第四十七話 婚約解消
小学校も大学も春休みの昼下がり、凜からのメールで、明日、勉強を見て欲しいと頼まれた。空いている時間をメールで返信すると、その時間に来ると返信が来た。
翌日、俺は勉強道具を持って来た凜を、リビングではなく、自分の部屋に上がらせた。春めいた気候で、服装がずいぶん薄手のものになっていた。
「手術の跡はどう? まだ痛い?」
教材を広げる凜に、術後の経過を尋ねた。あの手術から、今日で五日だ。
「痛くはないよ。でも引っ張られてる感じがするの。しばらくはバレエもできないんだって」
「そっか」
俺は、婚約が解消されたことを凜に話すことにした。母親から訊いているかもしれないし、わざわざ言う必要があるとは思えなかったけど、ちゃんと直接話しておくべきだと判断した。
「婚約、解消になったよ」
凜はぴくりと肩を動かした。唇をかんで、小さく頷いた。やはり、母親から訊いていたんだ。
「あたし、早く大人になりたい……」
「凜ちゃん……」
「だって惣介くん、あたしが大人になるまで、待ってくれないんでしょ?」
「…うん、ごめん……。でも、凜ちゃんが大人になったとき、俺はおじさんになってるんだよ」
「…いいもん」
「待つ約束なんて、できないよ。それに、凜ちゃんはだれを好きになってもいいんだ。これからもっと、たくさんのひとに出会うんだから。いまは日直の仕事もふざけてしない翔太くんも、俺よりかっこよくなるかもしれないんだよ」
いま俺が君を好きになることは、許されないことなんだよ。どう言えば、そう伝えることができるんだろう。
「…惣介くん、ずるい……」
「ごめん……」
本当に俺は卑怯で情けない男だ。君への気持ちが恋であると認める勇気もなければ、何年も待つ覚悟もないんだ。そして、待てない理由を、凜の年のせいにしている。いいお兄さんを気取って、印象よく身を引いて、可能性を残そうとしている。
だけど、君への想いが恋だと確信してしまったら、どんなことがあっても、放せなくなりそうなんだ。いまじゃないと、逃げることもできなくなりそうなんだ。
「凜ちゃんがだれとつきあっても、だれと幸せになっても、駆けつけるよ。もし君に輸血が必要なときは、必ず駆けつけるから」
「あたしだって、惣介くんのピンチには血をあげるよ。凜がいてくれてよかった、って言わせるから」
「そうだね。俺たちは、同じ命のかたちだから、頼りにしてるよ。それから……」
「…それから……?」
「ときどき、写真のモデルになってくれる?」
凜は驚いたように目を見開いた。視線を机の上のフォトフレームに移す。フレームの中に、自分が踊っている写真を見つめて、そして微笑んだ。
「うん。いいよ。なってあげる。特別サービスで」
「ありがとう」
俺たちは、ようやく笑い合った。
許嫁が凜だと教えられたのは、この部屋で、本人からだった。今またこの部屋で元の関係が始まるのは、少し、不思議な感じがした。
こうして、俺と凜の婚約期間が終わった。長かったようで短かった。
俺は凜を手放したんだ。
遠い先の時間を拘束する約束から、解放してやることができたんだ。
これが俺の正義だと信じたい。
あのとき、アイスクリームを食べる凜と一緒に写した写真が、最初で最後のデート写真になった。あの写真を撮りたいと言った凜は、俺よりずっと優れたカメラマンだったんだ。
そういえば今日は三月三十一日だ。俺がM大写真部副部長の肩書きでいるのも、今日が最後なんだ。
ここ数ヶ月、部長が特になにかをしてくれたわけじゃなかった。でも、自分の上にいてくれるだけで、安心できた。意見を言ってくれたり、頷いてくれるだけで、充分だった。
もう卒業式も済んでいるのだから、部長も副部長もないけど、明日から肩書きが部長になってしまうのは、なんとも心許ない気分だ。
これからの写真部は、悩んだ末に、副部長を譲った佐々木が中心になって頑張っていくだろう。
頑張りすぎて、写真部が鉄道写真部にならないことを、ひそかに願う。まあ、碧とさくらがいるんだから、そんなことにはならないか。佐々木も最近は、いろいろと被写体を広げているし。
舞台撮影でもらったお金は、話し合った結果、俺と柚希と碧の分から出し合って、準優勝賞金に足してキャノンの魚眼レンズを購入した。残りはそれぞれで有難くいただくことにした。
このふたつの活動で、個人的に魚眼レンズを購入する必要がなくなった碧は、バイトを減らすことになって、柚希を喜ばせた。その柚希は春休みを利用して、車の免許を取るようだ。
とりあえず、明日からもこれからも、写真部の喧騒は続いていくに違いない。
半歩進んで二十歩下がる、みたいな、ヘタレ惣介の決断は、やっぱりヘタレでした~。
最初は、単なるギャグのつもりで許嫁を小学生にしたのですが、途中からジャンルを恋愛に変更したり、なんか大変な事態になってしまいました。
恋愛度が上がると、どうしてもシリアスが入ってきてしまいます。
この47話は短い話ですが、自分では、ちょっと気に入ってます。