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第三十七話  凜の分度器と柚希の帰宅

 柚希は窓辺に立って外を眺めた。

「この辺りって、高級住宅街なんですね」

「高級ってことはないけど、住宅街だよ」

「いいなあ。私ずっとマンションだったから、こういうの憧れなんです。庭のある家とか、夜、家にお母さんや兄弟がいるの」

 憧れるようなネタとも思えない。不思議なことを言うもんだ。

「お袋でも弟でも、好きなの持って帰っていいよ」

 家は困るけど……。そんなことを冗談交じりに話して笑っていたら、バタバタと階段を駆け上がってくる音が聞こえた。

 少なからず身構えていたのに、部屋の扉は開かず、代わりに隣の部屋から物音がした。

「あれ? 隣の部屋ですか?」

「うん。弟が帰ってきたみたいだ」

 まるで地獄耳だ。話題にのぼった途端、帰ってくるなんて。うっかり、悪口も言えやしない。

「松浦さん、ここから凜ちゃんの家は見えるんですか?」

「右斜め向かいの緑の屋根だよ」

「へえ、本当にすぐ近所なんだ。じゃあ、あの左のベランダの部屋が凜ちゃんの部屋ですね」

「え? なんで部屋とか、わかるの?」

「だってあの部屋、カーテンがピンクだし。角部屋だから、左側の窓も同じ部屋の窓でしょ? 窓辺にぬいぐるみがありますよ。たぬきかトナカイの。確か凜ちゃん、一人っ子でしたよね」

「…柚希ちゃん、君、刑事になれるんじゃない?」

「なに言ってるんですか。普通に気がつきますよ」

 柚希は窓辺から離れて苦笑すると、座布団にストンと腰を下ろして、紅茶を飲み始めた。

 俺は柚希の推理に感心して、凜の部屋を眺めた。そうか、あの窓だったのか。思いっきり、向かい合ってたんだな。よく、十年以上も気がつかなかったもんだ。

 しばらく見ていると、凜が玄関から出てきた。まっすぐこの家に向かってくる。チャイムを鳴らした。俺は鼓動が跳ね上がりそうになった。

 だが、雄介の部屋から物音がして、我に返った。バタバタと階段を駆け降りる音が響いた。

 凜は雄介に用事があって来たんだ。おそらく、宿題を見てもらう約束でもしていたのだろう。

 がっかりしている自分を叱咤するように、俺は首を振った。

「そういえば君、碧ちゃんに写させてくれって言われたんだって?」

「え?」

「初めて会った日に」

「ええっと…あ、はい、言われました」

「それで、どうしたの?」

「どうしたも、こうしたも、写させてくれと言われただけです」

「モデルになったりしなかったの?」

「できませんよ。碧さん、将来、妊婦になったらヌード写真、撮らせてくれって言ったんですよ」

「はあ?」

 碧が破天荒なのは知っていたつもりだが、初対面の後輩にそんな申し出をしていたのか。凄いな。その碧に恋愛感情を抱いた柚希も、著しく常軌を逸している。俺はなんだか、柚希が珍獣のように思えてきた。

「松浦さん、今日はありがとうございました」

 お茶を飲み終えて、柚希はコートを手に取ると、腰を上げた。

「もう帰るの?」

 さっきから二度ほど、雄介が階段を昇り降りしていた。この部屋に入ってくることはなかったが、どうも落ち着かない。柚希も居心地が悪かったのかもしれない。

「はい。たくさん見せてもらえて勉強になりました」

「碧ちゃんの写真が?」

「それもありますけど、他の写真も。実は行き詰っていたので」

「難しく考えすぎなんだよ。碧ちゃんを撮りたいなら、どんどん撮ればいい。君にしか撮れない碧ちゃんがいるんだから」

 柚希は驚いたように目を見開いた。そして、複雑な表情で肩を落とした。

「やっぱり松浦さん、凄いですね。敵わないなあ……」

「そう? 俺が一年のときに撮ってた写真なんか、全然、たいしたことなかったよ。林原も、君の写真は面白いって褒めてたし」

「おだてられると、図に乗りそうなんですけど」

「一緒に、カップル写真のモデルをしているときに張り切らなければ、図に乗っていいよ」

「モデル?」

「男とわかってても、ドキドキすることがある。下手したら佐々木の二の舞だ」

 柚希は「それは困りますね」と笑い声をあげた。俺も一緒になって笑ったけど、笑い事じゃないんだって、本当に……。


 階段を降りるとき、リビングから凜のはしゃいだ声が聞こえてきて、足が止まりそうになった。

 凜と直接会ったのは、舞台を観に行くと伝えたあの日が最後だった。舞台当日、凜からメールが届いて、翌日俺が、それに返信をした。

 それ以降は、就活と写真部に気を取られていたのだが、顔を見るのが正直怖くて、小学生の登下校の時間を避けていた。

 なんで近所の子ども相手に、こうも感情的になっているのか、自分でも不可解きわまりない。しばらく顔を見なければ、変な気の迷いから目が覚めるかと思っていたが、そう、うまくはいかないようだ。

 もしあのとき、許嫁の話を訊かなかったら、どうだったんだろう。結婚相手の候補と意識したから、こんな気持ちが湧き起ってしまったのだろうか。

 近所の子どもとしか思ってなくて、バレエの迎えに行って、写したくなったとしたら?

 写真を撮らせてもらって、感謝して、それで終わったんだろうか?

 それともやはり、こんな行き場のない感情を持て余していたのだろうか?

「うわ~、負けた~」

「雄介くん、弱いよ。三連敗じゃん」

 リビングの扉の向こうから、凜と雄介の会話が聞こえてきた。格子ガラス越しに、ふたりの様子が見える。どうやら、DSで対戦してるらしい。

「久しぶりで、勘が鈍ってるんだよ。もう一回、勝負しようぜ」

「雄介くん、弱いから面白くないよ。…あ、惣介くん」

 スリッパの音に振り向いた凜が、俺に気がついた。

「こんにちは。いらっしゃい」

 結構、露骨に避けていたのに、いざ顔を見れば嬉しくなって顔がほころぶし、言葉もなめらかに出てくる。

 我ながら、器用なもんだ。

「こんにちは。あ、えっと、柚希さん。お客さんって、柚希さんだったんだ」

「こんにちは。お邪魔してます。凜ちゃん、くるみ割りの中国、凄く上手だったよ」

 柚希は、凜がうちにいることにも、特に疑問は抱かないようだ。

「ありがとう。見てくれたの? あ、そっか。金平糖のお姉さんのお友達だったよね」

 なんか、ナチュラルに会話してるし。

 雄介は柚希を見て、顎が外れそうな顔で、呆然としている。考えていることがわかりやすい。またひとつ、家族に誤解が増えた。

「雄介、お前、小学生相手に、なにムキになってるんだよ」

「いや、だって、アイテムの効果とか忘れてて……、つーか、そんなことより、あの……」

 雄介の視線は、柚希に一直線だよ。俺と喋ってるのに。困ったやつだな。

「はじめまして。瀬戸です。写真部の後輩なんです」

「はあ、それは、お袋から訊いたけど、なんでこんな綺麗なひとが、兄貴なんかと……?」

「つきあってる、とかじゃないからな。念のために言うけど」

「あはは、雄介くん、柚希さんにうっとりしてる~。柚希さん、男なのに」

 凜がさらっと喋ってしまった。限りなく軽い口調で、限りなく重い事実を。

「えええええぇぇぇ~ッ!」

 お袋と雄介が、驚愕の悲鳴を上げた。まあ、驚くよな、普通。

 ふたりの様子に、凜がうろたえて瞳を揺らした。

「あ…あの……、内緒だった…?」

 消え入りそうな声の凜に、柚希は微笑んで首を振った。

「そんなことないよ」

 柚希はお袋と雄介を交互に見て、頭を下げた。

「誤解されてたら、すいません。紛らわしい姿で。私、男なんです。今日は、交際している彼女の写真を見せてもらいに来ました」

 別に、困ったり、怒っている様子はない。驚かれるのも慣れているんだろう。だいたい、今日の柚希の服装は、ジーンズにセーターだ。男が着てもあり得る範囲である。線が細いから男の身体には見えないけど、がっつり女装ではないのだから、間違える方もちょっとは悪い。ほんのちょっとは……。

「……じゃあ、本当に?」

 お袋はどうにか声を絞り出した。申し訳なさそうに頷く柚希にうなだれて、ぶつぶつ呟きはじめた。

「…………世の中、いるんじゃない、こんな綺麗な男の子がっ! わたしはふたりも息子を産んだのに、どっちもこんなにむさ苦しいのに、なんでなの?」

 お袋は、派手に嘆き悲しんでいる。

 なんでってそりゃ、あんたと親父の息子だからだろう。

「おばさん、しっかりして。柚希さんが特別なんだよ」

 凜が懸命にお袋を慰めた。なんなんだよ、いったい、このひとたちは……。雄介はまだ、呆然としている。

「そうね、そうよね。はあ~…、それにしても、素敵…。王子様みたい。あ~あ、わたしもあと、十才若かったらなあ……」

 男とわかった途端、韓流スターを見るような目で、柚希に見惚れ始めた。この母もまた、非常にわかりやすい。自分の家族と思うと、落ち込みそうだ。

「母さん、十才じゃ犯罪だろ。三十才は若返らないと……」

 ちょっと立ち直ったらしい雄介の言葉に、俺は首を傾げた。三十才? あれ? そう? 俺は十五才かなと思ったんだけど。この幅はいったい、なんだ?

「…そんなことより雄介、凜ちゃんの勉強、見てたんじゃないのか?」

 なにを対等に遊んで、盛り上がっているんだ。俺は少々面白くなくて、眉をひそめた。

「その予定だったけど、分度器がないとできない問題なんだよ」

「分度器?」

「小学校に忘れてきちゃった」

 凜がてへっと舌を出して、肩を竦めた。

「兄貴、持ってない?」

「お前より先に高校卒業してんのに、残ってるわけないって」

 高校というより、中学でも使ったかな? と訊きたくなるくらい、印象の薄い道具だ。

 さっきから何度も雄介が階段を昇り降りしていたのは、分度器を探したり、諦めてゲーム機を取りに戻ったりしていたんだな。

「あの、松浦さん、私そろそろ、失礼します」

「あ、そうだね。送っていくよ」

「いえ、バス停を教えていただければ、帰れますから」

「惣介、凜ちゃんも一緒に乗せて、駅に行くといいわ。駅前のスーパーに分度器くらい売ってるから、買ってあげなさい」

 今日は金曜日だ。宿題だとしたら、週末に分度器がないのは困るよな。

「凜ちゃん、どうする?」

「行きたい」

 俺は「じゃあ、行こう」と頷いた。


 玄関から出るときに、俺は忘れ物に気がついた。碧の画像データを入れた、USBメモリだ。考えてみたら、ハードディスクを見せてやるつもりだったのに、話に夢中になって、忘れていた。

 メモリを作っておいてよかった。

 ふたりを玄関で待たせて、俺は自分の部屋に取りに戻った。メモリには、経済学部の女友達に選んでもらったストラップをつけてある。枚数も多くて、画像のデータサイズも大きかったから、メモリがふたつになった。

 ラッピングなんてできなかったから、ドラッグストアの小さな紙袋に放り込んでいる。

 玄関で待っていた柚希に、それを渡した。

「柚希ちゃん、これあげる」

「え? まさかまた、あれですか?」

「は? ……あ、いや、あれじゃないよ」

 柚希の言うあれとは、コンドームのことだ。柚希がまだ碧とつきあう前に、コンドームをあげたらどんな反応をするのかと、面白がってあげてみたんだ。てっきり「来年手術して男じゃなくなるのに、こんなもの、いりません」と突き返すと思ったが、黙って受け取って考え込んでいた。

 いまから思うと、あの時点で柚希は、男である自分を受け入れつつあったのだろう。

「なんですか、これ?」

「俺が撮った碧ちゃんの写真のデータ。あんまりひどいのは外したけど、途中で面倒になっていい加減になったから、デキの悪いのもいっぱい入ってるよ」

「あ、ありがとうございます! あの、お借りしてもいいんですか?」

「メモリごともらってくれればいいよ。夏にモデルしてもらったお礼もしてなかったから」

「ありがとうございます。本当に嬉しいです。もっとたくさん見せてもらいたかったから」

「大袈裟だよ」

「早く帰りましょう。いますぐにでも見たいです。急いで送ってください」

 謙虚なんだか、図々しいんだか、よくわからない。そして碧がらみで興奮したとき、たまに男らしい表情をしたりするのが、柚希の面白いところだ。


サブタイトル、ネタ切れみたいになってきました(笑)

たまに、ものすごく困るときがあります。

45話くらいが最終話かなあ~と思ってますが、多少変更もあるかも。

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