王家に裏切られた公爵令嬢、冷血と噂の帝国皇子に勢い余って求婚したら、案外楽しい日々が待っていました
王宮の奥にある豪奢なサロン。
その扉を開いた瞬間、ブランシュ公爵令嬢ルチアは足を止めた。
部屋の中央で、婚約者である第二王子レグナスが、金髪の令嬢を抱き寄せて口づけを交わしていたからだ。
相手には見覚えがある。
最近レグナスと親しいと噂されていた、ラヴィエル侯爵令嬢セシリアだ。
扉の音に気づいたレグナスは、悪びれる様子もなく顔を上げた。
「ちょうどいいところに来たな。ルチア、お前との婚約は本日をもって破棄する」
「……婚約を、でしょうか」
「ああ。私はセシリアと真実の愛を見つけた。それに、彼女を妻に迎える代わりにラヴィエル家から多額の資金援助を受けられることになった。父上も母上も了承済みだ」
一方的な話に、ルチアは言葉を失った。
「ブランシュ家にはすでに通達してある。違約金もラヴィエル家が負担する。お前たちが口を挟む余地はない」
「うふふ。お気の毒ですこと」
セシリアが勝ち誇った笑みを浮かべ、レグナスの胸へ擦り寄る。
その姿を見たルチアの胸に湧いたのは、嫉妬ではなかった。
――呆れと、怒りだ。
ルチアは幼い頃から、第二王子の婚約者として教育を受けてきた。
歴史、法律、外交、経済、礼儀作法。
将来王族の一員として国を支えるために、遊ぶ時間も惜しんで努力してきた。
それなのに、金と真実の愛とやらを理由に、一方的にすべてなかったことにするらしい。
あまりのことになおも固まっていると、レグナスが鼻で笑いながら言った。
「お前のその隙のない完璧さは、確かに役には立った。だが、やはり女は愛らしいに越したことはない。お前のように可愛げのない女とは、遅かれ早かれこうなっていたさ」
「…………」
「セシリア、行くぞ。これ以上このつまらない女の顔を見ていたくない」
二人は連れ立って部屋を出ていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
ルチアはしばらく無言で立ち尽くしていた。
悔しくないと言えば嘘になる。
未来の王族として生きるため、必死に積み重ねてきた十年。
それがこんなくだらない理由で無駄になるなんて――。
ルチアの中で、何かがぷつりと切れた。
「……冗談じゃないわ」
誰も聞いていない静寂の中、ぽつりと呟く。
その瞳には悲しみではなく、負けん気の強い炎が燃えていた。
◆
王城を後にしたルチアは、そのままブランシュ公爵邸へと戻った。
ブランシュ公爵家は王家の傍流にあたり、代々国政の中枢を支えてきた名門である。
執務室へ入ると、そこには両親が揃っていた。
父の手には、王家の紋章が刻まれた手紙が握られている。
どうやら、すでに婚約破棄の通達が届いているらしい。
「お父様、お母様。先ほど、レグナス殿下から婚約破棄を言い渡されました」
ルチアはサロンで起きたことを、できるだけ淡々と説明した。
けれど、
「……私がこれまで受けてきた王族教育も、すべて不要だと」
元より彼に、恋愛感情など持ち合わせてはいなかった。
胸を締めつけたのは、幼い頃から費やしてきた十年もの時間と努力を、まるで何の価値もなかったかのように扱われたことだった。
思わず俯いたルチアだったが、ダンッ! と、大きな音が響き、思わず顔を上げる。
見ると、父が真っ赤な顔をして拳を執務机へ叩きつけていた
「あの愚か者どもが……! 目先の金に目が眩み、長年支えてきた我が家を――何より、私の誇りであるお前を、そのように扱うとは!」
「ルチア。辛かったでしょう」
母が立ち上がり、ルチアをそっと抱きしめた。
その温もりに触れ、張り詰めていたものが少しだけ緩む。
自分には、こうして共に怒ってくれる家族がいる。
それだけで十分だった。
「ルチア、心配するな」
父が力強く言った。
「あのような不義理な王家などこちらから願い下げだ。私に任せなさい。あの大馬鹿者よりずっと素晴らしい相手を――」
「いいえ、お父様」
ルチアは母の腕から離れ、まっすぐ顔を上げて言った。
「私の相手は、私自身で見つけます」
「ルチア?」
「三日後の建国記念の夜会。そちらに予定通り出席いたします」
父が眉を寄せた。
「だが、あの夜会にはレグナス殿下もセシリア嬢も来る。婚約破棄の噂もすでに広まっているだろう。好奇の目に晒されるぞ」
「構いません」
ルチアは即答した後、ふっと口元を上げる。
「ここで邸宅に閉じこもって、何もかも失った令嬢として同情される方が嫌ですし。私の学んできた政治も外交も法律も、礼儀作法も――それを全部、無駄になどしてやるものですか」
父と母が目を瞬かせる中、ルチアは優雅に笑った。
「だから、私のこれまでの努力をきちんと評価してくださる、最高の殿方を自分で見つけてまいります!」
彼女の表情は、傷ついた令嬢のものではない。
これから自分の未来を勝ち取りにいくと意気込む、誇り高い戦士の顔だった。
ルチアの堂々とした宣言に、一瞬呆気にとられていた父だったが、やがて豪快に笑い出した。
「はっはっは! そうだ、それでこそ我が娘だ! よし、当日は誰よりも美しくして行け!」
「ええ。ドレスも宝石も、私に任せなさい」
母も楽しそうに微笑む。
「ありがとうございます、お父様、お母様」
ルチアも笑った。
積み上げてきたものすべてを抱えて、今よりもっと幸せな未来を、自分の手で掴んでみせる。
◆
迎えた決戦当日。
王城の大広間は、建国を祝う華やかな熱気に包まれていた。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが眩い光を放ち、優雅なオーケストラの調べが広間を満たしている。
国内の貴族だけでなく、国境を越えて訪れた他国の王族や使節団も多数入り混じる、一年で最も規模の大きい夜会である。
その大広間の重厚な扉が開き、一人の令嬢が姿を現した瞬間――華やいでいた空気が、水を打ったように静まり返った。
直後、さざ波のようなざわめきが広間全体に広がっていく。
「あれが、ブランシュ公爵家の……」
「数日前に、第二王子殿下から婚約破棄を言い渡されたばかりでしょう?」
「ラヴィエル侯爵家の令嬢に殿下を奪われたと聞きましたわ。それなのに、よくもまあ顔を出せたものですこと」
「哀れなこと。きっと殿下に縋りつきに来たのよ」
扇で口元を隠しながら、貴族たちがひそひそと嘲笑交じりの囁きを交わす。
だが、好奇と侮蔑の視線を一身に浴びるルチアの歩みは、微塵も揺るがなかった。
母がこの日のために用意してくれたのは、深い夜空を思わせるミッドナイトブルーの最高級のドレスだった。
歩くたびに散りばめられたダイヤモンドが星屑のように瞬き、彼女の凛とした美しさをこれ以上ないほどに引き立てている。
背筋を伸ばし、堂々と前を見据えて歩く姿は、とても何もかも失った惨めな令嬢には見えなかった。
ルチアが広間を進むと、自然と人波が割れて道ができる。
その先には、第二王子レグナスと、新たな婚約者となったセシリアの姿があった。
ルチアの入場に気づいた二人は、揃ってこちらを見つめている。
セシリアは自分が勝者だと誇示するようにレグナスの腕へ身を寄せ、優越感に満ちた笑みを浮かべていた。
レグナスもまた、ルチアが未練がましく自分を見つめ返し、惨めな顔でも見せることを期待しているらしい。
「……あの野郎、どの面下げて。ルチア、俺が一言言ってきてやろうか」
エスコートを務めてくれていた兄が、奥歯を噛み締めながら前へ出ようとする。
だが、ルチアはそっと兄の腕に手を添え、静かに首を振った。
「お兄様、あのような方々のために、お兄様が手を煩わせる必要はありません」
兄を宥めるように微笑みながら、ルチアは思う。
――本当に、どうしてあの二人のために腹を立てている時間など使わなければならないのだろう。
ルチアは二人の前でふわりと足を止めると、完璧な淑女の所作で優雅なカーテシーを披露した。
「レグナス殿下、セシリア様、ご機嫌よう。本日も素晴らしい夜会ですので、どうぞ、お二人とも良き夜をお過ごしくださいませ」
表情には微塵の翳りもなく、声にも淀みはない。
非の打ち所のない挨拶を済ませると、ルチアは二人の返事を待つことすらなく、そのまま流麗な足取りで通り過ぎた。
予想外の反応だったのか、レグナスとセシリアの顔から余裕の笑みがわずかに消える。
けれど、それすらルチアにはどうでもよかった。
嘲笑いたければ、いくらでも嘲笑えばいい。
今日のルチアには、そんなことより遥かに重要な目的がある。
優雅な動作で扇を開き、ルチアは油断なく広間全体を見渡した。
と、広間を見渡していたルチアの視線が、ある一点でぴたりと止まる。
会場の最奥。
きらびやかな貴族や各国の要人たちがひしめく中で、そこだけが異質な空気に包まれていた。
中心に立つのは、一人の偉丈夫だった。
長身で均整の取れた体躯は仕立てのいい夜会服に包まれているが、そこから放たれる覇気――いや、異常なまでの威圧感が、目に見えない分厚い壁となって周囲を圧倒している。
長い筋の髪を緩く結んで片側に垂らし、顔立ちは彫刻のように整っている。
だが、人を射殺すような鋭すぎる眼光と、纏う氷のような冷徹な空気が、彼を美麗というより恐怖の象徴として際立たせていた。
隣国にして、大陸全土に覇を唱える強大な軍事国家。
その大帝国の次期皇帝――ヴィルヘルム皇子。
今回この国を訪れた公式の目的は、数年に一度行われる『周辺諸国との安全保障および通商会議』への出席。
そしてもう一つ。
同盟国の令嬢の中から、新たな婚約者を探すためだという。
しかし彼には、恐ろしい噂があった。
これまで何人もの令嬢が婚約者候補として選ばれながら、そのすべてを「気に食わない」「飽きた」という理不尽な理由で捨ててきたというのだ。
その血も涙もない振る舞いから、人々は彼を『冷血皇子』と呼んでいる。
ただでさえ尋常ではない威圧感を持つうえに、そんな噂まである。
周囲にはちらちらと彼へ視線を送る令嬢もいるものの、誰一人として自ら近づこうとはしていなかった。
「…………」
だが、ルチアはヴィルヘルムを見つめながら、別のことを考えていた。
例えば大帝国の、次期皇后になれるなら。
王族の一員となるために身につけてきたたそのすべてを、余すことなく活かせるのではないだろうか。
いや、むしろもっと大きな仕事ができるかもしれない。
他にも各国からの参加者はいるが、彼以上に適任はいない気がした。
……これ以上ない相手ではないのだろうか。
ルチアの頭の中で完璧な計算式が弾き出され、胸が俄然高鳴った。
だが、いくら理屈の上では完璧な相手でも、万が一機嫌を損ねれば、自分どころかブランシュ家ごと消し炭にされかねない。
強気なルチアとて、まったく恐ろしくないと言えば嘘になる。
僅かに足がすくみ、ルチアが躊躇していると、隣に立つ兄がその視線の先に気づいた。
「おい、ルチア。まさかお前、あのヴィルヘルム皇子殿下に突撃する気じゃないだろうな……?」
「…………」
兄の引き攣った声に、ルチアは我に返る。
たしかに怖い。
ものすごく怖い。
できることなら、もっと普通に愛想のいい相手から探したい。
けれど、ここで怖気づいて引き返したら、それこそ自分で自分の未来を諦めることになる。
それだけは、絶対に嫌だった。
「……よし」
ルチアは小さく呟く。
そして、通りかかった給仕係のトレイからグラスを一つ取ると、ワインを一気に喉の奥へ流し込んだ。
「ぷはっ……! お兄様は、ここで待っていてください!」
「は!? お、おいルチア!?」
アルコールの力で強制的に恐怖を麻痺させる。
目標は決まった。
ならば、あとは進むだけだ。
ルチアは扇をパチリと閉じ、背筋を伸ばすと、迷うことなく戦場へと足を踏み出した。
周囲の貴族たちが、先ほどとは別の意味で息を呑む。
「ど、どこへ向かう気だ!?」
「まさか、帝国の皇子殿下に近づこうというのか? 気が触れたとしか思えない……!」
怯えと焦燥が入り混じった声が聞こえてくる。
だが、ルチアの歩みは止まらない。
誰もが恐れて一定の距離を取るその一画へ踏み込み、氷の皇子の真正面まで進んだ。
途端にヴィルヘルムの、鋭利な刃物を思わせる視線がルチアを射抜く。
並の令嬢であれば、その尋常ではない威圧感だけで腰を抜かしていただろう。
けれど今の彼女には、積み上げてきたものを無駄にしてたまるかという意地と、先ほど一気に流し込んだアルコールの力がある。
よって普段より少々気が大きくなっているルチアは、一歩も引かずに完璧なカーテシーを披露した。
「初めてお目にかかります、大帝国の皇子殿下。ブランシュ公爵の娘、ルチアと申します」
そして顔を上げると、はっきりと澄んだ声で告げた。
「単刀直入に申し上げます。――どうか私を、殿下の婚約者にしてください」
あれほどざわめいていた大広間が、水を打ったように静まり返る。
遠くではレグナスとセシリアも、信じられないものを見るように目を見開いていた。
だが今のルチアの瞳には、ヴィルヘルムしか映っていない。
目の前にいる彼だけを真っ直ぐに見据え、言葉を続けた。
「私を妻に迎えていただければ、殿下と大帝国に多くの利益をもたらすことをお約束いたします」
ルチアはこれまで幾度となく叩き込まれてきた外交の場と同じように、淀みなく紡いだ。
「一つ。私は幼い頃から、王族になるための教育を受けてまいりました。また、二年前には帝国の中央学園へ一年間留学し、年度末の試験では首席の成績を収めております。帝国の制度や文化についても、最低限の理解はございます。身につけた知識と能力は、次期皇后としての公務にも必ずお役に立てると自負しております」
ルチアが堂々としている一方で、周囲からは「ひっ」と短い悲鳴のような息を呑む音が漏れた。
ヴィルヘルムは表情一つ変えない。
ただ、続けろと促すように鋭い眼差しを向けている。
なので、ルチアは二本目の指を立てた。
「二つ。我がブランシュ公爵家が長年培ってきた情報網と政治力も、同盟国をまとめる殿下の手札としてお使いいただけます」
そして最後に、三本目。
ルチアはここでふわりと微笑んだ。
「そして三つ。殿下はこれまでの婚約者候補を、飽きたという理由でお捨てになったと伺っております」
ほんの少しだけ勇気を振り絞り、挑むようにヴィルヘルムを見上げる。
「ですが――私なら、殿下を退屈させないとお約束いたします」
「…………」
「ですから。私では、いかがでしょうか?」
大帝国の次期皇帝に対する、あまりにも大胆不敵な直談判だった。
素面であれば、途中で声が震えていたかもしれない。
お酒の力とは本当に偉大だと、ルチアは内心で酒の神に深く感謝した。
背後で兄が口をぱくぱくと開閉させ、酸欠の魚のようになっていることにも気づかずに。
「…………」
ヴィルヘルムは何も答えない。
冷たい眼差しで、ただじっとルチアを見下ろしている。
二人の体格差は凄まじい。
傍から見れば、巨大な肉食獣の前へ自ら飛び出した小動物そのものだ。
ぴりぴりとした威圧感が肌を刺す。
周囲では「ああっ次期皇帝の怒りに触れている!」「誰か止めろ!」などと小声で騒ぎ、青ざめて目を覆う者までいる。
やがて、皇子がゆっくりと動いた。
黒い革手袋に包まれた大きな手が、ルチアへ伸びてくる。
周囲の誰もが最悪の事態を覚悟した、その瞬間。
ヴィルヘルムの長い指がルチアの顎に触れ、くい、と強引に上を向かせた。
見る見るうちに顔が近づき、整っているのに恐ろしく鋭い顔が視界いっぱいに広がった。
ヴィルヘルムはルチアの瞳の奥まで見透かすように目を細めると、腹の底へ響く低い声で言った。
「……我の眼光を受けて、一歩も引かぬとは」
ごくりとルチアが息を呑む中、ヴィルヘルムはにっと唇の端を吊り上げて笑った。
「なかなか豪胆で、面白い女ではないか」
――よし!
ルチアは心の中で力いっぱい拳を握った。
少なくとも、つまらない女として即座に切り捨てられる最悪の展開は避けられたらしい。
顎を掴まれたまま、ルチアは至近距離のヴィルヘルムへ花が綻ぶような笑みを返した。
「お褒めに預かり光栄です。それで、私の提案への殿下のお答えをお聞かせいただいても?」
ヴィルヘルムの目がわずかに見開かれた。
そして――。
「くくっ……はーっはっはっは!」
突然、高らかな笑い声を上げた。
腹の底から響くような声に、広間のあちこちから短い悲鳴が飛び出す。
鋭い目元が細まり、口角が大きく吊り上がる。
ただでさえ恐ろしい顔立ちがさらに凄みを増し、周囲には獲物を前に歓喜する猛獣のように見えたのだろう。
だが、間近で見上げるルチアには、不思議と違って見えた。
恐れ多くも大帝国の皇子に抱く感想としてはあまりにも不敬かもしれないが。
……なんというか、まるで宝物を見つけた少年のように、楽しそうに笑っているように見えたのだ。
ぽかんとした顔で思わずじっと見てしまったルチアをよそに、ヴィルヘルムはルチアの顎から手を離すと、広間全体に響き渡る声で宣言した。
「いいだろう。我はお前を気に入った。今日からお前は、我の婚約者だ!」
大広間に、一瞬の空白が生まれた。
直後。
「ええええっ!?」
驚愕の声があちこちから上がり、一気にパニックへ変わる。
「あ、あの冷血皇子が……!?」
「婚約者を、その場で決めたぞ!?」
誰もが信じられないものを見る顔をしていた。
視界の端では、レグナスとセシリアも呆然と立ち尽くしている。
国王夫妻も固まっていた。
そして背後を振り返れば、兄も、いつの間にか会場へ到着していた両親までもが石像のようになっている。
「…………」
どうやら、ルチアはとんでもないことをしてしまったらしい。
だが。
ルチアはもう一度、目の前のヴィルヘルムを見上げた。
今のルチアは、達成感でいっぱいだった。
じわじわと実感が湧き、ルチアの口元が自然と緩む。
「ありがとうございます、殿下」
ルチアはヴィルヘルム向かって、晴れやかな笑みを浮かべた。
あまりの事態に国王をはじめとした王家側は、「同盟国間の取り決めが」などと慌てて口を挟もうとしたものの。
ヴィルヘルムに、何か文句でもあるのかと言わんばかりの鋭い眼光を向けられた途端、揃って口をつぐんだ。
なにせ相手は、大陸最強の軍事国家を継ぐ次期皇帝である。
そしてこの直後、慌てて駆けつけたルチアの両親とヴィルヘルムとの間ですぐに話し合いが行われ、婚約に向けた両家の合意がまとまった。
その後正式な手続きを経て、ルチアは大帝国皇子の婚約者となった。
帰りの馬車では、
「いくらなんでも無茶すぎる! よりにもよってなんで帝国皇子に突撃するんだ!」
「寿命が縮んだわよ!」
「妹よ、俺は寿命が十年は縮んだぞ……」
と、両親や兄から散々叱られた。
けれど当のルチアは、大仕事をやり遂げた満足感に未だに包まれていた。
もっとも、その達成感に浸っていられたのは、ほんのわずかな時間だった。
緊張の糸が切れたことに加え、先ほど一気に煽った酒が回ったらしい。
「ルチア?」
母が呼びかけた時には、ルチアは馬車の座席に身を預け、すっかり眠り込んでいた。
そんなルチアが夢の中へ旅立っていた頃。
王宮では、レグナスとセシリアが先ほどの出来事について話していた。
「まさか、あの冷血皇子がルチアを選ぶとはな」
「でも殿下。きっと物珍しかっただけですわ。あの方がルチア様のような堅物を、本気で愛するとは思えませんもの」
「それもそうだな。どうせすぐに飽きて捨てられる」
二人は顔を見合わせ、愉快そうに笑った。
◆
王宮が用意した、ヴィルヘルムのための豪奢な造りの別邸。
その奥にあるヴィルヘルムの寝室で、分厚い扉がぱたんと閉じた。
そして、誰もいないことを確認した瞬間だった。
大帝国の次期皇帝にして、冷血漢と恐れられるヴィルヘルムが纏っていた絶対的な覇気が、ぷしゅぅぅ……と音を立てるように霧散した。
「あぁっ、やってしまったっ……!」
ヴィルヘルムは長身を折り曲げるようにして天蓋付きの大きなベッドへ飛び込むと、そこにあった絹のクッションを力いっぱい抱きしめ、ゴロゴロ、バタバタと激しく身悶えし始めた。
「馴れ馴れしすぎただろうか!? いきなり顎になど触れて、不快に思われなかっただろうか……い、いや、しかし本にはこれが良いと書いてあったし……」
赤面し、大きな体でクッションに顔を埋めるその姿は、先ほどまで大広間を恐怖のどん底に陥れていた覇王と同一人物とは到底思えない。
――実はヴィルヘルムは、その強面と恵まれた巨躯に反して、小さくて可愛いものが三度の飯より大好きだった。
小鳥や子猫、可憐な花をこよなく愛している。
だが、いかんせん生まれ持った鋭すぎる眼光と凶悪なまでの威圧感のせいで、小鳥には逃げられ、子猫には威嚇され、令嬢たちからは悲鳴を上げられるという悲しい人生を送ってきた。
ちなみに、彼がこれまでの婚約者候補を「飽きたから捨てた」という噂も、まったくの誤解である。
大帝国の次期皇帝からの申し出など、他国の令嬢には容易に断れない。
だからヴィルヘルムは、相手が自分を恐れていると気づくたび、自ら婚約話を取り下げていたのだ。
しかも、令嬢やその実家に傷がつかないよう、
『我が飽きた。それだけだ』
などと、自分勝手な理由まででっち上げて。
それがいつしか尾ひれをつけ、『気に食わない女は容赦なく捨てる冷血皇子』という不名誉極まりない噂になってしまったのである。
そんな彼が、誰にも怯えられることなく楽しめる数少ない趣味。
それが、密かに買い集めている少女小説――女性向けの恋愛物語を読むことだった。
ヴィルヘルムはベッドの上でがばっと起き上がると、荷物の奥底から大切に隠し持ってきた、何度も読み返されて角の擦れた愛読書を取り出した。
そしてぱらぱらとページを捲り、ある一頁で手を止める。
『男は出会ったばかりの彼女の顎にそっと手を添えて持ち上げると、不敵に笑った。
「面白れぇ女だ」
その言葉に、彼女の胸は高鳴った――』
「まさか……長年鏡の前で練習してきた顎クイを、ついに実践する日が来るとは……!」
ヴィルヘルムは長い金髪が乱れるのにも構わず、再びクッションへ顔を埋め、じたばたと足を動かした。
我ながら、少々やりすぎた気もする。
いや、かなりやりすぎたのではないだろうか。
「もっと自然にできたはずだ……。いや、そもそもこの小説のように初対面の女性の顎をいきなり掴む男など、本当に好まれるのか……?」
今さらながら愛読書の内容そのものに疑問を抱き始める。
しかし、目を閉じればすぐに思い出されるのは、堂々と自分の前へ歩み出てきたルチアの姿だった。
ヴィルヘルムは、以前から彼女の名を知っていた。
数年前、帝国の学院へ留学してきた他国の公爵令嬢。
国政、法律、外交、経済――どの分野でも群を抜き、試験では最優秀の成績を収めた才女。
夜会などで何度か遠目に姿を見かけたこともある。
凛と背筋を伸ばし、誰に対しても臆することなく、それでいて礼を失わない。
あの愚鈍な第二王子には到底釣り合わない、聡明で気高い令嬢だと、密かに思っていた。
そんなルチアが。
誰もが自分を恐れて距離を取る中で、一人だけ真っ直ぐこちらへ歩いてきたのだ。
鋭い眼光を向けても逃げない。
怯えて泣き出すこともない。
それどころか――。
『どうか私を、殿下の婚約者にしてください』
自ら、そう言ってくれた。
「…………」
思い出しただけで、また顔が熱くなる。
ヴィルヘルムの心が一撃で射抜かれたとして、いったい誰が責められるだろう。
しかも、その後もルチアはヴィルヘルムの前で堂々としていた。
自分を妻に迎えれば、帝国にどんな利益をもたらせるか。
彼女自身に何ができるのか。
それを、一つ一つ淀みなく提示してみせた。
自分の価値をきちんと言葉にして、真正面から売り込みに来たのだ。
なんて健気で、勇敢で、聡明な女性なのだろう。
完全に心を撃ち抜かれたヴィルヘルムは、ルチアを逃がすまいと必死になった。
その結果が、愛読書で学んだ『余裕のある大人の男』を全力で演じた挙句の、『面白い女ではないか』である。
「……あれでよかったのだろうか」
今更ながら、急激に不安になる。
けれど、ルチアは、あの時逃げなかった。
それどころか、ヴィルヘルムが笑った時、ほんの少しだけ、柔らかく笑い返してくれた。
「嫌われてはいない……はずだ」
ヴィルヘルムは自分に言い聞かせるように呟く。
「少なくとも、我の顔を見て悲鳴は上げなかった」
それだけでも、彼にとっては奇跡に近い。
そして何より、あんなにも可憐で聡明な女性が、今日から自分の婚約者になったのだ。
そう考えた途端、抑えきれない喜びが込み上げる。
「ああ……なんという愛らしさだ」
ヴィルヘルムの顔が、でれでれと締まりなく緩んだ。
「絶対にルチア嬢を幸せにしてみせるぞ……!」
つい先ほどまで王侯貴族たちを震え上がらせていた大帝国の次期皇帝は、初めて自分から逃げなかった可憐な婚約者の姿を思い浮かべながら、再び小説のページをめくる。
すると、ある場面でぴたりと手が止まった。
『男は彼女の前に小さな箱を差し出した。
「この宝石でさえ、お前の前では霞んで見える。せめて愛しいお前を飾る栄誉くらいは、こいつに与えてやろう」
箱の中で輝いていたのは、美しい宝石の首飾りだった。
彼女は頬を染めながらそれを受け取り、幸せそうに微笑んだ――』
ヴィルヘルムの瞳が、すっと細められる。
「贈り物か」
これは使える。
ヴィルヘルムはすぐさまベッドから立ち上がると、旅装用の大きな鞄の奥を探り始める。
取り出したのは、重厚なベルベットの箱だった。
蓋を開けば、中には帝国で産出される最高級のサファイアを惜しげもなく使った、見事な首飾りが収められていた。
中央には、親指の先ほどもある大粒の宝石が鎮座している。
実はこれも、今回の訪問に合わせて帝国から密かに持参してきたものだった。
――もし、この国で本当に婚約者となってくれる女性と出会えたなら、その時には、自分の手からこれを贈ってみたい。
そんなささやかな夢を抱いて。
改めて首飾りを眺めていたヴィルヘルムは、ふと息を止めた。
深く澄んだ青い宝石。
その色が、先ほど間近で見つめたルチアの瞳によく似ている。
「……似合う」
思わず呟いた。
いや、絶対に似合う。
この青をルチアが身につけた姿を想像した途端、ヴィルヘルムの胸がまた猛烈に高鳴り始めた。
「よし。明日渡そう」
それから小説へ視線を戻し、もう一度贈り物の場面を熟読する。
「なるほど……『この宝石でさえ、お前の前では霞んで見える。せめてお前を飾る栄誉くらいは、こいつに与えてやろう』か」
何度か小声で台詞を繰り返したあと、ヴィルヘルムは真剣な顔で頷いた。
「よし。完璧だ。これならばきっと喜んでもらえる」
顎を持ち上げる角度とは違い、今回は台詞を覚えるだけでいい。
あとは明日、本人を目の前にして、きちんと台詞を言い切るだけである。
それに、いつかルチアを怖がらせることなく笑いかけられるよう、笑顔の練習だって欠かせない。
彼女が自分の笑顔を見て、自然に笑い返してくれる日を夢見ながら。
その夜。
ヴィルヘルムは興奮のあまり、なかなか眠りにつくことができなかった。
◆
夜会から一夜明けた昼下がり。
呼び出されて赴いた別邸の客室で、ルチアは完全に血の気を引かせていた。
目の前のソファにゆったりと腰掛けるヴィルヘルムからは、相変わらず次期皇帝としての覇気と、周囲の空気を凍らせるような威圧感が絶え間なく放たれている。
酔いがすっかり覚めた今、己の命知らずな暴挙を思い返し、ルチアは内心で頭を抱えていた。
昨日の自分は、一体どうかしていたのではないだろうか。
いくら気持ちが高ぶりお酒を口にしたからといって、大陸最強を誇る大帝国の次期皇帝へ、いきなり自分を妻にしてくれと直談判するなんて。
家族もルチアを別邸へ送り出す際、非常に心配そうな表情を浮かべていた。
兄に至っては、
「ルチア、生きて……生きて帰ってくるんだぞ」
と、半ば本気で涙ぐんでいたほどだ。
「…………」
ルチアは膝の上で両手を組み、できる限り平静な顔を保った。
退屈させないとまで豪語してしまったうえに、その台詞が効いたのか、昨日は「面白い女だ」と言ってくれた。
だが、何をどうやってこの皇子を楽しませればいいのかさっぱり分からない。
念のためにとちょっとした手品を覚えてはきたものの、出来はイマイチなのであまり見せたくはない。
それに、
『やはり昨日のお前は図々しすぎた。婚約は取り消す』
などと言われる可能性だってないとは限らない。
そんなことを考えていると、ヴィルヘルムが重々しく口を開いた。
「ルチア」
「は、はい」
思わず背筋が伸びる。
ヴィルヘルムはそんなルチアを鋭い眼光でじっと見つめたあと、低い声で告げた。
「今日は、堅苦しい話をするつもりはない」
「……え?」
予想外の言葉に、ルチアは瞬きをした。
「お前の能力については、昨日聞いた。それに帝国へ留学していた頃の成績についても、お前から言われる以前に既にこちらで把握していた」
「ご存じだったんですか?」
「ああ」
ヴィルヘルムは当然のように頷いた。
「だから今日は――婚約者として、お前自身のことを知りたい」
「…………」
なんだか、とてもまともなことを言われている。
ルチアがわずかに拍子抜けしていると、ヴィルヘルムはテーブルの上に置かれていた小箱を手に取った。
「まずは、これを」
地を這うような低い声とともに、ベルベットの箱が差し出される。
ルチアは一瞬だけ身構えた。
一体、何が入っているのだろうと思いながらも、おそるおそる蓋を開ける。
中に収められていたのは、ルチアの瞳の色によく似た、美しいサファイアのネックレスだった。
しかも、一目で分かるほど尋常ではない逸品である。
「受け取れ」
ドスリ、と腹に響く低音。
人を射殺せそうな鋭い眼光。
声音だけ聞けば『受け取らねば命はない』と脅されているようにしか思えない。
「あ、ありがとうございます……。とても美しいです」
ルチアが箱を受け取ると、ヴィルヘルムの視線がネックレスからルチアの首元へと移った。
どうやら、つけてみろということらしい。
ルチアはおそるおそるネックレスを身につけた。
するとヴィルヘルムはしばらく無言で彼女を見つめ、
「……似合うと思った」
「……!」
あまりにもさらりと言われ、今度は別の意味で言葉に詰まった。
けれど、なぜだろう。
そう告げた直後、ヴィルヘルムはひどく険しい顔になった。
眉間に深く皺を刻み、何かを悔やむように唇を引き結んでいる。
似合うと言ってくれたはずなのに、どうしてそんな顔をするのか、ルチアにはさっぱり分からない。
ルチアが首飾りへ手をかけると、ヴィルヘルムの眼光がぎらりと鋭くなった。
――外すな。
そう言われている気がして、ルチアはそっと手を離した。
するとヴィルヘルムの眉間の皺が、わずかに緩んだ。
どうやら、つけていていいらしい。
「ありがとうございます……」
ひとまずもう一度礼を告げると、ヴィルヘルムは小さく咳払いをした。
「……ところで、その」
ヴィルヘルムは一度視線を逸らし、それから改めてルチアを見た。
「お前は、甘いものは好きか?」
「…………はい?」
思わず素の声が出た。
てっきり帝国の政治情勢か、外交方針についてでも聞かれるものと思っていたのだ。
「甘いもの、でございますか?」
「ああ」
「ええ。とても好きです。焼き菓子もタルトも、よくいただきます」
そう答えた瞬間、ヴィルヘルムの目元がわずかに細まり、口角がぐっと持ち上がった。
元々の顔立ちがあまりにも鋭いため、後ろに控えている侍女たちには、今から誰かを陥れる悪役のような凄惨な笑みに見えたらしい。
声にならないざわめきを、ルチアは肌で感じる。
本来なら、ルチアも同じように怯えていたはずだ。
けれど間近でその表情を見ていると、昨夜の夜会で見た、まるで宝物を見つけた少年のような笑顔と重なって見えた。
「ほう……。実は、我も好きなのだ。帝都にある老舗の菓子店のチョコレート菓子は絶品でな」
ヴィルヘルムはどこか誇らしげに顎を上げる。
「帝都へ来たら食わせてやろう」
「まあ。それはぜひいただいてみたいです」
ルチアが思わず笑うと、ヴィルヘルムの笑みがほんの少し深くなった。
……どうやら、本当に甘いものが好きらしい。
冷血皇子で、血も涙もない男。
そんな噂からは到底想像できない趣味だった。
けれど、嬉しそうに話をする姿を見ているうちに、先ほどまで張り詰めていたルチアの肩から、少しずつ力が抜けていく。
「殿下は、他にはどんなものがお好きですか?」
「……俺、か?」
「ええ。せっかく婚約者になったのですもの。私も殿下のことを知りたいですから」
「…………」
ヴィルヘルムが固まった。
鋭い目を見開いたまま、なぜか数秒ほど動かない。
「あの、殿下?」
「……いや」
やがて何事もなかったように顔を背けた。
「そうだな。ならば、互いに話すとしよう」
その横顔がわずかに赤くなっているように見えたのは、きっと気のせいだろう。
それから二人は、思いのほか長い時間を話して過ごした。
好きな食べ物。
読んだことのある本。
帝国とこの国の違い。
ルチアが帝国へ留学していた頃の思い出。
話してみれば、ヴィルヘルムは驚くほど教養深く、それでいてルチアの話を途中で遮ることもなく、最後まできちんと耳を傾けてくれた。
そして、会話の途中でも。
「寒くはないか」
敵国へ宣戦布告でもするような顔でそう尋ね、ルチアの肩へ大きな熊の毛皮をかけてくる。
聞けば、ヴィルヘルム自身が仕留めた熊らしい。
しばらくすれば、
「喉が渇いただろう」
と、今度は帝国から持ち込んだ非常に希少な甘い茶を用意させる。
さらには、
「この菓子も食べろ」
と、皿ごとルチアの前へ押し出してきた。
手品は話の流れから披露することになり、やっぱり失敗してしまったものの、ヴィルヘルムは怒るどころか、
「気にするな、最初からなんでも完璧にできる人間などいない」
と、慰めの言葉をかけてくれた。
顔は相変わらず怖いのに、一つ一つの言動は驚くほど優しく、たまに見せる笑顔どこか無邪気で。
そのあまりの落差に、ルチアはだんだん混乱してきた。
――この方、本当に『冷血皇子』なのだろうかと。
少なくとも、ルチアを含めたみんなが想像していたような、冷酷な男ではないよう思えた。
◆
あれからヴィルヘルムは会議などの公務の合間を縫い、この国に滞在している間、毎日のようにルチアとの面会を求めた。
三日目ともなれば、ルチアも彼の凄まじい威圧感には多少慣れてきていた。
ヴィルヘルムは相変わらず顔も目つきも恐ろしい。
けれど、一緒に歩けばルチアの歩幅に合わせ、日差しが強ければさりげなく自分が陽の当たる側へ回る。
会話をしていても、ルチアの言葉を遮ることなく、きちんと最後まで聞いてくれた。
知れば知るほど、世間での評判と本人との間には大きな隔たりがあるように思えた。
その日、二人は美しい中庭を散歩していた。
すると、一羽の小さな鳥がぱたぱたと飛んできて、ルチアの肩へ止まった。
「あら……」
そっと手を差し出すと、小鳥はちょこんと彼女の指へ移る。
「ふふ、可愛い」
ルチアが微笑んだ、その時だった。
ギリッ……と、真横から、尋常ではないほど強烈な視線を感じる。
そっと横を見ると、ヴィルヘルムが、血走った目でルチアの指先を凝視していた。
正確には、その上に乗っている小鳥を。
まるで獲物を狙う猛獣のような眼光だった。
「殿下……?」
ルチアが声をかけるより早く、小鳥が、
「チチチチッ!?」
と悲鳴のような鳴き声を上げ、ものすごい勢いで空へ逃げていった。
「…………」
「…………」
しん、と中庭が静まり返る。
ヴィルヘルムは、飛び去っていった小鳥をじっと見送っていた。
そして。
「……また、逃げられた」
「はい?」
聞き間違いかと思った。
しかしヴィルヘルムは、明らかに肩を落としている。
「殿下?」
「いや。なんでもない」
そう言いながらも、声音には隠しきれない落胆が滲んでいた。
ルチアがどうしたものかと見つめていると、ヴィルヘルムは不意にこちらへ向き直った。
「ルチア」
「は、はい」
ずい、と距離を詰められ、反射的に背筋が伸びる。
するとヴィルヘルムは、ひどく真剣な顔で言った。
「……お前には特別に、我の笑顔を見せてやろう」
「え?」
なぜ突然?
そう尋ねる暇もなかった。
ヴィルヘルムの口角が、ゆっくりと持ち上がる。
どうやら笑おうとしているらしいのだが。
「…………っ!」
ルチアの全身に緊張が走った。
ここ数日の間にも、ヴィルヘルムがふと楽しそうに口元を緩める姿は何度か見ている。
けれどこれは、それとはまるで違った。
頬の筋肉は不自然に引きつり、口角は鋭く吊り上がり、ただでさえ鋭い瞳がぎらぎらと異様な光を放っている。
どう好意的に解釈しても、今から獲物をいたぶる暗殺者の笑みにしか見えない。
「っ!」
思わず声にならない悲鳴を上げ、ルチアは一歩後ずさった。
すると、ヴィルヘルムの顔から笑顔が消えた。
同時に、あれほど凄まじかった覇気まで、ぷしゅぅぅ……と音を立てるように消えていく。
長い沈黙が場を支配する。
先に口火を切ったのは、ヴィルヘルムの方だった。
「……やはり、駄目か」
その声はひどくしょんぼりとしたものだった。
ルチアが何か声をかけようとした次の瞬間、彼女はさらに目を疑った。
あの大帝国の次期皇帝が、庭園の壁際へ移動すると、すとんとその場に腰を下ろしたのだ。
長い脚を折り、大きな体を可能な限り小さく丸めた状態、いわゆる体育座りである。
その行動に、もはやルチアはどうしたらいいか分からず、混乱していた。
それでもなんとか彼の方へと近づくと、恐る恐る声をかける。
「殿下……?」
「解せぬ……」
ヴィルヘルムは膝に顔を埋めたまま、ぽつりと呟いた。
「我は、小さくて可愛いものが好きなのだ」
「……はい?」
「小鳥も、子犬も、子猫も。花も好きだ」
突然始まった予想外すぎる告白に、ルチアは目を瞬いた。
「ですが……先ほどの小鳥を、ものすごい目で睨んでいらっしゃいませんでした?」
「睨んでなどいないっ!」
ヴィルヘルムが勢いよく顔を上げた。
「可愛かったから見ていただけだ!」
あれが。
愛でている顔。
「だが、いつもああなる。子犬に近づけば吠えられ、子猫には逃げられる。以前、可愛い小鳥へ餌をやろうとした時など、我を見るなり失神した」
「失神……」
「ああ。婚約者候補だった令嬢たちも同じだ。我の顔を見ると皆、怯えて泣いてしまう」
「でも、殿下が気に入らないから婚約を破棄したと……」
「あれは我がそう言わせた。大帝国の次期皇帝との婚約を、向こうから断ったとなれば令嬢にも家にも傷がつくだろう。ならば我が飽きたことにしておけばいいと」
ルチアは絶句した。
それでは、世間で散々囁かれている『冷血皇子』という噂は――。
「……全部、誤解?」
「全部、ではないな。少なくとも敵には容赦しない」
「そこは本当なんですね」
「ああ」
けれど、少なくとも女性たちを弄んで捨ててきた男ではない。
むしろその逆で、自分を怖がっている女性を無理に縛りつけることができず、その悪評まで自分で被ってきたのだ。
「だが、あの日、お前だけは逃げなかった。だから……少しでも怖がらせずに済むように、笑顔も練習したのだが」
練習を重ねた結果が先ほどの笑顔なのだと知り、ルチアは一瞬なんとも言えない気持ちになった。
ヴィルヘルムがますます肩を落とす。
「だが、やはり駄目だったらしいな」
「…………」
ルチアは、壁際で未だに巨大な体を丸めている男を見つめた。
つい数日前までは、大陸最強の帝国を継ぐ恐ろしい皇子だと思っていた。
敵に回せば、恐ろしく容赦のない男なのは事実だろう。
けれど、小鳥が好きで、甘いものが好きで、人を怖がらせないために笑顔を練習して。
それでも失敗して、今こうして本気で落ち込んでいる。
「…………ふふ」
堪えきれず、ルチアの口から小さな笑いが漏れた。
「……なぜ笑う」
「ご、ごめんなさい。でも……」
ルチアは口元を押さえながら、もう一度ヴィルヘルムを見る。
あまりにも意外で、不器用で。
そして――。
「殿下って、思っていたよりずっと可愛らしい方なんですね」
ヴィルヘルムが完全に固まった。
「可愛……?」
「はい」
今度ははっきりと頷く。
「笑顔は少し、いえ、正直に申しあげてかなり怖かったですけれど。でも、怖がらせないように練習してくださったのでしょう?」
「……ああ」
「それなら、私は嬉しいです」
ルチアが微笑む。
「それに、ご自分では気づいていらっしゃらないかもしれませんけれど。自然に笑っていらした時は、とても楽しそうで素敵でしたし、無理に笑おうとなさらなくてもよいのでは?」
ヴィルヘルムは何も答えなかった。
ただ、鋭い目を見開いたままルチアを見つめている。
その耳が、見る見る赤くなっていく。
「殿下?」
「……いや」
ヴィルヘルムはふいっと顔を逸らした。
「何でもない」
けれど、もう先ほどまでの落ち込んだ空気は消えていた。
そんな姿を見ていると、ルチアの胸の奥が妙にくすぐったくなる。
自分はこの人のことを、まだほとんど知らない。
けれど実際に知ってみれば、その中には想像もしなかった一面がいくつも隠れている。
だから、もっと知りたい。
甘いもの以外には何が好きなのか。
どんな時に笑うのか。
帝国では普段どんなふうに過ごしているのか。
そして――これから自分の夫になるこの人が、いったいどんな人なのか。
そう思った途端、ヴィルヘルムとの結婚は、もはやこれまでの努力を無駄にしないためだけの選択ではなくなった。
この人の隣で過ごす未来そのものを、少し楽しみに思っている自分がいた。
◆
周辺諸国との会議を終えたヴィルヘルムが、帝国へ帰還する日がやってきた。
正式に婚約者となったルチアも、彼と共に帝国へ渡ることになっていた。
「本当に大丈夫なのか?」
ブランシュ公爵邸の前で、見送りに出てきた兄が、もう何度目になるか分からない問いを口にした。
父も平静を装ってはいるものの、表情はどこか硬い。
母に至っては、先ほどからずっとルチアの手を握ったままだ。
「帝国に渡るのは、もう少し先でもいいのですよ?」
「そうだぞ。なにも今すぐ行かなくても――」
「大丈夫ですから」
ルチアは笑って、家族の言葉を遮った。
少し離れたところでは、ヴィルヘルムが馬車の前に立ち、こちらを待っている。
相変わらず、黙って立っているだけで護衛たちまで緊張させるほどの威圧感だ。
けれど今のルチアは、その恐ろしい顔の奥に隠れている、不器用で優しい素顔を少しだけ知っている。
「ヴィルヘルム様とは、きっとうまくやっていけます」
そう言うと、家族三人が揃って目を瞬いた。
ルチアは構わず笑みを深める。
「それに、帝国でやってみたいこともたくさんあります。これまで学んできたことが、どこまで通用するのかも試してみたいですし」
「……そうか」
父がしばらくルチアを見つめたあと、ふっと表情を緩めた。
「ならば、行ってこい」
「はい」
母と抱き合い、父とも言葉を交わし、最後に兄の腕をぎゅっと握る。
「元気でな」
「お兄様も」
「あと、何かあったらすぐ戻ってこい。帝国皇子が相手でも、俺は――」
「その必要はない」
低い声が割り込んだ。
いつの間に近づいてきたのか、ヴィルヘルムがすぐそばに立っていた。
兄の顔が一瞬で引きつる。
ヴィルヘルムはそんな彼に構わず、当然のように言った。
「ルチアに、戻りたいと思わせるような扱いはしない」
「…………」
家族全員が黙った。
ルチアも一瞬だけ言葉を失ったあと、そっと笑う。
「だそうです、お兄様」
「……なら、その……頼みます」
「ああ」
ヴィルヘルムは重々しく頷くと、ルチアへ大きな手を差し出した。
「行くぞ、ルチア」
「はい、ヴィルヘルム様」
ルチアは迷うことなく、その手を取った。
そして家族に笑顔で手を振りながら――自分自身で選び取った、新しい人生へと旅立った。
◆
それから、一年が経った。
今の彼女は、ブランシュ公爵令嬢であると同時に、大帝国次期皇帝ヴィルヘルムの正式な婚約者。
そして帝国ではすでに、次代の皇后として広く認められつつあった。
帝国は、ルチアが想像していた以上に実力を重んじる国だった。
もちろん、家柄や血統が軽視されているわけではない。
けれど、どれほど尊い血を引いていようとも、能力が伴わなければ高い地位には就けない。
何より、それを体現しているのがヴィルヘルム自身だった。
彼は現皇帝の第四皇子である。
本来なら、皇位からは決して近い立場ではなかった。
それでも軍事、外交、統治のすべてで兄たちを上回る実績を積み上げ、誰からも文句を言わせない形で次期皇帝の座を勝ち取った。
そんな国だからこそ、ルチアにも求められたのは『どこの国の公爵令嬢なのか』ではなく、『何ができるのか』だった。
そしてルチアは、その期待に応えた。
帝国と周辺諸国で複雑化していた関税制度の不整合を指摘し、統一案の策定に携わった。
帝国への留学経験と故国で培った知識を活かし、西方諸国との交易交渉では双方が受け入れやすい新たな契約方式を提案した。
皇妃教育でも、歴史、財政、外交のすべてで極めて優秀な成績を収めている。
その結果、今では帝国の人々も、ルチアを単なる『ヴィルヘルムに選ばれた外国の令嬢』として見ることはほとんどなくなった。
次代の皇后に相応しい人物だと評価してくれる人が、確実に増えている。
ずっと積み上げてきたものを、きちんと見てもらえる。
それは、ルチアが一年前に願った通りの未来だった。
皇妃教育もまもなく修了する。
ヴィルヘルムとの婚礼も、半年後に正式に執り行われることが決まっていた。
そして、この一年で二人の距離も随分と近くなった。
ヴィルヘルムが少女小説を愛読していることを知ってからは、時折二人で同じ本を読み、感想を言い合うようにもなった。
「ヴィル様。この『面白い女だ』という台詞ですけれど、赤い線を引くほどに気に入っていらっしゃるんですね」
「…………」
「しかも、こちらの首飾りの場面まで。あの日は随分と短い台詞になっていましたけれど、ヴィル様のことですから緊張して台詞が飛んでしまって――」
「その話はもうよいではないか!」
耳を赤くして顔を背けるヴィルヘルムを見るたび、ルチアはくすくすと笑った。
また、小動物に逃げられてばかりの彼のため、宮廷庭園の一角に人慣れした小動物だけを集めた場所まで作った。
最初こそ子猫たちに警戒されていたヴィルヘルムだったが、ルチアが隣に座り、餌を手渡しながら根気よく付き合った結果。
「ルチア! 見ろ。この小さく尊き生き物が我の膝に乗ったぞ……!」
「ええ。よかったですね、ヴィル様」
子猫一匹を膝に乗せただけで、重要な政務に臨む時にも負けないほど真剣な顔で感動するヴィルヘルムを見て、ルチアの顔に思わず笑みがこぼれる。
知れば知るほど、この人は可愛い。
そして今では、そんなヴィルヘルムを心から愛していた。
◆
そんなルチアは今、ヴィルヘルムと共に、一年ぶりに故国へと戻ってきていた。
きっかけは、父から届いた一通の手紙だった。
『こちらもようやく一段落つきそうだ。一度、顔を見せに帰ってこい』
この一年、王国が大きく揺れていたことはルチアも知っている。
ルチアが帝国へ渡って間もなく、ブランシュ公爵家は王家に対する調査を始めた。
発端はレグナスとの婚約破棄だったが、調べてみれば問題はそれどころではなかった。
国庫の私的流用、金銭と引き換えの口利き、公共事業を巡る不正。
国王夫妻だけでなく、二人の王子まで関与していたことが明らかになったのだ。
父は証拠を有力貴族たちへ開示。
その結果、国王は職務を停止され、王妃と王子たちも公務から外され、国政は一時、貴族会議による暫定統治へ移行した。
そこまではルチアも知っている。
ただし、次の国王が誰になるのかまでは、まだ決まっていなかったはずだ。
「ようやく落ち着いたのかしら」
馬車の窓から懐かしい王都を眺めながら、ルチアは呟いた。
「ああ」
向かいに座るヴィルヘルムが答える。
なぜか妙に素っ気ない。
「でしたら、今回は新たな国王陛下へのご挨拶も必要になりますね。王家の傍流であるローデン公爵あたりが有力だと聞いていましたけど……お父様も詳しいことは帰ってから話すとしか書いていませんでしたし。随分と忙しかったのでしょうね」
「そうだろうな」
「……?」
どことなく含みのある言い方に、ルチアは首を傾げた。
けれど、その違和感の正体を掴む前に、馬車は王城へと入っていった。
そして謁見の間へ足を踏み入れた瞬間。
「おお、ルチア! よく帰ったな!」
「…………」
ルチアは固まった。
玉座に座っている。
――父が。
立派な王冠を頭に載せて。
その隣には母が座り、少し離れたところでは兄が何とも言えない遠い目をして立っていた。
「…………」
ルチアは一度、目を閉じた。
そして開いた。
やはり王座には父がいる。
「……お父様」
「なんだ?」
「なぜ王冠を被っていらっしゃるのです?」
「似合わないか?」
「そういう問題ではございません!」
思わず声が大きくなった。
「一体、何があったのです!?」
父が今回どういう立場になったのか理解はしている。
分かるが、そういう問題ではない。
「まあまあ、落ち着きなさい」
母がくすくす笑い、兄は相変わらず生気のない顔をしている。
父は咳払いをすると、改めて口を開いた。
「さて、お前も知っている通り、旧王家の不正については貴族会議で審議を続けていた」
「ええ」
「最終的に、国王だけでなく、王妃と二人の王子についても不正への関与が認められた。現王家にはこれ以上国を任せられないという結論になってな。国王は法に基づいて廃位。王妃と二人の王子も王籍を外された」
「そこまでは理解できます」
問題はその先だ。
「なぜ、お父様が王に?」
「我がブランシュ家には王位継承権があるからな」
「それは存じておりますけど」
ブランシュ公爵家は、元を辿れば王家の傍流にあたり、王位継承権も父は有していた。
この国では、王家本流が王位を維持する資格を失った場合、王位継承資格を持つ傍流の中から、貴族会議が新たな国王を選出する決まりになっていた。
「他の候補では貴族たちの意見がまとまらなかった。私は長年政務にも携わってきたし、今回の一件で各家との調整も担っていた。結果として、私を推す声が一番多くなったというわけだ」
「…………」
「三度ほど断ったのだがな。だが、この国を放り出すわけにもいかんだろう。だから引き受けたよ」
父が権力そのものに執着しない人間であることは、娘であるルチアが誰よりよく知っている。
それでいて長年国政に携わり、国内の貴族たちからの信頼も厚い。
ひいき目を抜きにしても、王としての能力に不足はないだろう。
問題があるとすれば……ルチアはそっと兄を見る。
父が王となれば、当然その次を継ぐ最有力候補は兄である。
能力については、こちらも心配ない。
ただし兄は、昔から人前で目立つことが大の苦手だった。
――お兄様……ご愁傷様。
そう、心の中だけで合掌しておいた。
「ちなみに、お前については帝国へ嫁ぐ予定だからな。王女という身分そのものは変わらないが、王位継承権については婚姻に合わせて正式に放棄してもらう予定だ」
「ええ。その方がよろしいでしょうね」
そこに異論はなかった。
つまり、やはり兄の逃げる道はない。
彼がますます遠い目になった理由を、ルチアは理解した。
「まあ、それはさておき」
父が楽しそうに話を戻す。
「国内のことなら我々だけでも調べられた。だが、旧王家が国外へ移していた資産や、外国商会を介して行っていた違法な取引の記録までは、さすがに簡単には追えなくてな」
そこで父の視線が、ルチアの隣へ向いた。
「ヴィルヘルム殿下には、随分と助けていただいたんだ」
ルチアもゆっくりと隣を見る。
ヴィルヘルムは、いつもと変わらぬ恐ろしい顔で立っていた。
「ヴィル様、何をなさったのです? お父様は『随分と助けてもらった』とおっしゃっていますけれど」
ヴィルヘルムは、まるで今日の天気でも説明するような顔で答えた。
「帝国の情報網を使って、いくつか帳簿と取引記録を探しただけだ」
「だけ?」
「ああ。それと、その商会について調べてみれば、帝国内でも密輸や脱税に手を染めていたことが分かってな。しかも、我の皇位継承に反対していた一部の貴族とも癒着し、違法に得た資金を流していた。証拠が揃ったので、商会も貴族どももまとめて処分した」
……そういえば少し前、帝国で大規模な違法取引の摘発があり、ヴィルヘルム主導の元複数の貴族が粛清されて失脚した。
ルチアもその事件自体は知っていたが、まさか祖国の調査とつながっていたとは思ってもいなかった。
「こちらとしても厄介な商会と腐った貴族をまとめて片づけられたのでな。むしろ、お前の父上には有益な情報をもらったと感謝しているくらいだ。それにだ。証拠を集め、旧王家を廃し、新王を選んだのはこの国の者たちだ。我は少し手を貸したに過ぎん」
それ自体は確かにその通りなのだろう。
ヴィルヘルムが王国をどうこうしたわけではない。
あくまで父たちの調査に協力しただけ。
けれど。
「なぜ私には何も教えてくださらなかったのです?」
ヴィルヘルムが黙った。
「ヴィル様?」
「…………」
「ヴィル様」
しばしの沈黙のあと、ヴィルヘルムは腕を組み、ひどく真面目な顔で頷いた。
「ふむ、サプライズというやつだな」
「国家規模でなさらないでください!」
謁見の間に、ルチアの声が響き渡った。
「……喜ばなかったか?」
ヴィルヘルムがわずかに眉を寄せる。
本気で不思議そうだった。
「驚きが大きすぎます!」
「少女小説には、恋人への思いがけない贈り物は効果的だと――」
「王家交代を恋人へのサプライズに数えないでください!」
「我が与えたわけではない」
「そういう問題でもありませんわ!」
だが、自分の知らないところで家族に手を貸してくれていたのだと思うと、怒りきることもできなかった。
「……ちなみに旧王家の方々は、今どうされているのです?」
「四人とも王籍を失い、それぞれ監督下に置かれている」
父が答えた。
「罪に応じた処分についてはすでに決まっている。少なくとも、二度と国政へ関わることはない。ラヴィエル侯爵家も、資金援助と引き換えに王家から便宜を得ようとしていた件については、相応の処分を受けている」
「そうですか」
それだけだった。
レグナスがこれからどこで何をするのか。
セシリアとの関係がどうなるのか。
もう、ルチアには尋ねたいことすらなかった。
◆
その夜、久しぶりに家族揃っての晩餐を終えたあと、ルチアは王城のバルコニーへ出ていた。
見慣れていたはずの王都の景色。
けれど、一年前とは何もかもが違って見える。
「ルチア」
背後から聞き慣れた低い声がした。
振り返ると、ヴィルヘルムがこちらへ歩いてくる。
「ヴィル様」
彼はルチアの隣へ立ち、しばらく同じ景色を眺めていた。
「……怒っているか?」
珍しく、少しだけ歯切れが悪い。
ルチアは思わず笑った。
「事前に教えてくださらなかったことについては、少しだけ。ですが、お父様たちを助けてくださったことには感謝しております」
「礼を言われるほどのことではない」
「ヴィル様にとっては、そうなのでしょうけれど」
ルチアは彼を見上げた。
「どうして手伝ってくださったのです?」
ヴィルヘルムは少しだけ考えてから、当然のように答えた。
「お前の家族だからだ。お前が大切にしている者たちなのだろう? ならば手を貸すのは当然のことだ」
あまりにも簡単に言う。
けれど、その一言が胸の奥へゆっくりと染み込んでいった。
「それに」
ヴィルヘルムの目が、ほんのわずかに鋭くなる。
「国を預かる立場にありながら、私利私欲で国を食い物にする者を見過ごす理由もない」
その横顔を見て、ルチアは改めて思う。
小動物に逃げられて落ち込み、少女小説の台詞を必死に練習するところもある。
けれど同時に、この男は大帝国を背負って立つ次期皇帝なのだ。
優しいだけではないし、国を守るため、必要とあれば、恐ろしいほど冷徹な判断も下す。
そのどちらも、ヴィルヘルムだった。
「ルチア」
ヴィルヘルムが大きな手を差し出す。
ルチアは迷うことなく、その手を取った。
そして、ふと思いついて口元を綻ばせる。
「――たとえ星がすべて落ちて、世界が終わる日が来ても。あなたの隣なら、私はきっと笑っていられますわ」
ヴィルヘルムがぴたりと固まった。
その反応を見て、ルチアはますます笑みを深める。
「たしか、ヴィル様がお好きな少女小説に、こんな台詞がありましたよね?」
「……覚えていたのか」
「ええ。何度も一緒に読みましたもの」
ヴィルヘルムは気まずそうに顔を逸らした。
耳は見る見る赤くなっていく。
「ですが、今のは、小説の真似をしただけではありません。私の本心です」
そう言いながら手を強く握ると、ルチアに視線を戻したヴィルヘルムの鋭い目が、わずかに見開かれる。
そして次の瞬間、ルチアの好きな、どこか少年のような自然な笑顔が浮かんだ。
「……そうか」
「はい」
「な、ならば……」
ヴィルヘルムは一度言葉に詰まり、わずかに咳払いをした。
「っ、ならば我は、世界が終わるその瞬間まで、お前の手を離さぬ。お前が笑っていられる未来を、何度でもこの手で掴んでみせよう」
今度はルチアが目を瞬いた。
ヴィルヘルムは、首のあたりまで真っ赤だった。
「……それも、あの小説の台詞ですね」
「…………そうだ」
「ふふっ」
「笑うでない!」
「だって、ヴィル様ったら」
けれど、笑いながらも胸の奥はひどく温かかった。
小説の台詞だとしても、きっと彼も、本心で言ってくれたのだと分かっていたから。
冷血と噂の帝国皇子へ勢い余って求婚した、あの夜から一年。
あの時は、自分の未来を掴むつもりだった。
まさかその先で、こんなにも不器用で可愛らしく、そして頼もしい人を心から愛することになるなんて、想像もしていなかった。
「これからもよろしくお願いいたします、ヴィル様」
「ああ。当然だ」
ルチアは彼と手を繋いだまま、夜空の下で幸せそうに笑った。
自分で掴み取った未来は――どうやら想像以上に、ずっと楽しいものになりそうだった。




