第二十二節 呻吟、通り越して閃光
「『滓』って……確か、嫉妬して現れるんですよね?」
隼は創夏にそう訊いた。
「そ。半壊のなりそこないが、そういう負の感情を揚力にして実界に中途半端な形ででてくるの。あ、半壊ってのは幽霊のことだからね?」
「分かってます。えっと、半壊のなりそこないって、どういうことですか?」
「んーとねえ……、そもそも冥界っていうのは、別に死んだ人が全員行くわけじゃない。ある程度、未練を残して死んだ人、それこそセイン(アタシじゃないよ)が女の子とニャンニャンできなかった、とかいう未練から、自動車事故に遭って死んじゃって取引先に行けなかったサラリーマン、これも未練だ。そういう人間、あんまり望まずに死んでしまった人間は、大概冥界に来る。そして彷徨う。で、その未練に対する執念が薄い人、まあ、例えば死んでしまったからもう取引先に行く必要はないサラリーマン、こういう人たちが『なりそこない』になる」
「……けっこう残酷ですね」
「まあね。本人たちに罪はないんだけどさ。でも、そういうルールだから」
神話の時代から続く伝統──、隼は契約時のサナリの言葉を思い出す。
「『滓』も元は半壊だから、基本的に半壊と関連している人間の前にしか『滓』は現れないって論理なんですね?」
「そゆこと。物分かり良すぎね」
「じゃあつまり……一般人になった俺が専用の舞台で『滓』に追われているっていうことは……、俺にもまだ半壊が残ってるって言うこと」
「……う~~~~~」
創夏が情けない声を唐突に出した。
「アタシはちゃんと仕事したよ? アンタが血ドバドバ出してる中、アタシはちゃんとサナリとバイバイしてアンタを身体の中に押しとどめた!」
「でも、俺は現にここにいて、あのグロい生き物に殺されかけている」
「…………」
創夏は黙ってしまった。なんだか子供っぽい弁明口調だったが、弱いところを指摘されるとテンパるタイプなのだろうか。
「実際に俺の首を切ったのはサナリです……、何かその時に細工したとしてもおかしくないんじゃないですかね?」
「…………」
創夏は無視するように沈黙。どうもスネてしまったらしい。なんて器がせまいんだ、この非常時に──。
仕方ない、仮にそうだとしよう。サナリは何らかの方法と目的によって、隼のうちに半壊の素質を押しとどめた。それが何のためだったのかは分からない。そして、なりそこないの半壊は『負』の感情に押し上げられて、実界に『滓』として現出した──、それがあそこでバイスとやりあっている『滓』。中途半端に半壊が残った隼の目の前にたまたま、あいつが現れた。
問題はふたつある。まず、なりそこないの半壊をここまで押し上げた『負』の感情はなんなのか。そして、この舞台……徐々に冥界に近づくエレベーターのような世界に何故隼は迷い込んだか。
『負』の感情は大概は嫉妬である、と隼は認識していた。実際、前のセインは苦々しげにそう言っていたのをよく覚えている。つまり、できた半壊が楽しそうに邂逅しているのを見て、できそこないの半壊が嫉妬するのである。この嫉妬を始めとする『負』の感情はできそこないが(おそらく不可抗力的に)起こすものであり、さっきまで隼を追い掛け回していた『滓』も何か負の感情を得て湧いてきたに違いない。
だが──、隼は別に創夏やバイスと会っていないからそこに嫉妬は生じ得ないし、創夏やバイスが出会って愉しげにしているのであれば、彼らの方にあいつは出現したはずである。
そして、この微妙な境界に佇む世界。
何故、ここに隼が迷い込む必要があったのか──本当に分からない。
「何か思いついた?」
ぶすっとした調子で創夏は訊いてきた。隼は仕方なく答える。
「……何も」
「そう。アタシもよく分かんない」
それきりまた沈黙して、原付は二人を乗せて走る。もうとっくに支部は通りすぎてあの田舎みたいな風景も通りすぎ、いまはなかなかの大きさの幹線道路を疾走していた。車が一台も通っていないので、なんだか通行止めの場所を通行してしまっているような、謎の不安がつきまとう。
やがて、創夏はぽつりと言った。
「閑話休題。仮にアンタがさ、冥界に行っちゃったとしたら、なりそこないになるのかな。それともちゃんとした半壊?」
「……なりそこないでしょうね。俺は学校に行く途中だったわけだし、別に大きな夢とかあるわけでもないし──」
それに──
「大事な人ももう、いないですし」
創夏は、パッと振り向いた。かなり危ない行動だが、別にまっすぐで交通量ゼロの道だから、多分大丈夫……だろう。隼は乾いた笑いを浮かべる。
「大事にすべき人、って言ったほうがいいかも」
「……その、亡くなったの?」
「はい」
「ふーん。……それ、アタシと最後に会った時には起こってなかったよね?」
隼は頷く。まあ、実際に起こっていたのは一年前なのだが、隼がそれを知ったのは一昨日のことだから嘘ではあるまい。
「……それ、かなり関係あると思うよ」
創夏は、言って前を向き直した。隼はまた神妙に首肯して、頭の中を嵐のように回転させる。
死……未練……。
『滓』……負の感情……嫉妬。
半壊……、なりそこないの半壊。
「……感情」
一昨日、ゴールデンウィークの最終日に電撃的に知った、衣桜の死。そして悟ってしまったサナリ=衣桜の図式は、隼を衰弱させるほどの激情をもたらした。……勇まぬ自分への後悔、理不尽への憤怒、溢れてやまない悲哀。それらを人生に二度と無い密度で味わった。
まごうことなき、負の感情のバーゲンセール。
それらを数十時間かけてぷつんと断ち切り、家から出た矢先に、これ。
…………。
────。
隼はすこしばかりの思索の結果、とんでもない想定に行き着いてしまった。うっかり、創夏を掴んだ右手を離しそうになる。でもなんとか踏みとどまって、隼は確認をするべく創夏に話しかけた。
「……あの、万が一にサナリが俺の中に半壊を残したとして、それはどんな効果をサナリにもたらすと思いますか?」
「……そうだね。基本的にはアンタが何をしているのか、サナリが常に把握できるようになるって感じかな? 身体こそ残さないが、カメラだけは残していく。遠くでいつでもモニタリングできるように、って具合でさ」
「可能なんですか?」
「可能でしょ。実界の連中だって、遠距離恋愛しよう時にはお互いの連絡先を渡しあうでしょ? 大体なんでも可能になっちゃう半壊なら、そういうことができてもおかしくないと思う」
実際、平ヶ谷で隼はゴスロリ生徒会長の父親との会話を盗み聞きしていた。それを応用すれば、隼の中から電話線を張るようにひとつの窓を作ることができる──。
「──で、契約を解消したサナリは冥界に戻っている……?」
「そのはずだよ、またひとつの半壊としてまた──……」
創夏はそこで絶句して、また振り向いた。そして、ゆるゆると原付の速度を落としていく。やがて、完全に動力を失って停止した。バイスの足止めがよっぽど苛烈なのか、『滓』の姿はほとんど見えない。
やがて創夏は口を開く。
「……大事な人の死……、そりゃあ、つらいかったよね」
「……死ぬほど辛かったですね。ま、今もですけど」
「──それを、サナリは知っちゃったわけか、か。……あー」
隼の負の感情が、すべてサナリに筒抜けになっていたら。
感情は伝播する。それが負の感情ならなおさらで、それを半壊の身分だったサナリの耳目に届いたらどうなることか。
……『滓』になって、実界に現出する。
ありえない。あの鳥肌が立つような大量の脚に、グロテスクな肉体、気味の悪い尾っぽと紫色の眼球を備えた生き物が。
──サナリだなんて認めたくなかった。
創夏は唇を噛んで、
「それなら、この冥界直行エレベーターみたいな世界の説明もつく。『滓』の身体自体は実界にあっても、その本体は冥界にあるからね。いま、隼の身体はその残された半壊を釣り針みたいにして、サナリのいる冥界にずるずると引っ張られているのさ。それに引きずられるように世界がついてきている。そうして生まれたのがこの世界ってことだ」
「……なるほど」
隼は努めて冷静に言った。創夏は原付を下りて、
「それにしても、あのサイズの『滓』になるだけのエネルギーを一人分の感情で賄うだなんて──、しかも、冥界に向かってカタギの人間が引っ張られている。これは多分、神話時代以来の出来事だなあ」
目を細めて感慨深そうに言う。その瞳には今、起こっている事象を直視する強さが宿っていた。隼はそれを認めて、なんとなく心強くはあったけど。
「……つまり、対策が分からないってことですか?」
「その通り。……とりあえず、作戦会議だ」
バイスが文字通り上から降ってきたのは、それから数分後のことだった。
「く、結論が出たようだな」
そのセリフには少しだけ息が混じっていた。消耗しているのだ。なんだか今まで散々超人間ぷりを見せつけられてきたが、それを見て隼はなんとなくホッとしてしまった。
隼は今までの話の経緯を説明した。
「……あのバカがやりそうなことだな」
バイスはいつものように嗤わなかった。どこかの不幸な親父が、不出来な娘を思って言ったような言い回しだった。
「で、お前はどうする」
その質問はさっきから嫌というほど自問してきたことだ。
「……わかりません」
隼はそう言うほかない。バイスは黙ってフルフェイスの頭をそむけた。
だって……どうするのが正解なのだろうか。全くゾッとしない話だがあのグロテスクな生き物はサナリで、何故か隼は追っかけられているし、あの勢いで轢かれたら間違いなく隼の身体は散々踏み砕かれているアスファルトみたいに木っ端微塵になるだろう。かといって、バイスや創夏に頼んで撃退してもらうことは、イコールサナリを殺すことになる。かといって、このまま時間稼ぎを講じていたとしても、いずれこの世界は冥界に辿り着いてしまい隼の存在は実界が知らぬ間に消滅してしまう。
でも──どれだって良いじゃないか。どれが実行されたところで、世界は何も変わらない。
隼は半ば諦念のように、そう考えていた。頭がぼーっとする。今さっき確認してみたが、左腕はひどい色に腫れていて脚は血まみれだった。ぼんやりするのもそのせいかも知れない。
「一応、コアは見つけてきた」
バイスは日本刀の刃の具合を見ながら、言った。
「どこですか?」
「目玉を運んでる触手の付け根だ。あの触手をつたって行けば楽にたどり着ける」
どう聞いても楽じゃない。やっぱりこの人は人間じゃない、と隼は再認識した。
「……一応」
少しの沈黙のあと、バイスが言いにくそうに切り出した。
「そのコアは元の半壊の魂でできている。つまり、そのコアはサナリの思念体そのものだ」
「……そうなんですか」
だからどうだというのか。もう、ああなってしまった以上サナリを救うことはできないし、何故だか自分ももうあの日常には戻れないような気がする。そして、今この身体は冥界に引っ張られていく。でも、このままにしているのが一番な気がする。そうすれば、サナリとひとつになれる気がする……。
突然、ぐわん、と視界が揺れた。
「おい正気になれ、少年。俺達を此処に呼んだ以上は、俺達にも義理を果たさせろ」
隼が頬に手を当てると、そこは熱を帯びていた。頬を張られたのだ。音は聞こえなかったのに、バイスの声は聞こえた。
「ぎ、義理って、……どういうことですか?」
背中に冷や汗を感じながら、隼は訊ねる。バイスはさっきまで抜いていた日本刀の刃を鞘に戻し、
「お前のさっき話した話は、あくまで仮定の話だ。何か見落としがあって、サナリも全く関係ないかもしれない。特に、お前の中に半壊が残っているとか、そういうのは単純な推測でしか無い。そして、だ。今のところ、あの『滓』を倒せばお前は正常な世界に戻る可能性が高い。だから──、俺はあいつを殺りに行く」
その瞬間、隼には自分にも信じられない程の力で立ち上がって、バイスに組み付いた。黒いコートの無骨な生地が肌に張り付いてくる。
「そ、それは……ダメだ!」
「……く、何故」
「何故とかじゃない! ダメだ! あいつはサナリなんだよ!」
隼は叫び散らした。バイスのヘルメットに、自分の情けない顔面がうつりこんでいる。幼いころ、たいそう派手に転んだ時でもこんな醜態は晒していなかった。でも、隼は構わずに叫び続ける。
「殺すなんてダメだ! それなら俺と一緒に殺せ!」
「いつも論理的なお前が、メチャクチャだな……」
バイスは鬱陶しそうに隼を引き剥がした。バランスを失って、隼は尻餅をつく。それでも噛み付くように吠えるのをやめない。
「あの警笛みたいな鳴き声を聞いただろ! サナリの泣き声だよ! 苦しんでるんだよ! それがわからないのか!」
「そうかもな。でも、違うかもしれない」
「違わない! 頼むから、サナリを殺さないでくれ。聞いてくれよ、あいつは優しいやつだったんだよ……黒い髪をして暖かい声をして、つらい思いをしても滅多に泣いたりしなくて、よくおっちょこちょいをするけど何でも一生懸命で、お……俺なんかに会いに来て! 死んでまで会いにきて! あなたに会えて良かったって! 言ってくれる女の子だぞ! そ、そんな可哀想なこと……してくれるなよ!」
隼が言い切ると同時にやってくる沈黙。そのまま放っておいたら雪が降ってきそうなほどの静けさを、慎重な手つきで崩していくような具合で、遠くから地響きが聞こえてくる。
「少年……ならば問おう」
バイスは言った。
「お前はどうする?」
「……」
──さっきと全く同じ質問だった。バイスはまるきり感情を感じさせない表面を威圧的に隼に向ける。そこまで言うのなら、お前に答えはあるのだろうな? というテクストが見えるようだった。
でも、隼にはもう今、答えがある。さっき激情の赴くままに叫び散らした結果、脳内に血液が回ったのか、その答えがありえないほど明瞭な輪郭を持って迸ったのだ。
半壊、実界、冥界──そこに横たわる規則は、もうそれ以上にどうしようもない。ただこの、中途半端に壊れた世界を、完璧にぶっ壊すには。
きっと、これしかない。これしかないんだ。
隼は、言った。
「サナリを助けます。俺の手で」




