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神隠しに遭ったわたしを拾って、あやかしの若様が溺愛してくださる。ただ一つ——わたしのことを、この世で、あの方だけしか、覚えていないみたいなのです

作者: 蜜月 憂
掲載日:2026/07/16


気がつくと、わたしは、知らない路地に、立っていた。


夏祭りの、人混みの中。


母の手を、離した、たった、それだけのことで。


——わたしは、この世の、どこにもいない場所へ、迷い込んでいた。


赤い提灯が、ゆらゆらと、揺れる、あやかしの町。


行き交うのは、人ではない、影ばかり。


「迷い子かい。……ずいぶんと、儚い子だ」


ふいに、背後から、声がした。


振り返ると、そこに、ひとりの若者が、立っていた。


夜の色をした、長い髪。


月の光を溶かしたような、金色の瞳。


人とは思えない、けれど、目を離せないほど、美しいお方。


「あなたは……」


「紫月。……この地を、預かる者だよ」


あやかしの若様、紫月さま。


彼は、わたしの前に、そっと、手を差し伸べた。


「帰る場所が、ないのだろう。……なら、おいで。僕が、拾ってあげる」


その声が、あんまり、優しくて。


わたしは、震える指を、その手に、重ねたのだった。


「あの、わたし、人間です。あやかしの町に、いても、よいのでしょうか」


「かまわないさ。……むしろ、君のような人間が、僕は、ずっと、欲しかった」


「欲しかった……?」


「ああ」


紫月さまは、わたしの手を、そっと引いて、歩き出した。


「儚くて、消えてしまいそうで。……だからこそ、守りたくなる。そういう子が、ね」


その言葉の意味を、わたしは、まだ、知らなかった。


ただ、繋がれた手の、ひんやりとした心地よさに。


わたしは、なぜだか、泣きたくなったのだった。


* * *


あやかしの屋敷での日々は、驚くほど、甘やかだった。


紫月さまは、人ならざる若様のくせに、まるで、恋する少年みたいに、わたしを甘やかした。


「暑いだろう。……ほら、風鈴の下へおいで」


「その菓子は、口に合ったかい。もっと、取り寄せようか」


浴衣の袖を、翻して、甲斐甲斐しく世話を焼く、その姿。


「紫月さまは、お優しいのですね」


「……君にだけ、だよ」


彼は、少し、目を伏せて、そう言った。


その横顔が、なぜだか、寂しそうで。


わたしは、それ以上、何も、訊けなかった。


紫月さまは、わたしが少しでも寂しそうにすると、すぐに、気づいた。


「どうした。……浮かない顔だね」


「いえ。……ただ、母のことを、少し」


「そうか」


彼は、わたしの頭を、そっと、撫でた。


「帰りたいなら、帰る道を、探してあげよう。……でも、もし、よければ」


その金色の瞳が、ほんの少し、揺れた。


「ここに、いてくれると。……僕は、うれしい」


その声が、あんまり、切実で。


わたしは、思わず、こくりと、頷いてしまった。


夏の夜には、二人で、縁側に並んで、月を眺めた。


紫月さまが、指を、すいと動かすと。


暗闇に、青白い狐火が、ふわり、ふわりと、灯る。


「わあ……! 綺麗」


「君のためだけの、灯りだよ」


そう言って微笑む彼の、その手が。


今にして思えば、あの頃から、少しずつ、透けていたのかもしれない。


——そんな、ある日の、夕暮れのこと。


かなかな、かなかな、と。


蜩が、鳴き始めた。


すると、紫月さまは、ふいに、立ち上がった。


「少し、出かけてくる。……すぐに、戻るよ」


「どちらへ?」


「古い社まで、ね」


そう言い残して、彼は、夕焼けの中へ、ひとりで、消えていった。


その背中を、蜩の声が、追いかけていく。


なぜだろう。


見送るわたしの胸が、きゅう、と、締めつけられた。


翌朝、わたしは、尋ねてみた。


「紫月さま。昨日の社では、何を、なさっていたのですか」


「……夕べの、お勤めさ」


彼は、そう言って、やわらかく、微笑むだけ。


それ以上は、決して、教えてはくださらなかった。


* * *


あやかしの町での暮らしには、ひとつ、不思議なことがあった。


——皆が、わたしのことを、忘れてしまうのだ。


昨日、笑って話した、飴屋のあやかし。


今日、店の前を通ると、初めて会う顔で、わたしを見た。


「おや、お嬢さん。見ない顔だねえ」


「……あの、昨日も、ここで、飴を」


「はて。そうだったかね」


朝、すれ違って、挨拶を交わした、子どもの妖も。


夕方には、わたしを、きょとんと、見上げるのだ。


まるで、わたしという存在が。


会うそばから、皆の記憶から、こぼれ落ちていくみたいに。


「わたし、そんなに、影が薄いのかしら」


わたしは、寂しく、笑った。


けれど。


紫月さまだけは。


いつも、変わらず、わたしを、覚えていてくださった。


「おかえり、すず。……今日は、何をしていたんだい」


その一言が、どれほど、わたしの心を、救ったことか。


この世でたった一人、わたしを忘れない人が、いる。


それだけで、わたしは、生きていられる気が、したのだ。


「紫月さま。今日も、飴屋の方が、わたしを、忘れていました」


ある夜、わたしは、思いきって、打ち明けた。


「わたし、どうして、皆に、忘れられてしまうのでしょう」


紫月さまは、一瞬、箸を、止めた。


それから、いつもの、優しい声で、言った。


「気に、しなくていい。……皆が忘れても、僕が、覚えている」


「でも、いつか、紫月さままで……」


「それは、ない」


彼は、きっぱりと、言い切った。


その声が、あんまり強くて、わたしは、少しだけ、驚いた。


「……絶対に、ないよ。僕が、君を忘れることだけは。ね」


その言葉に、わたしの胸は、あたたかくなって。


けれど、同時に、なぜだか、ほんの少し、ざわついたのだった。


* * *


けれど、夏が深まるにつれ。


わたしを忘れる人は、増えていった。


長く仕えてくれた、世話役の妖でさえ。


ある朝、わたしを見て、「どちらさま?」と、首を、かしげた。


「……わたしよ。すず。昨日も、髪を、結ってくれたでしょう」


「はて……。申し訳ございません。どうも、あなた様のことが、思い出せず……」


その言葉に、わたしは、初めて、こわく、なった。


もしかしたら、いつか。


紫月さままで、わたしを、忘れてしまうのではないか、と。


その夜、わたしは、紫月さまの寝顔を、じっと、見つめた。


この方の記憶からも、いつか、わたしは、消えてしまうのだろうか。


そう思うと、涙が、止まらなかった。


「……すず?」


目を覚ました紫月さまが、わたしの涙に気づいて、そっと、抱き寄せた。


「泣いているのかい。……何が、こわいの」


「あなたに、忘れられるのが……こわいんです」


わたしがそう言うと、彼は、ほんの一瞬、泣きそうな顔をして。


それから、わたしを、痛いほど、強く、抱きしめた。


「大丈夫。……僕は、絶対に、君を、離さない。何があっても、ね」


そんな不安を、抱えていた、夕暮れのこと。


かなかな、と、また、蜩が鳴いた。


紫月さまは、いつものように、社へと、向かう。


わたしは——今日は、そのあとを、そっと、追いかけた。


古い、苔むした、小さな社。


その前に、紫月さまは、跪いていた。


蜩の声に、合わせるように。


彼は、何かを、低く、唱えている。


そして。


自らの指を、小刀で、そっと、切り。


滲む血で、社の柱に、文字を、刻んでいた。


——「すず」。


わたしの、名前を。


「紫月さま……!」


わたしが駆け寄ると、彼は、はっと、振り返った。


その指先からは、血が、したたっていた。


「すず。……どうして、ここに」


「あなた、その手は……いったい、何を、なさっているのですか」


紫月さまは、しばらく、黙っていた。


やがて、静かに、言った。


「……君を、繋ぎ留めていたんだよ。この、世界に」


「繋ぎ、留める……?」


「神隠しに遭った者はね。少しずつ、この世から、忘れられていくんだ」


彼の金色の瞳が、夕日に、濡れて、光った。


「やがて、誰の記憶からも消えて。……存在ごと、消えてしまう」


「そんな……」


「僕は、それが、いやだった」


彼は、血の滲む手で、わたしの頬に、触れた。


「だから、決めたんだ。この世が、君を忘れても。僕だけは、何度でも。……君を、この世界に、呼び戻すと」


その声が、あんまり、優しくて。


けれど、あんまり、痛々しくて。


「わたしのために、あなたが、こんなに、血を流すなんて……そんなの、いやです」


「いいんだよ」


紫月さまは、泣きそうな顔で、けれど、この上なく幸せそうに、笑った。


「君が、この世界に、いてくれる。……それだけで、僕は、この痛みごと、君を、愛せるんだ」


「お願いです。もう、やめて。……あなたが、削れていくなんて、耐えられません」


わたしは、彼の血の滲む手を、握りしめて、泣いた。


「僕はね、すず」


紫月さまは、わたしの涙を、そっと、拭った。


「長く、長く、生きてきた。人ならぬ身で、退屈な、永い時をね」


その金色の瞳が、月に、濡れた。


「そんな僕が、初めて、"失いたくない"と思ったのが、君なんだ。……だから、これは、僕の、わがままなんだよ」


「わがまま、だなんて……」


「取り上げないでくれ。……君を繋ぎ留めることだけが、僕の、生きる意味なんだから」


その言葉の、本当の重さを。


わたしは、まだ、深くは、分かっていなかった。


ただ、彼の手が、あんまり、冷たくて。


わたしは、その手を、両手で、包むことしか、できなかった。


* * *


それから、わたしは、変わらず、あやかしの屋敷で、暮らした。


皆は、相変わらず、わたしを、忘れていく。


けれど、紫月さまだけは。


夕暮れの蜩が鳴くたびに、社へ通い。


そして、いつも、わたしを、覚えていてくださった。


「おかえり、僕のうつつ


そう言って、迎えてくれる、その笑顔。


わたしには、まだ、あの蜩の、本当の意味は、分からない。


彼が、わたしのために、何を、削っているのかも。


——けれど、それでも。


わたしは、この人の隣で、笑って、生きていく。


たとえ、世界じゅうが、わたしを忘れても。


このお方だけが、覚えていてくれるなら。


わたしは、それで、じゅうぶん、幸せなのだから。


——ただ、不思議なことが、ひとつ、あった。


わたしが、紫月さまのそばで、心から笑うようになってから。


社に通う、彼の足取りが。


少しずつ、軽くなっているような、そんな気が、するのだ。


「すずが、笑ってくれると」


ある夕暮れ、彼は、ぽつりと、言った。


「不思議だね。……刻むのが、ずっと、楽になるんだ」


その意味も、まだ、わたしには分からない。


でも、それでいいのだと思う。


わたしたちは、これから先も、互いを、少しずつ、この世界に、繋ぎ留め合っていくのだから。


その夕暮れも、かなかな、と、蜩が鳴いた。


「……また、社へ、行かれるの?」


わたしが尋ねると、紫月さまは、わたしを腕に抱いて、囁いた。


「ああ。……君を、迎えに、ね」


その声が、あんまり優しくて。


わたしは、こわいくらいの幸せの中で、そっと、目を閉じた。


——その蜩が、彼の命を、ひとひら、散らす音だということを。


わたしは、生涯、知らないまま。


ただ、この世でたった一人に、誰よりも深く、覚えられて。


幸せに、生きていくのだ。

蜜月 憂です。夏の音シリーズ、今作は蜩。世界じゅうから忘れられていくすずを、あやかしの紫月が、蜩の声とともに、毎夕この世界へ繋ぎ留めている——その代償を、彼女は生涯知らないまま、たった一人に覚えられて、幸せに生きています。「ゾクッとして、泣ける」を楽しんでいただけたら。


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