第三十六話 俺が写真を好きになった理由
部屋に入ると、柚希は壁のボードに貼られた写真を見入っていた。予想通りの行動に、笑いそうになる。
「見たかった写真は見つかった?」
「はい。初めて会ったときの碧さんを思い出しました」
馴染み深い部屋に、柚希がいる。少し、不思議な感じがする。
凜がこの部屋に来たときは、なんとも思わなかったのに、どうしてだろう。
今日は部屋の中央に、小さなテーブルと座布団を置いてある。けれど柚希は座りもせず、壁のあちこちに貼ってある写真の前に移動しながら、考え込んでいる。
「確かにいま見ると、ちょっと幼いよね」
俺はベッドに腰掛けた。
「ここの写真、撮った時期はバラバラですか?」
「うーん…去年、いや、一昨年のが多いよ。夏以降のは、君の写真くらいだな」
「松浦さんの写真、露出を高めに設定するのが多いですよね。ちょっとブレてるのは、シャッタースピードを落としてるんですか?」
「うん、そうだよ。シャッタースピードを遅くすると、失敗も多いけど、たまに面白いのが撮れるから」
碧の写真を情報として見に来たのかと思っていたが、純粋に写真作品としての興味もあったらしい。
「わざわざ見に来るくらいなら、自分で碧ちゃんの写真を撮ればいいのに」
「え?」
「君、なんで碧ちゃんを撮らないの?」
「…だれのせいだと思ってるんですか?」
拗ねたような顔を向けられて、俺は首を捻った。
「は?」
柚希が碧を撮らない原因が、俺にあるとでもいうのだろうか。
「……俺のせい?」
「いえ、すいません。いまのは八つ当たりです」
柚希は苦笑して肩を竦めた。
「ここに貼ってあるのは、納得のデキなんですか?」
「そうでもないよ。すっきりしないけど、理由がわからないのも貼ってる。見ているうちに、わかるかと思って」
「碧さんの写真にも、そういうの、ありますか?」
「あるよ。これとか……」
指差した写真を、柚希は真剣な表情で眺めた。
「松浦さん、碧さんの写真を何枚くらい撮ったんですか?」
「一昨日数えたら、四千近くあった」
「四千? どうしてそんなに?」
「俺も自分でびっくりした。あの頃はまだ、試行錯誤しながら撮ってたから。連写してみたり、無駄なことも多かったんだ。でも、君も亜衣ちゃんの写真を数えてみたら、結構な枚数になると思うよ」
「松浦さんにとって、碧さんを写すことは練習だったんですか?」
「正直そうだね。カメラ持ってるときに、一緒にいることが多かったから」
「碧さんに訊いたら、カメラの操作を教えてもらうついでに撮られてたって…」
「そうなんだ。碧ちゃんは、なかなか覚えてくれなくて苦労したよ。メカ音痴かな」
「なんだ…。そうだったんですか」
「碧ちゃんの物覚えの悪さに慣れた頃に君が来て、拍子抜けした。ほとんど教えることもなかったから」
柚希は愉しそうに声を上げて笑った。
ノックの音がして、お袋の声がドア越しに届いた。
「惣介、お茶、持って来たわよ」
「ああ、ありがとう」
「開けても大丈夫?」
また変な想像してるのかな。俺は立ち上がって、自分から扉を開けた。
「あー、びっくりした。急に開けないでよ」
お袋はテーブルの上に紅茶とクッキーを置いた。
「すいません。無理に押しかけたのに。お気遣いなく」
「いいえ、こちらこそ、お土産までいただいて。この子の友達で、そんなことした子なんかひとりもいないわよ。今度から手ぶらで来てね」
「ありがとうございます」
「あのチーズケーキ、並んでもなかなか買えなくて、まだ、一度しか食べたことなかったの。買うの、大変だったでしょ?」
「いえ、母に頼んでおいたので」
「お店の近くに住んでるの?」
「あの店の経営者なんです」
お袋はびっくりしているが、俺も驚いた。入部そうそう購入したカメラが高価な代物だったから、金銭的に恵まれているのかな、とは思っていたけど、母親が有名なスイーツ店の経営者だったとは…。
でもまあ、らしいといえば、らしいかも。お嬢様っぽいもんな。あ、男だからおぼっちゃまか。うーん…、違和感あるなあ……。
お袋が下に降りたあと、美大の写真部の話題になった。美男荘の話をすると、柚希は興味深そうに耳を傾けていた。
高校時代の林原のことを話していたら、柚希は思い出したように質問してきた。
「松浦さんって、いつから写真を撮るようになったんですか?」
「え? いつからって……」
「大学に来たときには、好きだったんですよね? 高校のときも写真部だったんですか?」
「いや、高校はサッカー部だったよ。数を撮るようになったのは大学に来てからだな。でも、高校のときも撮ってたよ。そういや、いつからカメラに触ってたっけ?」
「写真を撮るのが好きになったきっかけとか、理由って、なにかあったんですか?」
「理由? うーん…言われてみれば、なにかあったような……」
いままで、考えたこともなかった。俺はいつから写真に興味を持ったんだろう。確か、なにかきっかけがあったような気がする。
……おかしい。思い出せそうで、思い出せない。
黙り込んでいたら、ぼんやり写真を眺めていた柚希が、ふいに爆弾発言を投下した。
「松浦さん、彼女とお風呂に入ったことありますか?」
突然、ぶっ飛んだ質問をされて、俺は飛び上がるほどびっくりした。驚いた拍子に、もやもやと考えていたことが、どこかに飛んで行った。
「はっ? い、いや、ないけど、なんで?」
笑い飛ばすことも、適当に誤魔化すこともできずに、正直に答えてしまったのは、柚希の顔が、やけに真剣だったからだ。
「一般的に、入るのが普通なのかなと思って」
「碧ちゃんになにか言われた?」
「少し……」
碧も、初心者相手に、無茶振りするなあ。
「人肉饅頭がどうとかの映画を観た夜、泊まりに来てくれたんです」
そういえばあの日、携帯を確認したあと、柚希は慌てて先に帰ったんだ。あのメールはやっぱり、碧からだったのか。
「映画があとを引いてたみたいで、ひとりでお風呂に入るの怖いから、一緒に入ってくれって頼まれたんです」
「なるほどね。入ったの?」
「いえ、醜態をさらして嫌われそうだったんで、入らなかったんです。でも、あとから考えたら、断る方が嫌われそうで……」
「大丈夫だよ。そんなことで嫌うなら、最初から君を好きになったりしないから」
「……………」
「碧ちゃんは怒ってなかっただろ?」
「はい」
「一緒に入って、醜態をさらしてもよかったんだよ」
「え?」
「君らはこれから、長いつきあいになるんだから」
「…そうですね……」
柚希は、ほっとしたように頷いた。
「その映画、気になるので観に行ってみようかと思ってるんです」
「だれと?」
「亜衣に断られたんで、佐々木さんと」
「……柚希ちゃん、君、佐々木をいじめてない?」
「バレました?」
柚希はいたずらがバレたような顔で、愉しそうに肩を揺らした。カップルの写真を撮ったときも、必要以上に佐々木に迫って、戦力外通告に追い込んだんだな。
「双子だから?」
「子どもっぽい焼きもちですけど、碧さんの興味が好意に変わったら困るので」
どこまで本気かわからないけど、柚希は佐々木を恐れている。自分とは正反対の、男臭いやつだからかな。でも、佐々木って恋愛対象にはなりにくいタイプに見えるけどな。
同性としては面白い男だけど、女の子受けするとは思えない。かなり、マニアックな子じゃないと、着いて行けない気がするよ。
「君と碧ちゃんは、いい関係だよ。佐々木が入り込むような余地なんかないから、心配しなくて大丈夫だよ」
「そうでしょうか。碧さんは淡々としていて、嫉妬も心配もしてくれませんよ」
「柚希ちゃんに伝わってないだけだよ。最近、君が女の子にモテるって、憂いてたから」
「本当ですか?」
「ああ。それに、嫉妬云々で言えば、君も俺に対しては警戒してないし」
「松浦さんに?」
「こないだ、碧ちゃんを連れ出したのに、なにも訊いてこないだろ」
「ああ…ええ、はい。あのあと、碧さんから教えてもらいました」
「なんだ、そうだったんだ」
「碧さんは、松浦さんが熟女恋愛に悩んでるって思ったみたいですけど、違うんでしょ?」
柚希は、自分のことには鈍いのに、ひとのことには鋭いよな。頭がいいのに恋愛経験が乏しいと、こうなるのかな。
「派閥の変更も有りだと思いますよ」
「派閥?」
「藤壺派から、紫派に変わってみたらどうですか?」
「ロリコンは犯罪なんだろ?」
「愛があれば、ちょっとくらい、いいんじゃないですか?」
法学部の学生が、問題発言だ。
訊かなかったことにしよう。
番外編4で柚希が、松浦に会ったら訊いてみよう、と思っていたことを実施したお話でした。いかがだったでしょうか?