王家の恥が、今日も自分をへりくだる
私の名前は、ロアフィーネ・クロエルト。
エルデバラン王国の第三王女です。
第三というところを、どうか覚えていてほしいのです。
一番でも、二番でもなく、三番目。
順番というものは正直で、私が三番目に生まれたことには、たぶん意味があります。
世界は無駄なものを作らないと言いますが、無駄でないものにも序列はあって、私はその序列の下のほうにいる人間です。
長姉のエーデルハイト姉さまは、五つの言語を操って敵国の使者を一晩で味方に変えてしまう人です。
次姉のカティア姉さまは、十二歳で宮廷魔術師長に「私が教えることはもう何もない」と言わせた人です。
では、三女の私は何をしたか。
三女は十歳のときに城の図書室で居眠りをして、燭台を倒して稀少本を三冊燃やしました。
そういう人間なのです、私は。
──と、ここまで書いて自分でも思うのですが。
昨日の夕食で出されたシチューを思い出しました。とても美味しかったです。
香草を効かせた羊の煮込みで、玉ねぎがとろけるほど煮込まれていて、私はおかわりをしました。
三回目はさすがに我慢しましたが、本当はもう二杯はいけました。
王家の恥が、シチューを二杯。
おかしいですね。自分でも何を書いているのか分からなくなってきました。
ともかく、私の話です。
聞いてくださる方がいるとは思えませんが、もし、もしも万が一、こんな私の話に付き合ってくださる奇特な方がいらっしゃるのなら。
少しだけ、お時間をいただけますか。
****
朝、目が覚めると、私はまず天井を見ます。
これは、子どもの頃からの癖です。
目が覚めてすぐに身体を起こすと、世界が「ああ、ロアフィーネがまた起きてきた」と気づいてしまう気がして。
だからしばらく、天井の木目を見ています。
木目というのはよく見ると人の顔のように見えるもので、私の部屋の天井には、片方の眉を上げて私を見下ろしている顔が三つあります。
「おはようございます。今日もご迷惑をおかけするかと思います」
私はその三つの顔に挨拶をします。
返事はありません。天井ですから。
それから起き上がります。
環騎士の宿舎は、お城の本館から少し離れた東の棟にあって、私の部屋は三階の一番奥です。
王女なのだから本館の自室を使えばいいのに、と姉さまたちは言ってくれるのですが、私は宿舎のこの部屋が好きでした。
狭くて、飾り気がなくて、寝台と机と、それから本棚がひとつあるだけ。
ここなら私が私であることを、誰にも申し訳なく思わずに済む気がするのです。
顔を洗って、髪を結わえます。
私の髪は銀灰色で、これは母方の血筋なのだそうです。
姉さまたちは二人とも金色なので、私だけが灰色。
子どもの頃、それがずっと嫌でした。
金色というのは、太陽の色です。灰色は、燃え尽きたあとの色です。
鏡を見ます。
鏡の中には、いつもの私がいます。
困ったような顔をした背の高い痩せた女が一人。
「美人なのにもったいない」と人は言いますが、私はその「もったいない」が、ずっと自分のことのように思えてなりません。
私という人間そのものが、何かもったいない作りそこないなのではないかと。
立派な素材で、できそこないを作ってしまった。
そういう感じがするのです。
「……でも、今日の朝食は確かソーセージが出る日です」
鏡の中の私の目が、ほんの少し輝いた気がしました。
宿舎の食堂は、すでに賑やかでした。
環騎士というのは、各国に十名ほどしかいない魔法も扱える特別な騎士のことで、それはそれは大層な肩書きなのですが、その大層な騎士たちが朝から食堂で繰り広げているのはソーセージの取り合いです。
木の長机に大皿が並んで、湯気を立てたソーセージが山と積まれて、皆が我先にとフォークを伸ばしている。
私は食堂の入り口で、少し立ち止まりました。
人の輪に入っていくのが苦手なのです。
あの中に私が加わると空気が一段、重くなる気がして。
「あ、第三王女が来た」「気を遣わなきゃ」「失礼があってはいけない」──そういう緊張を、私は人々の中に作ってしまう。
私の存在は、たぶん場の空気を冷ます類のものなのです。
だからいつも、皆が食べ終わった頃に、こっそり行こうと思って──。
「ロアフィーネさま!」
話しかけてきてくれたのは、斥候のコノン。
彼女は人混みの向こうから私を見つけると両手を高く振って、周りの騎士たちを押しのけるようにしてソーセージの大皿を一枚、確保してきました。
「こっち、こっちです!取っておきました!ほら、一番大きいこれとこれとこれ!ロアフィーネさまの分です!」
「い、いえ、私はそんなに──」
「えー、昨日あんなに動いたのに?絶対お腹空いてますよ!」
コノンは私の手を引いて、机の端の席に座らせました。
目の前にソーセージの大皿。湯気が頬に当たって温かい。
香ばしい肉と香辛料の匂い。
私のお腹が正直に鳴りました。
「ほら!お腹は嘘つかないです!」
「お腹は……そうですね、嘘をつきません」
感謝の言葉をコノンに告げると、彼女は嬉しそうに笑います。
「いただきます」
そして私はフォークを手に取り、一番大きなソーセージにかぶりつきました。
皮がパリッと音を立てて弾けて、中から熱い肉汁が溢れます。
熱いと思いながら、私はそれを噛みしめます。
粗く挽いた豚肉に胡椒と何かの香草。
脂が舌の上でとろけて、旨味が口いっぱいに広がっていく。
「……おいしいです。私なんかがこんなにおいしいものを毎朝いただいていいんでしょうか」
二口目を頬張りながら言いました。
「いいに決まってます!」
「昨日、村ひとつ守るのにずいぶん手間取ってしまって。もっと早く動けば燃えた家も半分は救えたかもしれないのに」
「でも一人も死ななかったです!」
「それは、たまたまで──」
そう言いながら、私は三本目のソーセージに手を伸ばしていました。
コノンがそれを見て、ニコニコしています。
「ロアフィーネさまはお肉食べてるときだけ、ちょっと顔が明るいんですよね」
「……そうでしょうか」
「そうですよ!あたし、それを見るの好きです!」
私は口の中のものを飲み込んで、うつむきました。
耳が少し熱い。
褒められるというか、好かれると、私はどうしていいか分からなくなります。
それは間違っているような気がするのです。
私を好きになるというのは、たぶんその人が何か勘違いをしているということで、いつかその勘違いに気づいたとき、その人はがっかりするでしょう。
だから好かれれば好かれるほど、私はその先のがっかりが怖くなる。
──でも。
四本目のソーセージは、ひときわ大きいものでした。
私はそれにかぶりつきました。
「私は王家の恥ですけれど……このソーセージは本当においしいです」
「ぷはっ!ロアフィーネさま、それすごい組み合わせの言葉です」
コノンが噴き出しました。
そうでしょうか。私は真面目に言ったつもりなのですが。
****
朝食のあと、私たちの小隊に任務が下りました。
遊撃小隊。
隊長は老騎士のガレス、隊員は前衛のイルマ、斥候のコノン、そして私の四人。
少人数で動いて辺境を巡回し、魔獣の異常があれば討伐し、動きがあれば探る。
地味で目立たなくて、けれど誰かがやらねばならない仕事です。
「村が三つある。深域から流れてきた魔獣の目撃が増えている。様子を見て必要なら討つ」
「往復で四日ですね」
ガレスが地図を指し、イルマが覗き込みます。
イルマは平民の出の剣士です。
背が高く、肩幅が広く、いつも少し怒っているような顔をした女性で、髪を短く刈り上げています。
口は悪いけれど、嘘はつかない人。
だから私は、この人が少しだけ苦手でした。
嘘をつかないということは、本当のことしか言わないということで、本当のことというのは、私には眩しすぎる。
「準備せよ」とガレスが言いました。
彼は一日に十言も話さない日があります。
私たちは、それぞれの支度を始めました。
私の支度は、すぐに終わります。
剣を点検して、防具を確かめて、それから──食料。
食料の確保だけは、私は念入りにやります。
「ロアフィーネさま、また干し肉をそんなに?」
「途中で食べるものがなくなったら皆が困ります。だからこれくらいは多めに……」
「いや、多すぎでしょ。三人分はありますよ、それ」
「私が一人で二人分食べますので」
「──えっ?」
「いえ、その、あの、万が一のために──」
私はしどろもどろになりながらも、干し肉の袋をもう一つ鞄に押し込みました。
本当のことを言うと、半分は自分のためです。
私はお腹が空くと本当に駄目になるのです。
手が震えて、頭が回らなくなって、いつも以上にネガティブなことばかり考えてしまう。
だからいつでも何か食べられるように、食料だけはたっぷり持っていく。
王女らしくないと思います。
姉さまたちは、こんなに食べません。
エーデルハイト姉さまは、お茶会で出された焼き菓子を半分だけ召し上がって微笑むような人です。
カティア姉さまは、研究に没頭すると食事を忘れる人です。
私は食事を忘れたことが、人生で一度もありません。
以前、私が三杯目のシチューをよそっているときに、「お前はよく食う」と、いつだったかガレスがぽつりと言ったことがあります。
恥ずかしくて、消えてしまいたくなって、「すみません、私、卑しくて」と謝りました。
そうしたらガレスは少しだけ黙って、それから言いました。
『よく食う者は、よく動ける』
それだけ言って、彼は自分の食事に戻りました。
その言葉を、私は今でも思い出します。
****
王都を出て西へ向かいます。
街道は、最初のうちは石畳ですが、半日も行くと土の道に変わります。
両側に麦畑が広がって、刈り取りの終わった畑は、刈り株が金色の絨毯のように見えました。
空は高く、雲が薄く流れて、風は冷たいけれど、日差しは暖かい。
私は馬の上で揺られながら、こういう景色が好きだなと思いました。
誰もいない道をゆっくり進むこと。人の視線がないこと。「第三王女」でいなくていいこと。
馬の足音と、風の音と、たまにコノンが跳ね回る音。それだけの世界。
「腹減ったな」
「干し肉ならありますよ。食堂でパンも少し──」
半日ほど経ったところでイルマが言い、私は鞄から布に包んだものを取り出しました。
パン。チーズ。ゆで卵が四つ。それからリンゴが三つ。
「……ロアフィーネ。お前、どこにそんな積んでいた?」
「鞄にですが……」
「鞄に必要な食料積んで、さらにそれは何だ」
「これはおやつです」
「おやつ……」
「移動中に……その、小腹が空くので」
コノンが、ぷっと噴き出しました。
イルマは、額に手を当てて深く息を吐きました。
けれどその手は、ちゃんとパンとチーズを受け取っていました。
私たちは馬を止めて、道端の倒木に腰かけて、少し早い昼食をとりました。
「こうして何でもないときに、皆で何かを食べているのが、私は好きです」
ゆで卵の殻を剥きながら言いました。
「珍しいな。お前が『好き』なんて言うの」
「……すみません、出過ぎたことを」
「謝ることか?」
イルマはチーズをかじりながら、麦畑のほうを見ていました。
「俺はお前のそういうところ、嫌いじゃない。自分のことは虫けらみたいに言うくせに、人に食わせる分は一番に考える。順番が逆なんだよ、お前は。普通は自分の分を先に確保するもんだ」
「……私の分はその、たくさん食べるので、結局、一番確保していることに──」
「そういうところだよ」
イルマがふっと笑い、私はゆで卵をぱくりと食べました。
塩を少し振った、ただのゆで卵です。
黄身がほっくりしていて、白身がしっとりしていて、何の変哲もない、ただのゆで卵。
でも、こうして刈り入れの終わった麦畑を眺めながら苦手なはずのイルマの隣で食べるそれは、なぜだかお城の晩餐よりもずっとおいしい気がしました。
「私はたぶん、騎士には向いていません」
「また始まったな」
「だって怖がりですし、自分に自信もないですし、こうしてすぐお腹が空きます。立派な騎士は、きっと、もっと、こう凛々しくて──」
「凛々しい騎士は村ひとつ守るのに、命がけで虫けらみたいに震えながら最前線に立ったりしない。要領よくやる。被害も計算する。何人か見捨てることもある」
「……」
「お前はそういった計算ができない。だから震えながら全部守ろうとする。それが向いてないって言うなら、騎士に向いてるやつなんてこの世にいないよ」
私は、二つ目のゆで卵の殻を剥き、口に運びました。
何も言えませんでした。
ただ、卵がさっきより少しだけ、しょっぱい気がしました。
塩を振りすぎたのかもしれません。それとも別の理由かもしれません。
私はそれを確かめるのが怖くて、急いで三つ目の卵の殻を剥き始めました。
****
日が暮れると、私たちは街道沿いの小高い丘の上で野営をしました。
火を起こすのは、コノンの役目です。彼女は手際がよくて、あっという間に焚き火を作ってしまう。
私も手伝おうとするのですが、たいてい邪魔になります。
「ロアフィーネさまは座っててください、お疲れでしょう」とコノンに言われて、私はいつも申し訳なく思いながら座っています。
夕食は干し肉を入れたスープでした。
鍋に水を張って、干し肉と持ってきた野菜の切れ端と、それから岩塩を少し。
ぐつぐつと煮込むと肉の脂と旨味がスープに溶け出して、簡素なのにこれがまたおいしいのです。
「ロアフィーネさま、おかわりは?」
「……いただきます」
「ですよね!」
コノンが私の椀に、具の干し肉を多めに、並々とスープをよそってくれました。
私はそれをふうふうと冷ましながら、すすりました。
夜の野営の食事は、お城の晩餐よりも好きです。
お城の晩餐は、たくさんの料理が決まった順番で皿に乗って出てきて、私はそのひとつひとつを決まった作法で、少しずつ上品にいただかなければなりません。
三杯もおかわりなどしたら、姉さまが困った顔をします。
でも、野営の食事には、作法がありません。
椀を両手で抱えて、好きなだけすすって、おかわりして、口の端にスープがついても誰も咎めません。
それが私には、たまらなく楽です。
「私はたぶん、お城よりこういう場所のほうが、性に合っているのだと思います」
「分かる。お前は城だといつもより三割しょぼくれてる」
「三割……ですか」
「四割かもしれん」
「増えましたね……」
イルマの言葉を耳にしていると、焚き火がぱちぱちと薪を爆ぜました。
ガレスは少し離れたところで火を見つめていました。
彼はあまりスープを飲まず、自分の干し肉を黙ってかじっています。
私はその横顔をそっと見ました。
「ガレスは母さまに、長く仕えていたのですよね」
私は思い切って声をかけました。
ガレスは火から目を離さずに、少しだけ頷きました。
「母さまは、どんな人でしたか?」
私は母のことをあまり覚えていません。
母は私が七つのときに病で亡くなりました。
覚えているのは、いつも忙しそうにしていたことと、それから私を抱き上げてくれたことがあったような気がする、ということくらい。
ガレスはしばらく黙っていましたが、それからぽつりと言いました。
「よく食う方だった」
私は椀を持つ手を止めました。
「先王妃は人前では、お上品に召し上がった。だが、人がいないところでは、よく食われた。私が見張りに立っているとき夜中に厨房へ抜け出して、冷めたパイを丸ごと一つ食べておられたこともある」
「……母さまが、ですか」
「『ガレス、内緒だぞ』と、口に詰め込みながらおっしゃった」
私は想像しました。
深夜の厨房で冷めたパイを丸ごと頬張って、いたずらが見つかった子どものように笑う母の姿を。
なぜでしょう。
私は見たこともないはずのその姿を、なぜだかとてもはっきりと思い浮かべることができました。
「お前は先王妃によく似ておられる」
「……私が母さまにですか」
「顔ではない、食いっぷりだ」
それから彼は、また火に目を戻して何も言わなくなりました。
私はしばらく椀を抱えたまま、動けませんでした。
似ていると言われたことが嬉しかったのか、戸惑ったのか、自分でもよく分かりませんでした。
私はずっと自分は何にも似ていない、誰にも似ていない、ただの作りそこないだと思ってきたから。
食いっぷりが母に似ている。
私は椀の中の最後の一口をすすり、それから小さな声でコノンに言いました。
「……コノン。もう一杯、いただけますか」
コノンがぱっと顔を輝かせて、「はい!」と鍋に駆け寄りました。
イルマが横で、クックッと笑っています。
四杯目のスープは、なぜだか少ししょっぱい味がしました。
今度は塩のせいではないと、私にも分かっていました。
****
二日目は、雨でした。
朝から霧のような雨が降って、外套のフードを目深にかぶっても、髪も、頬も、しっとりと濡れていきます。
馬の足元はぬかるんで進みは遅く、みな口数が少なくなりました。
私はこういう日が嫌いではありません。
雨の日は世界がぼんやりとして、輪郭が曖昧になって、私という人間の存在も少しだけ曖昧になる気がするのです。
晴れた日はすべてがくっきりして、私の欠点もくっきりと見えてしまう。
でも雨の日は、私の駄目さも、霧の向こうに少し霞んでくれる。
「ロアフィーネさま、雨、平気ですか?寒くないですか?」
「平気です。コノンこそ走り回って濡れていませんか」
「あたしは平気です!でもロアフィーネさまの唇がちょっと青いですよ?」
「そう、でしょうか」
「お肉、食べます?干し肉をかじれば体があったまりますよ」
「……いただきます」
私たちは雨をしのげる大きな樫の木の下で、少し休憩しました。
コノンが火口箱を使って、なんとか小さな火を起こして、その上で干し肉を炙ってくれました。
じりじりと脂が炙られて、雨の匂いに肉の匂いが混じります。
私はその炙った干し肉を受け取りました。
温かい。指先から温かさが伝わってきます。
「ありがとうございます、コノン」
「いえいえ!ロアフィーネさまが元気なのが一番です!」
炙ったことで外側が香ばしくなり、噛むと中から肉の旨味と脂がじゅわりと滲み出てきます。
冷えた身体にそれが染み渡っていく。
指先が少しずつ温まっていく。
「おいしいです。こんなに冷えた日に温かいものをいただけるなんて。私には勿体ないくらいです」
「勿体なくないです!」
「でも、私は──」
「ロアフィーネさま」
コノンが珍しく、少し真剣な顔をしました。
「あたし、孤児だったんです。知ってましたか?」
私は、首を横に振りました。
「両親がいなくて。物心ついたときには王都の裏通りで、他の子たちと残飯あさって生きてました。お腹空かせて、いつも明日のこと考えて、こんな自分なんか生きてる意味あるのかなって毎日思ってました」
雨が樫の葉を静かに叩いていました。
「でもある日、斥候の試験を受けたら受かっちゃって。それで騎士団に入って、初めてあったかいごはんをお腹いっぱい食べられたんです。ごはんってこんなにあったかいんだって、初めて知りました。それで思ったんです」
コノンは、にっこりと笑いました。
「あったかいごはんを勿体ないって思わなくていい人生って、いいなって。あたし、ロアフィーネさまにもそう思ってほしいんです。ロアフィーネさまにあったかいごはん、勿体なくないです。ぜんぜん、勿体なくないです!」
私は何か言わなければと思いました。
コノンの言葉に何か応えなければと。
でも、喉の奥がつかえて、うまく言葉が出てきませんでした。
代わりに私は、自分の鞄からひときわ大きな干し肉の塊を取り出して、コノンに差し出しました。
「……これ、一番大きいやつです。コノンにあげます」
「えっ、いいんですか?ロアフィーネさまのおやつなのに」
「私のおやつは、まだたくさんありますので」
実を言うとその大きな干し肉は、私が今回の任務で一番楽しみにしていた、とっておきの一品でした。
お城の厨房長が特別に作ってくれた、香草と蜂蜜で漬け込んだ、最高級の干し肉。
でも、いいのです。
コノンがそれを両手で大事そうに受け取って、「いただきます!」と嬉しそうにかじりついて。
「んん〜!おいしい!何ですかこれ、すっごいおいしい!」
その顔を見たら、それでよかったのです。
少し減りましたけれど、私のおやつはまだたくさんありますから。
「ロアフィーネ、お前、また一番良いやつを人にやっただろう」
「……バレましたか」
「お前のやることは、だいたい分かる」
イルマはこちらを見ずに、ふっと笑いました。
「いいやつだよ、お前は」
私は、うつむきました。
雨のおかげで私の頬が赤いのか、ただ濡れているだけなのか、誰にも分からないことだけが救いでした。
****
三日目の昼前、私たちは最初の村に着きました。
森の麓の小さな村です。
幾つもの家が寄り集まって、その向こうに深い森が黒々と広がっています。
村は、おかしな様子でした。
人の姿がほとんどありません。
家々の戸は固く閉ざされて、窓には板が打ち付けられて、まるで何かに怯えて息を潜めているようでした。
「……様子が変です」
ガレスが馬を降りて、近い家の戸を叩きました。
「騎士だ。王都から来た。村長はいるか」
しばらくして戸がわずかに開いて、老いた男がおそるおそる顔を出しました。
村長でした。
彼の話によると、ここ半月ほど森から魔獣が出るようになった。
最初は一頭か二頭で、家畜が襲われる程度だった。
けれど数日前から群れで出るようになった。
昨夜は村の外れの家が襲われた。
住んでいた家族のうち、年寄りが一人、逃げ遅れて──。
村長の声が、震えました。
「もうこの村はおしまいです。自警団も半分が怪我をして若い者は逃げ出そうと言います。けれど年寄りは足が悪くて逃げることもできず……」
私はその話を聞きながら、心臓が縮こまっていくのを感じていました。
群れ。魔獣の群れ。私はそれが何より怖い。
一頭ならまだしも、群れというのはどこから来るか分からなくて、どれだけいるか分からなくて、想像の中でどこまでも大きく、恐ろしく、膨れ上がっていく。
「ガレス、私たちだけでは危ないかもしれません。一度、王都に戻って応援を──」
「──戻れば早くても二日かかる、往復で四日だ」
「で、でも──」
「──その間に、また夜が来る」
私は言葉に詰まりました。
四日。その間に夜が四回来ます。今夜も来ます。
魔獣の群れがまた村を襲ったら。逃げられない年寄りたちが、また──。
「……私は怖いです。本当に怖いんです。私なんかが群れを相手に何かできるとは、とても──」
「ロアフィーネさま」
コノンが私の手を握りました。
「あたし、ロアフィーネさまと一緒なら怖くないです」
私はコノンを見ました。
彼女の目はいつものようにまっすぐで、濁りがなくて、私を「いいもの」として見ていました。
その目を見ていたら、私はもう逃げるとは、言えなくなりました。
「……夜までに村の人を頑丈な家に集めましょう。戦える者はその家を守る配置に。森との境に見張りを。火を焚いて、明るくして。それから──」
私は言いながら、自分の頭が不思議と回りはじめているのに気づきました。
怖い。怖いのは変わりません。
むしろ、これから何が起きるかを具体的に考えれば考えるほど、怖さは増していきます。
でも、怖いからこそ私は考えるのです。
どうすれば、被害を少しでも減らせるか。
どうすれば、あの年寄りたちを守れるか。
どうすれば、皆を生きて明日の朝を迎えさせられるか。
怖くなければ、ここまで必死には考えません。
私が怖がりであることは、たぶん私のたった一つの取り柄なのかもしれないと、ふと思いました。
****
魔獣は、夜更けに来ました。
森の闇から、いくつもの濁った緑色の目が現れました。
四足の鉤爪を持つ獣。
一頭、二頭、三頭──数えるのをやめました。
十数頭。群れの後ろにひときわ大きな背に骨の棘を生やした頭ひとつぶん大きい個体。リーダー格。
私は村の中央の広場に立っていました。
後ろには、頑丈な家があります。
その中に村の人たちが身を寄せ合って隠れています。
逃げられない年寄りも、子どもも、みんな。
私のすぐ後ろに。
「怖いです。怖いんです。膝が笑っています。手も震えています。私なんかがこんな群れを相手に立っていても、きっと何の役にも──」
誰にも聞こえないくらいの小さな声で私は剣を抜きながら呟き、最初の一頭がまっすぐ私のほうへ飛びかかってきました。
──ここで退いたら。
私の頭の中にあるのは、ずっとそれだけ。
退いたら、後ろの人たちが死ぬ。
最初の一頭を受けて、流して、斬る。
二頭目が来ます。受ける。斬る。
三頭目。コノンの投石がその横っ面を打って、怯んだところを私が斬る。
「右、二頭!」
イルマの声。
私とイルマは、背中合わせになって家の前を守りました。
イルマの剣が、私の見えない側を薙ぎ払う。
私の剣が、イルマの見えない側を受け止める。
ガレスは家の入り口にどっしりと構えて、すり抜けてきた一頭を一撃で地に沈めました。
怖い。ずっと怖い。
心臓が痛いくらいに打っています。
剣を握る手が汗で滑りそうになります。
一頭、斬るたびに次が来て、息をつく暇もない。
「私なんかが最前線に立っていていいんでしょうか。もっと強い人なら、もっとうまく──」
私は震えながら心の中でずっと泣き言を並べていると、リーダー格が動きました。
巨体が地を蹴って、まっすぐ私へ突進してきます。
骨の棘が、緑の目が、開いた顎が、迫る。
怖い。
本当に、怖い。
でも、私は前に出ていました。
自分から踏み込んで、突進の軌道へ。
「──でも、ここで退いたら後ろのみんなが」
すれ違いざま、首の付け根、棘の生えていないただ一点へ、剣を滑り込ませた。
巨体が私の真横を通り過ぎて地面に崩れ落ち、土埃が舞い上がる。
リーダーを失った残りの魔獣は、ひるみ、後ずさり、やがて散り散りに森の闇へと逃げ帰っていきました。
群れは頭を失えば、群れではなくなるのです。
私は剣を提げたまま、その場に立っていました。
膝はまだ笑っていました。手も震えています。
全身、汗と、泥と、返り血で、ぐしゃぐしゃでした。
家の戸がおそるおそる開いて、中から村の人たちが出てきました。
年寄りも、子どもも、みんな無事でした。誰一人、欠けていません。
私はその場に、へなへなと座り込みました。腰が抜けてしまったのです。
戦いが終わった今になって怖さがどっと押し寄せてきて、私は地面に座り込み剣を杖のようにして、息を整えるので精一杯でした。
「……お前はミミズか」
背後でイルマがぽつりと言いました。
「ち、違うんです。今のはたまたまで、あのリーダー格がたまたま私のほうに来てくれただけで、もっと賢い個体だったら私なんてきっと──」
「──あの一太刀、俺には真似できない」
剣を鞘に納めながら、イルマは私の言葉を遮りました。
それは慰めでも、励ましでも、ありませんでした。
ただ、できる、できないの話として。
私は座り込んだまま、何も言えなくなりました。
****
戦いのあと、私たちは村の広場で夜を明かすことにしました。
村の人たちがお礼にと、ありったけの食べ物を持ってきてくれたのです。
パンと、チーズと、それから村で飼っていた山羊を感謝のしるしにと、一頭捌いてくれて。
焚き火の上で骨付きの肉がじりじりと焼かれていきます。
脂が滴って、炎がぱっと燃え上がる。
香ばしい匂いが夜の広場に満ちていきます。
泥だらけの返り血で汚れたぼろぼろの姿で、私は焚き火のそばに座っていました。
「汚いですね、私。こういうのがお似合いです。きれいなドレスよりずっと。私はこうやって泥にまみれているのが、一番しっくりきます」
「かっこよかったです!」
焚き火の光がコノンの頬を赤く照らし、身を乗り出して言いました。
「あの最後のすれ違いざまの一撃!あたし、あんなの見たことないです!心臓が止まるかと思いました!ロアフィーネさま、ほんとに、ほんとに、かっこよかった!」
「いえ、あれはたまたまで──」
「たまたまで、あんなことできる人がいたら、そいつは化け物だ。お前が言ってるのは、そういうことだぞ」
「……」
焼けた肉にかぶりつきながら、イルマが横から言いました。
ガレスが無言で立ち上がり、彼は焼けた肉の一番大きな一切れを私の皿に載せました。
それからまた何も言わずに、自分の場所に座りました。
私はその肉を見つめました。
褒められることに慣れていません。だから、信じられない。
コノンの言葉も、イルマの言葉も、ガレスの肉も、本当は私に向けられたものではなくて、何かの間違いで、たまたまここに転がってきただけのもののような気がする。
姉さまたちなら、と思います。
姉さまたちなら、こういうとき気の利いたことを言って、みんなを笑わせて場を温めるのでしょう。
私にはできません。私はただうつむいて、肉を見ているだけです。
でも。
肉を口に運びました。
かぶりつくと、皮がパリッと弾けて、中から熱い肉汁が溢れてきます。
熱っ、と思いながら、私はそれを噛みしめる。
山羊の肉は少し癖があって、でもその癖が炭火で焼かれることで香ばしさに変わって。
脂が舌の上でとろけて、旨味が口いっぱいに広がっていく。
一日中、怖がって、戦って、空っぽになった身体に、それが染み渡っていきます。
「……このお肉、おいしいです」
それは何の解決にもなっていませんでした。
私はまだ自分を信じられないし、明日もきっと、「私なんか」と、言うのでしょう。
怖がりも、自己卑下の癖も、たぶん治りません。
でも、この肉がおいしいことだけは、否定のしようがありませんでした。
焚き火が暖かいことも。
隣にコノンが座っていることも。
向かいでイルマが肉を食べていることも。
少し離れたところでガレスが火を見つめていることも。
それだけは、間違いなく本当のことでした。
私は二切れ目に手を伸ばしました。
それから、三切れ目にも。
「いっぱい食べる人は、いっぱい守れる人です!」
「それは関係ないと思うのですが……」
と、言いながら、私は四切れ目にも手を伸ばしていました。
「先王妃に、似てきた」
火を見つめたまま、ガレスがぽつりと言いました。
口元がほんの少しだけ緩んでいるように見えました。
気のせいかもしれません。でも、私にはそう見えました。
イルマが笑った気配がしました。
私は五切れ目に手を伸ばすかどうか少し迷って……結局、手を伸ばしました。
私は、もぐもぐしながら言いました。
「……あの、私は王家の恥ですけれど、このお肉は本当においしいです」
イルマが、今度は声を出して笑いました。
コノンも、笑いました。
ガレスは笑いませんでしたが、その代わりもう一切れ私の皿に肉を載せてくれました。
夜は、更けて。
焚き火は、ぱちぱちと爆ぜて。
私は自分でもおかしいくらい、たくさんの肉を食べました。
****
翌朝、私たちは村を発ちました。
残りの二つの村も見回らなければなりません。
任務はまだ、半分も終わっていないのです。
出立の支度をしていると、小さな足音が駆けてきました。
昨夜、家の中で震えていた子どもたちのうちの一人。
一番小さな年齢の三つか、四つの女の子でした。
その子は私の前で立ち止まって、両手で私の手を握りました。
小さな温かい手でした。
「おねえちゃん」と、その子は言いました。
「かっこよかった!」
「い、いえ、その、私は……かっこいいなんてそんな……ただ、その本当に怖くて、とても怖くて、足だってずっと震えていて、腰だって抜けてしまって……」
しどろもどろになって。
結局、何も気の利いたことが言えなくて。
私はただ、ぺこりと頭を下げました。
王女らしくもなく。騎士らしくもなく。
ただ小さな子どもに向かって、深々と。
そうしてから私は自分の鞄を開けて、中から干し肉を一袋取り出して、その子に渡しました。
「これ、おやつです。おなかが空いたら食べてください。たくさん食べて、大きくなってください」
とっておきの香草と蜂蜜の干し肉はコノンにあげてしまったので、これはただの普通の干し肉でしたけれど。
女の子はそれを両手で抱きしめて、「ありがとう!」と笑いました。
その笑顔を見たら、私はもうそれでよかったのです。
「ロアフィーネ、お前、またおやつをやっただろう」
「……はい」
「これで本当にお前の分のおやつはなくなったな」
「……いえ、実はまだ干し肉の塊を三つ隠してあります。それからゆで卵が二つとリンゴが一つ」
イルマがぽかんとし、それから噴き出して声を上げて笑いました。
「お前なあ。ほんと、そういうとこだよ」
彼女の笑い声と共に、朝日が丘の向こうから昇ってきました。
光が私の銀灰色の髪を照らします。
泥はまだ残っていて、決してきれいな姿ではありませんでしたけれど。
世界は、広いです。
残りの二つの村でも、何が待っているか分かりません。
私は、相変わらず自分を信じることができません。
──でも。
握られた手の温かさを、私は感じていました。
隣を歩いてくれる人たちの足音を聞いていました。
私はまだ怖い。
でも、ここに立つことを私は選びました。明日も選ぶのだと思います。
それでいいのだと──少しだけ、ほんの少しだけそう思えた朝でした。
「……出発する前に、おやつを食べてもいいでしょうか」
「お前なあ……」
「だって、朝ごはんは村の人に譲ってしまったので」
「それはロアフィーネが勝手に譲ったんだろうが」
「……はい。でも、おなかは空くのです」
私は隠してあった干し肉を一切れ取り出して、それにかぶりつきました。
朝日の中で、仲間たちに囲まれて。
王家の恥が、馬の上で干し肉を。
おかしいですね。
自分でも何をしているのか、分からなくなってきました。
でも、この干し肉がおいしいことだけは、今日も間違いなく本当のことでした。
ネガティブ思考で臆病なくせに絶対に退かない図太い子。




