第三十話 純愛と性愛の境界線
なにを飲むかと訊けば、碧はココアを注文した。
このカフェも季節のいいときは、オープンテラスの席がある。開放的で人気があるが、冬季は室内スペースだけだ。
「副部長、さっきまでコーヒー飲んでたのに、またコーヒー飲むんですね」
「俺もいま、気がついた」
このカフェで注文するのはコーヒーと決めているからな。
「それで、どうかしたんですか?」
セルフでカップをテーブルに置いた途端、早速切り出された。
「たいした話じゃないんだ。碧ちゃん前に、昔つきあってたひとが十三才年上だったって言ったろ」
「はい」
「それだけ年、離れてて、どんなつきあいだったのか、訊いてみたかったんだ」
俺が部室から碧を連れ出したのは、元カレとのことを教えてもらいたかったからだ。柚希の前で、訊いていい話ではないだろうから。
本当は、ずっと訊いてみたかった。なかなかふたりになる機会がなかったから、ちょっと強引に行動に移したんだ。
「放課後、高校に車で迎えに来てもらうことが多かったですね」
「学校の前で待ってるの?」
「最初の何回かは」
「目立つだろ?」
「はい。友達にもいろいろ訊かれて、それで、少し離れた場所に待ってもらうようになりました」
「へえ」
「でも、それはそれで、嬉しいような、照れくさいような気分なんです」
「友達から、からかわれるのが?」
「はい。当時は車の助手席に乗るだけで、舞い上がるような感じだったから」
「へえ、そんなもんなんだ」
「同級生の男子は、ゲームや部活の話しかしないのに、自分の彼氏は車で迎えに来てくれて、仕事の話をするんですよ。夢中にもなるでしょ?」
女の子の立場からしたら、そうかもしれない。同級生が、子どもっぽく見えるだろうな。
あのとき…バレエの迎えに行ったとき、凜はどうだったんだろう。高校生と小学生じゃ、全然違うよな。むしろ、おっさんを強調する出来事だったのかも。
「車で来てもらって、そのあと、どうするの?」
「最初のころは、ファーストフードとか、カラオケとか……」
「最初を過ぎたら?」
「エロホテル」
「あ、なるほど」
苦笑して頷いたけど、当時碧は高校一年だよな。相手が二十八歳なら仕方ないのかもしれないけど、なんかこう、痛々しい。いまでも高校生に見えるのに、その当時、碧はどんな姿だったんだろう。中学生くらいに見えていたんじゃないのかな。
やはり、年齢が離れた相手との交際は、不自然なんだろうか。
「どうしてこんなこと、訊きたいんですか?」
「年が離れたひとと、どんなつきあいになるのかなって、知りたかっただけだよ」
「……あたし、いまは年下の方がいいなあって思うんですよ」
「え?」
「相手が極端に年上だと、男って絶対自分が正しいと思うし、上から目線なんです」
「ああ、そっか。そうかもね」
「歩み寄ってくれることないし、威圧的なんです。好きなときはそれが頼もしいけど、話が合わないことも多いし……。嫌なことも、いっぱいあったなって」
「…………」
「年下とつきあうのは初めてだけど、尊重してもらえるの、すごく嬉しいんです。だから、みんな色々言うけど、あたしは副部長の熟女好き、応援してます。平均寿命だって女の方が上だし、あたしたちが将来受給できる年金だってどうなるか危ないのに、男が年上でいいことなんか、なにもないですよ」
「ね…年金って……」
幼く見える碧を憂いていたのに、いきなり年金とか言われて、ぎょっとした。おばさんか、この子は。
「副部長、経済学部なのに、年金のことも考えてないんですか?」
「はあ……」
「しっかりしてくださいよ、就活、真っ只中なのに」
真っ只中だからこそ、就職することだけで頭がいっぱいなんだよ。年金のこととか、日本が背負う負債のことなんか、考える余裕なんか、ないんだって。
どうも碧は、俺が年上の相手に悩んでいると思ったらしい。その勘違いに、救われているのか困惑しているのか、複雑な心境だ。
「純愛と性愛の境界線って、難しいと思いませんか?」
「純愛と性愛?」
「あたし、最初瀬戸さんのこと、女だと思ってたでしょ。だから、好きだけど、エッチなこととか、できないと思ってたんですよ」
「ああ、なるほどね」
「でも、男とわかってパニックになったんです」
「なんで?」
そういえば碧は、柚希が男だと知ってから、しばらく落ち込んでいたんだ。あからさまに柚希を避けていたし、ずっと不思議だった。好きな相手が異性だったんだから、ラッキーじゃないのかと。
「性欲の対象にできないから、純粋な気持ちで好きなんだと思ってたんです」
性欲の対象か……。駄目だ。考えるとまたやばい方向に向かいそうだ。
「ふうん、複雑な女心ってやつ?」
「他の男と一緒にしたくない気持ちもありましたし」
「それだけ、柚希ちゃんは特別だったわけだ?」
「はい。それはもう、あの瀬戸さんだから」
露骨に惚気られて、俺は頭を掻いた。
「そうだ。こないだから気になってたことがあったんだ」
「なんですか?」
「柚希ちゃん、君を写さないだろう? 亜衣ちゃんは写すのに」
「そうですね」
「あれってなんで?」
「さあ。それは、瀬戸さんに訊いてくださいよ」
「君はそういうの、嫌じゃないの?」
「最初はちょっと嫌だったんです。でもいまは、なんとも思わないですね」
「へえ……」
それだけ信頼してるのかな。
「でも先日、瀬戸さんに、なにか写したいものないの、って訊いたら、あたしを写したいって言ってました」
ということは、写したいけど写さないのか。なんでだろう。なにか理由でもあるのかな。
「好きなひとは、写したくなりますよね」
「え? 碧ちゃんは、人物ほとんど撮らないだろ?」
「それはそうですけど、瀬戸さんは撮りたいです」
「………………」
あまりにも単純な答えに、俺は言葉も出なかった。
「あたし、瀬戸さんと初めて会った日に、写したいって言ったんですよ」
「本人に?」
「はい」
普段、街並みばかり写している碧が、会ったばかりの柚希を撮りたくなっていたとは驚いた。よほど、惹かれるものがあったのだろう。
「カメラ持ってる人間なら、好きなひとを撮りたくなるのは、当たり前じゃないですか?」
明るい笑顔で告げられた言葉が、頭の中で響き渡った。
あれから…凜を写したい衝動を抱え込んでいる気持ちに、単純な名前がついてしまいそうで、俺は天を仰いだ。
いま、凜のことしか考えられない自分を、ひどく罵倒したくなった。