番外編3 恋を感じるハッピーバースデー
部屋に着いた。柚希はマンションで一人暮らしだから、部屋の中は暗い。
玄関に入るなり、繋いでいた手を引き寄せて、碧を軽く抱きしめた。
「あ、あの……」
戸惑う声が肩口から聞こえて身体を離した。
「すいません」
人目がなくなった途端、我慢できなかった。
玄関先で靴も脱がずに、みっともなさすぎる。謝るのも間違っている気がしたけど、碧は「ううん」とブーツを脱いだ。
「入っていい?」
「はい。あ、部屋の電気点けます」
明るくなった部屋に、碧が入っていく。
碧がここにくるのは三回目。本当はもっと来てほしい。けれど、二度目に来てくれたとき、最後までしてしまったので、部屋に誘うことは露骨に寝たいと言っているようで、誘えなかった。
コートを脱いで、エアコンをつける。忘れないうちに携帯の充電器を出した。
「どうですか?」
「大丈夫。ちゃんと差し込めるよ。ありがと」
「なにか、飲みますか?」
「うん。なんでもいいよ」
体調のことが心配だった。
おにぎりを買っていたから、緑茶を淹れたかったけど、買い置きがない。コーヒーでは合わないし、紅茶にしようと思った。ティーバッグを手にして、紅茶だと血の色を連想するかもしれないと気づき、また収納棚に戻した。
散々迷った挙句、結局、コーヒーカップに入れたのは、蜂蜜レモンだった。おにぎりに合うかは微妙な事態だ。
リビングで碧は、フォトフレームを見ていた。
薄い透明フィルムに写真を入れて捲れるタイプで、全部に写真を収めると百枚くらいになる。碧はここに来るといつも、そのフォトフレームを見る。最後に来たときから、写真は増えていなかった。
「最近、撮ってないの?」
「ほとんど撮ってません。学祭が終わったら、目標がなくなって」
ソファーに並んで座った。
そばで見ると、碧はまだ顔色が悪い。蜂蜜レモンを飲んで「美味しい」と笑ってくれた。食べられそうなら食べてくれと頼んだら、コンビニで買った昆布のおにぎりを食べ始めた。
碧が食べる姿はやたら可愛い。リスやうさぎを思い起こす。膨らんで、もごもご動く頬にちょっかいを出したくなった。
「撮りたいの、なんかないの?」
「碧さんを撮りたいです」
「あたし? 物好きだな」
碧のことは、以前から撮りたかった。ちゃんと頼めば碧は写させてくれる。けれどまだ、腕に自信がない。
なまじ、松浦の写真を間近で見ているので、踏み出す勇気がでない。いま撮っても、松浦にはとてもかなわない。
碧にだけは、他のひとに撮ってもらった方がよかったと言われたくなかった。
「そういえば、碧さん」
「なに?」
「松浦さんの被写体になったことあるんですか?」
「へ? うーん…、ああ、うん、あるよ。なんで?」
「今日、そんな話題になったんです」
「そうなの?」
「松浦さんの部屋に、碧さんの写真が貼られているのを、林原さんが見たって」
「へえ…。でも、副部長は、作品として貼ってるだけだよ」
「それは、そうみたいですけど……」
「あたしより、瀬戸さんの写真の方が飾ってるんじゃない?」
「それも言われました」
「怒ってるの?」
「怒ってません。でも、拗ねてます」
碧は驚いたように目を見開いた。
「ね、瀬戸さんって、焼きもち焼き?」
前に、部室でもそう訊かれた。佐々木に興味を持った碧にやきもきしたときだ。うまく平静を保ったつもりだったのに、いまと同じ質問をされて、凄く動揺した。あのときはごまかせたけど、二度目となると、ごまかすのも難しい。
「…実はそうなんです」
結局、自爆するはめになった。重ね重ね、みっともない。
「ふうん。そうなんだ」
「幻滅しました?」
「なんで?」
「見苦しいとこ、見せないように気をつけているんですけど、駄目ですね。すぐ地が出てしまって」
「嫌じゃないよ。好かれてるから妬いてもらえるんでしょ? 嬉しいよ」
このひとはどうしてこんなに、自分のすべてを当たり前のように、受け入れてくれるんだろう。柚希は碧の髪を、そっと撫でた。
「でも、どうして松浦さんの被写体になったんですか?」
「瀬戸さんみたいに、ちゃんとしたモデルになったわけじゃないの。カメラ教えてもらうついでに撮られてたんだよ」
「碧さんが一年のときですか?」
「うん」
「…………」
柚希は逡巡した。一眼レフなら自分も松浦から教えてもらった。同じメーカーだからだ。
けれど、部室で何度かわからないことを訊いた程度で、モデルをするような時間などなかった。
松浦の部屋にある碧の写真はどんな写真だろう。凄く気になる。
「碧さん」
「なに?」
「もしかして、去年、松浦さんとつきあってたとか?」
「へ? まさか。そんなことないよ」
「本当に? 忘れてるんじゃないですか?」
「いくらあたしでも、つきあった相手を忘れたりしないよ」
「はあ……」
柚希は曖昧に頷いた。碧は嘘をついたりごまかしたりしない。正直で単純な性格だ。けれど、恋人に対する執着心が薄いところがある。
相手も周囲もつきあってる認識でいるのに、碧ひとりがつきあっているつもりじゃなかった、くらいのことはありそうだ。
「うーん……、あ、そうか。やっぱり、そんなわけないですね」
「え?」
「松浦さん、可愛い年下の女の子は駄目らしいから」
「うん。前につきあってた彼女も、八歳くらい年上だったよ」
「松浦の名字のひとは、年上嗜好なんですか?」
らしくもなく、嫌味が口からこぼれた。
だけど、碧の心に唯一残っているひとがいるならそれは、碧が最初につきあったひとだ。かなり年上だったと漏れ聞いている。
「あたしは、彼氏、年下だよ」
碧がまっすぐ見つめてくる。
名指しされたことは嬉しいが、もうひとつ気がかりがあったことを思い出した。
「…私はいま、碧さんより年下ですか?」
「うん。だって瀬戸さん、一年だもん。現役でしょ?」
「現役です。でも、そうじゃなくて、学年じゃなくて、碧さん、いま十九歳なんですか? 二十歳なんですか?」
夏生まれの柚希は十九歳だ。碧の誕生日がまだなら、タイミング的に同い年である。
「……誕生日?」
「はい。まだ、教えてもらえないんですか?」
碧が十二月生まれなのはわかっている。今日は二十四日。すでに誕生日は過ぎている可能性が高かった。
「いま何時?」
「え…と、十時半くらいです」
「じゃあ、年下だよ」
「……もしかして、今日なんですか?」
「うん」
「お…、おめでとうございます」
「ありがと」
まさか今日が誕生日だとは思わなかった。驚きで、言葉も思考もうまく回らない。けれど、松浦が言っていた言葉を思い出した。
『碧ちゃん、子どもの頃から自分の誕生日、嫌いだったって言ってたな』
クリスマスイブが誕生日なら、本来、年にふたつ食べられるケーキがひとつしか食べられなくて嫌いだった、ということは充分あり得る。
「どうしてもっと早く、教えてくれなかったんですか?」
「言ったら、友達の舞台、観に行かない、とか言いそうだったし」
それは間違いなく言った。だから碧は言いだせなかったのだ。もし舞台が一日でもずれていたら、教えてくれていたのだろう。教えてもらえなくて、理由がわからなくて、あんなに疑心暗鬼になっていたことが、ようやく払拭された。
「……碧さん、どうしてクリスマス…というか、誕生日のプレゼントはいらないって言うんですか?」
「あたし、友達から誕生日デートで気まずくなった話を訊いたこと、あるんだ」
「誕生日デート?」
「その子、彼氏に、誕生日の日、テーマパークとホテルに連れて行ってもらったんだって」
碧以外、つきあった経験がないけど、それが、女の子の喜ぶ内容であることは、柚希にもわかる。
「その日、生理だったからお泊り台無しにして、気まずくなったんだって」
「はあ……」
柚希は頭の中で、状況を想像してみた。正直、中途半端な自分には、男の立場も、女の立場もちゃんとは理解できなかった。
一日ふたりで過ごせたのだから有意義な日だったと思うし、その日以外セックスできないわけじゃない。そんなことで、なぜ気まずくなるのか、よくわからない。
「そういうデートって、お金かかるでしょ。友達はそれが心の負担になるみたいだったの。あたし、瀬戸さんとそういうやりとり、したくないなって。まだお互い、学生だし」
「…そうだったんですか。なんだ、よかった……」
「え?」
「プレゼントは欲しくないって言われて、落ち込んでたんです」
「なんで?」
「あとに残る物をもらうと、別れたあと、処分に困るから欲しくないのかと……」
碧の顔が、泣き出しそうに歪んだ。
その顔を見て、柚希は本当に申し訳ない気がした。自分は勝手に悪い考えに捉われて、いじけていたのに、碧はふたりの関係が悪くなるものを排除するよう、心を砕いてくれていたのだ。
やはり自分は年下で、碧は年上なんだと思った。
柚希は碧に顔を寄せた。碧は顔を背けなかった。
唇を合わせると、碧の腕がすがりつくように首に巻きついた。
キスが甘いのは、碧がさっき飲んだ蜂蜜レモンのせいだ。
舌に、唇に、愛撫するような接吻をした。官能的なキスはいつも緊張する。そして興奮する。
「碧さん、ちょっと待っててください」
柚希は立ち上がって、寝室のクローゼットから鍵を持って来た。その鍵を、碧の手のひらに乗せた。
「碧さん、これ、持っててください」
「鍵?」
「この部屋の合鍵です。いつでも好きなときに来てください」
「なんで? こんな大事なもの、預かれないよ」
「クリスマスイブだから、私もプレゼントが欲しいんです」
「もらってるの、あたしだよ」
「じゃあ、バースデープレゼント兼用で」
「……いいの?」
「はい」
「返してもらいたくなったら、すぐ言ってくれる?」
そんな日はきっと来ない。けれどそう告げても、碧は納得しない。根拠のない口約束を、喜んでくれない人だ。
柚希は黙って頷いた。強く抱きしめると、耳元に碧の吐息が掠めた。
気が変になりそうなほど、愛おしかった。
話はおもいっきし途中だったのに、更新ができなくて申し訳ありませんでした。
結局、お正月明けにクリスマスの話が続いております(。>0<。)
この事態を避けるために、途中停車覚悟で見切り発車したのですが…。