているようで、いまにもあの道を踏み鳴らす音が聞こえてきてもおかしくない。
隼は転ぶように『滓』の身体に倒れ伏すと、バイスが開けた穴の中に居座るその蒼白のコアに向かって身を乗り出す。
このコア自体は、サナリではない。隼はその波打ち振動する物体を見て、確信する。これは、サナリに渦巻いて奔流して噴出したありとあらゆる負の感情だ。それがこの粘性の檻になって、サナリを閉じ込めているんだ。
……いま、助けるぞ。
隼は深呼吸をして、そのコアに手を伸ばす。
右手ではなく、左手を、だ。
切断面から垂れる血液が青色の皮膚に滴り落ち、ぬるりと溜まっていく。それをみて隼はまた吐き気に襲われ、そのままこのコアに取り込まれてしまいそうな錯覚に陥る。
でも、絶対に──。
隼は奮起して、存在しない腕を存在しない少女に向けて伸ばし続けた。この後に死ぬとしても、例えこの血染めの手が拒否されたとしても、でも、今はこの手を伸ばさなければいけない。触れなければいけない。掴んでやらなければいけない。救ってやらなければいけない。サナリに、サナリを、サナリのために、衣桜のために!
と。
左手に、唐突に感触があった。腕を伸ばせば伸ばすほど、指先から掌、手首、そして腕へと感触が広がっていく。
──成功した。
……隼が初めて支部に赴いたとき、バイスは揚々と自分の身体について述べていた。死なない身体、それだけではなく一部分として決して失われることのない身体を自分は作った、と。その時に聞いたのが、失われた身体の部位の行き先についてだ。
『身体から離れた身体の部分、手とか脚とかいうのは、『死』んだものとして扱われる』
接合不可能なほど損傷すれば、その部位は冥界に召される。もう、戻ってこない。
──さっき斬り飛ばした隼の腕を、バイスが追い打ちをかけてさらにずたずたにしたのだ。その時点で左腕は冥界に属するものとなったのだ。
そして、今、隼の左腕は『滓』という半壊のなりそこない、つまり冥界からの使者の内部で実体を帯びている。実界に馴染めない『滓』の内部は冥界と変わらないのだ。だからこそ……隼はサナリに手を伸ばすことができる。
隼はコアの中を、必死に左腕で探り続けた。サナリの姿はどこにもなかった。でも、きっとここにいるはずだ。この『滓』は俺の感情がサナリに移って出来上がった化け物なんだから。でも、悠長にはやっていられない。目玉は徐々にその図体をでかくし始めているし、『滓』の身体の下では大量の脚がさんざめくのが聞こえてくる、そしてなによりこの穴が再生して塞がってしまう。
会いたい!
それだけの一心で隼はサナリを求め続ける。それはもう、ほとんど赤ん坊が母親を求めるのとたいして変わらない欲求だった。
「……!」
だが、つい深く腕を入れすぎて斬れていない健常な部分までコアの内部へ入れた瞬間、ひどい痛みがそこに走って隼は腕を引っこ抜いてしまった。
痛い、痛い……痛い!
「あああああああああ……!」
叫ばずにはいられなかった。一瞬で視界が曇って、涙が出てきた。そのまま意識が吹っ飛びそうになる。
「ああ……くそ、痛い、痛ぇよ……ああ……」
嫌な汗とともに口の中からぶっとい息が漏れてくる。ひぃひぃ、と喉が甲高く鳴る。尋常じゃない力で歯が噛み締められて、ガチガチとなった。隼はこらえきれずに穴の近くでうずくまる。
こんなに痛くなるなんて聞いてねえ……話が違うじゃないか……。
隼が身を引いたとたん、示し合わせたように青いコアを抱いていた穴の塞がる速度が上がる、身体のしたでうごめく脚が増えていく、芽が、隼の目の前で……大きくなっていく。
「──もうだめだ。死ぬ……」
隼は痛みに絶望を覚えながら喚いた。
……過去に何度、そう思ったことだろうか。マラソン大会で英太にけしかけられて数キロを全力疾走した時、熱にうなされていたせいで勉強がほとんどできない状態で臨んだテストの時、授業がプールの時に更衣室をちゃんと把握してなくて女子の方へいってしまった時……
そして、閏戸に戻ってきて、時木衣桜と会った、その晩。
──でも、そんなのはただの誇張に過ぎなかった。当たり前だ、日常に於いて死はいちばん遠くかけ離れたもので、いつもそこにあったら俺達は発狂して死んでしまう。
ということは、俺は生まれて初めて、真っ当に死と向き合ってるんだ。日常の中にある、誰もが口にできるような修辞でしかない死なんかじゃない、歴とした生の対極に存在する正真正銘の死の中で、俺達は対話していた。自分の死とも、衣桜の死とも。
これってさ。すごい幸せなことじゃないか? 大真面目に誰から突っ込まれることなく、二人きりで死と向き合っている。こんな素敵なことってあるか? ふつうに生きていて、こんなことがあり得るか? 同時に二人の人間の死、僕と君の二人の死をどちらも存在しない手で扱ってるんだぞ!
それはこんな痛いものなんだ。でも、痛くて当たり前なんだ。生きて、死ぬ、それが人間の一生だけど、それ自体がそれ自体で一個の大きな痛みなんだ。
でも、隼はその痛みに負けそうになっている。脂汗がだらだらと垂れ続けて、『滓』の身体へと雨のように降った。情けない。でも、痛すぎるんだ。俺達って普通に生きるだけで、こんなに痛いもんなんだ。これを知らない奴にはそれが痛みだって、わかりゃしない……
ふと。
穴の脇に生えていた触手の芽、その上に小さな目玉が乗っかっているが、それと、目が合った。濃い紫の瞳は、じっと耐えるようにして隼のことを見つめている。
涙を浮かべていた。
「……衣桜?」
隼はその瞬間、痛みを忘れてもう一度穴の前に這いつくばった。閉まりかけている穴を、右手と左肩でこじあけ、隙間に腕を伸ばす。
届け! 届いてくれ!
腕はやっぱり痛かった。コアに入れて尚、鋭利な棘だらけの手袋をはめられているように鋭く痛んだ。穴がだんだんと閉まってくる。アスファルトの胎動が聞こえてきた。このままでは挟まれて、『滓』の一部になってしまう。
それでもなお隼は、左腕をさまよわせ続ける。そこまで大きくないはずのコアを行ったり来たりして、時折手を止めて指をでたらめに動かしてみたり、大仰にあがいてみせたり、たまに何かに触れそうになる感覚に胸を躍らせ、でも結局それが実らないことに落胆をして……
──こんなふうに。
隼はそんな作業に講じながら、頭の片隅で思った。
俺が見つけるまで、あの小さな部屋でサナリはこんな風にさまよい続けていたんだろうか。
こんなにもつらくて痛くてもう嫌だと叫んで逃げ出したくて、でもやらないわけにはいかない、じっと踏ん張ってなければいけない。それが報われるのかも分からないのに。そんなことを、サナリは自分で望んでしていたというか。
そして、それを成し遂げたというのか。
「バカだよ……」
隼は震える声でぼやく。
「サナリ……衣桜……お前、バカだよ……、こんなにつらいのに、しんどいのに……バカだよ……本当に……」
そう言う、俺もバカだ。たぶん。この世界で一番、バカしている。まあ、この世界には俺しか居ないけど。
──隼が、歪んだ苦笑をした、その時だった。
ぐっ、と。
隼の左手に何かが触れた。
「……え」
誰かが確実な意思を持って、隼の手を掴んでいる。やさしく包み込むような、掴み方だった。
隼は息を止めて、それを逃さないようにゆっくりと腕を青白いコアから引き揚げる。手を、絶対に離さないように。
「サナリ……」
──サナリが、コアから隼の腕にしがみつくようにして、出てきた。一糸まとわぬ姿で全身は粘液のようなものでぐっしょりと濡れており、その眼を静かに瞑っている。コアに向かって開かれていた穴は、サナリの足の先が出きった瞬間に完全に閉まってしまった。
「サナリ」
隼は、今度はしっかりと呼びかけた。心臓が脈を打ってどんどん加速していく。
すると、サナリはゆっくりとその目を開いた。濃い茶色の瞳だった。隼の姿を認めると、少し驚いたように目を見張り、それから気持ちよさそうに目を細めた。
「隼……私たち……バカだったんだね」
とても弱弱しい声だった。
「……」
隼は言葉が出せなかった。サナリは震えるように口を動かして、
「でも……私……、今、とても、幸せ……」
「……」
「バカだけど……幸せって……、すごいムシがいいよね……ごめんね……」
「お、俺だって!」
幸せだ。
隼は自分でも自分がわからないくらいの大きな声で言い放った。
言えてしまった。そもそもの始まり、あの契約の夜にサナリが約束したこと。「必ず幸福にしてみせます!」。その約束は、今この瞬間に達成された。契約とか解約とか関係ない、これは約束だった。
サナリはその叫びが聞こえていないかのように、微笑をたたえながら言う。
「……ねえ、私は自分が死んだことに気づいてなかったの。いま、この瞬間までね」
ぽてり、と音がした。どうやら、眼玉の芽が倒れた音らしい。
「本当に死んでたこと分かってたのなら、……隼の日常を見ながら……欠伸なんてしないし。英太が私の療養してた家に来る、って言ったときに、無理してでも阻止しようとするもんね」
あったのは死んだものの自覚というよりも、契約させてもらった負い目だったのか。隼はなんだか不安に掻き立てられて、呼びかけてしまう。
「……サナリ」
「ねえ、サナリって、呼ばれると……まだ私は、生きてるような気がしちゃうの」
隼は……その言葉を聞いて、ぞくりとした。その先の言葉は聞いてはいけない、聞いてはいけない! と、どこかから誰かが叫んでいるようだった。
「じゃあ……なんて、呼べばいいんだ?」
それでも隼は、訊ねた。こうしなければいけない。実界には実界の、冥界には冥界のルールがあるのだ。中途半端ではいけない。確かな意志で、決着をつけなければいけない。
彼女はためらわなかった。
「時木衣桜……、衣桜、って呼んで」
その名前をサナリは初めて、それを口にした。それは即ち、自分の死を知り理解して、それを受け入れたということにほかならない。それはとても悲しいことである……けれども──
「分かったよ、衣桜」
隼は敢然と、その名前を呼んだ。不思議と、自然に笑みが漏れた。
「……ありがとう……」
サナリ──衣桜も笑った。
その瞬間、世界が緩やかにしぼみ始めた。人っ子一人いない道路も、もう動かなくなった『滓』の身体も巻き込んで、各部品が各々好き放題に萎えるようにほぐれていく。古い塗料が剥がれていくように色彩がばらばらになって、宙を舞う。アスファルトはずるずると液体になって大きな渦になる。
隼はその崩壊に呑み込まれるその時まで、衣桜の笑顔から目を離さなかった。永遠に、その笑顔を、その言葉を、その『生』を、忘れないように、心に刻みつけるために、ずっと見ていた。
もうちょっとだけつづきます




