第十一話 元カノのアパートから朝帰り
煙草の匂いで、俺は目が覚めた。
目覚めて最初に目に入った物は、元カノのアパートの天井だった。
「おはよ。起こしちゃった?」
「いや……」
俺は派手に欠伸をかましながら、首を振った。
昨夜抱いたひとが、すでに服を身に着けていたので、俺は少し寂しい気持ちになった。暖房で暖められた部屋でも、裸のままでいるのは寒い。ベッドのわきに置いてある服を拾い上げて、思い切り腕を伸ばした。背中がギクシャクする。
眠れないほど知らないベッドでもなく、ぐっすり眠れるほど慣れたベッドでもない。いま朝の挨拶をしてくれたひとに、少し似ている。
「なにか、食べる?」
「いや、いいよ。忙しいの?」
煙草を口にくわえながら、スケッチにパステルを走らせている背中に尋ねた。
「忙しいわけじゃないんだけど、次のラフのラフかな」
春までつきあっていた彼女は、林原と同じ美大で助手をしている。別れていた間に誕生日が過ぎたから、いま二十九だ。
一度別れて偶然再会してから、『こんな呼び出し』はたまにある。お互い、嫌いで別れたわけじゃないし、好きな相手もいないから、なんとなく、だ。おかしな関係だと思うけど。
「中江さん、彼氏、できないの?」
つきあっていたときは、八歳年上でも名前で呼び捨てにしていたが、いまは苗字で呼んでいる。そんな呼び方にも、最近は慣れてきた。
「できないわねえ。私、自分を優先しちゃうからなあ」
「そこがカッコいいのに。みんな見る目ないな」
「より戻したいくらい?」
「いや、それは……」
俺は、スケッチに視線を落としたままの中江の背中に、違和感を覚えた。
「俺、もうここに来ない方がいいんじゃないの?」
「どうして?」
「俺とこんなこと続けてたら、彼氏、作りにくいだろ」
「惣介って、優しいのか残酷なのか、わからないようなとこ、あるよね」
残酷? 俺が? なんで? 首を傾げて不思議そうな顔をしていると、中江はくすりと笑った。
「あなた、だれにでも優しいでしょ。それが恋人にとっては微妙なのよ。私はもう彼女じゃないから気楽に癒してもらってるけど」
中江の言い方だと、別れた原因は俺にあるみたいだ。少なくとも、彼女はそう言いたいのかな。
「そうねえ、たとえば、私が妊娠したって言ったら、惣介は責任とって結婚するでしょ」
俺はぎょっとして中江の顔を見つめた。
「馬鹿ね、たとえばよ。妊娠なんかしてないわ」
彼女がなにを言いたいのか測り兼ねたが、俺はとりあえず頷いた。
「結婚したら、浮気もせずに一生、仲良く過ごす努力を続けそうじゃない。でもそれが私じゃなくて他の誰かでも、同じだろうなあって思うのよ。惣介の残酷さはそこかな」
俺には、中江の言葉の意味が、よくわからなかった。普通、自分のせいで妊娠させたら結婚するだろうし、結婚したら幸せにしたいと願うものなんじゃないのかな。
それのどこが残酷なのだろう。
そんなことを言いだしたら、世の中のできちゃった結婚は、すべて残酷ということになる。
けれど俺は、ふいに思い出した。相手がだれでも同じだろうと、お袋にも言われたことを。
俺は、お袋と元カノに同じ評価を下されてるのか?
最近、俺が思う『普通』はことごとく否定されている気がするよ。
「恋愛はね、理性が働いてるうちは、まだまだ本気じゃないのよ」
「俺、中江さんに本気じゃなかった?」
「そうね。まだ余力がありそうだったわよ。でも私も自分勝手だし、本気で来られたらつきあえなかったから、合わせてもらえてありがたかったわ」
けれど、結局別れてるんだよな。よくわからないよ。なにが良かったのか、なにが悪かったのかも。
しばらくとりとめのないことを話したり、スケッチするのを眺めて過ごした。
帰りかけたとき、机の端に文庫本が置いてあるのに気がついた。なんの気なしに手に取って表紙を見る。
「へえ、源氏物語なんか読んでるんだ」
俺が以前、古典対策で読んで途中で挫折した源氏物語は、もっと分厚いハードカバーだった。こんな読みやすい文庫本もあったのか。
「読むなら持って帰る? もう読み終わったからいいわよ」
「う~ん、読み切る自信、ないなあ」
俺は、打ち上げコンパで後輩にからかわれたときのことを思い出した。
「中江さん、光源氏の最初の妻ってだれ?」
「葵の上よ」
「葵の上……あおいのうえ…あおい…碧…あ、そうか。碧ちゃんか!」
柚希はあのとき、正々堂々と惚気ていたのか。いや、口説いていたのかな。もしくは、プロポーズだったりして。いくらなんでも、それは飛躍し過ぎか。
あのとき碧は、そわそわと落ち着かない様子でビールを口に運んでいたよな。あれは、恥ずかしがっていたのか。
「柚希ちゃん、やることが男前だなあ……」
思い出し笑いをかみ殺しながら、俺はこっそり呟いた。
中江のアパートを出て、書店で就活のための資料を探していたら、マナーモードにしていた携帯が振動した。
開いて確認すると、柚希からのメールだった。
『碧さんの誕生日、ご存じないですか?』
愛想も素っ気もないメールはいつものことだが、内容に首を傾げながら返信する。
『わからないな。さくらちゃんなら知ってるんじゃないの?』
『碧さんに口止めされてるみたいで、教えてもらえないんです。写真部の名簿に誕生日の項目、なかったですか?』
返信したら間を置かずにレスが来る。電話した方がよかったなと思いながら、あとひと言くらいだし、そのまま返信を続けた。
『なかった。学年と学部と、あとは住所と電話番号、メールアドレスくらいだし。もしわかったら連絡するよ』
『ありがとうございます。お願いします』
つきあってる彼女の誕生日がわからなくて、困っているらしい。
なんで? と訊くのは野暮だよな。誕生日を碧と一緒に過ごしたいのだろう。微笑ましくて嬉しくなる。
このふたりのことは、いろいろ心配した分、うまくいってほしい。
しかし、四月に柚希が入部して、夏休みにはかなり仲良かったよな。十一月も末になるのに、まだ、誕生日を知らなかったのかな。九月か十月だったら、来年まで待つしかないのに、どうするんだろう。
そういえば、凜の誕生日はいつかな。
誕生日を過ぎていたら、十一歳。まだなら十歳か。もし誕生日が近いなら、記念写真を撮ってあげる、と提案するのはどうだろう。不自然ではないはずだ。テーマパークにでも連れて行ってあげたら喜ぶんじゃないかな。写真を撮っても自然な流れだし。
…………て、ちょっと待て。なんか変なことを考えてるぞ、俺。
これではまるで、彼女とデートをしたがっているみたいじゃないか。
凜は近所の子どもで、被写体にしたいだけだろう。
おかしい……。
なんか、変だ。
柚希をモデルにしたときは、普通に頼み込んだよな。おかしな感情は着いてこなかった。いや、そうか。柚希は写真部の後輩だから、モデルになってくれと言いやすかった。
だけど、凜はそれができないから、ややこしいことになっているんだ。
俺はようやく、納得した。納得した気になった。
欲求不満かな……。
いま、元カノのアパートから朝帰りだということを、俺はすっかり失念していた。
年の差カップルを書こうと思ったとき、最初は男を年下にすることしか考えませんでした。でも、そうするとまた、恋愛度数が上がって、エロい展開になってしまいそう……との判断で男を年上にしました。この場面とか、熟女好き云々は、最初の妄想の名残り、みたいな感じです(笑)