第十九話 家がもっと遠かったらいいのに
家に帰ってから、仕事中かと思ったけど、沢波さんに電話してみたら、あっさり繋がった。
「雑誌、わざわざ送っていただいてありがとうございました」
『今日あたり届くと思ってたの。名画のとこ、もうちょっとスペース取りたかったんだけど、通らなくて小さくなっちゃったわ。ごめんね』
「いえ、とんでもないです」
『写真部応援企画、読んでくれた?』
「読みました」
『どう? 参加してみない?』
「実は、後輩で、はりきってる子がひとりいるんですよ」
『本当? よかった。去年、閑古鳥が鳴いちゃったから、今年は賞金も増やしたのよ』
「あの、カップルってどういうコンセプトなんですか?」
『あんまり詳しく話すと、依怙贔屓になっちゃうから、ちょっとだけ教えるわね。本当はミスキャンパスの写真を送ってもらおうかと思ったのよ。読者にとっては知りたい情報でしょ? でも、それじゃありきたりだし、カップルも面白いかなって。高校生読者も多いし、受験したい大学の裏側もちょっと覗けたら愉しいでしょ』
となると、背景もある程度大学の雰囲気を出した方がいいんだな。とはいえ、写真部同士で競うんだから、スナップ写真では話にならないし、案外難しいな。
「あの……カップルは男女じゃなきゃ駄目ですよね?」
『はあ?』
「いえ、すいません。なんでもないです」
我ながら馬鹿な質問だ。冷や汗が出る。
『あ、そういえば、就職活動はどうしてるの?』
「まだ、説明会に参加してる程度です」
『本当にうち、受けない? 私、人事じゃないから何もしてあげられないけど、現場で取材したり記事書いてる人間にとっては、松浦くんみたいな子は是非、来てほしいのよね』
「ありがとうございます。ただ、あの写真はモデルが……」
『確かにモデルの子は綺麗だったけど、それだけじゃないのよ。M大の写真部はエネルギーを感じる。その部をM大祭では実質、松浦くんがまとめてたんでしょ。そこが一番の魅力なのよ』
「……………」
『それにね、モデルの容姿抜きにしても、写真は魅力的だったわよ』
「……ありがとうございます。真剣に考えます。出版業界はやりがいのある仕事だと思うんで」
『ぜひね。なにかわからないことがあったら、いつでも相談して』
「はい」
電話を切って、息をついた。なんだか、力が抜けた。
自分に対する評価が、思っていた以上に高かったことは、照れくさくも嬉しかった。人事のひとじゃないから、内定の期待ができない分、気楽に喜べた。
「出版社か……」
紙の媒体は今後、厳しさを増していくだろう。それでも、紙を捲って文字を読む心地よさは、なくなりはしない。俺自身、電子書籍に手を出してみたが、やはり紙の本に戻ってしまった。
写真にかかわる可能性があるのも、魅力は大きい。
「受けようかな」
送ってもらった雑誌を眺めながら呟いた。女性読者対象の雑誌だから、内容は正直、頭に入ってこない。けれど、ページの構成や写真の配置なんかを見る姿勢が、夕方とは違ってきたのを自覚する。
「やったー、できたよ」
一階から女の子の声がかすかに聞こえて、はっとした。
「え? 凜ちゃん?」
俺は立ち上がって、慌てて一階に駆け降りた。
「凜ちゃん、来てたんだ」
「うん。雄介くんに宿題みてもらったの」
「最近の小学生も、ややこしい宿題してるよな」
そろそろ教えられる限界かも、などと雄介は情けないことを口走っている。
いくらなんでも限界ってことはないはずだけど、俺や雄介はゆとり教育世代だし、思わず弱音も出てしまう。
大学に行ってからもサッカーを続けている雄介は、俺より体格がいい。身長は一七六の俺とそれほど変わらないが、体重は六、七キロ重くてがっしりしている。弟のくせに、まったく可愛くない。
凜がコートを拾い上げていた。
「もう帰るの?」
「うん。宿題終わったから」
「送っていくよ」
「お向かいなのに?」
「もう暗いから」
玄関を出れば、凜の家はもう見えている。外は凍てつくような寒さだ。
「惣介くん、あの、こないだのお姉さん……」
「柚希ちゃん? 図書館で会った?」
「うん。柚希さん、怒ってた?」
「怒ってないよ」
「惣介くんは?」
「怒ってないよ」
「…………」
「凜ちゃん、なんであのとき、あんなこと言ったの?」
俺は、訊いてからしまったと思った。
あれから…図書館の前で凜に会ったときから、俺なりに考えた。凜が柚希に啖呵を切った理由も、バレエの迎えに行ったときに、少し頬に触っただけで過剰に反応したことも。
本当は、薄々、気づいてる。凜の気持ちに。でも、そんなはずないとも思っていた。
凜は小学生で、俺は大学生で、年は十歳も離れていて。
だから、俺がこんな気持ちになるのもおかしいし、凜が俺に好意を寄せていたとしても、それは近所のお兄さんに対する憧れでしかない。
あのときの凜の行動をつきとめてどうするんだ。
「あたし……」
「ごめん、いまの質問はなしにして」
「あの……」
「そうじゃなくて、柚希ちゃんが凜ちゃんに伝えろって言ってたんだ」
「え?」
「あのひと、男なんだよ」
「ええ?」
凜が驚いて言葉を失っている。図書館で会ったとき、柚希の服装はスカートではなかった。ジーンズにダウンのコートだったのに、やっぱり小学生の目にも、女の子に見えるんだな。まあ、髪も長いし肩幅も細いし、当たり前か。
「それに、彼女がいるから」
信じられないような、ほっとしたような顔で凜が見あげてくる。
「ほ、ほんとに?」
すがりついてきそうな様子が、胸についた。
「ああ。あ、そうだ。凜ちゃん、くるみ割り人形の舞台、俺も観に行くから」
「え、なんで?」
「柚希ちゃんの友達が出るんだって。それで、俺も凜ちゃんを観に行くことにしたんだ。客席から応援してるし、頑張るんだぞ」
「うん……。あの、惣介くん、ありがとう」
凜の頭をなでてから、笑顔の凜に手を振った。家がもっと遠かったらいいのに、そんなことを思ってしまうほど、あっという間に凜は家の中に消えていった。
指に絡まった凜のやわらかな髪の感触が、名残惜しく感じた。
あといくつ、この寒い冬を過ごしたら、凜は大人になるんだろう。
俺はまた、馬鹿なことを考えていた。
本当に、どうかしてる。