第十二話 年の差カップルとか碧とか
ゼミの空き時間を、俺は部室で自習に充てていた。図書館に行ってもよかったのだが、やはりここの方が落ち着く。
バレエの迎えに行ったときから、ふと気がつけば、俺は凜に思考を巡らせている。
車の中で見た凜の姿が目に焼き付いて、なかなか消えない。
俺は、どうしても凜を写したいらしいのだ。そのことを凜に伝える手段がなくて困っている。
単なる近所の子どもなら、いくらでも頼める。だけど、その相手が許嫁となると、下手に近づけない。少なくとも、自分から故意に近づくのはまずいだろうし。
婚約話さえなかったら、簡単に頼めたのに、困ったもんだ。うーん……。あの婚約話、やっぱりどうにかできないかな。
円満な婚約解消。それが俺の思い描くハッピーエンドだ。
扉にノックの音がした。俺の返事も待たずに飛び込んできたのは、碧だった。
「あれ? 副部長、ひとりですか?」
「碧ちゃんこそ、珍しくひとり?」
柚希かさくらと一緒に部室に来ることが多かったから、碧がひとりでいるのを久しぶりに見た。タートルネックのセーターにファーがついたブーツ姿をみて、もう季節はすっかり冬だよなと改めて感じた。
「忘れ物を取りに来たんです。学生課に鍵をもらいに行ったら、なかったから。副部長、こんな時間に、なにしてるんですか?」
「レポートだよ」
「全然、はかどってないでしょ」
「なんでわかるの?」
「資料もパソコンも出してないし」
「実は、物思いに耽ってた」
「悩みでもあるんですか?」
「悩み、とまではいかないけど、結婚について考えてた」
「就活すっ飛ばして、婚活ですか?」
碧は呆れたように、口をぽかんと開けた。
「いや、そんな具体的なものじゃないよ」
「はあ…?」
「碧ちゃん、結婚について考える?」
「あたし、いまのところ、結婚する気はないんです」
「柚希ちゃんとも?」
「瀬戸さんとはつきあいはじめたばかりですよ。結婚とかそんなこと、考える段階じゃありません。でも、瀬戸さんなら、なおさら結婚なんてないです」
「どうして?」
一応かろうじてなんとかギリギリ男女なんだし、戸籍的には問題はないだろう。
「瀬戸さん、恋愛はあたしが初めてだし、それで結婚とか、傲慢じゃないですか?」
「傲慢?」
なんか、想像と全然違う言葉が碧の口から出てきた。てっきり、結婚式で花嫁衣装をどっちが着ればいいかわからない、なんて次元の心配かと思ったのに。
「可能性を奪うみたいな感じ、しません?」
「可能性? うーん、そうかな?」
「遠い先の時間を拘束する約束でしょ、結婚って。なんか残酷な感じがするんですよ」
残酷というキーワードがまた飛び出した。
女の子が結婚について語るときに、なぜ『残酷』と表現するのか、理解に苦しむよ。結婚は女の夢じゃないわけ?
「あたし、最初につきあったひとが、十三歳年上だったんです」
「十三歳? ずいぶん年上だね。どんなひと?」
俺と凜が十歳差だから、さらに年が離れている。俺は興味が湧いて、身を乗り出した。
「ラジオのDJなんです。中三のとき、受験勉強しながらラジオ聴いて、このひとの声、甘くて低くてかっこいいなあって思ったのがきっかけで……」
「へえ、そうだったんだ」
なかなか華やかな出会いだったんだな。ラジオのDJといったら、中学生から見たら、芸能人みたいなもんだろうに。おっかけが高じて…って感じかな。ラジオの収録は案外近所だったり公開してたりするもんな。
「結局、最終的に別れちゃったんですけど、別れなかったら、瀬戸さんと出会っても、つきあわなかったと思うんです」
「なるほどね……」
一年のとき、碧は短いサイクルで彼氏が交代していたが、交際の時期が重なったことはなかった。正直で素直な性格だ。二股できるほど器用でもなければ、平気で嘘つくほど薄情でもないのだ。
「瀬戸さんにとってあたしがそのひとに該当するとしたら、この先もある気がするし……」
うーん、そうかなあ。柚希に関してそんな心配は無用のように思えたけど、碧の言いたいことは理解できる。
自分の存在が、相手の新しい出会いを妨げるなら躊躇するに違いない。経験値に差があると、どうしても遠慮する気持ちが湧くのだろう。
「カミングアウトしてから、女の子にモテてるんです」
「柚希ちゃん?」
「はい。女だと思われていたときは、友達でも近寄りがたいと敬遠されてたんですけど……」
女としては完璧すぎて友人扱いするのも気おくれするけど、男なら女装も程よい欠陥になるってことか。女の子の心理も面白い。
「佐々木みたいに男くさい奴よりいいのかな」
「そういう子も多いみたいですよ」
「あの美貌で女の子にモテたら、まるで光源氏だね、葵の上」
「…………気づいてました?」
碧は、ばつの悪そうな顔で苦笑する。
「あのときは気づかなかったんだ。源氏物語をちゃんと読んだわけじゃなかったから」
「気づかないままでいて欲しかったな」
「女の子の立場から、あんな求愛ダンスは嬉しいの?」
「求愛ダンスって瀬戸さんは鶴じゃないんですけど……。でも、嬉しいですよ」
「そうか。なるほど、なるほど…」
「口説きたい相手でもいるんですか?」
「いや。彼女もいないし」
「許嫁はいるのに?」
話の風向きが怪しくなってきた。俺は慌てて会話を戻した。
「柚希ちゃんは、君だけで充分なんじゃない?」
「どうしてですか?」
「彼女、一途で不器用そうだから」
「彼女じゃなくて、彼なんですけど……」
「あ…」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
「そういえば、君ら、つきあう前と変わらないね」
俺はふと思い出して、以前から疑問に思っていたことを口にした。
「変わらないって、なにがですか?」
「お互いの呼び方とか。恋人同士なのに、瀬戸さん碧さんのままだろ」
「ええ、まあ…」
「ふたりのときは違うの?」
「いえ、いつも通りですよ」
「柚希ちゃんは、ふたりきりでも敬語で話してるの?」
「そうですけど、なにか変ですか?」
「いやだって、恋人同士なら名前で呼び捨てにするのが普通かなって」
「なんでですか?」
うーん、言われてみればなんでだろ。そんなこと、考えてみたこともなかった。
ただなんとなく、それが普通と思ってた、としか言いようがない。
あえて説明するとしたら、けじめ、かな。もしくは周囲に、この子は自分の彼女だぞとアピールしたいのかもしれない。
「副部長、自分が考えてることを、普通で標準だと思ってるでしょ」
「違う?」
「確かに副部長の考え方って一般的に多いけど、普通とか常識って、ひとそれぞれじゃないですか?」
「…………」
碧は案外するどい発言をする。訊けばそうかも、と頷ける説得力もある。だけどそれなら、普通とはなんだろう。
俺はますます混乱してきた。
「ところで碧ちゃん、君、誕生日いつ?」
「瀬戸さんに頼まれたんですか?」
「『碧さんの誕生日、いつか知りませんか?』とは訊かれたけど、訊きだしてくれとは頼まれてないよ」
「誕生日は企業秘密です」
「彼氏に教えられないような誕生日なの?」
「まあ、そうですね。あたし、子どもの頃から自分の誕生日嫌いだったんで」
「わかった。敬老の日だろ」
「ノーコメント」
碧はなかなかガードが固い。