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第三十二話  美大にも写真部があるそうで…

「寒―ッ。林原、泊めてくれ~」

 薄い木の扉が開くと同時に、ジャージにどてらを着た男が肩をすぼめて入ってきた。

「よう、高清水くん、久しぶり」

 俺が手のひらを挙げると、乱入者はこたつに潜り込みながら「おっす」と力なく頷いた。

 高清水はこの美男荘の住人だ。専攻は日本画。伸びっぱなしの髪を後ろで束ねた、少々、貧弱な印象の男である。なんの意味があるかは不明だが、耳に耳かき棒を引っ掛けている。

 学年は同じ三年だが、一浪してるから年はひとつ上だ。

「どうしたの?」

 家の中にいるのに、この寒がり様が、俺にはわけがわからない。おまけに、ひとつ屋根の下で暮らしているのに、泊めてくれとは何事だろう。

「高清水はいま、自分の部屋で描いてるんだ」

 林原の説明を訊いて、余計にわからなくなった。絵を描くのに、どうして寒いんだ?

「日本画のパネルって、暖房つけると和紙が割れることあるんだよ」

「へえ……」

 パネルって、油絵のキャンバスに該当するやつだよな。暖房で割れるものなのか。

 この間、林原のモデルをしたとき、部屋は暖かかった。上半身裸になる俺への気遣いもあったんだろうけど、油絵と日本画で、そんなに違うとは思わなかった。

「暖房器具に近づけなきゃいいんだけど、部屋狭いしさ」

「でも、この部屋より少し広いんじゃなかったっけ?」

 林原も部屋でしょっちゅう描いてるけど、キャンバスとストーブを離して置くくらいのスペースはある。コタツを置いて、布団も敷いてたし。

「日本画は床に寝かせて描くんだよ」

「そうだったのか。どんな大きさ?」

「畳三枚分くらいかな」

「真ん中の部分はどうやって描くわけ? 手が届かないんじゃない?」

 イーゼルに立てかけて描くなら、大きなキャンバスでも立ち上がれば上の方も手は届くけど、寝かせて描くとなると、中央部分は物理的に届かないはずだ。

「板を渡して、板の上に乗って、しゃがんで描くんだ」

 俺は訊いたことを想像しようとしたが、どうしてもうまくできず、首を傾げた。

「見に行っていいよ。行く?」

「行きたい」

「鍵、渡すから戻るとき閉めてきて。いま、開いてるから。僕もう今日はここで寝るし、電気消してきて。あ、そうだ。ついでにこの爪、泥絵の具の近くに置いてきてよ」

 差し出されたのは、耳に引っ掛けていた耳かき棒だ。

「これ、爪?」

「僕の小指の爪代わり。僕はどうしても爪を伸ばせないタチだから」

「はあ…? で、泥絵の具ってなに?」

「知らない?」

 俺は頷いた。経済学部で泥絵の具がなにかわかるやつの方が、稀だと思うぞ。

「じゃあ、筆の近くでいいから」

 余計な仕事をいくつか引き受けた。はじめてのおつかい、なんてタイトルはどうだろう。


 俺は鍵を預かって、高清水の部屋に入った。

 ようやく、言われていた意味がわかった。和紙を張った大きなパネルの両脇にブロックを積んで、分厚い板を渡してある。これなら、板はブロックの厚みで浮いているから、絵を傷つけることはない。

 だが、この板の上にしゃがんで、俯きながら絵を描くのは大変だろうな。暖房をつけられないから、部屋の中は冷蔵庫みたいに寒いし。林原が油絵でよかった。というか、日本画だったら、モデルは引き受けなかったな。少なくとも冬は。

 俺は、初めて入る高清水の部屋を見渡した。部屋の大半は、横たわったパネルに占領されている。壁の棚に並べられた透明の瓶には、様々な色の粉が入っている。どうやらこれが、日本画の絵の具らしい。大きな刷毛や硯の近くに、たくさんの筆が、瓶に差し入れられていた。預かっていた耳かき棒…いや爪? をそこに置いた。

 少し離れた場所に、試験管のような細い瓶がいくつも置いてある。色の粉が入っているから、これも絵の具なのだろう。瓶の中で固まってるようだ。湿気たコーヒーや砂糖みたいに。ひょっとするとこれが泥絵の具かもしれない。

 耳かき棒は、この絵の具を掻き出す道具なんじゃないかな。

 見ただけでは何に使うのかわからないようなものも多い。

 出来上がった絵は、日本画も油絵もそれほど違うようには思えないのに、道具や材料はまるで違うんだな。

 俺は無性に撮りたくなった。我ながら、病的かな。

 林原の部屋に引き返すと、高清水に頼み込んだ。

「なあ、あの部屋、写させてくれない?」

「ああ、写真部だったよな。いいよ。惣介のお袋さんには、いろいろ差し入れもらってるし。片付けなくて大丈夫?」

「あのままがいいんだ。立ち会う?」

「いや、いまあの部屋に戻ったら、凍死するし」

「じゃあ、撮ったのをあとで見せるから、まずいのあったら言って。消去するから」

「べつに、引き出しの中を写すとかじゃなきゃ、気にしなくていいのに」

 高清水は肩を竦めた。ここの住人はみんな、おおらかだ。

 一眼レフで、高清水の部屋を写させてもらった。途中、レンズを交換して撮った。単焦点レンズを持参してきてよかった。

 林原の部屋に戻ると、鍵を高清水に手渡した。

「ありがとう。結構いいの、撮れたよ。あ、電気消して、鍵、かけてきたから」

 俺は、液晶画面に撮った写真を表示させて見せた。

「どうかな? 問題ない?」

「ない、ない。しかし、なんかドラマチックだったんだな、俺の部屋って。雑誌に特集組まれそうな部屋じゃん。こんなの見ると、描いてる途中も写真で残した方がいいかもって気になるな」

「言えてる。惣介が撮った俺の写真、見てよ。腰、抜かすほど、すげーぞ」

 林原は、自分が写ってるさっきの写真を、高清水に見せた。どうでもいいけど、ナルシストみたいだぞ、林原。

「うわっ、まじでカッケ―。誰だよって感じだし」

「いや~、元が男前だから、写真に滲み出るんだよな。いつ撮られたのか、全然気がつかなかったけど」

 本当にわかってなかったのか。あんなに至近距離で撮ってたのに。

「林原は調子いいな。あれ? この美少女と恥ずかしがってる熊みたいな写真、なに?」

 言うまでもなく、柚希と佐々木の写真だ。

「それは、雑誌の企画に応募する写真なんだ。まだ、ためし撮りだけどね」

「もしかして、亜東出版の写真部応援企画?」

「知ってんの?」

「日本画に写真部員がいるんだ。日本画同士でつきあってるのがいるから、ふたりが描いてるとこ撮って送るとか言ってたよ」

 日本画カップルか。

 俺はさっき見た高清水の部屋を思い出した。並んだ絵の具の瓶や乳鉢。束ねられたにかわ。使い込んだ筆。どれも、非日常的な光景だった。

 あの背景で、美大の写真部は撮るのか。

「…強敵だな……」

「そうか? 美大生って、常識と違う感覚してるから、ピントのずれた写真になりそうだけどな」

「言えてる」

 林原と高清水が笑い合った。

 どっぷり浸かってる人間は、案外、わからないのかな。この独特の空気の魅力に。




泥絵具は古い呼び方のようです。水干すいひ絵具が正しいようです。

ここは、悩んだんですが、教授や助教授は古い呼び方を使っていて、学生はそのまま受け継いでるんじゃないのかな、と思って、あえて泥絵具、と言わせました。

絶対いないと思うけど、美大で日本画専攻の方が読んでいらしたら、その辺の真相を教えてもらいたいです(笑) ここは簡単に修正できますので。 

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