第九節 反省と半性
「そんなに泣かないで、元気だして」
よしよしと、創夏がさっきから泣き通しのサナリをあやしている。なぜだか失恋した友達を慰めているように見えなくもないのは、何故なんだろうか。
何で泣いているかと言えば、さっき誰か知らない人間の車のフロントガラスに見事な模様をつけてしまったからで、「合わす顔がありません!」とサナリは何故か隼と口をきかなくなってしまった。その対処の仕方だと、隼がサナリに悪いことをしたような体裁になるんじゃないかと思うが、話ができないのでそのことを伝えられない。隼は二人と一人の少し先を、一人でぼんやりと歩いていた。
車の窓を割ったことについては、即刻、気の重い隼と相変わらず余裕そうなバイスとで、とりあえずその路上駐車している車の直近にある家に向ったところ、何やらあの車は違法駐車しているものらしく、家主と車の主がモメているところに出くわした。
バイスは何故か、嬉々とした様子でその口論に割り込み、謎の演説を始めた。どう聞いても、胡散臭いというか、もろ腐った部分丸見えの新興宗教勧誘みたいなものだったが、何故か家主と車主は納得して、バイスの差し出した「修理代」の三万円を分けあっていた。
「世の中は、なんだかんだいって金だ。金を持つものはその余裕を最大限に活かす義務がある」
とか、意味のわかんないことを言って、その場を丸く収めたのだった。隼は始終、目の前の光景の意味が分からなかったが、どういうわけか事態が収まったので(最悪、器物損害あたりを覚悟をしていたのに)、これも幽霊の力による恩恵だと思っておくことにした。
それで、今はバイスとは別れて創夏と帰路についているところだ。バイスはあの事務所のような小屋で寝泊まりしているらしい。ほどほどに過ごしやすい今の季節ならあそこでもなんとか生活できるだろうが、冬とかになったらどうしているのだろう。いや、夏でも問題だ。あの真冬並みの気候の時ぐらいで、やっと引っ張り出してきそうな黒の分厚いコートを脱ぐのだろうか。それを外すと「チビって」しまうらしいヘルメットも脱いで、ダラダラと汗を流しながらかたい床で熱帯夜を眠るのだろうか……。
しかしよく考えてみると、バイスは普通の人間ではない。体温調節など、コンロのつまみをひねるように、ミリ単位で調節ができるんだろう。変温動物、恒温動物のパラダイムから次のステップに進んでいるに違いない。学者に発見されでもしたら、ウィキペディアにでも載るかもしれない。
もう、空は容赦なく暗い。この具合だと、きっと終電か、それの一歩手前の電車に乗ることになる。家族には、友達と遊んで来るから、なんて言い訳を送ってあるが、そのせいで親の心象が悪くなりそうだ。もっと誰もが納得できるような言い訳を考えておけば良かった。
さしあたり、今から帰る、とでも連絡しておこうと、隼は携帯を見た。着信が一通。
時木衣桜だった。
『今日はいい天気だったね。一冊本を読み終えました。タイトルは……』
切々と感想が書いてある。彼女は定期的に本を読んでは、こんな具合で感想を送ってきてくれるが、その大半は隼が読んだものであって、また衣桜に薦めたものだ。ある時突然、衣桜が「何か本が読みたい」と送ってきたのが最初で、そこからずっと、一種のコーナーのように続いてきている。
隼はざっとその内容を読んでから、次はこれで、と、書籍名を送った。そして、また今度その感想を送ってくる。また他の本を薦める。この繰り返し。隼は本を読み続けなければならないが、元々趣味のひとつだったから大して苦でもなく、それが衣桜との話題の一つになるのは嬉しいから読書が捗る。
嬉しい──、そう、嬉しい。
やっぱり俺は惚れてるんだろうか、と、暗い空を見上げる。自然な色彩の濃い紺色に、所々黒ずんだ雲が漂っている。幼かった自分は、夜になると雲は完全に空から消えるものだと思っていたが、目を凝らせばきちんとそこにある。そうでないと、夜に雨が降るのはおかしいではないか──。
「あの……」
ふいに声が掛けられて振り向くと、顔を俯かせたサナリが、告白して振られた相手にまた話しかける時のような気まずさで、ついてきていた。
「ごめんなさい……、私って、ドジばっかりしちゃって……」
「いや、本当に気にすること無いぞ」
「でも……二度とも失敗して……、あなたは叱られちゃったし……もう、私、消えてしまったほうが……」
生身の人間でもそんな萎縮の仕方はしないだろう。というか、実際に縮んでる。涙を目の端一杯に溜めて、懇願するように手を合わせて隼を見上げているが、小学生(それも低学年)に見上げられているみたいだ。
どうも、隼があの車の持ち主に叱られたとか思い込んでいるようなので、隼はさっきの意味の分からない和解の瞬間を話してやった。
「そうですか……本当に良かったです……」
心底安心したように、サナリは胸をなでおろしている。縮んでいた身長も元通りになった。
「だからそんなに気にすること無い、って言っただろ」
「そんな! ダメですよう!」
サナリは今度はぐっと小さな拳を握りしめて、
「私はあなたを幸せにすると誓ったんですから! 私が原因であなたが不幸せな思いをするのは……ダメです!」
なるほど、この幽霊はどうやらどこまでも自分の使命に忠実らしい。なんだか、どことなくそれとはズレているような気がしてならないが。
「そうか……でもまあ、なんとなく今日は楽しかったよ」
「ホ、ホントですか?」
サナリは目をまん丸くして驚いた。
「ああ、本当」
「そ、それなら……死んだかいがありました」
今度は隼が目を丸くする番だった。サナリがそんな、自嘲的な冗談を口にするとは思わなかったからだ。
「お前がもし俺に蛍光灯やら窓ガラスやらを割らせるために死んだんだったら……俺はどうそれをどう償えばいいかわからないな」
「あ、あれは違いますよぅ……、その……まだ慣れてないものですから……」
「まぁ不可抗力的なところはあったと思うが……、でも、そんなに気にすんな。楽しかったっていうのは嘘じゃない」
「あ、ありがとうございます……」
サナリは肩をすぼめて、今度は少し照れくさそうに言った。眼尻を少し下げて口端を少し上げて、喉を撫でられたネコのような柔和な笑みを見せる。きっとこんな表情を見せられては、どんな腹黒い人間でも少しはその黒さを改善しなければいけないと思うほど、真っ白な笑顔だった。
でも。
先ほど撃退した魔物は(バイスは『滓』と呼んでいた)、嫉妬に駆られて隼たちの前に姿を現していた。彼らはいかにも典型的な悪役の持つ感情とはいえ、それはもともと生者としてこの世界に平等に生きてきた人間だったのだ。それを無限に湧くようプログラミングされたザコ敵と同じ風に、ゲーム感覚で打ち倒してしまって良いのだろうか……、確かに、楽しかったが、少しばかりもやもやが残る。他人の車のフロントガラスを割ったことよりも、こちらのほうが遥かに気に掛かることだ。
「それにしても……あんな牛みたいにデカイ奴らを、よくあんなそのうちに勝手に自壊しそうな蛍光灯で倒せたな」
隼は今更のように、そんな疑問を口にした。蛍光灯はもちろんのこと、それが砕けた破片ですらあの魔物の図体は耐えることが出来なかった。車のフロントガラスでさえ、貫通は免れたというのに。
「それはね」
ずっとセインと話していたらしい創夏が、ずいと隼とサナリの間に入ってきて言った。
「『滓』の人たちがルールを間違えてるからなのよ!」
「……えっ、ってクサッ」
隼は突然湧いた酒臭さに顔をしかめた。何故か石館創夏は酔っていた。「きゃーっ」なんて女子特有のハイテンション声を上げながら、サナリに向って某怪盗三世よろしくダイブ。
「きゃあっ!」
本当にダイブしたのだ。夜道に寝っ転がって、きゃいきゃいともつれ合う。創夏は単にじゃれているつもりらしいが、サナリにとっては完全にゲリラ襲撃でしか無い。さっきまで隣に居た友人が今、突然敵になることになれていない一般人にとって、この襲撃はとてもショックが大きい。
一応、屋外だからかさっきよりは自重気味だが、もう前も後ろもわからなくなるくらい激しく撫で回している。「よしよーし」なんて黄色い声を上げているが、どう見てもよしよしなんて思ってない。食器を洗う時だってあんなふうな扱いはしない。
「た、助けてくださいー!」
サナリはじたばたと手を隼の方に伸ばしてくる、が、非情にもその前に立ちはだかったのはセインだった。
「質問に答えるとだ、『滓』の連中は冥界のルールをそのままこっちに持ってきてるからダメなんだ」
「冥界っていうと……、かなりあやふやなんだっけか、その、物理法則みたいなのが」
だからこそ、ワープだとか透視だとか非常識な力をサナリを介して行える──という説明になっていた。
「そういうこと。俺とかサナリがそれでもちゃんとやっていけてるのは、生身の人間と契約を交わしたからだ。実界とコネを持ったってわけだ。だから、俺はお前に殴られても吹っ飛んだりしない」
「……逆にそうじゃない連中は、蛍光灯で殴られても吹っ飛ぶと」
「ああ。基本的に実界にあるものが実界の法則に則っていれば、『滓』どもに勝ち目はない。サッカーのルールをバスケに持ち込んで、勝てると思うか? 相手は余裕で手を使ってくるのに、足でドリブルしなくちゃいけないんだ、無理に決まってる、そういうことだ。まあ、バイスのおっさんなら酒飲みながらやってのけそうだけどな」
自分の冗談に応じるようにセインが少し笑ったので、隼も小さく失笑する。ストローの刺さった缶ビールを片手に、黒の革靴で白黒のボールを蹴り飛ばし、バスケットのゴールに狂いなく叩きこむ、なんともシュールな光景がすぐ浮かんできた。その想像がやけにリアルな質感を持っているのが、なんとも言えなかった。
「ま、だからさ、あのおっさんはあんな重装備なんだよ」
セインは人差し指で空にくるくると円を書きながら言う。
「実界のものに身を包んでいれば、どんな素材のものでも『滓』どもから身を守る完璧な防具になるからな。嫌でも死にたくないバイスのおっさんなんだから、徹底するのも無理は無いだろう?」
「なるほど……、じゃあ、もしお前らがその……『滓』から攻撃を受けたらどうなんだ? サナリもそうだが、結構微妙なところに居るわけだろう?」
「俺達にあいつらは当たらない。何故なら、俺達はお前の中で『精神的』に存在しているにすぎないからだ」
「……ん?」
隼は思わず聞き返した。『精神的に』という言葉が、何だか関係ない世界から代入されたもののように理解ができなかったのだ。その文脈にあって、何故その単語が出てくるのかわからないような、すっきりしない感じ。舗装された道路の一部だけが獣道になっているような。
セインは隼の反応を見て、
「ああ……悪い、その辺りには、契約者の頭がこんがらないようにセーフティがかかっているのさ」
「ふーん……まあ、幽霊には『滓』の攻撃が当たらないと」
「そういうこと。でも、お前らはただじゃすまない。一応、冥界のルールを吸収している存在だからな」
ただじゃ済まない、ということは、相当のダメージがあるというわけだ。
「あの……牛みたいなのにクビをかかれたら、人間にナイフで頸を切られるのと同じ痛みが走るって訳?」
「そうなる。痛そうだな」
セインは他人事のように笑った。まあ、実際に他人事なんだろうが、隼にとっては他人事ではない。
「ちょっと待ってくれ、それじゃあ俺の寝ている枕元にあいつらが来たらヤバイじゃないか」
「心配ない、一人で居る分には平気だ。契約者がこぞって集まってると、『滓』どもは集まってくるんだ。特に、今日みたいに宴会を開いた日にゃあね」
ああ、と隼は声を出す。『滓』が隼達を襲うのは、嫉妬から。こちらが愉しめば愉しむほど、『滓』達の抱く嫉妬の温度も高くなっていく。夜に光へ集まる虫のように、ゆらゆらと契約者達を襲いにやってくる。
「だから『狩り』なんだよ。お前らだって、ゲームでよくやってるだろ? 一狩り行こうぜ、って」
「契約者同士で会わなければ『滓』は出てこないのに、わざわざ会って誘いだしてるんだな?」
「そうだよ。まあ、支部があるのはそれだけのためじゃないけどな。同じような境遇の人たちと話すってことは、とても重要なことなんだ」
「……そうなんだろうな、きっと。それで、もう一つ訊きたいことがあってな」
「何?」
「何で、そんな都合の良い場所に立っているんだ?」
セインはちょうど隼とサナリの間に立っていて、視覚的にも物理的にも遮る位置にいる。あからさまに隼がサナリを助けるのを妨害するような立ち位置なのだが、何故この幽霊は創夏の余興(?)の番人よろしく現れたのか。
「まあ……、細かいことは気にするな」
セインはちらっと視線を逸らしてからそんなことを言う。何か知られたくない事情があるらしい。別に女同士の絡み合いを見ようとしている訳でもないし、何か見返りを求めているわけでもないし……よくわからない。
「終電が無くなりそうだから、急ぎたいんだけど……」
「おう……、だってさ」
少年の幽霊は振り向いて、美人の宿主にそう声をかける。さっきの宴会の最中にしたみたいなダイタンなスキンシップでなく、親戚の子供をあやすお姉さんみたいに、(アスファルトの上に)正座して膝にサナリを載せ、いい子いい子している。サナリもどこか満更でも無さそうな表情をしている。
「はーい、じゃあ帰りましょう」
創夏は呼びかけに応えて、元気よく立ち上がって手を高く上げた。何故か、酔っ払っている。とにかく、酒臭い。
「何でいきなりこんな酒臭くなるんですか」
隼は思わず渋面を隠さずにそう訊ねた。創夏はニコニコとやけに上機嫌そうに答える。
「それはー、支部員が増えたからよー!」
「……まっっったく答えになってないです」
「ハッピーニューイヤー! ハレルヤ!」
分かったのは創夏の頭のなかが祭だということだけだった。
「『半壊』の力で身体改造できるって言っても、限りがあるのさ」
セインが代わりに教えてくれた。最初から彼に訊いておけばよかった。
「さっき無理に泥酔状態から身体を起こした時に溜め込んでいたアルコールが全部今、出てきたんだ。よくあることだ」
「……よくあることなのか」
「そういうことよ!」
創夏は効果音が聞こえそうなほどニコッと表情を緩めて、親指を立てた。隼は真顔で親指を立て返す。これほどの綺麗な人なのに、今の状態で「終電なくなっちゃった」とか言われてもなんとも思わないんだろうなあ、と真顔の裏で真面目に思ったりした。
「そんなにサナリがお気に入りですか」
再び駅に向って歩き出しながら、隼は訊いた。「んー」と創夏は甘ったるい声を出しながら首を傾げた後、
「めちゃくちゃかわいい。大福みたい。食べたい」
「えっ! た、食べないでくださいっ!」
サナリがビクリとして身を引く。どこまで本気でやってるのかわからない。幽霊ですら死にそうなほどしつこいスキンシップの果てに、彼女たちの間に何か通じ合ったものがあったのだろうか──。
駅まで至って、二人と二人は別れた。
「今度うちに泊まりに来てね」
別れ際に、創夏はサナリを抱き寄せて、その綺麗な髪の毛に指を走らせるように撫でながら、隼にそんなことを言った。
「まあ……考えておきます」
隼は大して何も考えずに答えた。少しでも何か余計なことを考えたら、物を限界まで詰め込んでいたクローゼットが崩壊するように、妙な思考に脳内を支配されそうな気がする。
セインはけらけら笑いながら、隼に耳打ちしてきた。
「"セイ"の境界線を超えた恋愛が見られるなんてスゴイなホント。死んでみるもんだ」
セイ、とはダブルミーニングなんだろう。性と生。隼は深く息を吐いた。
「誰と、誰の」
「見りゃ分かんだろ」
「見たくないから分かんないね」
隼はげんなりしながら言った。何故げんなりしたのか分からなかったが……、創夏の好意が性別的な原因で、決して自分の方を向くことが無いことがわかっているから拗ねているわけではない、と信じたかった。
ルックスが抜群でとてもフレンドリーで優しい──でも同性愛者ゆえに、男である自分には決して届くことがない正真正銘の高嶺の花。
石館創夏は本当に完成された人間だった。
それは、もう嫉妬するくらいに。




