第二十一節 異物、立ち現れて蠢動
大丈夫なのかと執拗に問う母親に、大丈夫だから、と頑固に言って隼は家を出た。母親が心配していたのは顔色が悪かったからで、別に気分的に問題はない。学校を欠席した昨日よりはマシだった。流石に二日連続で休むのはマズい、午後の授業だけでも出ようと、隼は昼前に登校しようと思ったのだ。
がらがらの電車に乗り込み、学校の最寄り駅へと向かう。あまり久しぶりという感覚はしなかった。目に入る全てのものがぼんやりとうつって、目の前にあるものの実感があまりしない。それだけ、隼の脳内に「サナリ=衣桜の死」ということが大きく翳を落としているのだ。昨日はほぼ一日中、サナリがあの白い装束を身にまとい照れたような顔をしてベッドの下から這い出てくるのを待っていたようなものだった。「また来ちゃった」とはにかみながら言って、また契約を迫ってくるのを。
もちろん、来なかった。陽が高くなるにつれて隼の内の影はその背を伸ばし、陽が暮れるにつれてその影はじんわりと内面を覆っていく。
やがて、隼は鈍くなった頭で日常に戻らなくては、と思った。
サナリはよく欠伸をしていた。なら、サナリがいない今、俺が代わりに欠伸ができるような、つまらない日常に戻らなくては。楽しみや満足や幸せや、全部隠された日常へ。
……。
平らな道なのに、とてつもない傾斜の坂道を上っているようだった。隼は必死でその道を上る。
これが、バイスの言っていた後悔なのだろうか。でも、後悔のしようがないじゃないか。これは悔いじゃない──何なんだろうか。痛みだ。苦しみだ。これは頭を使ったところでどうしようもない。苦しみを受けているのは身体だ、いくら考えたところで失ったものは帰ってこない。
──と、ふと。
ごきり、ごきり、と油の切れた金属の部品が擦れるような、耳障りな音が聞こえてきた。
農業作業車でも走っているのか、と隼はぼんやりと思った。それにしても、この坂道、とんでもなく歩きにくい。ほぼ直角なんじゃないかと思える道を、ほとんど筋力だけで上っているような具合だった。
アスファルトを擦る音がする。どでかいマッチを点火するような、ぐやっ、という感じの音。
隼は流石にそこで振り向いた。何が起こってるんだ、と確かめる気力が起きたのだ。いくらなんでも音がおかしい。
……笛の音がした。警笛のような笛、一瞬後にそれが『そいつ』の鳴き声だと理解した。
『滓』だった。蠍みたいな細かい無数の脚と、それに乗っかったむき出しの筋肉のような図体、そこから長い尾っぽが伸びてその先端に爬虫類の細長い頭がくっついている。それが──大きい、八トントラックほどの図体を備えてぐらぐらと歩行している。まるで隼を慕ってついてきているようだった。
「……え」
なんで? ……ここ最近で幾度も繰り返してきた言葉だが、今はその用向きが違った。
俺はもうとっくに解約した筈なのに。冥界との因縁は今のところ切れたはずなのに。そのせいで今かなり苦しんでいるところなのに。というか別に俺は今お前らの嫉妬の対象になんかなり得ない、『凡人』なのに──。
その瞬間に、その『滓』の動きが急に鈍くなった。そして、その図体の先からじんわりと何かが現れてくる。
眼球だった。
それから、その無数の脚がぐにゃぐにゃと稼働を初めて、その図体に速度を載せていく。エンジンをかけたトラックが、ゆっくりと出発していくように──順調にスピードを上げていく。
隼に向かって。
『滓』は現実世界のものに干渉できないはずだ。パチンコの玉とか、空き缶とか、バイスの拳(にはまった手袋)に当たっただけで粉々に砕け散ってしまうのは、実界という彼らにとっては不安定な場所に無理やり身体をねじ込んできているから。今、幽霊というか半壊の者であったサナリと別れた隼は、この実界のものにほかならないから、干渉を受けるのはもとより見えてはいけないもののはずなのだが……。
また警笛のような音。耳をつんざくその音はまぎれもなく隼の鼓膜を突いてきてるし。
今度はドゴンという重苦しい音。道を作るアスファルトが『滓』の重い脚に潰され、悲鳴を上げている。
そして、視線。熱く汚い視線が、あの単眼からいやというほどあふれている。
嫌な予感しかしない。
隼は駈け出した。『滓』の足音というか駆動音は、徐々に増大しつつある。追いかけてきているのだ。あんな図体をしているのに、速度が上がりきったら絶対に逃げ切れない。
昼間だというのに、付近には誰も居なかった。都心へのベッドタウンとはいえ、ここまで人がいないことがあるのだろうか。通りすがったコンビニにすら人影がひとつもなかった。
──異常だ。
隼の脳裏に、助けを求められる人物として咄嗟にバイスと創夏を思い浮かべた。創夏……そうだ、隼は創夏の電話番号を受け取っている。隼は走りながら財布からそのメモを取り出し、携帯でその番号に電話をかける。
「もしもしー?」
暇そうな創夏の声。隼はホッとすると同時に、
「石舘さん! や、ヤバイです!」
「……なに? あんまりよく聞こえないんだけど……」
「や、ヤバイんですよ! お、『滓』が……化け物が追っかけてきてるんです!」
「……今どこにいるの?」
創夏の声に真剣味が帯びた。
「学校の近くの……いま、セブンを過ぎたところです!」
「分かった。そのまま支部のほうに行きな。バイスもすぐに気づいて応援にきてくれるはず」
そう言って、創夏は通話を切った。隼は携帯を耳から離し、『滓』の様子を見ようと後ろを振り向く。
眼球がすぐ目の前にあった。紫色の虹彩が、隼にピントを合わせて離さない。
「……ッ!」
隼は声も出ないほどに驚いて、咄嗟に携帯をその目玉に向かって投げつけた。カコンッ、と音を立てて眼球にぶつかり、携帯はアスファルトへと落ちる。──ぶつかった? しかも眼球はなんとも反応しない。効果がなかったのだ。
ヤバイ。本当に、ヤバイ状況になってる。
隼は背筋が冷えるのを感じる。逃げないと、もっと速く逃げないと。
その時、一件の民家の前に自転車が止まっているのを見つけた。鍵はかかっていない。隼は反射的にその自転車にまたがった。車両窃盗で咎められるかもしれないが、今ここで死ぬよりは数百倍マシだ。隼は死ぬ気で漕いで、自転車をスタートさせた。振り向いたらコケそうだったので振り向かず、ギアをマックスまであげて、必死に前だけを見てバイスが巣食っている支部へと向かう。
『滓』も速度をあげてぴったりとくっついてきている。大量の脚が地面を叩く音が轟々と近づいてきている。こんだけでかい音立ててるんだから、もうあのプレハブ小屋にも聞こえているに違いない。早く来てくれ、と隼は願う。
その瞬間、目玉が目の前に現れた。隼はギョッとして、ハンドル操作が揺らぐ。振り向いてみると、そのグロテクスな胴体から目玉だけがとてつもなく長いアームのような支柱によって、隼に肉薄していたのだった。
眼球は物を言わず、ただその紫色を以って隼を凝視する。邪魔だ、どいてくれ、頼む、と思念しながら隼は自転車を漕ぐ。
突然、その眼球が潤んだ。と、思うと同時にぽたりと涙が落ちる。
すると、落ちたところで心底恐ろしい音を立てて、アスファルトが発泡した。
「!!」
進行方向の目の前でそんなことをされたらたまらない。隼は咄嗟にハンドルを繰って、涙が落ちた地点を回避する。ギッ、とハンドルが音を立てて、身体に嫌な重力がかかった。
──なんとか躱せたが、代わりに隼の身体が宙に浮いた。やっぱり、ムリがあった……か。
身体が容赦なくアスファルトにたたきつけられる。臓器がシャッフルされるあの嫌な感じが全身にこだました。あれだけの速度で走っていたのだから、それは大きな衝撃がくるのは当然なのだが──
痛くない。
気持ち悪くはあったが、痛くなかった。
なんだこれ? 地面を転がりながら、隼は思う。左手から落ちたせいで、左手から感覚がなくなっていた。でも、痛みはない。不思議な感じだった。
やっと慣性を克服して身体が止まったが、立ち上がることができない。身体が固定されたかのように動かないのだ。
「……痛」
痛くもないのに、そんな言葉が口を出た。どうする、このままじゃ『滓』に──。
「起きろ、少年」
ふいにぐっ、と身体が持ち上げられ、正しい姿勢で立たされる。倒れていた人形を立たせるような粗暴さだった。
バイスがいつもと同じような黒々とした衣服を身にまとって立っていた。
「支部長……」
「セインに叩き起こされて、何かと思ったら──、く、お前の周りだけ境界が歪んでいたから慌ててすっ飛んできた。よく生きていたな、少年」
「き、境界が歪む……ってなんですか」
「早い話をすると、お前が冥界に迷い込んでるってことだ。く、何故かしらんけどな」
隼は、目を見張った。
「冥界……」
「く、そう驚くな。お前、さっき転んでいたが痛くないだろ?」
バイスに指摘されて、隼は自分の身体を見下ろして頷く。制服はボロボロになっているし、──左腕が妙な角度に曲がっている。なのに、全く痛くない。
「……何なんですか、これ」
「冥界に痛覚なんていう概念はない。別に、死から自分の身を守る必要がないからな」
そうバイスが言い終わった時、近くでどしん、と大きな音がした。見ると、さっきまで隼を散々追い掛け回していた『滓』が脚を失って、その肉体をアスファルトに落としたところだった。
「はーっ! 硬いのなんのって!」
創夏が真っ黒なセーラー服の袖で汗を拭いながら、隼たちの方まで走ってきた。
「時間かかったな」
「うん、もううまいこと冥界も実界もごっちゃになってて……あ、隼、さっきは電話ありがと」
創夏はにこっと笑ってピースサインを作る。前から思っていたが、緊張感というものを丸々どっかに落っこどしてきてしまったんじゃないか。
「これ、返す。がらくたじゃ歯がたたないから、たぶん、これが唯一の武器だね」
「く、持ってきておいて良かった。俺の勘の良さをありがたく思えよ、少年」
バイスは創夏から一本の何かを受け取る。それは、日本刀だった。抜身の状態のものを、まるでハサミを渡すかのようにひょいと動かすあたり、やっぱりこの二人は尋常じゃない。
隼は目を丸くして、
「そんなのどこで手に入れたんですか……」
「百五十年くらい前に、新選組の誰かからもらった俺の宝物だ。誰だったか忘れたが」
そういえばサナリが、この男は明治維新の頃から生きていると言っていたような気がする。こんなところでこれほどの長寿を証明されると思っていなかったが、それにしても宝物だというのにそんな重要な情報が欠落してていいのだろうか。
地面が軋む音がした。見ると、さっき創夏が切り落とした『滓』の脚が再生しているらしい。それを見てバイスが嗤う。
「く、あんな図体でビビっただろうが、あれは中量級だ。ザコのように一筋縄ではいかないが、対策もハッキリしてるしやりやすい。だが……この舞台設定が謎だ。限りなく実界に近いが、痛覚の無とかいう冥界の要素が微量に入っている場所……、少し引っかかる」
「……」
引っかかり──、そもそも隼が『滓』とまた対峙している時点で謎以外のなにものでもない。
「おーい! 原付見つけた!」
その時、エンジン音を響かせ、創夏がいつの間にか原付バイクに乗って登場した。バイスはく、とまた嗤って、
「俺は時間を稼いでおく。お前は、思考の時間だ」
「隼、後ろに乗ってー!」
創夏が黄色い声で言う。なんだかあまり気が進まなかったが、『滓』の方はもう自立し始めているし、この身体ではあまり走れそうにない。左腕はひん曲がり、右足首が変な感じがする。隼はけっこう苦労して創夏の後ろに乗った。この原付、どうみても一人用なのだが大丈夫なのだろうか……。
そんな隼の心配をふっ飛ばすように、原付は軽快に出発する。思ったよりも速くて、隼は思わず右腕だけだが創夏にしがみついてしまった。創夏の金髪がなびいて顔をくすぐってくる。
「うーん、ぱっと見たところ、左腕折れてるね。右足も捻挫してるし、たぶん肋骨もヒビ入ってる。これは、きっと入院コースだね」
創夏は開口一番にそう言った。ノーヘルだが、別に取り締まる警察官も存在しないんだろう。隼は創夏の背中に右手を置いて、またコケないように祈るばかりだった。
「で、何なんですか、これ……」
「こっちが聞きたいよ! ここ、予想以上に変な世界でさ、お陰様で冥界経由でこっちに来ることになったよ」
「え、冥界行けるんですか?」
「そこ訊くんだ! のんきだなあ……、ま、そりゃアタシ達は昇華した存在だし。常識の範囲内でなんでもありなの」
冥界に行けるってことが既に常識の範囲外なのだが……まあ、いい。
「それで、あの『滓』、倒せるんですか?」
「余裕だよ。中量級って言ってたでしょ? 『滓』にもいろいろとバリエーションがあってね、例えば昇華できた人たちの忘年会とかやると、毎回のように重量級が出てきてそれを倒すのが二次会みたいなもんなんさ」
「ぼ、忘年会あるんですか……せっかく超越したのに……」
「そりゃまあ、楽しいじゃん? で、あのサイズの中量級だから、どっかに『コア』があるの。ゲームとかでもよくあるありがちな設定だなって思うかもしれないけど、自然界のどの動物にもコアは存在するでしょ? 人間なら脳か心臓、ミツバチなら巣、バイスなら頭。『滓』だってそう、自然界の生き物なんだから」
「……じゃあ、すぐに決着つくんですね?」
「つくけど、つかせていいの?」
創夏はふいに真面目な口調になって言った。前を向いているから表情は分からないが、逆にそれが怖かった。
「あの『滓』を倒すのは簡単だけどそれはあのポン刀がありきの話で、そうじゃなきゃアイツは倒せなかった。こんなの前代未聞だよ。どんな再生能力のある『滓』でもがらくた当てれば木っ端微塵だからね。そして、何故か契約を解消してカタギに戻ったアンタが『滓』に追っかけられて怪我を負っている。これって……なんか、ありそうじゃない?」
「……」
「ついでに言うと、この世界、徐々に冥界の方に性質がシフトしている。実界と冥界をつなぐエレベーターみたいな世界なんだ。あんまりのたのたやってると、アンタ、死んじゃうよ? それは、実界に影も残さず、消滅するってこと。生き物として、最悪じゃない? それって。まあ、だから、別にあの『滓』を倒して良いってアンタが言うんなら、すぐに倒せばいいはず。でも、それで実界に戻れるかどうか……保証しないよ?」
バイスが言った、『思考の時間』とは、このことだったのか。
想像以上の事態に隼は思考が吹っ飛びそうになる──が、このままでは冥界に連れて行かれてしまう。
自分は何故ここにいるのか──、そしてどうやって確実に実界に戻るか。
お前の頭で考えるんだ。隼。




