第十話 凜を迎えに行って、それから……
「ただいまー」
その日、俺が帰宅したのは、夜八時半を過ぎた頃だった。
「惣介、いいときに帰ってきてくれたわ。いまから車で文化会館に行ってきて」
お袋がパタパタと玄関に出てきた。
「文化会館? 図書館の隣の?」
「そう、そう」
「なんで?」
「庄野さん、仕事が終われないらしいの。凜ちゃん、大人が迎えに行かないと帰れないのよ」
「なんかよくわからないけど、文化会館に凜ちゃんを迎えに行けばいいんだな」
「そうなの。お願い」
「わかった。行ってくる」
「あ、ちょっと待って」
お袋は慌ててリビングに引き返すと、小さなメモを手に戻ってきた。
「これ、凜ちゃんがいま持ってる携帯の番号。もし、会館まで行って見つからなかったら、電話してみて」
「わかった」
メモを受け取って、俺は玄関のドアノブに手をかけた。
「安全運転で帰ってきてよ」
「わかってるって」
お袋の心配性も久しぶりだな。よその子どもを車に乗せて帰るんだから、無理もないか。
俺は苦笑してポケットから車のキーを取り出した。
文化会館の駐車場に車を停めて、会館の入り口の前まで来ると、凜が俺に気がついて駆け寄ってきた。
「惣介くん」
嬉しそうな笑顔で首に飛びついてくる。
「来てくれてありがとう」
「俺が来るの、わかってたの?」
「おばさんから電話してもらったから」
ジャージ姿の凜は、見慣れない髪型をしていた。
括っているわけでもないし、どうなっているんだろう。毛先が全然見えない。いつもは額に下りている前髪も上がってるし。おでこが見えている顔もなんだか新鮮で、思わず見入った。
文化会館のホールに、凜と同じような髪型の女の子が何人かいるのが見えた。
体操やシンクロの女子選手が、こんなぺたりとした髪型でいるのを、テレビで見た気がするけど……。
「凜ちゃん、今日のこれ、なんなの?」
「月曜日と木曜日はバレエだよ」
習い事の迎えに来たのか、俺は。お袋は最低限の説明すらしてくれなかったんだな。凜がバレエを習ってるのも、初耳だぞ。
「先生と友達に挨拶してくる」
「凜ちゃん、俺も行くよ」
別に凜が言えば必要ないと思うけど、万が一にも、怪しい若い男が教え子を連れ去ったと誤解されても困る。
俺は足早に凜の背中を追いかけた。先生とおぼしきひとの前まで行き、頭を下げる。
「いつも凜がお世話になってます。庄野さんが来られなかったので代わりに迎えに来ました。斜向かいに住んでる松浦です」
「あら、わざわざご丁寧に。凜ちゃんをよろしくお願いします。気を付けて帰ってください」
「はい。ではお先に失礼します」
バレエの先生だけあって、首やら肩が恐ろしく細いな。なに食べて生きてるんだろう。柚希や碧も痩せてるけど、種類が違う感じだ。俺はもう一度軽く頭を下げて、凜に視線を戻した。凜はなんだかぼんやりしている。
「凜ちゃん?」
どうしたんだろう。俺は凜の頬に指を滑らせた。
弾かれたように、凜は飛び上がった。
「惣介くんっ」
「あ、ごめん。びっくりさせた? ぼうっとしてるから熱でもあるのかと思ったんだけど……」
なんか顔、ちょっと赤いかな。
「大丈夫?」
額に手のひらを当ててみる。熱はないみたいだな。顔が赤いのは、練習の後だからかな。
「だ、大丈夫だから。本当になんでもないから」
凜の顔は、また赤くなったみたいだった。
逃げ出すように先を歩く凜の後ろ姿を、俺はぼんやり眺めた。後頭部で丸くまとめた黒髪が可愛かった。駐車場の頼りない外灯に照らされたうなじが、やけに女らしく目に映った。
助手席に座った凜は、少しうなだれてぼそりと呟いた。
「ごめんなさい」
「え?」
「せっかく迎えに来てもらったのに、なんか……」
さっき振り払うような態度を取ったことを、気にしているのだろうか。
「なんとも思ってないよ」
「ほんと?」
「本当だよ。それより、いつもこんな時間までバレエの練習、あるの?」
「うん。それに来月、発表会だから」
「なにか踊るの?」
「中国」
「中国?」
「くるみ割り人形の中国」
「そうか。大変なんだね」
くるみ割り人形の中国と訊いても、なんのことやらさっぱりわからなかった。大学生でも小学生よりわからないことがあるんだな。あたりまえか。
しばらく車を走らせると、大通りに面した信号に引っかかった。間が悪い。この信号、長いんだよな。うんざりした気分を持て余し、隣に視線を移した。
凜は靴を脱いだ片足を座席に乗せあげて、つま先を触っていた。
バレエのタイツは、履いたまま爪先の部分だけ出せるようになっているらしい。以前つきあっていた彼女が履いてたパンストなんかとは、ずいぶん形状が違うようだ。
なにをしているんだろうと見つめていたら、足の指は白いテープまみれだった。凜はそのテープを外そうとしていた。
「凜ちゃんっ」
「え? あ、あの、ゴミは持って帰るよ。車、汚したりしないから」
「そうじゃなくて、怪我してるのか?」
「ううん。マメは出来かけてるけど怪我はしてないよ。トウシューズでマメがつぶれると痛いからテーピングしてるの」
テーピング……。なんだそうか、びっくりした。
サッカーや野球のテーピングと、似たようなものかな。とにかく、怪我じゃないならよかった。
ほっとした心地で、凜の仕草を見守った。慣れた手つきで、足の指からテープを外していく姿に、俺は胸がざわめいた。真剣な横顔を、ジャージに包まれた華奢な身体を、バレエのタイツから露出したテーピングの足を、カメラに収めたい衝動に駆られた。
「惣介くん、信号、青だよ」
凜の声と後ろの車が鳴らすクラクションが同時に聞こえて、俺は我に返った。この信号は、こんなに短かっただろうかと、舌打ちしたい気分だった。
もっと凜を、見つめていたかった。
いま押し寄せた衝動が、大切なもののようにも、後ろめたいもののようにも思えて、俺はひどく戸惑った。
家に着くと、車の音に気付いたのか、凜の母親が慌ただしく出てきた。
「惣介くん、ごめんね。本当に助かったわ、ありがとう。急患が入って看護師が足りなくなったから、凜を迎えに行く時間に帰れなくて」
「いえ、大丈夫です」
恐縮する凜の母親に、俺は訊きたいことが山程あったけど、凜のいるところでは訊きにくいよな。こんなに近くに住んでいるのに、会えそうで会えない人だから困る。
晩飯を済ませて風呂から上がり、首に掛けたタオルで髪を拭きながら、俺は机の上のメモ用紙を見つめた。お袋に手渡された小さなメモだ。
携帯の番号が記されている。
凜が小学生であることを考えれば、この番号の携帯が凜のものとは思えない。お袋が言ったのは『いま凜ちゃんが持ってる携帯』だった。
習い事のときだけ、だれかの携帯を借りているのかな。だれかのといっても、家族に決まっている。でも、父親にしても母親にしても、仕事をしているのに一日携帯を手放すのは不便だろう。とすると、この番号の携帯は凜のもので、普段は持ち歩かないけど、習い事のときは持っていく、と考えていいんじゃないのかな。
俺は散々迷った挙句、メモの番号を携帯のアドレスに登録した。
「もしかしたら、またこんなことがあるかもしれないし……」
だれもいない自分の部屋で言い訳しながら、俺はなんだか、ひどく悪いことをしている気分だった。
心が動くときの話は、書いていて落ち着かない気持ちになります。
本当はもっと書き込みたかったのですが、恋愛度数を下げたかったのであっさりめに。11歳の子ども相手に本気になられても……てなもんですが(笑)