掌編「八朔」
…「”俳句”というのはつまり、自然観照。 風流や侘び寂びという、”和”の神髄の境地…」
夏蜜柑を食べ乍ら、俳句を作りだして4か月の女子大生の、倭 真知子は考えに耽っていた。
文学部に進学して…文芸学部の創作科で、ノベルの実作を勉強しているが、いろいろと興味の幅を拡げて、ウデを磨くべく、俳句にもチャレンジしているところ。
「あまり詳しくないけど、昔は俳諧、といって諧謔味が強くて? 松尾芭蕉が自然観照のみにフォーカスした傑作をつぎつぎに発表して、日本的な文化により即したシリアスでアートな、新たな”文芸”に高めた…」
<夏草や兵どもが夢のあと><静かさや岩にしみいる蝉の声><菊の香や奈良には古き仏たち>…有名な、静謐で、”あえて人間を捨象した”ようにも思える蕉風の典型的な句を思い浮かべつつ、なぜ人間を捨象するという必要があったんだろう?
と思考は進み…
「物言えば唇寒し秋の風、というのもあった。 人間嫌いになって、ひきこもりになっていた時の句らしい。」
「だから東洋的というときは今でもそうだけど、結局ニルヴァーナ原則?そういうもので人間的な快感原則や欲やら色やら? そういうのを滅して、平穏な境地に至るというようなニュアンスがあって」
「ZENが鈴木大拙。 川端康成の”美しい日本の私”も、つまり騒々しいような日常のダイナミズムのくだらなさを捨象して精神の神髄、澄み切った瑜伽の悟り?」
「明鏡止水、ていう言葉があるけど、ニルヴァーナ原則の理想はああいう涅槃だから」
東洋、仏教、そうしたアンチ西洋の文化の神髄の一つが俳句。
でも、俳句は大衆的にも人気がある。 どういう風にそういうユニークな位置を占めるに至ったんだろうか?
袋を破りつつ、八朔を食べ続ける…酸っぱいような甘いような渋いような…なんだか微妙な、だけど唯一無二の味だ。
ジャパネスクを愛する人は、ラフカディオハーンや印象派の画家とか、自然と人間の調和的な共生をイメージしていて、趣味も高尚で却って今日的。
自然破壊を繰り返して、戦争やらの災いばかりが世の中に蔓延して…そういう文明社会の在り方が問われている。
殺人的な猛暑、温暖化…放埓な金儲け主義の暴走の天罰覿面な余波なのは火を見るより明らか。 なぜ誰もが拱手傍観しているのか?
俳句の自然回帰的な思想すら、「危険思想」のレッテルを貼られかねないおかしな何かがある…もう俳句の雅な世界とともに「滅びの美学」を夢見つつ、「白鳥の歌」を歌っているしかない…俳句の隆盛も絶望や諦念でそういう涅槃を、日本人的に志向しているならちょっと寂しいな?
八朔も、暑い時期に水分やビタミンを補給するには最適で、人間の生活はそういう自然との絶妙な阿吽、調和でなりたっているのだ…そういう生活の原点は、そういうベクトルへの回帰は、どうやったら取り戻せるのかなあ?
<八朔や 涼やかひかり 風味絶佳>




