第二話 なんで許嫁が小学生なんだよ!
俺は頭を掻き毟りながら、不承不承、玄関に向かった。扶養家族の分際は盛大に辛い。ドアを開けると、待っていたのは斜め向かいに住む女の子だった。
学年は確か、小学五年生だったよな。いまどき、ませた子も多い中で、小柄でおさげなもんだから、年より幼く見える。
「凜ちゃん、どうしたの?」
「雄介くんいる?」
雄介は俺の弟だ。二歳年下で、四月からF大に通っている。大学生に小学生が『くん』づけで呼んだりするんだが、凜は俺にも『惣介くん』だ。これは、凜の親が俺ら兄弟をそう呼ぶからである。小さい子どもは、親の呼び方をそのまま真似するからな。
呼び方が変わるのは、中学に行って、部活とかしてからなんだろうなあと、俺は思ってる。べつにいまの呼び名も嫌じゃないし、構わないんだけど。
生まれたときから知ってるし、家族の延長みたいな存在だ。
「いま、バイトに行ってるよ」
「そっかあ。残念」
「どうかしたの?」
「算数の宿題、わかんないとこあるから、教えてもらいたかったの」
そういえば雄介が、ときどき、凜の勉強みてるって言ってたな。
「俺でよかったら、みてあげようか?」
「いいの?」
「いいよ。どこ?」
教科書が出てくるのかと思えば、凜が手にしているのは小学五年生のドリルだった。なんとも懐かしい代物だ。裏返すと『庄野りん』と小学生らしい文字で名前が書かれてある。まだ習っていない漢字はひらがなだから、庄野凜とは書けないらしい。
わからないという問題を指差されて、俺は唸った。時間と距離の応用問題だ。これは確かにちょっとややこしい。少なくとも、紙に図を書いてあげないと、わかるようには説明できない。
こんな玄関先で机なんかあるわけないし、やっかいだな。そんなことで思案していると、お袋がエプロンで手を拭きながら出てきた。
「惣介、どなただったの……あら、凜ちゃん。ああ、宿題しに来たのね。あいにく雄介は留守だけど、惣介でもどうにかなると思うし、上がって教えてもらいなさい」
「母さん、F大よりM大の方が偏差値、上なんだけど……」
「自分で問題を解くのと、ひとに教えるのは別よ。あんたは苦労もせずに理解しちゃうから、わからない気持ちがわからないのよ」
さすが母親。案外、鋭い。実際俺は、理解が早いと言われている。苦手な教科もないが、得意な教科もない。
雄介は苦労して理解する奴だから、一度身に着けた知識は大事にするし、好き嫌いもはっきりしている。小学生に勉強を教えるのは、雄介みたいな奴の方が、向いてるのかもな。
わざとらしく肩をすぼめて見せてから、リビングに行こうとして、お袋に腕を掴まれた。
「四時から韓流ドラマがあるの。全力で見ないと命にかかわるから、自分の部屋で教えてあげてね」
それでこんな早い時間から、ひき肉をこねくり回していたのか。
「間違い起こしちゃ駄目よ」
相手は小学生だぞ。どんな間違いがあるって言うんだ。
「惣介くん、間違いってなに? 算数?」
「……間違いなんか全然ないから、大丈夫だよ」
凜の頭をなでながら、俺は溜め息をついた。
凜は俺の部屋に入ると、もの珍しそうにキョロキョロした。そういえば、俺の部屋に入るのは初めてなんだ。親同士が懇意にしていても、それぞれの子どもは年も離れているし、それが普通だろうけどさ。
「写真がいっぱい」
壁のボードにはぎっちり写真が貼り付けてるし、机や本棚の空いてる場所にはフレームに収まってる写真が所狭しと置いてあるから、写真まみれに見えるんだろう。これでも飾ってあるのは、ほんの一部なんだが。
「写真部だからね」
中学からさほど変わり映えがしない部屋は、ベッドと勉強机、あとは壁の本棚しかない。
納戸からコタツ机と座布団を持ってきてもいいんだが、どうせ宿題も二、三問教えればいいだけだろうし、面倒だ。俺は凜を勉強机に座らせて、雄介の部屋から椅子だけ持ってきた。隣に腰かけると、凜が愉しそうに笑った。
「家庭教師のコマーシャルみたい」
言われてみればそうだな。
「雄介に教えてもらうときは違うの?」
「雄介くんは一階で教えてくれるよ」
そうだよな。そんなに頻繁でもないみたいだし、今日だってこんな問題じゃなきゃ玄関先だってかまわなかった。
凜がわからなかった問題は、だれでも躓く問題だ。1時間70分は130分。1.8キロメートルは1800メートル、と考えなければ解答できない。けれど、130分は何時間何分ですか? という問題に慣れているから、分に戻す発想になれないんだろう。
凜は最初こそ首を傾げていたが、途中で「あ、そっか、わかった」と声を弾ませた。
理解力が高い方ではないが、集中力はあるみたいで助かった。
他の問題も同じ応用で解けるものだったから、宿題は案外あっさり、終わらせることができた。
「惣介くん、ありがとう」
「どういたしまして」
持ってきた荷物を手提げ鞄に詰めると、凜は机の上のフォトフレーム手に取って呟いた。
「このお姉さん、すごく綺麗」
「ああ、そうだね」
俺は頷いた。綺麗なのは間違いない。ただ、お姉さんではなくて『お兄さん』だけど、小学生に説明するのも面倒なので細かい情報はスルーだ。
「惣介くんが撮ったの?」
「そうだよ。大学の後輩なんだ」
「へー、大学の女のひとって、みんなこんなに綺麗なの? なんかアイドルみたい」
「その子はちょっと、特別だよ」
この写真は久しぶりに納得できるものだったから、自分でも気に入っている。一番、目につく場所に置いておきたいくらいには。
「凜ちゃん、おばさんまだ帰ってないの?」
「うん。今日は夜勤なんだって」
慣れているのか、寂しさを表情に出さないのが、かえって痛々しい。一人っ子だから、家に帰っても誰もいないんだよな。
凜の母親は看護師で、夜、帰れない日もあるらしいし。いや、今日は土曜日だ。親父さんはいないのかな。
「俺はこれから打ち上……」
打ち上げコンパと言いかけて口を噤んだ。小学生にはわかりにくい言葉だと思い、言い直す。
「えっと…飲み会に行くけど、しばらく下にいる? お袋と韓流ドラマ観なきゃいけないけど」
「ううん、帰る」
一人で待つのは慣れてるのかな。そもそも一人でいるのが寂しいのか、羽を伸ばせて愉しいのかもわからないんだよ。俺だってかつては小学五年生だった時期があったはずなんだけど、なにが出来て、なにが出来ないのか、さっぱり思い出せない。
俺の場合、これくらいのときは、ほとんどお袋が家にいたし、雄介もうるさくまとわりついてたからなあ。
「お父さんがもうすぐ帰ってくるから」
「そっか」
「飲み会ってなんか、お父さんみたい」
小学生からしたら、俺らのすることなんか父親と変わらないんだろうか。実際、来年就活が本格化して、うまく内定をもらえば、再来年は社会人だ。
やることなすこと、父親世代と同じになる。そうなると、お袋が言った婚約者も現実味を帯びて迫ってくるのかな。
俺はうんざりした気分で溜め息をついた。
「どうしたの?」
「ああ、いや、さっきうちのお袋が、許嫁がどうのこうのって言ってたんだ。まあ、冗談なんだろうけどね」
小学生相手に、なにを愚痴こぼしてんだろ、俺は。
「許嫁の話、まだ訊いてなかったの?」
「? 凜ちゃん、なんで知ってんの?」
「なんでって、惣介くんの許嫁、あたしだから……」
お袋が言ってた、ものすごく可愛い許嫁って……凜…?
そりゃ、可愛いだろう。小学生なら、たいていは。
俺がその場で卒倒しかけたことは、言うまでもない。