第二十六話 穏やかな別れ
クリスマスイブのその日、俺は生まれて初めて、バレエの舞台を観にいった。
凜が出演していたからだ。
舞台が終わったあと、林原と柚希、それに亜衣と一緒に、カフェバーで食事をすることになった。林原は、初対面のふたりとあっという間に打ち解けて、なかなか愉しい時間を過ごすことができた。
カフェバーからの帰り、先に帰った柚希を除く三人で電車に乗った。
普段は車で移動することが多い俺だが、今日はもともと、林原と飲むことを想定していたから電車で来ていた。待ち合わせも駅だったし。
亜衣は最初に降りることになった。駅からタクシーで帰ると言ったので、そこで別れた。林原は家まで送りたがったが、一人暮らしの部屋を知られるのも嫌だろうと思って、取り押さえた。
揺れる車両の座席で、林原は機嫌がよかった。
亜衣のことを、あれこれと訊いてくる。
訊かれて初めて気がついた。
俺は、亜衣の個人情報は、ほとんど知らない。柚希とは中学高校が一緒で、ブログをしていることくらいだ。これじゃ、今日初めて亜衣に会った林原と変わらない。
以前、元カノから、優しいのか残酷なのかわからないと言われたことを思い出した。
いまや亜衣は、写真部の部員と呼んでもいいほどの存在だ。懇意な後輩に興味を抱かない俺は、残酷なのかな。
林原と別れて、俺は駅から歩いた。寒さで酔いも醒めていく。
携帯を開いて、凜のメールを見た。返信をしていない。
時計を見た。小学生にメールを送っていい時間ではないか。俺はあきらめて届いた凜のメルアドを、アドレス帳に追加登録した。
亜衣の言葉が脳裏をよぎる。
恋を感じるひとって、どんなひとなんだ?
俺はいままで、何人かの恋を感じるひとに出会ってきたはずだ。
だけど、柚希と碧を見れば、自分の経験してきた恋愛が、恋と呼ぶにはあまりにも節度のある交流だったように思う。
少なくとも俺は、我を忘れて相手に恋焦がれたことはない。
好きなタイプだったからつきあった。もっとはっきり白状すれば、条件に合ったからつきあった。
碧が学祭の日に『あたし、性別なんかどうでもいいくらい、瀬戸さんのこと、好きみたいです』と告白したのを思い出す。碧は、柚希を女だと思っていた。それでも、好きになるのを止められなかった。柚希は自分が男だと知られたら、碧に軽蔑されると思って言いだせなかった。
なり振りかまわず……そんな情熱で結ばれたふたりだった。
俺は、そんな激しい恋愛をしたことがない。
淡白だとは自覚していたが、映画やドラマじゃないんだから、現実はそんなものだと思っていた。
要するに俺は、臆病者なのだ。だれも傷つけたくないし、自分も傷つきたくない。
だから、別れても傷つけない相手を選んでいたんだ。
俺がいなくなっても、平気で笑っていられるひととしか、つきあいたくなかったんだ。
正直な気持ちを言えば、俺はいま、凜が気になっている。たぶん好きなんだろう。
けれど、この気持ちの種類が恋愛感情だとは、到底思えない。いい年の男がそんな意味で好きなら、キスしたいとか、抱きたいと思うはずだ。凜をそんな対象にしたいと夢想したことは、誓ってない。
なら、男が恋を感じるひとは、性欲を感じるひとなのか?
いくらなんでも、そこまで即物的じゃないよな。
そんな方程式がなりたってしまったら、水着のグラビアアイドルにも、恋を感じることになる。
凜に対する気持ちの行方は、考えるだけで罪深い気がした。
握りしめていた携帯がふいに鳴った。電話だ。俺は、凜からだと思った。返信をしなかったから、かかってきたのだと思い込んで、慌てて通話ボタンを押した。
「もしもしっ」
『メリークリスマス、惣介』
「…あ、中江さん……」
『だれだと思ったの? ずいぶん慌ててたみたいだけど』
少し酔っているのかな。そんな声音だった。
「いや、ごめん。なんでもない。どうかしたの?」
『会えない?』
中江の声を訊いた瞬間、そう尋ねられることは予想した。いつもなら、なにも考えずに会いに行っていただろう。だけど、言葉が喉の奥で貼りついたように出てこない。
「……ごめん………」
『都合、悪いの?』
「違うんだ。もう、ふたりだけで会わない方がいいと思うんだ」
『そっか。好きなひとでもできた?』
「よく…わからないんだ……」
言葉にした途端、胸が痛んだ。好きなひとと言われて、凜の顔が思い浮かぶ自分が、嫌でしかたがない。
『でも、私と会うのが後ろめたいんでしょう』
「うん、たぶん……」
『頑張れ、青少年』
「いきなり年上ぶらないでよ」
『年上だもの。不倫じゃなきゃ、どんな状況でも愉しめばいいのよ』
「まだ、そんなんでもないけど…」
『元気でね』
「うん。そっちこそ、あんまり根詰め過ぎて、無理しないで」
『ええ、気をつけるわ。いままでありがとう』
「こちらこそ」
電話の会話は冷静で穏やかに終わった。指を折って携帯を閉じた。
俺の別離は、いつもこんな感じだ。ずいぶん、甘やかされてきたんだと、改めて思い知らされる。
ずっと、居心地がよかった。
相性もよかった。
けれど、心は騒がなかった。恋を感じるひとだったはずなのに、気持ちはいつも、静かだった。情愛というより愛着に近かったのかもしれない。
さっきまで気にならなかった携帯が、急に冷たい金属のように感じて、俺はポケットに突っ込んだ。
凜の存在は、どこに位置づければいいのだろう。少し前なら、家族の延長のような存在と言いきれた。いまは違う気がする。
妹のような、とも思えない。妹のようと表現して真っ先に思いつくのは、なぜか柚希だ。
俺の頭は、完全に迷宮の中に入ってしまった。
家の前に着いた。
俺は、凜の家の二階を見上げた。すぐ近くに住んでいるのに、凜の部屋の窓がどれかも知らない。近くて遠い。ずっと、なんとも思ってなかったのに……。
凜を写したい。
その気持ちだけが、確かな事実だった。