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第十七節 倒錯、振り乱れて恍惚

 夜中の三時くらいにようやく創夏のアパートに辿り着いた。空き缶も使い果たしたところだったので、危なかったところだ。

「鍵出してください」

「なあに? 服は脱がしちゃダメだってばあ……」

 絶対に前の創夏のほうが扱いやすかったな、と思いながら創夏の体中のポケットを探って、ようやく見つけたそれで部屋の中に雪崩れ込むように入っていき、ソファに彼女を放り出すように寝かせた。彼女はしばらくむにゃむにゃと何か言っていたが、やがて赤ん坊のように無垢な寝息を立て始めた。酔いつぶれたにしては随分おとなしい寝息だが、まあ、これで一安心といったところだ。

 さて──、 隼はサナリと向き合って、言った。

「サナリ」

「はい」

「このこと、知ってたのか?」

 このこと──人間と幽霊がひとつの全く別の人格に融合してしまうこと、『昇華』。隼がずっとこの道程担いできた現象そのもの、だ。

 サナリは身体の前で自分の手首を逆の手で握った姿勢で、こくりと頷く。

「もちろんです……、このことを知らない幽霊はいません」

「契約する時にそんなことは聞かなかった」

「もちろんです。そんなこと言う幽霊はいません」

「理由は」

「みんな怖がって、契約してくれないからです」

 完全な事務口調。これに似た感じは聞いたことがある──、初めてサナリと出会って契約する前、サナリの生きる世界観を説明してもらっている時の、それだ。

 隼は近くにあったスツールに猫背気味に腰掛ける。

「……代償は無いって話だっただろ」

「ありませんよ。私はコミュニケーションを取る相手を見つけ、あなたは常人ならざるパワーを手にしている。ウィンウィンです」

「でも『昇華』は代償だろ」

「代償じゃないです。冥界の価値観で言えば……それは『至上の喜び』です。冥界とか実界とかから超越した存在になるのですから。素晴らしいことじゃないですか」

「超越した存在って……これが?」

 指差す先にはすやすやと眠っている創夏──だった人間。今は、なんと言えばいいんだろうか。誰でもなくなって、今では自分を失っている『超越した存在』。まあ、それでも俺は石館創夏と呼び続けるほかないんだろう……。

「そうです。ただのふつうの人に見えますけど、違います。神に等しい存在なのです」

「神……か。それは、バイスも?」

「はい。支部長は明治維新の頃から生きていますし──、支部長の言っていることを聞けば、『昇華』した人間がどれだけ超越しているか、わかりますよね?」

「……」

 それは分かる。自分の身体を改造しまくって、死から遠ざかりに遠ざかり、これから大量の死を見ようとしているバイスが尋常な人間であるはずがない。

「でも、俺は、そんなことを望んじゃいないぞ?」

 隼は一番肝要なところを持ちだした。さっきまでは勢いに飲まれてこそいたが、それでもずっと怖かった部分が、そこだ。契約するまでに全く知らされていなかったこと。これでは死刑囚が処刑執行前夜に、晩餐をしているのと変わらないことだ。

 きっと背筋を伸ばして、隼は自分の胸に親指を突き立てる。

「この身体に別の人格が宿るってことは、俺は死ぬってことだよな? お前も本当に死ぬってことだよ。しかも、それを誰からも『死んだ』なんて認識されないで、どこからやってきたのか分からないヤツが、大手を振って生活し始める。……それは、絶対に違ってる」

「違ってる……ですか」

「そんなことが『至上の歓び』だなんて高尚なことなわけ無いだろう……、だって、歓びを感じるべき俺とかお前が居ないじゃねえか。いつの間にかしゃしゃり出てきた赤の他人が、漁夫の利を手に歓んでるだけ……そんなの納得いかねえだろ。俺には俺の、お前にはお前の『至上の歓び』があるはずだし、それを度外視した死んだ世界の連中の世界観なんかで決められたかないね」

 隼はきっぱりと言ってしまった。これでサナリと仲がこじれてしまったら嫌だな、と心の隅で思いながら、言わずにはいられなかった。

「そ、そんな……」

 サナリは電撃を打たれたように固まって、目を見張った。それからやがて、泣きそうな顔になった。

 ──隼は何度もそういう顔を見てきたが、でも、その眼から涙が溢れるのを見たことがなかった。今回も、その瞳は潤むばかりでそこから一滴の涙も出てこない。病院の待合室によくある、モニターに熱帯魚を映し続けているだけの擬似的な水槽みたいな、ただ人為的に映しだされている眼のようだった。

 でも、きっとサナリが人間だったらその目からはぽたぽたぽたぽたと、頬に幾重にも重なり落ちていく涙が流れているはずだ。

 この涙は、何の涙なんだろう。

「私は……あなたと、いっしょになりたいです。死んだ世界の価値観とか関係無く、それが私の『至上の歓び』です」

 それは嬉しい事、喜ぶべき事なんだろうが、──でも、違う。

「でも、それは俺の歓びじゃないね」

「……っ」

 サナリはつらそうに、顔を歪めた。でも、諦める気色は無かった。

「でも……きっと私の、能力の素晴らしさを分かってくれれば、その考えが変わってくれると……信じてます」

「能力って……ワープとか、透視とかか?」

「それもありますけど……でも、理想の自分に無条件で近づける、超越的な進化が一番大きいです。これで自分の進化に満足してもらえれば……、きっと……昇華だって悪く無いなって、思ってくれるはずです……」

 隼は前にこの家に来た時のことを思い出した。創夏は、隼に理想を持って、と語った。そうでなくては、サナリを悲しませることになるから、と。理想があれば、そこに無条件で進化していく。そして、サナリの望む一体化へと近づいていく。なるほど、つながった。

 でも、俺はどうなる? 俺の意志は……、完全にこの身体は乗っ取られているじゃないか。

 隼は言った。

「悪いが、俺の理想は希薄だ。こうなりたい、とかいう理想像なんて持っちゃいないし、けっこう今の暮らしに満足してるしね……そんなこと、お前はわかってるんだろう? だから、あんな頻繁に欠伸をするんだろ?」

「…………」

 サナリは俯いた。それきり沈黙してしまい、部屋の中は時間が止まったような静寂に包まれる。隼は心が痛んだ。サナリは別に、悪くない。サナリも結局、その昇華という現象に支配されているだけなんだ。結局──、そう考えた瞬間にじわりと、絶望のようなものが湧いてくる。自分が消滅する、ということ、そしてそれを誰にも認知されずに時間が過ぎていくこと。それは、『死』ですらない。なんと言えばいいんだろう──。

 やがて、サナリは意を決したように口を開いた。

「で、でも──」

「ストーーーーーップ!」

 唐突に、本当に唐突に創夏がふたりの間に割り込んできた。今までぐっすりと、泥みたいに眠り込んでいると思っていたから、隼は大層驚いて変な声をあげてしまったし、サナリは呆然とした表情で床に尻もちをついている。

 それにも構わず創夏は続ける。

「アタシは正義の仲裁者! ウチのシマで喧嘩は許さないんだから!」

「げ、元気ですね……」

 隼はかろうじて、それだけコメントできた。創夏は金髪を翻して隼の方を見ると、精緻な人差し指を隼の鼻先に向け、

「アンタ、今自分に理想は無いって言ってたけどさぁ」

 それから、ぐっとゼロ距離に接近してきて、いつの間にか隼の背後に回りこんでがっつりとホールドすると、その指を隼の頬に食い込ませてグリグリしてきた。

「いだいんですけど……」

「ふん、この最近イケてきたこの顔はどういうことなんだか教えてもらおうか?」

「え……」

 隼は絶句する。創夏は耳元に口を寄せて、ささやくように告げる。

「進化なんてそんなもんだよ。他人に言われて初めて気づく。そこで初めて満足する。理想なんて無いと思っていても、必ずどこかへ人は……向かっているんだ」

 そして、ちゅ……と、耳に何かが触れた。

「!」

 隼は目をカッと見開いて創夏の拘束から決死の思いで逃れた。何だ今の感触は──、すさまじい未知との邂逅だったぞ──。意外と創夏の腕はあっさりと離れ、隼は勢い余って床に倒れそうになる。その身体の先には、さっき尻もちをついたサナリが──。

「あ……」

 なすすべもなく、ふたりはぶつかる。思ったほど痛くなく、柔らかい感触が飛び込んでくる。

「だ、大丈夫か?」

「は、はい……。ごご、ごめんなさい……」

 サナリは膝をぎゅっと抱え込んで崩れた体育座りのような格好になり、潤んだ目で隼の方を見て言った。

 それを見ていた創夏が呆れたように、

「そんな動揺しなくても……」

「しますよ! ふつうは!」

 隼は抗議したが、創夏は首を傾げるばかりだ。昇華する前の創夏に襲われていたサナリの気持ちが今更になって分かるような気がした。

「でもま、今アタシが言ったのは事実だからね。アンタ、イケメンになってるよ」

 創夏はぴっ、とまた指を突きつけて言った。隼は反射的に顔に手を当てる。

「そんな……」

「もう契約してしまった以上、昇華という目的地にたどり着くのは必定なのさ」

 どこから美形になりたい、なんて願望が湧いてきたんだろうか。隼は色々と思い返してみて、ハッと気づく。時木衣桜に対する想いが具体的になったこと。それが、ひとつの契機だったのだろう。きっと、そうだ。自分を良く見せたい、という希望がそこから湧いてきたのだ。

「理想が出来る。それに近づく。満足する。また新しい理想ができる。近づく。また満足する。それの繰り返しさ。単調に見えるかもしれないけどね、これはとても楽しいことなんだよ。その楽しさはエネルギーに変換されて、幽霊に蓄積されていく。そしてやがて、幽霊が実界に具体化するのに足るだけのエネルギーが整ったら、晴れて昇華するってわけさ。う~ん、イイッ!」

 創夏は恍惚とした表情で自分の肩を抱いて見せる。黒いセーラー服の、黒いスカーフが小さく揺れた。

 嫌だ──、と隼は思った。無条件に理想に近づくなんて、間違っている。違うんだ。人は努力して、苦労してこそだし、それに別に俺は超越的な存在になりたいわけではない。そんなの、全部バイスとか、創夏に任せてしまいたい。俺は、俺の日常に生きたいだけ。マンネリしているようで満たされていて、受け入れてくれる人達がいる日常に。

「ま、少し考えてみなよ。アンタはイイ素質してるからさ。若いし。超越したら、世界的な学者になれるかもね」

 創夏はカラッとした態度で言う。隼は返事をせず、黙ってそれを聞き流していたが、ふっとまた背中に創夏の体温を感じた。また密着してきたのだ。そして、ささやきとは違う小さな声で、

「それでも、本当に嫌っていうのなら、またアタシに相談して。バイスはきっと、アテにならないから。あの人は……自分のことしか考えてないからね」

 そして、ふっと離れる。隼は反射的に振り向いた。創夏は、べーっと舌を突き出している。小さくて長い舌だった。それから、ふああ、と大きな欠伸をした。人目があるというのに、サナリのとは違って随分遠慮のない欠伸だった。

「それじゃあ、アタシはもう一眠り……アンタたちも適当に布団出して寝ていいからね」

 それだけ言って、創夏はソファにつんのめるように倒れ伏し、すー、と穏やかな寝息を立て始めた。隼とサナリは、顔を見合わせる。

「……ごめんなさい。あの……昇華のこと黙ってて」

「いや、良い。それよりも……今日はもう休もう」

 隼はなるべく、そのことについて考えたくなかった。サナリも納得したように、こくりと頷いた。

 隣の部屋に行くとわかりやすく布団が畳んであった。予め準備してあったというよりは、ただ日常的な習慣としてそこに積んであるような感じだった。すべて準備してあったような前の創夏のもてなしに比べると、随分人間的だった。

 まずマットレスを床に敷いたところで、サナリが静かに歩み寄ってきて口を開いた。

「私は……大馬鹿なんです。セインとかバイスみたいに、生きて死んだわけでは決してありません」

「生きて……死んだ?」

 隼は手を止めて、サナリの方を見やる。

「はい。私は……自分の命を自分で絶ちました。ただ単に、死んだのです」

 サナリは自殺者だったのだ。隼はひどく驚いて、どうして……と訊きそうになったが、慌てて口をつぐむ。サナリは自分で言葉を選びとるように、訥々と話を続ける。

「自殺者が幽霊になるなんて、すごく珍しいんです。というか、多分私が初めてです。だって、大体の人が自殺するときには信念を持ってるわけです。自分は死ぬぞ、っていう……、でも、私は……バカでした。死にたくなかったのに、死んだんです。何ででしょうね……」

 でも、と、サナリは言ってから、隼にその幼くてどこか儚げな笑みを向けて、云った。

「あなたに会えて、よかった。死んで、良かったって思えてしまうです。ほんとに……馬鹿ですよね……私……」

 隼はしばらく手を止めて黙っていたが──、やがて布団を敷く作業を再開して言った。

「光栄だ。ありがとう」

「……」

「俺も……やっぱり楽しかったよ。お前が来てからの、日常。」

「……ありがとうございます」

 ぺこり、とサナリは頭を下げる。その仕草は大仰なようにも思われるが──、でも実際サナリは救われたような表情をしていた。いつも心の隅で自分が厄介で、隼の人生を邪魔しているような存在なんじゃないかと、危惧していたのかも知れない。

 そんなことはない、と隼は口の中でつぶやく。

 そんなことはない。そんなことは。


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