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第七話    美大の友人 2

 築何十年だかは不明だが、いまどき、映画でも見かけないような昭和の木造住宅。そこは代々男子美大生がルームシェアしている広い敷地の一軒家だ。

 雨戸が木製の引き戸だったり、縁側があったり、渡り廊下があったり、洗面所がタイル貼りだったり、俺たちの世代には、この家のそこかしこがカルチャーショックだ。

 いろんな時代に何度もリフォームしたのか、部分的に現代的な所もあって、家自体がパッチワークのようだ。土間まであるから、最初に建てられたのは戦前なんじゃないのかな。

 子どもの頃から住み慣れた家は、シンクに食洗機が備わっていて、床暖房があり、窓はペアガラスだ。

 祖父母の家も似たようなものだから、こんな古い木造住宅を体験したことがない。なのにどうして、懐かしいと思うのだろう。

 そして俺は、なぜかこの家が妙に気に入っている。

 林原のモデルを引き受けたのも、半分はこの家が目当てだった。ここに来るときは、必ずカメラを持参するのだから、我ながら正直すぎて呆れる。

 ルームシェアは、それぞれ専攻で部屋が割り振られている。

 一階は林原と日本画。二階は彫刻がひとりとデザインがふたりだ。油絵と日本画は部屋で絵を描くから、でかいキャンバスを二階に運べないのだ。

 林原の部屋のふすまを開けた途端、テレピンオイルの匂いに蒸せそうになった。

 石油ストーブで部屋が暖まっているから、余計に匂いが強烈なようだ。

「よお、急に無理いって、悪かったな」

「家にいても退屈だから、いいよ」

 林原の油絵は、最後に見たときより、かなり進んでいた。

 俺には、その絵がなぜ行き詰っているのか、さっぱりわからない。

「もう、完成じゃないのか?」

「まだだよ。弾けた感覚がないから」

 林原はよく、こんなことを言う。絵の具を重ねて重ねて、仕上がってはいくんだけど、もやがかかっているときはまだ、筆を置けないそうだ。あるとき突然、頭の中で弾けたような感覚が起こって、そこから急に自分の表現したかった絵が、形になっていくのだという。

 写真は、シャッターを押せばそれ以上できることはない。

 シャッターを押すまでの知識と感性がモノを言う。

 俺には絵心がないから、林原の言ってることが、すべては理解できないけど、妙に羨ましい気分になる。

「すぐ描き始める?」

 絵の中の俺は、上半身裸で背中を向けている。すぐ描くなら、脱がなきゃいけないから訊いたのだ。

「いや。ちょっとしてからにする」

 このちょっとしてからが、三十分のときもあれば、三時間のときもある。ならば、二時間半後に来ればよかったんじゃないかと訊くと、筆で描いてないときも気持ちで描いているから必要な時間だそうだ。

 絵と写真はまったく違うけど、そういう感覚は共感できるから、甘んじて受け入れてはいるけどさ。

 いつも座る場所に胡坐を組んで腰を下ろす。

 林原が淹れてくれたコーヒーを受け取った。淹れてくれたといっても、カップにインスタントコーヒーを適当に放り込んで、石油ストーブの上に乗せたやかんからお湯を注いだだけのものなんだけど。

 ジーンズに着古したトレーナー。そして元の色がわからないほど絵の具で汚れたエプロン。これが、この部屋で絵を描くときの、林原のスタイルだ。

 高校のときは、俺と似たようなカテゴリーに入る外見だった。やや長身で細身。目立って違反することはしないが、優等生でもない、どこにでもいる普通の高校生ってカテゴリーだ。

 だが、大学に来てから林原は男臭さを増した。体型に変化はないが、攻撃的な印象になったのかも。

 俺は相変わらず守りの印象が強いんだよな。身近な友人の成長や変化は、頼もしくもあり、寂しくもある。そしてなにより、羨ましい。

 しばらく、お互いの近況を報告し合っていると、ふいに林原が躊躇いがちに「あのな」と改まった口調になった。

「こないだ、武智たけちから電話がかかってきた」

 武智も林原同様、高校の同級生だ。高校時代は三人でよくつるんでいたが、武智は地方の大学に進学したので、最近は疎遠になっていた。

「へえ、あいつ、元気にしてた?」

「元気は元気だったけど、大学、中退したって」

「ええ? なんで?」

 あと一年ちょっとで卒業できるのに、どうしたんだろう。

「あのさ、これは武智からお前に言ってくれって頼まれたんだけど……」

 林原は言いにくそうに言葉を詰まらせると、煙草に火を点けた。

「…驚くなよ」

「なんだよ」

「武智、性同一性障害だったんだって」

「は?」

「家族と縁切られて、いま女装して、その手の店で働いてるそうだ」

「……………」

 俺は言葉を失った。

 ストーブの上のやかんが、しゅんしゅんと音を立てていた。林原が吐く煙草の煙が揺れるのを見て、はっと我に返った。

「……で、でも、でもあいつ、そんなそぶり、全然なかったぞ。むしろ、俺らより男らしかったじゃないか」

 どうにか、気を取り直して疑問をぶつける。林原の口調からは冗談とも思えなかった。それでも、冗談だよと笑い飛ばしてほしい気持ちでいっぱいだった。

「うん。でも、高校のとき、男としてふるまうのが辛かったって」

 そうだったのか。全然、気がつかなかった。

 運動神経が良くて、体格も男らしいやつだったけど……。でも考えたら、武智は誰ともつきあったことなかったし、その手の話に混ざることもなかったな。

 硬派だと女の子からモテてたのに、なんで、どうして、と頭の中がグルグルする。

 俺は頭を掻き毟って、ぬるくなったコーヒーを喉に流し込んだ。

 こんなときは、酒でも飲みたいよ。でもこのあと、モデルのお勤めがあるしなあ。

 正直、武智が女装しても全然似合わない。不気味になるばかりだろう。俺は溜め息をついて肩を落とした。

「あいつ、本当はお前に訊いてもらいたかったみたいなんだよ」

 俺もそれは疑問だ。武智は林原よりむしろ、俺と気が合ってたはずなのに。

「惣介は頭が固いから、言いだせなかったみたいだぜ」

「う~ん、俺って頭、固いかな?」

「そうだな。なんていうか、まっすぐだろ。常識的だし」

 常識的っていったって、そんなのだれでもそうなんじゃないのか。

「でもまあ、俺より林原の方が告白しやすかったんなら、そうかもな」

 林原はおおらかだ。

 美大に行ってるだけあって、柔軟性に富んでるし。なんでも受け止めてくれそうな、度量の広さを感じるよ。大雑把ともいうけど。

 だけど俺だって、高校時代の友人からカミングアウトされたからって、「うわ、気持ち悪い」なんてことを思うつもりは、毛頭ないんだけどな。理解はできなくても、話を訊いてやって、励ますくらいならできるのに。

「林原が訊いてやったんなら、それでいいさ。武智、どんな感じだった?」

「やっと楽になったって言ってたよ」

「そうか。なら、よかった。あいつもこれからが大変だろうな。しかし、案外多いんだな」

「なにが?」

「性同一性障害。写真部の後輩にもひとりいるんだよ」

「マジで?」

「うん」

「もしかして、あいつか? 名画の責任者の……?」

「佐々木じゃないよ」

 武智とイメージが重なるから、そう思ったのかな。武智は佐々木ほど熊じゃないのに。

「毎日、女装して大学来てる」

「すごいな。問題とか起きないわけ?」

「うん。ていうか、女にしか見えないんだよ、その子の場合」

「へえ。じゃあ、手術済みとか?」

「手術はしてない。夏に話したときは、来年、手術して戸籍も変更するって言ってたけど、やめるみたいだ」

「なんで?」

「彼女ができたから」

「は? 性同一性障害で、女装してて、彼女できんの?」

 林原は短くなった煙草を灰皿に押し付けると、驚いた声をあげた。

「相当、すったもんだしてたけどな」

「そりゃそうだろ。しかし、そんなややこしいやつに彼女ができて、なんで俺には回ってこないんだよ」

 嘆く気持ちはわからなくない。俺も最近はシングルだし。

「なあ、女にしか見えないって、どんな感じ?」

「どんなと訊かれても、難しいな。あ、お前、見たことあるよ」

「いつ? 学祭?」

「ああ」

 頷く俺に、林原は首を傾げた。

「俺、写真部の部員、紹介してもらったの、あいつだけだぞ」

「直接会ったんじゃないよ。写真展、来ただろ」

「そりゃもちろん」

「俺の写真、覚えてる?」

「そりゃもちろん……お、おい、まさか…?」

「あの写真のモデルが、その子だよ」

「マジかよ、ありえねえって」

 林原は目を丸くして呆然としている。

「だよな。俺もまだ、たまに混乱してるよ」

「てっきりプロのモデルか、グラビアアイドルかと思った」

「学生がどうやってプロのモデルを雇えるんだよ」

 俺は苦笑して肩を竦めた。

「あれだけ可愛い子をあんな風に写して、惚れてしまいそうにならないのか?」

「可愛くても男だぞ。どうやって惚れるんだ?」

「惣介、お前、本当にまっすぐだな。潔癖症か?」

「なに言ってるんだよ。普通だろ」

「うーん、あ、そうだ。日本画の女子が話してたことでためしてやるよ」

「なにそれ?」

「もし世界に人間が自分を含めて三人だけだったら、という過程なんだ」

「ふうん。女の子が好きそうな話だな」

「ひとりは醜い老女。もうひとりは美少年。どちらかを恋愛相手に選ばなきゃ死ぬとしたら、どっちを選ぶ?」

「? 老女だろ? 美少年を選ぶ奴なんかいるのか?」

「オレは美少年だぞ」

「ええ? なんで? 友達ならわかるけど、恋愛相手だろ?」

 恋愛の対象を選ぶなら、年齢や容姿や性格以前に、まずは女でなければ話にならないではないか。もちろん、世の中に同性愛者がいることは知っているが、それはごく稀な人たちだけのことであって、俺らみたいな人間とは、縁のない話だと思っていた。

「オレは綺麗な方がいい。ちなみに、日本画の女子でこの質問をしたんだって。老女を老人に、美少年を美少女に替えて。そしたら、美少女を選ぶ子の方が、はるかに多かったらしいぞ」

「マジで? あ、でも、美大だからじゃないの?」

 美を追求する学生なら、美しさに比重を置くのかな。

「日本画の女子は、美大の中でも、かなりまともなんだぞ」

 じゃあ他の専攻はどうなんだよ、怖ろしいな。

「でもそう思うなら、経済学部で訊いてみろ」

「全員、俺と同じだと思うけどな……」

「どうかな~。さてと、そろそろ、描いてもいいか?」

「俺はいつでもいいぞ」

「じゃ、脱いで」

「襲うなよ」

 さっきまでの話が話なので、俺はふざけて言った。

「もうちょっと美少年だったらよかったんだけど、惜しいな」

 林原もノリがいい。

「失礼だな。俺のどこが美少年じゃないんだよ」

 切り返しながらも、可笑しくて笑いが止まらない。

「惣介は美少年というより、好青年だから、色気はないんだよな」

 林原は小首を傾げながら、ぽそりと呟いた。

 不本意だと文句を言いながら、このセリフを篠崎部長や佐々木が訊いたら、大笑いしながら頷くんじゃないかと思えて、ちょっと虚しかった。


 一端、キャンバスに向かうと、林原の集中力は半端じゃなかった。

 ひとが変わったように真剣な表情になる。

 絵はすでに、かなり描き込んであるので、モデルといっても最初の頃のような、長い時間動けないわけではなく、イメージを再確認しているようだった。

 しばらく俺の背中を睨みつけていたかと思うと、キャンバスに向かって唸ってみたりする。なかなか筆は進まないようだった。

 そんなことを繰り返しているうち、林原は、突然描き始めた。

 モデルは休憩していい、しばらくしたらまた頼むと言われたから、俺は服を着て、絵の後ろに回った。

 林原の絵は、具象とも抽象ともいえるような、曖昧な表現だ。だからこそ、描いている最中なのに、モデルを続ける必要がないのだろう。

 絵の良し悪しはわからないから、口は出さない。

 だけど、煙草をくわえながら筆を持つ横顔は、俺が知る林原の姿の中で、一番輝いている顔だ。

 俺は、持って来たカメラで、その姿を収めた。

 集中した林原が、シャッター音に反応しないのは、いつものことだった。この家が火事になっても気がつかないのではないか、と思うような情熱だ。

 俺にないのは、こんな激しさなんだろうな。男として、置いて行かれているような寂しさを感じた。

 武智はどうだったんだろう。

 俺や林原と一緒にいて、疎外感を味わってきたんだろうか。

 俺は、高校時代の精悍だった武智を思い出した。もう二度と、あの姿で会えることはないのかな。

 そう思うと、大切な友人をひとり失ったような寂寥感が込み上げた。



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