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「・・・っ、びっくりした・・・」
部屋のベッドにダイブして、枕に顔を埋めてからひとり呟く。
何故のこのこと佐山の部屋に上がりこんだのだろう。あんな風にいきなり熱をぶつけられるとは思ってもみなかった。彼も男性なのだから、彼女となった自分にそれを求めるのは当然なのだと、少し考えれば分かることなのに。
今まで付き合ってきた相手に、その手の空気を感じないという事はなかった。
ただ、相手が同年代の男子生徒だったから、せいぜいキス止まり。それが深くなって押し倒された事はあったが、その時点で先へ進むのが怖くて、拒む事でやり過ごしてきた。最後に付き合った二学年上の先輩とは、違う高校に入学して、二度目に拒んだところで相手が離れていって、それでお仕舞い。
佐山に対して危機感を抱くことすら、思いつかなくて。自分が見たかった本があるから、というそれだけの理由で部屋に入ったのは反則だったのかもしれない。彼に気負いのようなものは何も感じられなかったし、余裕のある大人だという目でしか見ていなかった。
男だということに年齢は関係ない、求めるものは同じだと気付いてしまったから。
ただ、反応のないこちらを罵ることもなく。
身の竦んだ自分に優しい声で言い聞かせるところは、さすが大人だとは思ったけれど。
「どう、しよう・・・」
嫌われたくない。
自分から望んで手に入れた、彼の隣。
その場所を、失いたくはない。
「京子~? 帰ったの? 携帯見せてちょうだい」
軽いノックの後、一拍置いてドアが開く。
遠慮なく母が部屋に入ってきて、嬉しそうな顔で自分を見下ろしてきた。
「なに、その死にかけた顔。デートだったのよねぇ・・・?」
「・・・そこのバッグの中。勝手に見て」
彼女には、今日彼と携帯を買いにいくという事を伝えてあったから。家族で初めて携帯を持つ自分のそれを、待ちかねたように興味津々でいじる母。
「ボタン小さいのねー、オモチャみたい・・・これでいくら? 私も欲しいのよね、祥子ちゃんも持ってるし」
「・・・わかんない。佐山さんが買ってくれた・・・」
それも、今の自分にとっては小さな罪悪感のひとつ。
彼の厚意は嬉しい。けれど、その行動は自分が子供だという事実を突きつけられているみたいで。事実、彼も子供は遠慮をするな、とそう言ったのだから。
「あら、良かったわね。さすが社会人だわ、儲かってそうだし」
「っおかーさん!! もちょっと何か言う事あるでしょ!? 娘の彼氏が携帯代払うってなんかおかしいよ!」
「なんだ、それでぶすっとしてるんだ? 可愛い顔が台無しよ」
何でもないことのように流す彼女は、自分の母親ながら、年齢を感じさせない美を放つ。
くすりと笑われて、確かに可愛くない表情をしてそうな顔の筋肉を意識して戻した。
「いいじゃない? 向こうは大人なんだから、金銭面で少し甘えてもいいのよ。だいたい仕事中に話せないから携帯買おうって言ったんでしょ? 佐山さんにメリットある事なんだから、可愛く甘えてなさい」
「・・・メリットなんか、あるのかな・・・」
「ふーん、珍しく弱気ねぇ・・・そうだ、鏡見てみなさい、ほら」
苦笑したまま、姿見をクローゼットから出してきて。
それをベッドの自分に向けられて。不安げな顔が映っているのを認める。
「しゃきっと座って。にっこり笑ってみて」
「・・・んもー、何なの?」
無理やり体を起こされて、ベッドの上に座らされる。
頬をつつかれて、訳のわからない彼女の行動に不満だけが生まれた。
「女の子は笑顔が一番なの。はい、美人の京子さん、笑って」
「・・・そんな急に笑えな、って、やっ、くすぐんないでよ!」
わき腹を触られて、思わずこぼれた笑み。
「ほら、可愛い。美人に生んであげたんだから、有効利用してちょうだい。こんな可愛い彼女連れてたら自慢でしょ? これもメリットのひとつよ。顔だけっていうのが嫌なら自分を磨けばいいの」
「・・・うん」
少々強引な理論のような気もするけれど。
母の言葉には正直負けたと思った。頷いて、いくらか納得している自分に気付く。
「佐山さんとなら可愛い孫が生まれそうよね。お父さんみたいな顔じゃないから安心して期待できるわ」
「っ、お母さん!! もう出てってよ!!」
熱くなった頬を必死で隠して、かなり無責任な言葉を吐いた母を部屋から追い出した。
ドアがきっちりと閉まったのを確認して、床に置かれたままの携帯に目をやる。
真珠色のそれが、唐突に光る。
小さな液晶が緑色の光を発しながら、軽いメロディーを奏でていた。
「あ、メール? 電話?」
慌てながら手に取ったそのディスプレイには、佐山の名前が浮かぶ。それから電話の絵柄も一緒に。
「っもしもし!?」
「はは、声上擦ってんぞ」
明るい彼の笑い声が耳に響く。焦りと緊張に支配されたこちらの様子がどうやらバレているようで。
「えと、何? 私、なんか忘れた?」
向こうだけが余裕、その悔しさも味わいながら。
できるだけ静かな声を出すことに専念した。
「いや、別に。せっかく携帯買ったんだから使った方がいいだろ?」
どくん、と心臓が音を立てる。
何気なく紡がれたそれは、とても優しくて。
「それとも何? 用がないなら電話すんなって?」
「っちがうよ! ちがう、けど・・・」
からかいを含んだ声に急いで否定をする。
突然の電話に、心の準備などする暇がなかった。
「・・・違うけど?」
こうやって、顔の見えない距離で。
声で優しくするのは、とてもずるいと思う。ひとりで心臓の鼓動を早めて、ただ甘い毒が廻るだけ。
「・・・佐山さんが、用もないのに電話する人だと思ってなかったから」
「あー、そうかもな」
あっさりと肯定する彼に。
じゃあ何で今電話したの、と聞くことは。
恥ずかしくて、できそうにない。
「でも俺的には楽しいけどな。お前の慌てる声も聞けたし?」
「っ、なんか意地悪・・・」
「そうか? んじゃ、切ろうか」
「やっ、ダメ!」
急に気のない声音に変化した彼の声は、その意思すら見せずに通話を終えようとする。思わず必死で引き止めた自分は、どうもいつもの調子が出ていない、とそれを口にしてから気付いた。
「・・・可愛いこと言ってくれるねぇ、京子ちゃん」
ふ、と溜息と笑いが混じったような音を吐いてから。
口調はからかうそれに戻ったのに、どこか艶めいて耳に残る低い声で彼は言う。
「あー、お前、どこか行きたいところあるか?」
「え・・・ううん、特にない」
「じゃあ、次のデートは水族館な。来週の日曜」
シフトした話題はいきなり次の約束へ。
決定事項としてもたらされるそれに少々驚いた。
「・・・なんで水族館?」
「サメ見たいから。あと美味いマグロ食いたい」
「ふーん・・・でも私、バイト入ってるから」
「あーそうか、お前販売コーナーもやってるんだっけ・・・じゃあその次の土日は?」
彼がやりたいと思うことに付き合うのは、決して苦ではない。むしろ、それを一緒に楽しみたいと思っているけれど。無邪気を装ったようなその言葉が、どこか引っかかる。
「土曜日、休み。だけど午前中は学校だよ?」
「問題なし。午後からでいいだろ、迎えにいってやるから」
「うん・・・」
畳み掛けるように決められていく、それ。
「・・・なに、やっぱり嫌?」
「ううん、嫌じゃないよ。水族館好きだし」
「それなら楽しみにしとけ。・・・次バイト来るのは明後日か?」
「うん。四時からね」
短い返事に訝る彼に、気になっている事を問わないまま答えれば。
またも違う話題に変えられる。
「じゃあ明後日な、京子」
「っ、うん、ばいばい」
そろそろ切るのだろう、と判ってはいたが。
まさかここで名前を呼ばれるとは思わなくて。恥ずかしさの勢い任せに、こちらから電源ボタンを押して切ってしまう。きっと今頃、変な奴だと思っているのだろう。
「まさか、ね・・・」
彼が唐突に言い出した次のデートの話。
それは偶然なのだろう、と思うことにした。
そうでないと、心臓がもちそうにない。
それから、自惚れたくはないから。
偶然だと、何度もそう言い聞かせることにした。