最終話 それぞれの七年後
着慣れない白いタキシードに身を包まれた俺は、数年ぶりに会う親戚と挨拶を繰り返して、いささか疲れた。ようやくひとが途切れて、大きく息をつく。
ほっとした気分でホテルの窓から外を見上げた。
朝晩は、まだ少し肌寒さが残る三月。ビルの隙間から見える空は晴れていた。
ノックの音が響いた。
「編集長、いま、いいですか?」
控室の扉は開いた状態で固定されている。声の主はそのまま入ってきた。その相手に、小さく手を上げて言葉をかけた。
「松浦、悪いな。来客なのにカメラマンしてもらって」
「いえいえ、立候補したんですから。それより、ご結婚、おめでとうございます」
「ありがとう」
会社で、すでに交わしてきた挨拶を、あらためて交わした。
使い込んだカメラを首から下げているが、水色のフォーマルドレスを身にまとっている。普段、見慣れないせいか、なかなか可愛らしい。年はひとつしか違わないけど、もっと年下に見える。今日は結婚式ということで、きちんと着飾っているから、これでも大人びて見えるくらいだ。
彼女は松浦碧。かつて、大学の後輩だった女の子も、いまは俺が務める出版社の部下だ。
どうも碧とは縁があったらしい。
卒業して一年は会うこともなかったが、碧は大学を卒業して、俺と同じ出版社に就職した。それでも最初、碧はヒストリーノベルズの部署にいたから、俺とは階もフロアもまったく別で、たまに社員食堂で見かける程度だった。
だが一昨年、やはり写真にかかわる部署で仕事がしたいと移動願いを出して、俺と同じ雑誌の担当になったのだ。
大学時代は「碧ちゃん」と呼んでいたが、直属の部下をそう呼ぶわけにもいかず、自分と同じ苗字を呼び捨てにしている。最初はやりにくかったが、割り切っているうちに、すっかり慣れた。
「見てもらえます? 控室の花嫁を少し撮ってきたんですけど、こんな感じでいいですか?」
液晶に映し出された画像を、首を伸ばして覗き見る。斜め後ろやレースの手袋、鏡に映った姿など、碧らしい、ドラマチックなアングルが多い。決して人物だけを主役にしない写し方は、俺には、なかなかまねのできない才能だ。
化粧を施されている姿も写っていて、カメラマンが女性でなければ写せない写真もあった。
「ありがとう。やっぱり、君に頼んでよかったよ。碧ちゃん」
「うわ~、碧ちゃんとか懐かしい~。えっと、編集長が大学卒業して…六年ですか?」
「そうだね」
「碧ちゃんと呼ばれたから、あたしも『部長』と呼びたいんですけど、なんか部長と呼ぶより、副部長と呼ぶ方がしっくりきますね」
「あの年は、いろいろあったからね」
それに、サークル自体、活動は副部長が中心なのだ。部長を務める四年は卒論や就活でいないことも多いから、存在感は副部長時代がより強い。
あの当時の写真部員で、いまも頻繁に会うのは、碧と亜衣くらいだ。
佐々木は卒業後、JRに就職した。年賀状のやりとりだけは続いている。祖父が国鉄職員、父親がJRというから、由緒正しい鉄道マニアの血筋なんだろう。双子の弟も私鉄に就職したらしい。
さくらは大学在学中に、ホラー小説を書いて新人賞を取るという偉業を成し遂げた。続編も評価されたが、そのあと書いた小説は駄目だったようで、普通に就職して営業事務の仕事をしている。自分が書きたかった話は形にできたから、と落ち込んでもないと訊いた。
篠崎部長は、結局、長年連れ添った彼女と別れた。大学にいたときから、そんな予感はあったから覚悟していたらしい。どうも、自分の母親と彼女の性格が合わなくて、もし無理に結婚していても、うまくいかなかっただろうから別れてよかった、と笑って話してくれた。
「…なあ松浦、柚希は? 一緒に来たんだろ?」
あの当時、柚希ちゃんと呼んでいた俺だが、さすがにいい年の男に、ちゃんづけというわけにもいかないので、卒業後は呼び捨てにするようになった。
「いえ、瀬戸さんはあとから来るんです。もう、そろそろ着いてるかも。頼まれていたウエディングブーケが生花だし、出来るだけ遅い方がいいって」
ホテルでもちゃんと対応してくれるブーケだが、俺の花嫁は、どうしてもこだわりがあったらしくて、柚希に頼んで作ってもらい、持ち込むことにしたのだ。
柚希の経歴も面白い。柚希は法学部を卒業後、美大の大学院に進んだ。少なからず、林原の影響を受けたのだ。
美大ではデザインを専攻して、いまはデザイン事務所に就職している。将来は、インテリアデザイナーとして、独立できるんじゃないのかな。M大在学中からセンスの良さは際立っていた。
碧から話を訊いているから身近に感じているけど、最近は俺も忙しかったし、タイミングも悪くて、柚希とは一年くらい会っていない。
「編集長、そろそろ花嫁の控室、行ってみません? ふたりで揃ってる写真も撮りたいんですけど」
「ああ、わかった」
花嫁の控室に入ると、柚希がブーケを届けに来ていた。肝心の花嫁は、来客への応対で忙しそうだ。高校の友人に囲まれている。
俺は柚希に足を向けた。
「久しぶりだね。元気だった?」
「はい。ご結婚、おめでとうございます」
「ありがとう。正直、君らより先に結婚するとは思ってなかったけどね」
「そうですか? 私は予想通りですよ。なにしろ、最初に会ったとき、宣戦布告されましたから」
そういえば、そんなこともあったな。俺は苦笑して柚希の姿を眺めた。
「今日は、男装してきたんだね」
男に男装という日本語はおかしいか。
フォーマルな姿は正式な式服だけど、肩幅が細いのは相変わらず。髪は以前ほど長くないけど、ミュージシャンかアーティストを彷彿とさせる長さだ。
亜衣の結婚式のときは振袖だった。亜衣と柚希の母親が結託して準備したと、訊いた覚えがある。柚希はおおいに憤慨したが、今日の服装より似合っていた。
「さっき、亜衣にホストみたいだって言われました」
ホストにしては上品な佇まいだけど、まあ、ちょっと言えてるかな。
「林原さんには、すっぴんの宝塚って言われるし……」
俺は思わず笑ってしまった。大学時代、美少女にしか見えなった柚希も、いまは多少、中性的な印象になってきた。というのも、大学に在学していたときに、身長が4センチくらい伸びたのだ。碧と並ぶと、かなり差ができた。
「ショーゴさんに頼むと、これだから……」
柚希は服のせいにしているが、服は普通のフォーマルだって。罪はないぞ。
ショーゴさんというのは、カフェバー、ジュルックのオーナーで、柚希の母親の元夫…つまり、柚希の父親だ。店長の兄にあたるらしい。店自体、俺たちは妙に気に入ったから、在学中も卒業してからも、ちょくちょく通っている。
実は現在、高校時代の友人、武智があの店で働いているのだ。
武智は一時、大変だったみたいだけど、いまは同性のパートナーと一緒に生活している。性同一性障害っていうより、単なるゲイだったようだ。単なるというのは表現が変だが、似合いもしない女装をして気味悪がられるより、同性愛者の方がはるかに救いがあるように思える。
今日の二次会は、ジュルックを貸切りにして行う。武智にも久しぶりに会えるはずだ。
窓際の花嫁が、ようやく来客の挨拶から解放されて、こっちを振り向いた。
「惣介さん、どう? 変じゃない?」
「大丈夫だよ」
可愛い。素直に思った言葉が出てこなかった。こんなときなのに、俺は口下手だ。
「碧さん、花嫁の姿に、なにか思うことない?」
背後で柚希が碧に問いかけている。
「すっごく綺麗。なんか感動的だよね。亜衣ちゃんのときも思ったけど」
「あの、それで……?」
「瀬戸さんのウエディングドレス姿も、見てみたいなあ……」
「…………碧さん…」
俺は肩を震わせて、爆笑しそうになるのを堪えた。柚希には気づかれて、睨まれてしまった。
「ごめん、ごめん。でもなんていうか、大変だな。同情するよ」
本当にもう、このふたりは、いつまで経っても面白い。
柚希は碧に『あたしも結婚したくなった』なんて台詞を期待していたんだろうなあ。
俺がM大写真部で副部長を務めていたころから、七年……。このふたりの関係が、一番スローペースだ。
相変わらず、瀬戸さん、碧さんと呼び合っている。変化したことと言えば、柚希が敬語を使わなくなったことくらいだ。
碧はいまでも時々、柚希が女でもいいと思うらしいし、柚希も普通の男になれそうでなれない。
だけど、碧はよくわからないが、柚希の方は結婚したがっているように見えるんだよな。
その柚希は、本人の地味な性格とは裏腹に、どこまでも特殊な状況に巻き込まれる。
美大の卒業式というのは風変りで、卒業生の女子の中からひとりを選ぶ。キャンパスクイーンみたいな意味合いらしいんだが、選ばれた子は卒業式で花魁道中をするんだ。俺の担当している雑誌でも毎年、特集を組んで取材してるんだが、柚希はそれに選ばれた。
院生で選ばれたのも、男で選ばれたのも、柚希が初めてだ。しかもそれが、史上最高に美しい花魁道中だったから、その年の卒業式はめちゃくちゃ盛り上がった。それが一昨年だ。今後、伝説として語り継がれるだろうと言われている。
そのとき碧が呟いた台詞は「瀬戸さん、あんなに綺麗なのに、なんであたしのこと好きなんだろう」だった。碧のあと押しで花魁道中までした柚希は、ずいぶん落ち込んだそうだが、二年経ったいまでは、いい思い出になっているだろう。
このふたりの時間の流れは、特別、ゆっくりなのかもしれない。
碧から昔、訊いたことを思い出す。
『結婚って遠い将来を拘束する約束でしょ。残酷だと思いませんか』
確か、そんな感じだった。
そうだけど、でも、拘束されるのは悪くないよと、いま言いたい。身も心も安心できる場所を見つけられるんだと、碧に教えたい。帰る場所に、一番大切なひとが待っているのが当たり前の生活は、決して残酷なことではないんだ。
「編集長、もうちょっと花嫁に近づいてください。写真、撮りにくいし」
「はいはい」
カメラマンが親しい部下だと、容赦も遠慮もない。俺は花嫁に近寄って、ウエディングブーケに視線を落とすと「あっ」と声をこぼした。
「覚えてた?」
「こだわりたかったウエディングブーケって、これ?」
「うん」
普通、ウエディングブーケは白やピンクが多いはずだけど、花嫁が…凜が持っているブーケは、黄色とオレンジ色のバラだった。
「惣介さんが初めてくれた花束と、できるだけそっくりにしたかったの」
凜がバレエで踊った舞台を初めて観に行ったとき、亜衣が友人に花束を買っていたので、俺も買って凜に贈った。自分で選んだ花でもなかったし、直接渡したわけでもなかった。それだけだったら、すぐ忘れてしまう程度の出来事だった。
だけどその花束を持って写した写メールのデータを、俺は携帯が変わってもずっと、消さなかった。
何度も見返したから、その花束も忘れなかったんだ。
もちろん、あのときあげた花束と同じではない。あれを忠実に再現してしまったら貧弱で小さすぎるし、花束には欠かせないかさ増しのかすみ草が、ブーケには似つかわしくないんだろう。ホテルで頼んだら、凜の希望はことごとく却下されていたかもしれない。だから、柚希に頼んだのか。
かすみ草を目立たないように少なくして、花の数を多くしてある。柚希も工夫してくれたみたいだ。
「凜ちゃん……」
「今日から、凜でしょ」
「そうだったね、凜…」
「二度目だね」
「二度目?」
「惣介さんが凜って呼ぶの」
「そうだっけ?」
前に、一度でも俺が『凜』と呼び捨てたこと、あったのかな?
「バレエのレッスンに初めて迎えに来てくれたこと、あったでしょ。あのとき、先生に言ったんだよ。『凜がいつもお世話になってます』って」
そんなこと、あったかな。迎えに行ったことは覚えている。そのとき、そんな会話したのかな。でも、先生にそう言ったのは、納得できる。迎えに来て連れて帰るつもりなら、そんな挨拶のしかたになるだろう。
「惣介さん、大人なんだなって、凄くかっこよくて、びっくりしたの」
なんでもないことなのに、凜は心の中で大切にしていてくれたのか。なんだか、照れくさい。
昔のことは、覚えていることも忘れていることもある。だけど、写真はすべての姿を残してくれる。完全な記録を留めてくれる。写真がなければ、このブーケは違うものだったかもしれない。凜があのとき、あの写メールを送ってくれなかったら、俺はこのブーケの意味に、気づきもしなかっただろう。
俺はあの頃ほど、写真を撮らなくなった。凜もいまはもう、踊ってない。でも、俺が撮った、踊っている凜の写真を見れば、あのときの思い出が、色鮮やかによみがえる。
あの舞台写真は、俺たちの歴史の一枚になった。
これから、数えきれない写真を、凜と…そして、将来は増えるかもしれない家族の写真を重ねていけることに、心から感謝したい。
「オッケーでーす。じゃあ、式場でガンガン写しますので、誓いのキスは長めでお願いします」
シャッター音がようやく止まったと思ったら、カメラマンの要求は恥じらいがない。
「松浦、そこは適当でいいから」
「なに、言ってるんですか。一生に一度なのに。あ、亜衣ちゃん、林原さん」
碧の言葉で、俺は視線を扉に向けた。
「惣介、おめでとう。凜ちゃん、これからもよろしく」
「はい。こちらこそ」
「松浦さん、おめでとうございます。うわあ、凜ちゃん、可愛い~。若いなあ」
そりゃ、十八歳だから……。
「亜衣ちゃん、本当に大丈夫だった? 林原だけでもよかったのに」
「大丈夫です、まだ八ヶ月だし。つわりのときより、今の方が調子いいんですよ。さすがに、二次会は無理ですけど。あ、そういえば、二次会の幹事はさくらさんと佐々木さんなんですよね。やっぱり、行きたいなあ……」
「こらこら、駄目だって」
林原が隣で苦笑する。
林原は、念願かなって亜衣と結婚した。最後は亜衣が根負けした感じだったけど、幸せそうな様子にほっとする。しかし、この頼りない男があと二ヶ月もすれば父親か。大丈夫なんだろうか。
みんなが出て行くと、控室は急に静かになった。
俺は、あらためて凜を見つめた。本当に綺麗だ。
あの幼かった少女に、俺はずいぶん、急がせてしまったのかもしれない。
「凜ちゃ…いや、凜、俺はずっと後悔していたことがあったんだ」
「え?」
「君が五年生だったとき婚約解消したこと、ずっと後悔してた」
「あたしは、婚約解消して、よかったと思ってるよ。だって、惣介さん、ちゃんと口説いてくれたし、プロポーズもしてくれたもん」
そうか。そうだね……。
きっとすべてが、必然だったんだね。
俺たちは、少しも順調じゃなかった。
俺は誠実に君の成長を待っていたわけではなくて、何度も君をあきらめかけた。婚約解消したあと、ほかのひととつきあったし、親に紹介しかけたひともいたよ。
君は高校のとき、部活の先輩に告白されて凄く悩んでいた。
俺は君のことになると、まるでおとなげなくて、何度も言い合いになったし、喧嘩もしたね。
だけど、あきらめきれなかったんだ。君以上に、恋を感じるひとには出会えなかったから。
理解してもらえないことも、理解できないことも多かった。年が離れているから、些細なことでぶつかり合った。いつかこの年の差を忘れてしまえるくらい年を取れたら、幸せだろうなと思う。
君は来月からM大生だね。
俺が過ごしたあの思い出深い場所で、君の大学生活が始まるんだね。
ごめん、凜。
君が大学を卒業するまで、待ってあげられなくて。
それから、ありがとう。生まれたときから、俺のそばにいてくれて。俺を選んでくれて。
もう、急いで大人にならなくていいから。俺のあとを追いかけて走らなくていいから。
これからは、君の手を繋いで歩くよ。俺が君の歩幅で歩くから。
きっと、幸せにするよ。
ずっと君を、守って生きていくよ。
どんなことがあっても。
じゃあ、そろそろ行こうか。
同じ命のかたちの君と、愛を誓いに……。
了
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
終わってみれば、とってもベタで王道なハッピーエンドだったような気もします。
肝心の恋愛真っ只中の部分は、完全に抜けておりますが…(笑)
ご感想、ご指摘、なんでもお寄せいただけると嬉しいです。
あまり構ってもらえなくて、寂しくしてますので(笑)