神隠しに遭ったわたしを拾って、あやかしの若様が溺愛してくださる。ただ一つ——わたしのことを、この世で、あの方だけしか、覚えていないみたいなのです
気がつくと、わたしは、知らない路地に、立っていた。
夏祭りの、人混みの中。
母の手を、離した、たった、それだけのことで。
——わたしは、この世の、どこにもいない場所へ、迷い込んでいた。
赤い提灯が、ゆらゆらと、揺れる、あやかしの町。
行き交うのは、人ではない、影ばかり。
「迷い子かい。……ずいぶんと、儚い子だ」
ふいに、背後から、声がした。
振り返ると、そこに、ひとりの若者が、立っていた。
夜の色をした、長い髪。
月の光を溶かしたような、金色の瞳。
人とは思えない、けれど、目を離せないほど、美しいお方。
「あなたは……」
「紫月。……この地を、預かる者だよ」
あやかしの若様、紫月さま。
彼は、わたしの前に、そっと、手を差し伸べた。
「帰る場所が、ないのだろう。……なら、おいで。僕が、拾ってあげる」
その声が、あんまり、優しくて。
わたしは、震える指を、その手に、重ねたのだった。
「あの、わたし、人間です。あやかしの町に、いても、よいのでしょうか」
「かまわないさ。……むしろ、君のような人間が、僕は、ずっと、欲しかった」
「欲しかった……?」
「ああ」
紫月さまは、わたしの手を、そっと引いて、歩き出した。
「儚くて、消えてしまいそうで。……だからこそ、守りたくなる。そういう子が、ね」
その言葉の意味を、わたしは、まだ、知らなかった。
ただ、繋がれた手の、ひんやりとした心地よさに。
わたしは、なぜだか、泣きたくなったのだった。
* * *
あやかしの屋敷での日々は、驚くほど、甘やかだった。
紫月さまは、人ならざる若様のくせに、まるで、恋する少年みたいに、わたしを甘やかした。
「暑いだろう。……ほら、風鈴の下へおいで」
「その菓子は、口に合ったかい。もっと、取り寄せようか」
浴衣の袖を、翻して、甲斐甲斐しく世話を焼く、その姿。
「紫月さまは、お優しいのですね」
「……君にだけ、だよ」
彼は、少し、目を伏せて、そう言った。
その横顔が、なぜだか、寂しそうで。
わたしは、それ以上、何も、訊けなかった。
紫月さまは、わたしが少しでも寂しそうにすると、すぐに、気づいた。
「どうした。……浮かない顔だね」
「いえ。……ただ、母のことを、少し」
「そうか」
彼は、わたしの頭を、そっと、撫でた。
「帰りたいなら、帰る道を、探してあげよう。……でも、もし、よければ」
その金色の瞳が、ほんの少し、揺れた。
「ここに、いてくれると。……僕は、うれしい」
その声が、あんまり、切実で。
わたしは、思わず、こくりと、頷いてしまった。
夏の夜には、二人で、縁側に並んで、月を眺めた。
紫月さまが、指を、すいと動かすと。
暗闇に、青白い狐火が、ふわり、ふわりと、灯る。
「わあ……! 綺麗」
「君のためだけの、灯りだよ」
そう言って微笑む彼の、その手が。
今にして思えば、あの頃から、少しずつ、透けていたのかもしれない。
——そんな、ある日の、夕暮れのこと。
かなかな、かなかな、と。
蜩が、鳴き始めた。
すると、紫月さまは、ふいに、立ち上がった。
「少し、出かけてくる。……すぐに、戻るよ」
「どちらへ?」
「古い社まで、ね」
そう言い残して、彼は、夕焼けの中へ、ひとりで、消えていった。
その背中を、蜩の声が、追いかけていく。
なぜだろう。
見送るわたしの胸が、きゅう、と、締めつけられた。
翌朝、わたしは、尋ねてみた。
「紫月さま。昨日の社では、何を、なさっていたのですか」
「……夕べの、お勤めさ」
彼は、そう言って、やわらかく、微笑むだけ。
それ以上は、決して、教えてはくださらなかった。
* * *
あやかしの町での暮らしには、ひとつ、不思議なことがあった。
——皆が、わたしのことを、忘れてしまうのだ。
昨日、笑って話した、飴屋のあやかし。
今日、店の前を通ると、初めて会う顔で、わたしを見た。
「おや、お嬢さん。見ない顔だねえ」
「……あの、昨日も、ここで、飴を」
「はて。そうだったかね」
朝、すれ違って、挨拶を交わした、子どもの妖も。
夕方には、わたしを、きょとんと、見上げるのだ。
まるで、わたしという存在が。
会うそばから、皆の記憶から、こぼれ落ちていくみたいに。
「わたし、そんなに、影が薄いのかしら」
わたしは、寂しく、笑った。
けれど。
紫月さまだけは。
いつも、変わらず、わたしを、覚えていてくださった。
「おかえり、すず。……今日は、何をしていたんだい」
その一言が、どれほど、わたしの心を、救ったことか。
この世でたった一人、わたしを忘れない人が、いる。
それだけで、わたしは、生きていられる気が、したのだ。
「紫月さま。今日も、飴屋の方が、わたしを、忘れていました」
ある夜、わたしは、思いきって、打ち明けた。
「わたし、どうして、皆に、忘れられてしまうのでしょう」
紫月さまは、一瞬、箸を、止めた。
それから、いつもの、優しい声で、言った。
「気に、しなくていい。……皆が忘れても、僕が、覚えている」
「でも、いつか、紫月さままで……」
「それは、ない」
彼は、きっぱりと、言い切った。
その声が、あんまり強くて、わたしは、少しだけ、驚いた。
「……絶対に、ないよ。僕が、君を忘れることだけは。ね」
その言葉に、わたしの胸は、あたたかくなって。
けれど、同時に、なぜだか、ほんの少し、ざわついたのだった。
* * *
けれど、夏が深まるにつれ。
わたしを忘れる人は、増えていった。
長く仕えてくれた、世話役の妖でさえ。
ある朝、わたしを見て、「どちらさま?」と、首を、かしげた。
「……わたしよ。すず。昨日も、髪を、結ってくれたでしょう」
「はて……。申し訳ございません。どうも、あなた様のことが、思い出せず……」
その言葉に、わたしは、初めて、こわく、なった。
もしかしたら、いつか。
紫月さままで、わたしを、忘れてしまうのではないか、と。
その夜、わたしは、紫月さまの寝顔を、じっと、見つめた。
この方の記憶からも、いつか、わたしは、消えてしまうのだろうか。
そう思うと、涙が、止まらなかった。
「……すず?」
目を覚ました紫月さまが、わたしの涙に気づいて、そっと、抱き寄せた。
「泣いているのかい。……何が、こわいの」
「あなたに、忘れられるのが……こわいんです」
わたしがそう言うと、彼は、ほんの一瞬、泣きそうな顔をして。
それから、わたしを、痛いほど、強く、抱きしめた。
「大丈夫。……僕は、絶対に、君を、離さない。何があっても、ね」
そんな不安を、抱えていた、夕暮れのこと。
かなかな、と、また、蜩が鳴いた。
紫月さまは、いつものように、社へと、向かう。
わたしは——今日は、そのあとを、そっと、追いかけた。
古い、苔むした、小さな社。
その前に、紫月さまは、跪いていた。
蜩の声に、合わせるように。
彼は、何かを、低く、唱えている。
そして。
自らの指を、小刀で、そっと、切り。
滲む血で、社の柱に、文字を、刻んでいた。
——「すず」。
わたしの、名前を。
「紫月さま……!」
わたしが駆け寄ると、彼は、はっと、振り返った。
その指先からは、血が、したたっていた。
「すず。……どうして、ここに」
「あなた、その手は……いったい、何を、なさっているのですか」
紫月さまは、しばらく、黙っていた。
やがて、静かに、言った。
「……君を、繋ぎ留めていたんだよ。この、世界に」
「繋ぎ、留める……?」
「神隠しに遭った者はね。少しずつ、この世から、忘れられていくんだ」
彼の金色の瞳が、夕日に、濡れて、光った。
「やがて、誰の記憶からも消えて。……存在ごと、消えてしまう」
「そんな……」
「僕は、それが、いやだった」
彼は、血の滲む手で、わたしの頬に、触れた。
「だから、決めたんだ。この世が、君を忘れても。僕だけは、何度でも。……君を、この世界に、呼び戻すと」
その声が、あんまり、優しくて。
けれど、あんまり、痛々しくて。
「わたしのために、あなたが、こんなに、血を流すなんて……そんなの、いやです」
「いいんだよ」
紫月さまは、泣きそうな顔で、けれど、この上なく幸せそうに、笑った。
「君が、この世界に、いてくれる。……それだけで、僕は、この痛みごと、君を、愛せるんだ」
「お願いです。もう、やめて。……あなたが、削れていくなんて、耐えられません」
わたしは、彼の血の滲む手を、握りしめて、泣いた。
「僕はね、すず」
紫月さまは、わたしの涙を、そっと、拭った。
「長く、長く、生きてきた。人ならぬ身で、退屈な、永い時をね」
その金色の瞳が、月に、濡れた。
「そんな僕が、初めて、"失いたくない"と思ったのが、君なんだ。……だから、これは、僕の、わがままなんだよ」
「わがまま、だなんて……」
「取り上げないでくれ。……君を繋ぎ留めることだけが、僕の、生きる意味なんだから」
その言葉の、本当の重さを。
わたしは、まだ、深くは、分かっていなかった。
ただ、彼の手が、あんまり、冷たくて。
わたしは、その手を、両手で、包むことしか、できなかった。
* * *
それから、わたしは、変わらず、あやかしの屋敷で、暮らした。
皆は、相変わらず、わたしを、忘れていく。
けれど、紫月さまだけは。
夕暮れの蜩が鳴くたびに、社へ通い。
そして、いつも、わたしを、覚えていてくださった。
「おかえり、僕の現」
そう言って、迎えてくれる、その笑顔。
わたしには、まだ、あの蜩の、本当の意味は、分からない。
彼が、わたしのために、何を、削っているのかも。
——けれど、それでも。
わたしは、この人の隣で、笑って、生きていく。
たとえ、世界じゅうが、わたしを忘れても。
このお方だけが、覚えていてくれるなら。
わたしは、それで、じゅうぶん、幸せなのだから。
——ただ、不思議なことが、ひとつ、あった。
わたしが、紫月さまのそばで、心から笑うようになってから。
社に通う、彼の足取りが。
少しずつ、軽くなっているような、そんな気が、するのだ。
「すずが、笑ってくれると」
ある夕暮れ、彼は、ぽつりと、言った。
「不思議だね。……刻むのが、ずっと、楽になるんだ」
その意味も、まだ、わたしには分からない。
でも、それでいいのだと思う。
わたしたちは、これから先も、互いを、少しずつ、この世界に、繋ぎ留め合っていくのだから。
その夕暮れも、かなかな、と、蜩が鳴いた。
「……また、社へ、行かれるの?」
わたしが尋ねると、紫月さまは、わたしを腕に抱いて、囁いた。
「ああ。……君を、迎えに、ね」
その声が、あんまり優しくて。
わたしは、こわいくらいの幸せの中で、そっと、目を閉じた。
——その蜩が、彼の命を、ひとひら、散らす音だということを。
わたしは、生涯、知らないまま。
ただ、この世でたった一人に、誰よりも深く、覚えられて。
幸せに、生きていくのだ。
蜜月 憂です。夏の音シリーズ、今作は蜩。世界じゅうから忘れられていくすずを、あやかしの紫月が、蜩の声とともに、毎夕この世界へ繋ぎ留めている——その代償を、彼女は生涯知らないまま、たった一人に覚えられて、幸せに生きています。「ゾクッとして、泣ける」を楽しんでいただけたら。




