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「・・・雨」
降ることは分かっていた。
朝の天気予報でもそう言っていたし、家を出た時、すでに空は薄暗い色をしていたから。
「すごいね・・・京ちゃん、今日もバイト?」
最近は見事な秋晴れ続きだったので、久々に振る雨は、これでもかというくらいに盛大に音を立てて落ちてくる。視聴覚室にいる間に降り始めたのだと気付く。緋天が目を丸くしながら渡り廊下の窓の向こうを見て、そして口を開いた。
「うん。あー、濡れそうだなぁ・・・やだな」
いつもは直接店に行くのだが、この雨の中を歩いて行けば確実に足元はびしょぬれになる。
傘があってもこんな雨ではあまり意味がないのだと、経験から分かっていた。
「今日お兄ちゃん迎えに来てくれるから、ついでに乗ってく?」
「うーん、お願いしようかな。あ、でも、どこか寄るんじゃないの?」
教室に向かって動く足。
何故か、憂鬱だった。緋天の気遣いはとても有難かったのだが、バイトに行くという事に、何かが拒否反応を示している。
「本屋さんに行くだけ。通り道だから大丈夫だよ」
にこりと笑う彼女に、このもやもやとした気持ちを上手く説明できればいいのに。
そう思いながら、冬に向かう肌寒い廊下の空気を感じるだけにとどめた。
「うっわ。外すげーな」
一時間ほど前から降り始めた雨は、その勢いを徐々に増して。
叩きつけるような音を響かせていた。
「京ちゃん大丈夫かね? おれ迎えに行こうかな」
同じ事を思っていたのに、それを別の男に言われるのは腹が立つ。他の社員もいるこのフロアで、それを自分だけが口にできないのだと。彼は分かっていてそれをやっているのだ。
「ユッキー、抜け駆けすんなよ! オレも行きたい!!」
「今日は寒いしなー、ここまで歩いてきたら濡れるだろうしなー」
「なー? 高校生は足持ってねぇしなー、とぼとぼ歩くしかできないしなー」
語尾を揃えてにやにや笑いながらそう言う彼ら。
からかわれているのだけれど。実際は自分を焚きつけようとしているのだ。
それが分かっていたから何も返せなかった。京子と付き合っていることを、社内で公にしていないから。彼らにはそれが不満で。だからこうして、わざわざ自分が葛藤するように仕向ける。
「・・・腹減ったんで、コンビニ行って来ます」
「おっ、マジでー? オレ、肉まん。あと、ノド飴。甘いやつな、辛いの買ってくんなよ」
「おれはねー、おでん食いたいなー。大根とー、こんにゃくとー」
「あ、オレも食いたい! 白はんぺんとー、牛スジとー」
誰がどう見ても使い走りにされているのだが、実際はそういった大義名分がなければ外に出られない。
雨音はますます強くなるばかり。
「・・・、行って来ます!」
二人の希望するものをイライラしながら頭に入れて、急いで椅子から立ち上がる。
足早に部屋の入り口に向かうと、紙束を持った沙紀とすれ違う。
「あ、佐山さん。私、レモネードね。あったかいやつ。」
にっこりと微笑みながら、彼女に声を掛けられた。
そんなもの、社内の自販機で買えるのに。
そう思ったが、口には出さずにただ頷いて了承の意を見せる。
背中で。
上品とはとても言えない笑い声が響いた。
耳に慣れた声が聞こえてくる。
二言、三言、言葉を交わした後。ぱたん、と車のドアを閉める音が続いた。
去っていく低いエンジン音。薄暗い中、傘を差した彼女がこちらへ歩いてくる。
「あれ? 佐山さん」
ほんの短い距離、五メートル程歩いただけなのに、京子が閉じた傘から大量の雫が落ちていた。
「送ってもらったのか?」
「あ、うん」
入り口で立ちすくんだ自分に。
彼女は少しも気付いていない。ただ、偶然ここにいたのだろうと。そう思っているはずだ。
「京子」
「・・・なに?」
こんな些細な事で。体が動かなくなるとは思いもしなかった。
彼女が別の男の車から降りてきて、しかも相手は自分も目にしたことがある人間で。
別れ際に、送ってくれたことへの礼と。
その男の名前を、京子の声が紡いで。
「ちょ、佐山さっ、ん!!」
何故、そんなに簡単に恋人でもない男の名前を呼ぶのに。
本物の恋人であるはずの男の名前は口にしないのだと。
「やっ!! やめて!!」
強引に口付けたら、彼女の体は途端に強張って。
そして全身が自分を拒否していた。
「やだ・・・ここはイヤ・・・」
誰かに見られるかもしれない。
それとは違った恐怖の色が、彼女の瞳に浮かんだのが見えて。
「京子・・・」
「ごめん! あとで!!」
潤んだそれを隠すかのように踵を返した彼女は、更衣室へと走り去る。
それを見送るしかできなかった。
うるさく鳴る心臓を何とか宥めようと、深呼吸を繰り返した。
耳に残る、雨の音。
白くけぶる、外の世界。
出入り口を塞いで立っていた彼。そこから出た言葉。
憂鬱の原因はこれだった。
何となく、自分が振られた日の出来事が記憶の片隅にひっかかっていて。
しかも、出迎えるように佐山が入り口に立ち、そしていきなりキスをしてきたから。
完全に思い出してしまった。思い出して、改めて刻み付けられた。
彼が、大人の行為を誰とでも楽しめる人間だと。
今は、どうなのだろう。
まがりなりにも、彼女となった自分がいる。けれども、自分は役に立たない。
そうなれば、佐山がその熱を向けるのは当然。
「イヤ・・・絶対やだ・・・」
別の女性に、彼を誘惑してほしくない。
佐山の手が、自分以外の女性に触れてほしくない。
そう思うなら。
とるべき道は、ひとつしかない。
恐怖に背中を押される感覚は、心臓が落ち着いても消えることはなかった。