↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

神隠しに遭ったわたしを拾って、あやかしの若様が溺愛してくださる。ただ一つ——わたしのことを、この世で、あの方だけしか、覚えていないみたいなのです

作者: 蜜月 憂
掲載日:2026/07/16


気がつくと、わたしは、知らない路地に、立っていた。


夏祭りの、人混みの中。


母の手を、離した、たった、それだけのことで。


——わたしは、この世の、どこにもいない場所へ、迷い込んでいた。


赤い提灯が、ゆらゆらと、揺れる、あやかしの町。


行き交うのは、人ではない、影ばかり。


「迷い子かい。……ずいぶんと、儚い子だ」


ふいに、背後から、声がした。


振り返ると、そこに、ひとりの若者が、立っていた。


夜の色をした、長い髪。


月の光を溶かしたような、金色の瞳。


人とは思えない、けれど、目を離せないほど、美しいお方。


「あなたは……」


「紫月。……この地を、預かる者だよ」


あやかしの若様、紫月さま。


彼は、わたしの前に、そっと、手を差し伸べた。


「帰る場所が、ないのだろう。……なら、おいで。僕が、拾ってあげる」


その声が、あんまり、優しくて。


わたしは、震える指を、その手に、重ねたのだった。


「あの、わたし、人間です。あやかしの町に、いても、よいのでしょうか」


「かまわないさ。……むしろ、君のような人間が、僕は、ずっと、欲しかった」


「欲しかった……?」


「ああ」


紫月さまは、わたしの手を、そっと引いて、歩き出した。


「儚くて、消えてしまいそうで。……だからこそ、守りたくなる。そういう子が、ね」


その言葉の意味を、わたしは、まだ、知らなかった。


ただ、繋がれた手の、ひんやりとした心地よさに。


わたしは、なぜだか、泣きたくなったのだった。


* * *


あやかしの屋敷での日々は、驚くほど、甘やかだった。


紫月さまは、人ならざる若様のくせに、まるで、恋する少年みたいに、わたしを甘やかした。


「暑いだろう。……ほら、風鈴の下へおいで」


「その菓子は、口に合ったかい。もっと、取り寄せようか」


浴衣の袖を、翻して、甲斐甲斐しく世話を焼く、その姿。


「紫月さまは、お優しいのですね」


「……君にだけ、だよ」


彼は、少し、目を伏せて、そう言った。


その横顔が、なぜだか、寂しそうで。


わたしは、それ以上、何も、訊けなかった。


紫月さまは、わたしが少しでも寂しそうにすると、すぐに、気づいた。


「どうした。……浮かない顔だね」


「いえ。……ただ、母のことを、少し」


「そうか」


彼は、わたしの頭を、そっと、撫でた。


「帰りたいなら、帰る道を、探してあげよう。……でも、もし、よければ」


その金色の瞳が、ほんの少し、揺れた。


「ここに、いてくれると。……僕は、うれしい」


その声が、あんまり、切実で。


わたしは、思わず、こくりと、頷いてしまった。


夏の夜には、二人で、縁側に並んで、月を眺めた。


紫月さまが、指を、すいと動かすと。


暗闇に、青白い狐火が、ふわり、ふわりと、灯る。


「わあ……! 綺麗」


「君のためだけの、灯りだよ」


そう言って微笑む彼の、その手が。


今にして思えば、あの頃から、少しずつ、透けていたのかもしれない。


——そんな、ある日の、夕暮れのこと。


かなかな、かなかな、と。


蜩が、鳴き始めた。


すると、紫月さまは、ふいに、立ち上がった。


「少し、出かけてくる。……すぐに、戻るよ」


「どちらへ?」


「古い社まで、ね」


そう言い残して、彼は、夕焼けの中へ、ひとりで、消えていった。


その背中を、蜩の声が、追いかけていく。


なぜだろう。


見送るわたしの胸が、きゅう、と、締めつけられた。


翌朝、わたしは、尋ねてみた。


「紫月さま。昨日の社では、何を、なさっていたのですか」


「……夕べの、お勤めさ」


彼は、そう言って、やわらかく、微笑むだけ。


それ以上は、決して、教えてはくださらなかった。


* * *


あやかしの町での暮らしには、ひとつ、不思議なことがあった。


——皆が、わたしのことを、忘れてしまうのだ。


昨日、笑って話した、飴屋のあやかし。


今日、店の前を通ると、初めて会う顔で、わたしを見た。


「おや、お嬢さん。見ない顔だねえ」


「……あの、昨日も、ここで、飴を」


「はて。そうだったかね」


朝、すれ違って、挨拶を交わした、子どもの妖も。


夕方には、わたしを、きょとんと、見上げるのだ。


まるで、わたしという存在が。


会うそばから、皆の記憶から、こぼれ落ちていくみたいに。


「わたし、そんなに、影が薄いのかしら」


わたしは、寂しく、笑った。


けれど。


紫月さまだけは。


いつも、変わらず、わたしを、覚えていてくださった。


「おかえり、すず。……今日は、何をしていたんだい」


その一言が、どれほど、わたしの心を、救ったことか。


この世でたった一人、わたしを忘れない人が、いる。


それだけで、わたしは、生きていられる気が、したのだ。


「紫月さま。今日も、飴屋の方が、わたしを、忘れていました」


ある夜、わたしは、思いきって、打ち明けた。


「わたし、どうして、皆に、忘れられてしまうのでしょう」


紫月さまは、一瞬、箸を、止めた。


それから、いつもの、優しい声で、言った。


「気に、しなくていい。……皆が忘れても、僕が、覚えている」


「でも、いつか、紫月さままで……」


「それは、ない」


彼は、きっぱりと、言い切った。


その声が、あんまり強くて、わたしは、少しだけ、驚いた。


「……絶対に、ないよ。僕が、君を忘れることだけは。ね」


その言葉に、わたしの胸は、あたたかくなって。


けれど、同時に、なぜだか、ほんの少し、ざわついたのだった。


* * *


けれど、夏が深まるにつれ。


わたしを忘れる人は、増えていった。


長く仕えてくれた、世話役の妖でさえ。


ある朝、わたしを見て、「どちらさま?」と、首を、かしげた。


「……わたしよ。すず。昨日も、髪を、結ってくれたでしょう」


「はて……。申し訳ございません。どうも、あなた様のことが、思い出せず……」


その言葉に、わたしは、初めて、こわく、なった。


もしかしたら、いつか。


紫月さままで、わたしを、忘れてしまうのではないか、と。


その夜、わたしは、紫月さまの寝顔を、じっと、見つめた。


この方の記憶からも、いつか、わたしは、消えてしまうのだろうか。


そう思うと、涙が、止まらなかった。


「……すず?」


目を覚ました紫月さまが、わたしの涙に気づいて、そっと、抱き寄せた。


「泣いているのかい。……何が、こわいの」


「あなたに、忘れられるのが……こわいんです」


わたしがそう言うと、彼は、ほんの一瞬、泣きそうな顔をして。


それから、わたしを、痛いほど、強く、抱きしめた。


「大丈夫。……僕は、絶対に、君を、離さない。何があっても、ね」


そんな不安を、抱えていた、夕暮れのこと。


かなかな、と、また、蜩が鳴いた。


紫月さまは、いつものように、社へと、向かう。


わたしは——今日は、そのあとを、そっと、追いかけた。


古い、苔むした、小さな社。


その前に、紫月さまは、跪いていた。


蜩の声に、合わせるように。


彼は、何かを、低く、唱えている。


そして。


自らの指を、小刀で、そっと、切り。


滲む血で、社の柱に、文字を、刻んでいた。


——「すず」。


わたしの、名前を。


「紫月さま……!」


わたしが駆け寄ると、彼は、はっと、振り返った。


その指先からは、血が、したたっていた。


「すず。……どうして、ここに」


「あなた、その手は……いったい、何を、なさっているのですか」


紫月さまは、しばらく、黙っていた。


やがて、静かに、言った。


「……君を、繋ぎ留めていたんだよ。この、世界に」


「繋ぎ、留める……?」


「神隠しに遭った者はね。少しずつ、この世から、忘れられていくんだ」


彼の金色の瞳が、夕日に、濡れて、光った。


「やがて、誰の記憶からも消えて。……存在ごと、消えてしまう」


「そんな……」


「僕は、それが、いやだった」


彼は、血の滲む手で、わたしの頬に、触れた。


「だから、決めたんだ。この世が、君を忘れても。僕だけは、何度でも。……君を、この世界に、呼び戻すと」


その声が、あんまり、優しくて。


けれど、あんまり、痛々しくて。


「わたしのために、あなたが、こんなに、血を流すなんて……そんなの、いやです」


「いいんだよ」


紫月さまは、泣きそうな顔で、けれど、この上なく幸せそうに、笑った。


「君が、この世界に、いてくれる。……それだけで、僕は、この痛みごと、君を、愛せるんだ」


「お願いです。もう、やめて。……あなたが、削れていくなんて、耐えられません」


わたしは、彼の血の滲む手を、握りしめて、泣いた。


「僕はね、すず」


紫月さまは、わたしの涙を、そっと、拭った。


「長く、長く、生きてきた。人ならぬ身で、退屈な、永い時をね」


その金色の瞳が、月に、濡れた。


「そんな僕が、初めて、"失いたくない"と思ったのが、君なんだ。……だから、これは、僕の、わがままなんだよ」


「わがまま、だなんて……」


「取り上げないでくれ。……君を繋ぎ留めることだけが、僕の、生きる意味なんだから」


その言葉の、本当の重さを。


わたしは、まだ、深くは、分かっていなかった。


ただ、彼の手が、あんまり、冷たくて。


わたしは、その手を、両手で、包むことしか、できなかった。


* * *


それから、わたしは、変わらず、あやかしの屋敷で、暮らした。


皆は、相変わらず、わたしを、忘れていく。


けれど、紫月さまだけは。


夕暮れの蜩が鳴くたびに、社へ通い。


そして、いつも、わたしを、覚えていてくださった。


「おかえり、僕の現《うつつ》」


そう言って、迎えてくれる、その笑顔。


わたしには、まだ、あの蜩の、本当の意味は、分からない。


彼が、わたしのために、何を、削っているのかも。


——けれど、それでも。


わたしは、この人の隣で、笑って、生きていく。


たとえ、世界じゅうが、わたしを忘れても。


このお方だけが、覚えていてくれるなら。


わたしは、それで、じゅうぶん、幸せなのだから。


——ただ、不思議なことが、ひとつ、あった。


わたしが、紫月さまのそばで、心から笑うようになってから。


社に通う、彼の足取りが。


少しずつ、軽くなっているような、そんな気が、するのだ。


「すずが、笑ってくれると」


ある夕暮れ、彼は、ぽつりと、言った。


「不思議だね。……刻むのが、ずっと、楽になるんだ」


その意味も、まだ、わたしには分からない。


でも、それでいいのだと思う。


わたしたちは、これから先も、互いを、少しずつ、この世界に、繋ぎ留め合っていくのだから。


その夕暮れも、かなかな、と、蜩が鳴いた。


「……また、社へ、行かれるの?」


わたしが尋ねると、紫月さまは、わたしを腕に抱いて、囁いた。


「ああ。……君を、迎えに、ね」


その声が、あんまり優しくて。


わたしは、こわいくらいの幸せの中で、そっと、目を閉じた。


——その蜩が、彼の命を、ひとひら、散らす音だということを。


わたしは、生涯、知らないまま。


ただ、この世でたった一人に、誰よりも深く、覚えられて。


幸せに、生きていくのだ。

蜜月 憂です。夏の音シリーズ、今作は蜩。世界じゅうから忘れられていくすずを、あやかしの紫月が、蜩の声とともに、毎夕この世界へ繋ぎ留めている——その代償を、彼女は生涯知らないまま、たった一人に覚えられて、幸せに生きています。「ゾクッとして、泣ける」を楽しんでいただけたら。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。