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第十八節 激情、捲し立ちて幸福

「井代隼」

 声をかけられた瞬間、隼はぎくりとした。この学校で人のことをフルネームで呼ぶ人間はそうそういない。

「なんですか、会長。ここは図書館ですよ」

「私だって生徒だから、図書館を使う権利はある。──で、こないだの休日ぶりね」

 生徒会長、姫田志緒里は隼の真向かいに座った。隼は読みかけの本に栞を挟むと、ぱたんと閉じて机の上に置いた。

「そうですね。会長はずいぶん楽しそうでしたね」

「そうね。今日は、それを見た君の感想を聞きに来たの」

「……嘘吐かないでくださいよ」

 隼は流石に困ってそう言った。目的がよく分からなかったからだ。生徒会長がわざわざ、放課後に図書館に残ってぼうっと読書している一生徒、それも二度ほど会っただけの生徒に絡みに来るのだから、何がしか目的があるはずなのだが。どうも平ヶ谷の一件でも無いらしい。

 志緒里は目を細くして、

「分かった? 流石ね。ちょっと、図書館内でメールを熱心に打っている生徒を見かけて放っておけなくて」

「別に、誰だってしてるじゃないですか」

 もちろんそれは例によって衣桜とのメールだが、『熱心に』なんて表現されてしまって隼は気恥ずかしくなって、それを志緒里に悟られないようぶっきらぼうに答えた。

「で、何の用ですか?」

 隼は結局、率直に訊いた。志緒里はいま、その用向きを思い出したかのように答える。

「下野英太は今日は休みなの?」

「そうですね。今はきっと関西でたこ焼き食ってますよ」

「ふぅん、そ。いつも遊んでるパソコン部の人たちは」

「近いうちにどっかの大学でやる展覧会に何か出すっぽくて、忙しいらしいです」

 肥田はともかく、徹夜慣れしているらしい石地も流石に顔色が悪そうだった。まあ、社会に出ればこれくらい普通だから……とか、なんだかすごく将来が心配になるようなセリフを残して部室に向かっていく背中を隼は見送ったばかり。

 志緒里は、そう、とあまり関心の無さそうな返事をして、机に肘をついた。少し茶がかった髪の先がぺたん、と机上に載る。本当にとらえどころのない人だな、と隼は一向に緩和しない緊張の中で思った。

「で、あんたは?」

 じっと、志緒里は隼を凝視しながら訊く。

「読書です」

「暇ってことね」

「何か、英太の尻拭いですか?」

「違うよ。下野英太はすぐサボるけど、別に仕事の質は悪くない。今日明日、学校サボることを見越して先週のうちにやることは済ませてある」

 意外や意外──かも知れないが英太は実際、そんな性質だ。人のいうことをあんまり聞いていないだけで、やることはきちんとやってたりする。そういうところが無ければ緋伊庭高校になんか入れなかっただろうから。

「じゃあ、何ですか?」

 それにしてもやたら回りくどいな、と思いながら、もう一度問いただしてみた。志緒里はやがて、少しいいにくそうに、

「んー、なんというかね。知識って、実は私の後輩なんだけど」

「そうなんですか」

「中学の時に、ちょっとね。で、知識があんたに、午後五時半、二-二に来て欲しいって私に言伝頼んでんの」

「何の用で、ですか?」

「さあね。行ったら分かるよ」

「はあ、そうですか……て、ええっ!」

 隼は慌てて携帯で時刻を確認すると──、午後五時二十三分。半まであと七分しかない。

「時間ギリギリじゃないですか!」

「私だって暇じゃないんだよ。あんたがどこにいるか分からんしさ。ま、きっと本人はもう待ってると思うから、行ってやれば?」

 志緒里は意地の悪そうな笑みを浮かべて、そんな風に言う。何なんだろう、この感じは──。

「分かりました。言伝、ありがとうございます。それじゃあ」

「うん。早く行ってやって」

 隼はさっさと荷物をまとめて、図書館を飛び出した。

「手伝いますかー?」

 急ぐ隼の耳元でサナリが訊いてくる。当の本人はふよふよと浮かんでついてきていて、すごく楽そうだ。

「いや……構わない」

「分かりましたー」

 あれきり、サナリとは『昇華』についての話題は避けている。いずれは必ず昇華して、この意識存在はサナリもろとも吹っ飛んでしまう──、でも言ってしまえばそれはある意味、人間いつかは死ぬ、という事実と大して変わらないことなのだ。例え、ある日突然昇華して消滅したことを知らないまま消滅したとしても、それはある日の早朝に大地震が起こって寝たまま瓦礫に潰されて死ぬのと大差ないことなのだ。

 だから、隼はそんなふうに理論付けて『昇華』のことを忘れようと務めている。──いや、そんなことは不可能なのだが、でもできるだけ死と同じもののように受け止めたかった。

 それよりも隼が引っかかっているのは、『理想』の方だった。どんな理想にも、無条件で近づくことができる能力。それは整形はもちろんのこと、不老不死から性転換まで容易になしてしまうのだが──、それは果たして幸福と言えるのだろうか。満足と幸せは、必ずしも一致することは無いのではないか。そういう進化は、逆に何か別の部分を貧しくしているんじゃないか……?

 五分ほどで、隼は二-二の教室に辿り着いた。時間ギリだ。

「待ったか?」

 随分傾いた夕陽が、日没を名残惜しむかのように橙色の光をばらまいている教室の中で、知識が一人、佇んでいる。

「あ……、待ってないよ。べつに」

 知識は振り向いて、むっとしたように言った。振り向いた拍子にいつものポニーテールが、せわしなくてさわさわと揺れる。

「わざわざ会長に言伝までして……どうしたんだよ?」

 隼はかばんを適当な机に置きながら、訊ねた。サナリは何故か、教室の外から遠慮がちに覗きこむだけでこちらの方に寄って来なかった。

「どうしたって……、いろいろ、あってさ」

「いろいろって……」

 行けば分かる、と言われたが、結局何も分からずじまいだ。しかも、そのまま口が開かなくなる呪いでもかけられたかのように言葉が出てこなくなり、静かな教室の中にしばらく時計の秒針の音だけが響いていた。

「そういえば、お前と初めて会ったのもこんな感じの放課後だったなあ」

 隼はなんともなしに、思ったことを口にした。そうしないと、呪いは解けてくれないような気がしたから。

「そうだね。……下野に声をかけられた時はどうしようかと思った」

「ウノやるのに人員が足りねえ! とか言ってな。まあ、多人数のほうが楽しいのはそうなんだけど……よくやるよな」

「うん。すごく……ゲームっていいなって思う。相手を本気で出し抜いて、自分が勝つことにあんな必死になるのに、でも何故だかそれがとても楽しくて、……ついつい甘えちゃう」

「甘えちゃう……ね」

 なんだか、噛み合ってない言葉のチョイスだった。でも知識は、それを敢えて口の中で転がすようにして繰り返して言う。

「うん、甘えちゃう。──ねえ、ここに呼んだワケ、訊かないんだね?」

「え?」

 隼はきょとんとした。

「それなら、さっき訊いただろ? そしたら、いろいろあるとかなんとか」

「え? う、うそ……そんな……やだっ、私」

 知識は目をまんまるに見開き口に両手を押し当てて、隼から一歩、二歩、と離れていった。なんなんだろう、本当にわけがわからなくなってきた。

「え、なんなんだ……」

「ちょ、ちょっと待ってよ……、い、いまちょっと余裕がなく、て……」

「余裕が無い? 体調でも悪いのか?」

「あっ、その……ち、違くて……って、も、もういい加減に察してよ!」

 何だ何だ。隼は突然の知識の叫ぶような言葉に目を白黒させたが──、でも、なんだかその一言ですっと視界がクリアになったというか、今までの自分の鈍感さにあきれ果てたというか。

 放課後に誰もいない場所で、女子が男子を呼び出した……しかも人伝でという古風な手法で。何故かその言伝役だった志緒里はやけに回りくどい伝え方をするし、知識はいつもと様子が違うし、というか、もうそもそも最初のこのシチュエーションで気づくべきだった。

 ──なんてこった。

「嘘だろ?」

「嘘じゃない! 私……井代のこと……好きみたい」

 告白……だった。全く、予想していなかっただけに隼も気勢を削がれて、頭が回らなくなった。

「な、何で俺? お、お前は英太のことが……」

「……た、確かに……前までは、あのバカのことがちょっと、気になってたけど……でも、いつの間にか、というか、ここ最近は、ずっと井代のことばっか考えるようになってて……志緒里先輩に相談したら、そ、そりゃ恋だって……う、嘘じゃないから」

 だんだん街並みに沈んで弱くなっていく夕陽を背に、せっせと言い訳のように言葉を知識は並べていく。隼はほとんど絶句に近い状態だったが、なんとか口を開いて、

「そ、そんな──そんな素振り全くなかっただろ」

「そんなの見せるわけ無いでしょ……」

 確かに知識はその辺りはタフで、めったにこんな感じで取り乱したり、内情を吐露したりしない。──つまり今は、それだけの状況であり、知識が全くの大真面目であることの裏付けになっている。

「……こ、答えなんて、分かりきってるけど……さ。言わないわけには……いかなくて」

 知識は言う。何十倍にも希釈した憂いのこもった表情で。知識は衣桜のことを知っていて、衣桜に隼の関心が、『そう』と言っていい程度に持って行かれていることを承知しているはず。

 ……隼は頷かざるを得ない。

「……その好意は、嬉しいけど……、俺にはもっと別の好きな人がいる」

「そう……、だよね。やっぱり。ううん……」

 知識は強がるように言ってみせたが、それでもその表情に翳が落ちるのを見逃せなかった。成就しなくてもいいや、と思いながら自分の気持ちを打ち明けて、やっぱりね、なんて何の痛みも無しに受け入れられるわけが無い。

 でも、知識は誇りが高いから、そんな心情を見せつけない、ようにする。

「じゃあ……、私のことなんて忘れて、その人のこと……大事にしてよ。それじゃ、時間とってごめん。またね」

 知識はかばんを手にとって、隼の脇を抜けていく。彼女の足音は最初はゆっくりと、だが次第に速くなっていき、やがて聞こえなくなった。

 隼はただ立ちすくみ振り返りもせず、夕陽の落ちて暗くなった教室に、いた。

「泣かせたな」

 と、隼は小さく呟いた。分かりきっていたこと、といくら予防線を張ったところで、それが気持ちを抑える絶対的な防壁とはなりえない。知識は家に帰らず、どこかで泣くだろう。二年前、隼が人知れずそうしたように……。

「……あの」

 振り返ると、サナリは隼の表情を不安そうに伺っていた。隼は裏側からひっくり返りそうなほどの自己嫌悪を抱きながら、言った。

「佐々江は……英太のことが好きだったはずだ。一年間見てきたんだ、間違いない。でも……、分かったよ、俺がお前と出会って契約してからだ。知識の気持ちが変わり始めたのは……、ここ最近になって、俺のことしか考えられなくなった、って言っていた。俺の──顔だよ。石舘さんが言っていた通り、顔が、変わったんだ。無意識の理想に向かって、俺の身体は『進化』していったんだ。でも、進化、の結果がこれだって? 誰も満足してないじゃないか。むやみやたらに人の気持ちを揺さぶって、ひと一人を泣かせただけじゃないか……」

「……」

 サナリは今にも死の宣告を受けるんじゃないかと、心が騒いでしょうがない様子だった。サナリが恐れていること……それはきっと、俺が今まさに言おうとしていること『そのもの』に違いない。

「俺には……天才になれる才覚はなかったみたいだ。世界を構成するモブとして生きるのが、一番妥当な役だったんだよ」

 隼は言った。

「石舘さんに会いに行こう」


 各駅停車しか停まらないその駅で下りて、徒歩一分。

 こんなに早く相談しに来るとはな、と思いながら、インターホンを押す。扉の向こうでばたばたと動く音がして、「はい!」と創夏が顔を出した。相変わらず、べっとりとした黒いセーラー服に派手な金髪。それらがこんなにも奇跡的に似合っているのは、世界中を探してもこの人しか居ないだろう。

「今からご飯だったんだけど……まあ、隼の相談とあれば仕方がない」

 ご飯はカップラーメンだった。部屋の中は心なしか、前に来た時よりも雑多になった感じがする。

 隼はちらりと、サナリの方を見やる。サナリは──もう悲哀をその身体全体から、余すことなく醸して沈黙していた。ここを訪れたということは、もう隼がある結論を下した。そういうことでしか、ないから。

「さて、どうしたの」

 隼とサナリが創夏の向かい側に座ると、彼女はそう質問して来た。それから、ズルズルと麺をすする。

 隼は静かに、ずっと温めてきた言葉をなぞるように、

「契約を、無かったことにしたいです」

 ──そう言った瞬間、サナリは顔の色を蒼白にして隼の腕にしがみついてきた。それだけはやめてくれ……、と懇願するように。でも、隼の腕を掴んだ手には力は全くこもっていなかった。隼が昇華を拒む発言をしてから、いずれはこうなる覚悟はしていたのかもしれない。でも、覚悟をするのとそれを実行に移すのは、往々にして全く別の決断を必要とするものだ。サナリはすぐにハッとして自分の行動を恥じるように、静かに一歩引いた。

 すると、創夏はぽん、と一回手を打った。

「やっぱりねー。ヒトが昇華を拒んでも続く契約なんて滅多にないし、隼に逃げ道を用意しておいて良かったよ。予想よりずっと早かったけど、な! ま、理由は聞かないでおくことにしよう」

「……ありがとうございます」」

「で、それは今すぐに?」

 その問いに隼はすぐに答えられず、少し黙った後、

「少し、待ってください。……あの、隣の部屋借りていいですか?」

「いいけど、全部アタシには筒抜けだよ?」

「……気分の問題なんで構いません」

 隼はそう告げてサナリの手を取り、隣の部屋に向かった。布団が自力でこの家から脱走しようとしたかのように、あられもなく敷かれていたので、隼はそれを適当に畳むと見なかったことにした。

 それからサナリに向き合って言う。

「突然、こんなこと言って悪かったと、思ってる。……でも……」

「いえ……あなたは悪くないです。私も悪かったんですから……」

 サナリはどこか諦念のこもった口調で云った。そうじゃない、と隼は言いたかった。悪い悪くない、とか、そういう問題ではない。間違っているか、間違っていないか、とどう判断するか。それとも放棄するかの問題なんだ。

 隼は、言葉を接ぐ。

「……俺は、残念ながら超越した存在になるだけの度量も勇気も無かったみたいだ。そもそも第一にこの契約は、幸福ですか? って訊かれて、いいえ、ときっぱり答えられるような人が結ぶはずのものなんだ。だって、そうじゃなきゃ本当の幸福がなんなのか分からないだろう。人は不幸じゃなきゃ幸福なんて知らないんだ。知る必要もないから。俺は……知らなかった。俺は限りなく平和に生きていて、植物が伸びるみたいに少しずつ成長をしている。それが、俺の幸福だったんだよ」

 多少の不満はあるかも知れない。でも、月曜日を『またこれから一週間か』と少しの残念な気分とで迎えられるのは、それってとても自然で幸せな状態なんじゃないか。

「……でもさ、これって、なんか悔しいんだ。前進もしなければ、後退もしない。それは良い生活かも知れないけど、でも、もったいない。だって、そういうのって俺として生きているってことになるのか? 代替可能な『誰か』として、生きてないか? って、思ったし、実際そうだった。そういう奴に……『契約』なんてする器なんて存在しなかったんだ。バイスは幽霊のことを『半壊』って言ってたけど……契約をする人間も『半分壊』れた存在じゃなきゃいけなかった。俺は……壊れてなんてなかった。幸福なことに」

「……」

 サナリは押し黙ったまま、動くことを忘れた人形のように隼の演説を聞いていた。その沈痛そうに細められた瞳は、それは違います、とも、否定できません、とも叫んでいるようだった。

「俺も壊れていれば、もうちょっとお前と一緒にいられたのに……って思うと、悔しい。でも……俺がこのままお前と契約したままじゃ、俺はまあいいが、お前も不幸になっちまう。だから……、俺達はもう解消したほうがいい。石舘さん、契約を解消しても幽霊は消えたりしませんよね?」

「うーん、もちろん!」

 ばっちり聞き耳をたてている創夏が、隣の部屋から返事をする。隼はそれに勢いをもらって、

「だから、お前はまた別の『半壊』を探せばいい。それは……俺には想像もつかないような時間になるんだろうが……でも、俺はそっちのほうが、お前の幸せだと思う」

「…………はい」

 サナリは、とても小さな、芯の尽き果てる寸前の蝋燭の火のような声で答えた。これは隼の勝手なわがままなのかも知れないし、批難されるべきことなのかも知れない──。今更になって、隼の心に罪悪感が生まれてくるがここまできて引くことはできない。悲しいことに、これが矜持を守る唯一の方法になってしまったから。

 クソみたいな矜持だな、と隼は心のなかで吐き捨てた。


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