第四話 大迷惑な源氏物語
ちょっと酔いを醒まして、二階に戻る。
宴もたけなわ。部屋中にアルコールと料理の匂いが充満し、酔っぱらった部員たちが、ふらふらと身体を揺らしていた。
これくらいの時間帯になると、元いた場所から各自、動き回り、気の合う者同士が、気の合う話に花を咲かせている。
出入り口の横では、さくらたちが固まっていた。姦しくも女の子四人かと思いきや、柚希が混じっていた。と言っても、女子会の雰囲気を損ねるようなものでは、まったくないな。両手に花という感じでもないし、完全に溶け込んでいるのが笑える。
「あ、副部長、こっちに座りませんか?」
さくらに呼ばれて、俺はその女子集団に突入することになった。
さくらに亜衣、柚希は前述のとおりだが、もう一人は松浦碧だ。
碧は文学部二年。この中では、最も長い時間を共有した後輩だが、俺はいまだに碧のことがよくわからない。華奢で童顔。初対面のひとからは高校生に見られているだろう。鎖骨まで伸びた髪がくせ毛で、可愛いといえば可愛い子なんだが、天然でふわふわしていて、どこにピントが合っているのかわかりづらい。
そう、糸のない風船みたいな感じかな。まあ、そういうところも、この子の魅力なんだろうけど。
「何の話で盛り上がってたの?」
「源氏物語です」
……それって、盛り上がるようなネタか?
「光源氏の本命は、藤壺か紫のどっちだろうって、現在、白熱したバトルを展開中なんです」
「はあ……?」
不覚だ。
あまり…というか、全然面白くないグループに紛れ込んでしまった。
「わたしは藤壺派で、亜衣ちゃんは紫派なんです。副部長はどっちですか?」
なんかこの、有無も言わさぬ強引な二者択一、誰かを思い出すぞ。しかし、こんな話題で派閥ができてんのか。政治家も真っ青だ。
源氏物語って言われても、ほとんど知らないんだよな。とはいえ、一応上級生として、知らぬ存じぬでは格好悪いか。えっと確か、男前の光源氏が、次々に女を食い散らかす話だったよな。
紫は、子どもの頃から手元に置いて育てた理想の妻で、藤壺は父親の後妻で、憧れの存在……で間違いないかな?
「柚希ちゃんは、どっちなわけ?」
この中では、一番冷静で常識的な感性を持ってそうな、柚希の意見を参考にさせてもらおう。似たようなことを言っておけば、場違いにはならないはずだ。
「源氏物語はちゃんと読んでないんですけど、紫に対する行為は、未成年者略取誘拐にあたる可能性があると思うんです」
ひえええええええぇぇぇ、源氏物語が、未成年者略取誘拐かよ。そうか。法学部だもんな。情緒もへったくれもないな。
「でも、藤壺は父親の後妻ですから、血が繋がっていないとはいえ、直系血族です。よって、父親が亡くなっても、婚姻関係を結べません。民法第734条に違反します。したがって、藤壺、紫、どちらも賛同できません」
…………そうですね。そうですとも、はい。…いや、なんか違うぞ!
眩暈がしてきた。
「そもそも、どうして最初の妻をもっと大切にしなかったのか、そこが理解できないんです。謎に満ちた物語ですね」
柚希の方が、よほど謎に満ちている。というか、酔っぱらってるんじゃないの、この子。派手な顔して、あんまり強くないんだよな、アルコールに。いや、顔は関係ないか。うーん、俺も酔っぱらってるのかな。
そういえば、光源氏の最初の妻ってだれだっけ? 全然思い出せないなあ。
柚希の隣で、なぜか碧がそわそわと落ち着かない様子で、ビールを口に運んでいる。どうしたんだろう。
しかし、次々に無差別恋愛を繰り返すのが、源氏物語だろう? 最初の妻を愛でて終わったら、それはもう、源氏物語とは呼べないのではないか?
残念ながら、柚希の意見はまったく参考にならなかった。この理知的な後輩が戦力外とは、きわめて遺憾だ。しかたがないので、俺は碧に視線を向けた。
「碧ちゃんは?」
先に碧の意見を訊けばよかった。碧は文学部だから、あんな奇想天外な意見にはならないだろう。
「あたしがもし光源氏だったら、相手が何人いても、そのときはそれぞれ、本気だったと思うんです」
「なるほど……」
俺は感心して頷いた。が、女の子が源氏物語を読んで、自分がもし光源氏だったら…なんて考えるものなの?
「でも現代人の価値観からいえば、平気で浮気するような男は、生きる価値なんかないんです」
おっかねー……。関西人がよく言う「死んだらええのに」って勢いかな。だけど、まあ、そうだよな。二股三股どころじゃないんだから。
でもなんか、話をしているうちに、少しずつ源氏物語の片鱗を思い出してきた。昔、疑問に思ったことがあるんだ。いろんな相手に魅力を感じて、衝動を抑えきれない、というのは理解できる。俺も男だし。
ただ、その人数の多さには、首を傾げざるを得ないんだよな。御簾越しに、文に焚き付けられた香の香りに惹かれて……って、それだけでそこまでするか? いくらそういうことが認められてた時代とはいえ、大変なエネルギーだぞ。
俺が思うに、光源氏は病気だったんじゃないのかな。多情症とかそんな精神疾患、ありそうじゃない?
作者の紫式部は、そんなひとが身近にいたんじゃないのかな。そのひとをモデルにした可能性はある気がするなあ。
「でも、何度読んでも、よくわからないんです。その時代に生まれて、その時代の文化の中で育って、読んでみたかった物語ですね」
なんか、気合いのはいった意見だ。そういや碧は、酔っぱらうと歴女になるんだった。源氏物語も歴女の守備範囲なのかな。
「俺も、それぞれに真剣だったという意見は納得できるよ。男は馬鹿だから、その時々に夢中になって、他のことは忘れてしまうし」
「おお、W松浦で揃えてきましたか」
さくらの台詞に、みんな吹き出した。俺と碧は苗字が同じ松浦だから、こんな指摘になるわけだ。
「でもやっぱり、藤壺じゃないかな。罪を背負ってでも望んだのは、藤壺だけみたいだし」
「ということは、副部長はマザコンですね」
「はあ? 藤壺を選ぶとマザコンなの?」
「当然です」
「紫を選んでたら、なんて言われてたの?」
「もちろんロリコンです」
なんじゃそりゃ。
「……源氏物語についての討論だよね? これ」
「副部長がマザコンかロリコンか、調査してたに決まってるじゃないですか」
なにを今更、と続いたさくらの言葉に、俺は後輩たちにからかわれていたのだと気がついた。
「やられた」
こめかみを抑える俺に、亜衣が笑いながら訊いてきた。
「……で、小学生の許嫁がいるって、本当なんですか?」
「…なんでそれを……?」
「さっき部長さんに、そんな話をしてたんでしょ? 伝言ゲームみたいに回ってきましたよ」
うーん……。部屋も広くはないし、声も絞ってなかったから、当然と言えば当然か。しかしこの話、ここにいる写真部全員に知れ渡ったということか。頭が痛いよ。
「わたし、副部長さんは柚希が本命かと思ってたんですけど……」
「亜衣ちゃん、君ねえ……」
「わたしも。瀬戸さんが副部長のモデルするって訊いたときは、てっきり口説き落とす魂胆かと思ったもん」
「さくらちゃんまで、なに言ってるんだよ」
柚希にモデルを頼んだときは、もう柚希が男だとわかっていたから、そんな下心は毛頭ありませんでした!
「あたしも思った」
とどめは碧か。『ブルータス、お前もか』と呟いたジュリアスシーザーの気持ちが、いまようやくわかったよ。
「碧さんまで……」
がっくり脱力してるのは、俺じゃなくて柚希だ。
「でもあたし、訊いたことあったでしょ。副部長とつきあってるの? って」
「事実無根なんですから、忘れてください」
「一時、うちのブログでも話題になってたんですよ」
「亜衣ちゃんのブログに? なんて?」
俺の問いかけに、心底愉しそうな様子の亜衣が説明してくれた。
「柚希がうちのブログにコメント書き込むとき、ハンドルネームが『ユズ』なんで、読むひとが読んだらすぐわかるんです。で、『写真部の先輩とふたりでカラオケに行った』って書いたことがあって、みんなが推察してたんです。柚希のデートの相手は誰だろうって」
「すごーい。瀬戸さん、やっぱり人気あるんだ」
「碧さん、怒るか妬くかしてください。無邪気に喜んでないで……」
「なんで? モテるのカッコイイじゃん。それに、カラオケ行ったデートの相手、副部長でしょ。そのときモデル引き受けることになった、って言ってたじゃない。怒ったり妬いたりするようなことなの?」
「…いえ……………」
柚希が溜め息をついた。
亜衣やさくらに同じことを言われてもまるで意に介さないのに、碧の言動にだけ敏感に反応しているのは、現在このふたりがつきあっているからだ。
揉めるだけ揉めて、学祭の最終日にまとまったから、まだつきあい始めて一週間の初々しいカップルである。どう見ても男女交際してるような絵柄には見えないけど。
碧に男だとばれてひと悶着の後、つきあうようになってから、柚希は自分の性別を周囲に隠していない。だから、写真部の部員は全員、柚希が男だということも碧とつきあっていることも知っている。
柚希と碧のこんなやりとりも、珍しい光景ではなかった。
さくらの弁を借りるなら、世にも面白いカップルだ。
「副部長、マザコンはともかく、小学生は犯罪ですよ。ヘンタイですよ。人間失格ですよ。もう二十歳過ぎてるんですから、事件になったら全国に名前が公表されますよ」
さくらはときどき、刃物のように鋭いことを言う。
「…………肝に銘じるよ」
「松浦さん、熟女好きは個人の嗜好ですけど、不倫は犯罪ですよ」
柚希はときどき、…………以下同文。
「…………重ねて肝に銘じるよ」
家ではお袋にホモや不能の疑いをかけられ、コンパでは後輩にマザコンのお墨付きを頂戴し、ロリコンや不倫は犯罪だと釘を刺された。
…………なんて一日だ。