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ハチブンノゴの笑顔

作者: 北川 圭

#序奏


歓声が上がる。


普段はあまり使われない暗い講堂に作られた即席のステージは、へたくそな文字の看板と、間に合わせで作った電飾とで飾り立てられていた。ちゃちくてしょぼくて、でも何だか気持ちがうきうきしてくる。

体育館での自分の出番が終わって奈々は、あわててその講堂へと急いだ。


「次に出るバンドの子がね、バリサク持ってるらしいよ!」


同じ吹奏楽部のあゆみが、興奮気味にそうまくし立てるのを、さっき聞いたばかりだ。 あわてすぎて、奈々は自分が首にストラップをしたままでいたことにようやく気がついた。そこにはYAMAHAの文字が光っている。入学祝いにと買ってもらった奈々のアルトサックスの、ストラップ。黒い留め具を、苦しくないように下にずらす。


「うちの部に入ってくれるといいね、その子。今時バリトンサックスがいない吹奏楽部なんて、うちの学校ぐらいなもんだよ!」


あゆみはそう言うと、手にしていたチラシを奈々の顔の前でひらひらさせた。


『ガセ高大祭り~バンド大集結~』と書かれたその紙には、かすれた文字で出演バンドの紹介がびっしり書かれている。奈々たちのお目当てのバンドは、もうすぐだ。


通称ガセ高、月ヶ瀬高校は開校して六年でまだ校舎も真新しかった。お世辞にも偏差値が高いとは言えなかったが、もともと勉強の苦手な奈々にしてみたらお気楽で、毎日をそれなりに楽しく過ごしていた。

中学の頃から続けている吹奏楽部に入り、土曜も日曜もなく練習に熱中する。学校と同じくできたばかりのこの部には、足りない楽器も多かった。特に低音パートはもともと楽器の値段も高いので、そうそう学校にあるものではない。ようやく今年、チューバを買ったばかりなので、さらにバリトンサックスもなんて言えるはずがなかった。

テナーサックスのあゆみは、楽器さえあればあたしが吹いてもいいんだけどね、とぶつぶつ言った。そうなのだ、個人で持つにはあまりに高い。まともに買ったら百万はする。


「中古で三十万?それだって、イレブンのバイトじゃ買えねえよ。」


女ばかりの気軽さからか、乱暴な口調でつぶやく。うちのブラスはみんな女の子、今やそんな学校は珍しくもない。

奈々はもう一度、チラシを眺めた。


『スプラッシュ・マウンテン』key.よし、b.たま、g.けんじ、dr.さえ、bsax.けい。


「インストバンドです。ラッパもいないのにファーガソンってどうよ(汗)」


bsax.けい。女の子なのか男の子なのか、それもわからない。ファーガソンって、メイナード・ファーガソンのこと?だったらアメリカのめちゃくちゃ有名なハイノートトランペッターだ。ロッキーのテーマならやったことある。確かに、リズム隊とバリサクの五人でやるには、無理があるんじゃ。バンドを見る前に、頭でいろいろと考えてしまう。


ステージのセッティングが始まる。PAだけは近所の楽器屋を頼んだらしいとあゆみは言っていた。でもその他のスタッフは、みんなにわか仕込みの実行委員の連中だ。段取りが悪く、なかなか音が決まらない。

じらさないで。奈々は指を組んでステージを見つめた。

ドラムセットに小柄な女の子が座る。バスドラを踏んで、返しを確かめている。ベースとギターが楽器を手に定位置にスタンバイする。キーボードは二台。それを一人で弾けるようにと直角に置き、長ったらしい楽譜を譜面台に広げようと苦心している。そして。


もったいつけるかのようにゆっくりと、背の高い男の子がステージ脇の階段を上がってきた。手には、黄金色に輝くバリトンサックス。奈々はその楽器から目が離せなくなっていた。

彼が、中央に立てたマイクを思いっきり下げて、ぐいとバリサクのベルの中に突っ込む。後ろを振り向いて手を上げる。それを合図にドラムがカウントを取る。

曲が始まる。

奈々には聴いたことのない曲だった。歌はないが、メロディは軽く、聴きやすい。八分音符の裏拍が多くてタンギングを合わせるのは難しいだろうなと、奈々は思った。

でも、うまい。

ギターとキーボードが細かいフレーズを弾くのに、全くずれることなくバリサクが同調している。楽器自体大きくて重いのに、ただでさえ管楽器だからレスポンスが遅くてタイミングを合わせづらいのに。指で押さえるキーだって、奈々の持っているアルトサックスとは違って大きくて、押すのに力もいる。だけど、こんなに遠くからでもわかるくらい、長い綺麗な指が何のためらいもなく力強くキーを操る。


 一瞬、全部の楽器が息を止めた。ほんのわずかな静寂。


バリトンサックスの十六分音符だけが、メロディを奏でる。二小節待ってバッキングが加わる。サックスのアドリブソロだ。


「けいちゃん!かっこいい!」


観客席から黄色い声が飛ぶ。それになぜか笑い声がかぶさる。けい、と呼ばれた彼は身体を揺らし、リズムを取っている。吹奏楽しか知らない奈々には、彼のソロがとてもまぶしく見えた。それが衣装なのか、みんな色鮮やかな半袖のアロハシャツをまとっていた。バリサクの彼一人だけが、ピンストライプの長いシャツ。それがとても大人びて見えて、奈々はなおもドキドキした。


ステージを降りた彼らに、奈々とあゆみは果敢に向かっていった。彼が吹奏楽部に入ってくれたら、バリサクがあったら、そばで一緒に吹けたら。


「吹奏楽?やだよそんなの」


彼の返事は短かった。もっぱらあゆみが必死で彼を口説く。奈々は何も言わず、うわの空で彼の指と楽器を見つめていた。


「ねえ」


ようやく口を開いた奈々を、彼がげげんそうに見返す。首にかけたストラップに視線が行くのがわかる。彼は奈々の顔とそれとを見比べ、次の言葉を待っている。

訊きたいことはたくさんあった。あなたの名前は?その楽器は個人持ち?どうしてそんなに上手なの?吹奏楽の経験はあるの?どんな音楽が好き?それから……。

でも奈々の口から出た言葉は、一番どうでもいいことだった。さっきの曲、なんていうの、と。

彼は表情をやわらげた。


「ココナッツ・シャンペーン。バリのソロがやりたくて無理矢理」


そう言うと、照れくさそうに笑った。


#1


「それじゃあ中間の答案を返す。おまえら二年にもなって数学をなめんじゃねえぞ!」


担任の沢渡が大声を張り上げた。好きでなめてるわけじゃない。どんなに頑張ったって人間限界がある。特に奈々にとって、理系は理解不能なものだった。

沢渡がごていねいに点数まで読み上げながら、一人ひとりに中間テストの用紙を配っていく。五十九点、四十二点、五十三点。散々たる結果にあちこちから悲鳴が聞こえる。


「北川圭、九十八点」


クラス中から、えっーという叫び声が上がる。言われた本人も、同じような声を出す。


「おっかしいなあ、おれ何間違ったんだろ」


圭はしきりに頭をひねり、自分の答案をじっと眺めていた。それに、プラスとマイナス間違えるなんざ間抜けだよ、間抜け、と沢渡が声をかける。


「今回はいけると思ったのにな」


後ろを振り向き、奈々に向かって答案を見せつけながら、圭は微笑んだ。


「前向いてくんない?こんな難しいテストで、何で九十八点取れるかなあ。嫌みなヤツ」


「何で?奈々は数学苦手?じゃあおれが教えてやるよ」


圭はにこにこしている。噂には聞いていたが、去年の学年トップの実力は健在ってわけか。奈々は圭の銀縁のメガネと、その奥のやさしい瞳と、栗色のさらさらの髪を順番に見てから、視線を外してため息をついた。これでサックスまでうまいなんて、ずるい。


「栗原奈々!いねえのか?」


沢渡のどら声が響く。奈々はあわてて立ち上がった。


「三十一点。惜しかったなあ、あと一点で赤点だったのになあ。おまえの彼氏によーく勉強教われよ!」


そう言われて背中をどつかれた。クラス中が奈々と圭を見て笑う。奈々の顔が引きつった。


「栗原!圭に手取り足取り教えてもらえ」


「だいたい奈々と圭ちゃんが付き合ってること自体、ガセ高の七不思議の一つだよね」


そんなクラスメートの冷やかしの言葉に、うるさーいと奈々は声を上げた。

本格的な夏にはまだ遠いはずなのに、教室にはむっとした熱気がこもっていた。ほとんどの男子がだらしなくワイシャツをはだけ、肩もあらわに袖まくりをしている中、圭は一人、長袖シャツの首元までをしっかりと留め、涼しげに微笑んでいた。真面目な優等生、でもそんな一言じゃとても圭を表現できはしない。


あれは、春のこと。二年に進級して初めてのロングホームルームで、それぞれが自己紹介で特技を話さなければならなくなった。まだみんなぎこちなく、場の空気を探り合い、相手の出方を見ている中、圭はこう言ってのけたのだ。


「北川圭です。特技はサックスです。絶妙な舌遣いとソフトタッチな指遣いには定評があります。テクニシャンで名高い僕のサックス、試したい方はお気軽に声をかけてください。以上」


色白で整った顔立ち、どっから見ても上品そうな圭がそんなセリフをさらっと言ったものだから、みんなはあっけにとられて彼を見た。その直後、教室中がぴーぴーひゅーひゅー大騒ぎとなった。ホントにサックスかあ?クラス一お調子者の岸本がつっこみを入れる。出席番号順に並ぶ圭の後ろの席で、奈々はひとり気まずい思いをしていた。あたしはなんて言えばいいのよ。でも、他に得意なものなんてない。部活一筋だったんだから。しかたない。奈々はすくっと立つと、やけになってこう言った。


「栗原奈々です。特技は……サックスです」


圭が驚いた顔で振り向く。奈々の顔をじっと見つめた次の瞬間、彼は思いっきり吹き出した。



「奈々の髪は綺麗だな。奈々はかわいいな。今日も一緒に帰ろうよ」


「ええいうるさい!ひっつくな!」


学食の端っこのテーブルで、圭が奈々の黒くストレートな髪をいじっている。奈々はお弁当もそこそこに、沢渡から押しつけられた追課題のプリントを必死で解いていた。赤点じゃないのに、弱々しい奈々の抗議に沢渡は、バカはバカなりに誠意を見せろ、と大声で笑った。最初っから圭に教わるのは癪にさわる。バカでも意地はあるのだ。


「六限終わったら昇降口で待ってるね」


「無理、部活」


圭のやさしいやわらかい声も、一言で切り捨てる。黙ってしまった圭にちょっとだけ悪い気がして、奈々は顔を上げた。彼は奈々の胸まである長い髪を三つ編みにしようと、悪戦苦闘していた。美容師にはなれそうにない。指が長すぎて、絡まってるんじゃない?


「圭ちゃんもさ、吹奏楽部入ればいいのに。そしたらずっと一緒にいられるよ」


もう何度、同じことを圭に言っただろうか。そのたびに彼は、横を向いてしまう。


「そりゃ、うちのブラスは全員女の子だけどさ、圭ちゃんそんなこと気にならないでしょ。吹奏楽やったことあるんでしょ。バリサクが入ってくれたらさ、」


「それって、おれの楽器目当て?だったら貸そうか」


この話題のときに限って、圭は目も合わせようとはしない。いつもはうざったいくらい奈々の顔ばかり見ているのに。


「あたしは、圭ちゃんと一緒に楽器が吹けたらいいなって言ってんの」


「じゃあ一緒にバンドやろうよ。スプラッシュのメンバーまた集めてさ」


圭が勢いよくそう言う。奈々はため息をついた。


「やだ。今はコンクールの練習で忙しいの。今年こそ勝ちに行くんだから。金賞取るんだから。バンドなんてやってらんない。それにとても圭ちゃんみたいにソロなんて取れない」


やってみればいいんだよ簡単なのに、圭が拗ねた声を出す。奈々は思い切って彼に訊いた。


「何で吹奏楽嫌いなの?クラシックとか、ダメ?」


「そんなことないよ。サックスアンサンブルとか好きだし、ヴェルデウインドオーケストラの望月祐太朗は一番好きなサックス奏者だよ。知ってる?望月」


望月祐太朗は奈々も知っていた。若手ナンバーワンの呼び声も高いクラシック奏者で、よくテレビでボレロなんかやる時は、彼がソロを取ることも多い。でも圭がその名前を出すなんて意外だった。

じゃあ入部してよ、という奈々の再三の誘いに、しかし圭はかぶりを振った。


「ブラバンってさ、暗いじゃん何か」


あとは何を聞いても無言だった。うつむいた圭の目がかげっている。奈々は何だかそれ以上彼に勧めるのはいけないような気がして、言葉を切った。圭がガラス窓の向こうを見やる。校庭の木々の先に、まるで初夏を思わせる高い空が見えた。


#2  


音楽室にさまざまな楽器のロングトーンが響き渡る。奈々は調整したリードをマウスピースに取り付けると、確かめるように何度か息を吹き込んだ。

今年出場予定のコンクールには「アルメニアンダンス」で勝負をかける。よく自由曲に取り上げられる吹奏楽のオリジナル、そう難易度は高くないが聴き映えのする華やかな曲だ。サックスパートは奈々とあゆみと、一年生が一人。もともとの編成からすればうちのブラスは全然人が足りない。顧問の三ツ橋が苦労していろいろな楽器に他のパートを割り当ててゆくが、ぎこちなさは否めなかった。


「ファゴットかバスクラかバリサクか。どうせうちにはどれもないけどさ、だったらやっぱりバリサクが欲しいよね」


あゆみが楽譜を眺めながらため息をつく。サックスのソロの下で本来ならファゴットが奏でるはずのリズミカルな旋律は、今は誰も吹く者がいなくて宙に浮いている。


「圭ちゃんに本番だけ出てもらえば?そこだってバリサクで吹いてもらえば全然問題ないじゃん。あんなにうまいのに」


あゆみはどうしてもあきらめきれないようだった。奈々はそれに苦笑いを返す。どんなに誘っても圭はうんとは言わないのだから。


合奏用にイスを並べ直し、おのおのが楽器を手に集まる。オーボエがB♭の音を吹き伸ばし、みんなの気持ちを合わせて一つの音にしていく。三ツ橋が指揮棒を振り下ろす。トランペットが高らかにファンファーレを吹く中、木管楽器群が細かなスケールをうねるように重ねてゆく。身体中を音で囲まれるこの瞬間が、奈々は好きだった。とてつもない大きな楽器の部品の一つになったような感覚。旋律と旋律が絡み合う中を、突き抜けて響く金管の音。楽しげなメロディーがそのあとに続く。それが終わるといよいよ、サックスのソロ。奈々は胸の高鳴りを押さえながら、次の音に備える。

最初のフレーズはまだいい、でも休符で休むと次がのりきれない。案の定、指揮棒が止まった。奈々ちゃん、そこ休みすぎ。三ツ橋の指摘も一度ではない。奈々はまたもしくじった悔しさで首をすくめた。

変則的な変拍子、それがこのフレーズの特徴だった。八分の五拍子は何かが欠けている。八分の八拍子にはなれない。足元がぐらついて、上っ面だけ綺麗に取り繕ったメロディーだけが行き場を探しあぐねてただよっている。ここの場所にさしかかると、奈々はいつも言いようのない不安にかられた。

何カ所かあるサックスソロのどれもがぎこちない。満たされた四拍子しか知らない奈々には、この不安定さが理解できなかった。かっこいい聴かせどころなのに、と三ツ橋がため息をつくのに、奈々は口をとがらせて不服そうな顔で応じた。



「だってさ、八分の五拍子なんて、どうやって吹けばいいと思う?」


部活の帰り道、奈々はそう圭に向かって愚痴をこぼした。圭は健気にも六時過ぎまで時間をつぶしていたらしい。何をしてたの?奈々は訊くが、圭は笑って答えようとはしなかった。


「さあ、テイクファイブなら五拍子だけど、あれはずっと三と二が続くだけだしね」


圭は有名なジャズのスタンダードを引き合いに出した。そうなのよ!奈々は勢いづいて話を続ける。アルメニアンダンスの五拍子は、アクセントの場所が頻繁に変わる。どこでリズムを取っていいのか、そうたいして上手な方ではない奈々には今一つつかみきれなかった。


いびつで不格好で落ち着きのない八分の五。聴くだけなら何てかっこいいのかと思えるが、奈々にとっては譜面を追うのがやっとだ。せめて低音部を支えるバリサクがいてくれたら、つい口にしてしまう。圭は何も言わない。


「圭ちゃんはアルメニアンダンスやったことあるの?知ってるんでしょ?」


おずおずと奈々は言った。たかだか学園祭のバンドのためだけにバリトンサックスを買う人なんて、聞いたことない。絶対圭は、吹奏楽を経験しているはず。

圭はしばらく黙っていたが、小さくため息をつくと奈々に笑顔を向けた。


「やったことあるよ。中学の時にバリで吹いた」


「その時から個人持ち?中学生でバリサク買うなんて、圭ちゃんのウチはお金持ちなんだね」


圭の持っているセルマーのバリサクは、奈々のそれの五倍はする。奈々だって、さんざんごねてさわいで、やっと買ってもらったというのに。

そう言うと圭は、まさか、と笑った。


「おれんち母子家庭だよ。別れた父親が振り込んでくれた養育費全部バリにつぎ込んだ」


「えっ?そんなことして叱られなかった?」


奈々はびっくりして圭を見た。別に、大丈夫だったよ、圭が答える。


「おれの父親さ、高校の時、三年連続で普門館に行ったのが自慢でさ」


「嘘!全国?」


普門館と言えば、毎年吹奏楽コンクールの全国大会が開催される会場として有名だ。地区予選に出るのが精一杯のガセ高吹奏楽部には、どんなに頑張っても縁なんかない。


「そ、酔うといつもその話。だからおれがバリ買ったって言っても、驚かなかったみたい」


「圭ちゃんが楽器うまいのは、お父さん譲りなんだね」


奈々が言うと、圭はほんの少し照れくさそうに笑った。


それでね圭ちゃん、先を言おうとする奈々を圭はそっとさえぎった。もう音楽の話は、吹奏楽の話はおしまい。そう言いたげな圭に奈々は口をつぐんだ。駅に行きたいんだ、つきあってよ、圭が明るくそう言う。

奈々は夏服に替わったばかりの制服の裾を引っ張った。チェックのちょっと大人っぽいデザイン。自分でも到底似合っているとは思っていなかった。圭を見上げる。

圭は長袖のワイシャツ姿で、奈々と微妙な間隔を開けて歩いていた。顔だけ奈々の方に向けて、いつもの優しげな笑顔で。

定期を買うためなのだろう、胸ポケットから学生証がのぞいている。奈々はうんと背伸びをしてそれをさっと引き抜いた。


「写真見せろ!圭ちゃんの真面目な顔ってどんなよ?」


やめろよ、意外に真剣な声で圭が抵抗する。かまわず奈々は学生証を開いてみた。

案の定、いつもよりもっとおかたい圭がそこには写っていた。見るからに勉強ができそうな秀才顔。奈々はにやにや笑いながら圭と写真とを見比べた。

返せよ、圭は必死に抗議するが奈々は返さない。じっくり見てやろうともう一度目を落とす。ふと、奈々の動きが止まった。


「ねえ、この学生証間違ってるよ。ほら、生年月日が一年違う」


「いいんだよ、これで」


圭は静かに学生証を奈々から取り上げると、胸ポケットへとしまった。微笑みは変わらない。奈々は思わず、何で?と訊いてしまった。


「おれダブってんだもん。一浪してんの」


圭の答えに奈々は息を飲んだ。圭が?嘘でしょ。


「最初の年、どこ受けたのよ」


「開成でしょ、駒場でしょ、慶応でしょ、青学でしょ、早稲実でしょ」


圭はしれっとした顔で、都内の難関私立高の名前を次々に挙げていった。



「はいはいはい、わかったわかった。訊いたあたしがバカでした」


奈々はため息をつきながら、そうつぶやいた。たしかに圭ならそれくらいやりかねない。


「本気にすんなよ」


圭はそう言うと片方の頬だけで薄く笑った。心なしか寂しげに見えて、奈々はそれ以上何も言えなかった。



「おーお、よくやるねえ。このサウナ状態の体育館で男子はバスケですか」


女子体育はバドミントン、体育館のステージに腰掛けて、奈々たちは向こう側を使ってやっている男子体育を眺めていた。体操服でさえ暑い。皆、袖をまくって暑さをしのごうと無駄な努力をしていた。

背の高い圭は、ゴール下に回り込んで何度もシュートをしかけている。ガードが厳しくてなかなか決まらない。それでも周りからは何度も圭、と声がかかる。

奈々やあゆみ、他の女子たちも自然と圭を目で追う。メガネが汗でくもらないだろうか、さらさらの髪がまとわりついて邪魔じゃないだろうか、奈々は心配する。


「でも、北川って夏でも何でもいつも暑苦しい学年ジャージだよね。ワイシャツも絶対夏服着ないし。長袖で暑くないんかな」


ふと、前も圭と同じクラスだった友加里がつぶやく。周りの子たちも、そう言えばそうだね、と同調する。ねえ奈々、何で?そう訊いてくる。


「知らないよ」


奈々は素っ気なく答える。実際本当にわけなんて知らない。


「何それ、奈々って北川の肌見たことないの?」


「肌って言うな!なんかエッチっぽいじゃん、その言い方」


大声で騒ぐ。女子体育担当の梶原が奈々たちをぎろっとにらんだ。首をすくめて一時みんな黙った。


「案外さ、こうダーッと腕一面にタトゥーが入ってたりして」


声をひそめて友加里がささやく。奈々はぎょっとした。そんなまさか。


「ひー、ありえなーい」


「奈々命とか書いてあったら、どん引きだよねー!」


あゆみたちはまたぎゃーぎゃー言い出すが、奈々はわざとらしくため息をついて横を向いた。つきあってなんかいられない。


「北川、なんでガセ高に来たんだろ。あんなに頭いいのに」


騒ぎが収まると、友加里はそう口にした。誰もが思っているひそかな疑問。圭の頭だったらこの辺じゃ、いくらでも行ける高校があるだろうに。

県内一位の呼び声も高い中高一貫の関東学芸大附属、公立の中ではダントツの県都賀高、理数科のある市都賀高。どこにだって圭なら行けたはず。


「そうだよね、学年一位ずっとキープだもんね」


奈々がそう言うと、友加里は奈々の背中をどついて言った。


「バカ、学年どころじゃないよ。あいつ、去年の模試、県で一ケタだったんだって」


「うそっ!」


皆、黙って奈々の顔を見た。奈々はその視線に困惑した。きっと奈々が一番、圭のことを知らない。いつもそばにいるはずなのに、圭はいつだって奈々を驚かす。

バスケットボールの音が響く体育館で、奈々は何も言えずに圭の姿を見つめ続けた。


#3


その日、初めて二人だけで出かけた。春の出会いから三ヶ月にもなるのに、いつもいつも奈々は部活を理由に、あらゆる圭の誘いを断り続けていたのだ。今日は、望月祐太朗の公開レッスンがあるからと、奈々の方から圭を連れ出した。

圭のことは嫌いじゃない。いや、嫌いどころかどんどん惹かれていくのがわかる。圭の柔らかい声も、優しい瞳も、細長いしなやかな指も、圭が奈々に向ける真剣な眼差しも。

奈々は背だって圭よりずっと低い。丸顔というよりほっぺたがふくらんでいてまるで童顔で、そこにくりくりとした大きな瞳がいつもきょろきょろしている。胸の辺りで切りそろえられた黒いストレートな髪は、それだけは奈々の自慢だった。でも、放っておけば中学生に間違えられそうな様相は、どうしようもなく圭とは不釣り合いだと、奈々は思った。


どうして圭は、あたしなんかを選んだんだろう。


圭に聞きたかった。でもどうしても言えなかった。言ってしまえばこの関係は終わる。同じクラスの前と後ろの席で、いつも圭が後ろを向いて、頬杖をついて奈々を見つめる。

気まぐれな圭のそんな思いだけが、二人をつないでいる。奈々にきっと、選択権はないのだ。

あの日、ステージで見せたはにかむような笑顔と、身体に似合わない豪快なプレイ。

あたしは、圭がサックスを吹くから好きなんだろうか。奈々は手にしたアルトサックスのケースを握り直した。

圭がすかさず手を差し出して、そのケースをそっと自分の方へと引き寄せる。自分で持つからという奈々の声に、バリよりかずっと軽い、と笑う。圭はバリトンサックスを持ってきてはいない。公開レッスンが受けられることより、望月祐太朗に会えるより、奈々と一緒にいられるのが楽しい、と。

奈々にはその圭の優しさが、うれしいというより不安をかき立てるものとなっていた。部活なんか優先にしないで、いつも一緒にいれば、この不安は消えるのだろうか。たくさん出かけて、同じものを見て、一緒に笑いあえれば、あたしは自信を持って圭の彼女だと胸を張れるんだろうか。


彼女って、何だろう。


今まで男の子とつきあった事なんて、ない。好きだった子はいる。でもその子はやっぱり同じ吹奏楽部で、いつも一緒に楽器を吹いていた。同じ音楽を奏でて、音楽の話しかしなかった。それ以外のつきあい方なんて知らない。

自分がとても小さくて狭い世界に閉じこめられているような気がして、初めて奈々は高校でも同じ部活を選んだことを、ほんの少し後悔した。



高校の近くの駅で待ち合わせて、隣の市へ。公開レッスンのある小ホールは、大きな楽器店の横にあった。受付で入場券を見せると、簡単なアンケート用紙のようなものを渡された。


「ここに楽器歴と、今日レッスンを受けたい曲目を書いてください」


楽器店の人なのだろうか、巻き髪のきれいなお姉さんがにっこり微笑む。奈々はそこに「アルメニアンダンスパートワン」と書き込んだ。せっかく一流のプロに教えてもらえるかもしれないのだから、自分の吹くソロの部分を聴いてもらいたかった。


「ねえ、圭ちゃんは何にしたの?あのライブの曲?」


「まさか!ちゃんとしたクラシックだよ」


そう言うくせに、圭は用紙を隠してとうとう曲目を教えてはくれなかった。どうせ抽選だろ?まあ吹くことはないだろうけどね、圭は笑った。


小ホールの背もたれの高いイスに、おのおのが座る。客席は急な段になっていて、どこからでも明るいステージが見てとれる。全部で百人近くもいるだろうか。それぞれが自分の楽器を取り出し、入念にチェックしている。制服の高校生が大多数で、わずかに中学生と私服の大学生が混じっているようだった。それだけの人数が皆、手に輝くサックスを持っている光景は、なかなか見ものだった。圭だけ、彼だけが手持ち無沙汰で持ってきた楽譜をもてあそんでいた。


「圭ちゃんも持ってくればよかったのに」


「バリは重いんだよ?六キロもあるんだぜ。電車に乗って歩くのに、バリはどうよ。その後どっこにも行けないじゃん」


圭はちょっとふくれて見せた。スタジオで練習がある時は平気で持ち歩くくせに。その後どこかへ、奈々はその言葉をわざと聞き流した。音楽がないところで圭と向き合う自信がなかった。

ステージに望月祐太朗が登場した。思ったより、写真で見るよりずっと若い。にこやかな笑顔のまま、慣れた様子で今日のレッスンの内容を話し出す。まずは音を出してみましょう、次に何人かにステージに上がっていただきましょう、最後は僕の演奏を聴いていってください。客席から思わず拍手がわく。

楽器の調整の仕方からていねいに彼が話し出した。リードを取り付ける位置の大切さやリガチャーの締め具合、ストラップの調整まで、初心者にもわかりやすく話す。次は開放音でのロングトーン。ピッチがまちまちで、にごった音が会場に反響する。それでいいですから、喉を十分開けて。望月の言葉は続く。奈々も必死で音を出す。

圭はそんな奈々を、脚を組み、頬杖をつきながら微笑んで見ていた。せっかく大ファンだって言っていた望月祐太朗がいるのに、そっちを見ればいいのに。奈々はやきもきした。レッスンは進んでいく。簡単なフレーズの書かれた五線譜が、ステージのスクリーンに投影される。客席を三つにわけてハーモニーを作っていく。他の人の音をよく聴いて、そう声がかかる。吹奏楽部でいつもやっている基礎練習と同じ内容のはずなのに、今日はなぜか共鳴が気持ちいい。微妙なピッチのずれを、唇で調整する。三種類の違う音がぴったり重なり合って、和音を響かせていた。なんて美しい音なんだろう。サキソフォンだけの音の集合体が、ホール全体を包んでいた。

何度か奈々は、自分の楽器を圭に差し出して、代わる?と訊いてみた。そのたびに彼は首を振り、片方の頬だけで笑った。奈々の耳元に口を寄せ、吹いてる顔が色っぽい、とささやく。奈々は頬を赤くして圭をにらみつけた。

望月が紙の束を手にする。どうやらさっき奈々達が書かされたアンケート用紙のようだった。ステージで公開レッスンを受ける五人を彼が呼び始めた。百人中の五人なんて、無理に決まっている。それでもちょっとだけどきどきしながら、奈々は耳をすませた。


「このマルセルミュールの、二十四の練習曲を選んでくれた彼にやってもらおうかな。他の人はみんな、コンクールの課題曲やら自由曲やらばかりなんだから。ブラスバンド部員じゃしょうがないかもしれないけどね。君たちもせっかくクラシックサキソフォンを演奏するなら、こうやってきちんと、正しい練習曲でスキルを身につけることも大切だよ」


望月がちょっとだけしかめ面をして苦言を呈した。マルセルミュールなんて奈々は知らなかった。コンクール用のソロ楽譜の何がいけなかったんだろう。客席からもざわめきが起こる。


「えーと、月ヶ瀬高校の……北川くん?どうぞステージへ」


奈々は驚いて隣を見た。圭はちょっとばつが悪そうな顔つきで彼女を見返した。


「圭ちゃんだったんだ。すごいね」


「他に譜面持ってなかったからってだけなのに。どうしよ、代わりに奈々が行ってよ」


腰の引けている圭に、奈々は急いで自分の楽器を手渡した。首にしていたストラップも大慌てで外す。早く行きなさいよ、小声でせかす。

圭がステージに上がった。奈々のアルトが小さく見えて何だかおかしかった。彼も居心地が悪そうに何度もストラップを上げ下げしている。バリサクとは勝手が違いすぎることだろう。

望月が圭に話しかける。それに、じゃあ十一番を、と返しながら譜面を台にセットする。練習曲の何番を吹くのか相談していたようだ。いつでもいいよ、望月が微笑む。

圭はすうっと息を吸い込むと、ゆったりとした旋律を吹き始めた。

うまいのは知っているつもりだった。でも、なんて豊かな音色なんだろう。透き通るようなまるでチェロの高音部が響くみたいな、柔らかい音。メロディーは緩やかに上昇していく。それに合わせて優しくクレッシェンドがかかる。あまり細かくない自然なヴィブラートが、圭の音を甘く包み込む。ホールいっぱいに音が響き渡る。

望月は満足そうに目をつぶり、圭の演奏に聴き入っていた。そしてテーマに戻ったところで、そっと彼の肩に手を置いた。圭がふっと音を止める。予期せぬ拍手が起こった。彼は照れくさそうに下を向いた。望月がマイクを手にして、細かいフレーズのニュアンスの付け方を説明していく。圭の表情が真剣になった。一言も聞きもらさないようにと、食い入るように望月を見つめる。


やっぱり圭は、楽器が好きなんだ。

演奏することが好きなんだ。お遊びでバンドをしていたけど、本当はきっとクラシックを吹きたいんだ。自分勝手すぎる解釈かもしれないけれど、奈々はそう信じたかった。もう一度だけ、吹奏楽部に誘ってみようか、奈々は心に決めてステージ上の圭を見た。

奈々の小さいアルトサックスが、光を受けて輝いていた。



レッスンが終わって外に出ると、日差しがまぶしかった。どっか行こうよ、と圭は楽器ケースを手に、どんどん歩き出した。奈々がその後を小走りで追いかける。本屋とファンシーショップの間で圭が足を止める。後ろを振り向き、何も持っていない方の手をすっと差し出す。奈々は立ち止まった。


「ほら、手!」


圭は屈託なく奈々に近づくと、奈々の左手にそっと触った。そのまま自分の手で包み込むようにして、持ち上げる。奈々はどうしていいかわからずに、指を曲げたままでいた。圭の細長くきれいな指が、それを一本ずつほぐしていく。小指、薬指……中指。手のひらが触れ合う。奈々は思わず下を向く。圭が見つめている、それだけは感じられた。圭が右手にほんの少し力を込める。そしてそのまま手を引っ張って歩き出す。奈々はかわいい、そんなつぶやき。

女の子と一緒にいることに、慣れているんだろうか。手のつなぎ方も甘い言葉のささやき方も。

奈々は自分がとても幼く思えてきて仕方がなかった。精一杯の背伸びをして、自分から圭に寄り添っていった。肩を並べる。圭は驚いたように、でもうれしそうに微笑み返す。 奈々は顔をあげて彼を見た。言葉はいらなかった。そうか、こんな気持ちの時は何も言わなくてもいいのか。好きなテレビの話題も、退屈な授業の愚痴も、放っておけばいくらでもしゃべってしまう音楽の話も、何もいらないんだ。

ただ黙って、そばにいるだけでいいんだ。


奈々が息をすうっと吸い込んで圭に笑いかけようとした時、彼が急に足を止めた。

それがあまりにも唐突だったせいで、奈々は思わず彼の背中に顔をぶつけてしまった。背の高い圭の、大きな背中。でもそれはただ奈々を待つにしては、不自然すぎた。


「どうしたの、圭ちゃん」


圭は答えない。回り込んで下から顔をのぞき込むようにしても、圭は表情をこわばらせ黙ったままだった。

圭の視線の先をたどる。道路の先に三人の高校生が待っていた。手には奈々と同じような楽器ケースを下げている。紺色の学生ズボンに特徴的な楓の葉の校章。学大附属高校の制服だった。


「北川くん、久しぶり」


一人の男の子がそう圭に声をかけた。圭は黙っている。奈々はどうしていいかわからず、大きな目だけをきょろきょろさせていた。


「相変わらず楽器だけはうまいな。さすが顧問から特別目をかけてもらっていたことだけはある。しかしよくもまあ、楽器を続けられるもんだな。その図太い神経、尊敬するね」


体格のいい、もう一人がそう付け足す。どうやら彼らも公開レッスンに参加していたようだとはわかったが、圭とどんな関係なのか、奈々にはわからなかった。圭は何も言わない。アルトを握りしめた右手が、力を入れすぎて白くなっている。


「ずいぶん程度の低い高校に行ってるんだね。まさか月ヶ瀬なんかに潜り込んでるとは思わなかった。これじゃわかるわけもない。よく行けるよな、あんな高校」


そりゃあ県下で東大京大進学率ナンバーワンの学大附属からしたら、下から数えた方が早いガセ高はよほど程度は低いでしょうが、バカにバカって言っちゃいけないんだぞ。奈々は、心の中のつぶやきを必死で押さえた。


「っていうかさ、君まだ生きてたんだ。もうとっくにどこかから飛び降りでもしたのかと思ってたのに」


「こいつにそんな勇気あるわけないじゃん」


男の子たちが乾いた笑い声を立てる。あんまりいい感じじゃない。いや、激しくとてもやな感じ。

圭をそっと見る。唇を噛んでいる。


「せっかく久々に会ったんだ、地面をはいつくばって土下座でもして見せたら?いつもみたいにさ」


「何か言えよ。それとも僕たちみたいなエリートとは恐れ多くて口もきけないってか?」


奈々は思わず圭をかばうかのように一歩前へ出た。そいつらが奈々を値踏みするかのように、つま先から頭の先まで視線を這わせる。


「月ヶ瀬の彼女?へえ、お似合いだね。行くとこまで行くと、相手にする人間もレベルが下がるんだ。北川圭も落ちたものだな。まあ、君みたいな底辺階層の人間は、月ヶ瀬が似合っているよ」


そいつが鼻で笑うのを見て、奈々の中で何かがはじけた。あたしは何言われたっていい、でも、圭を馬鹿にするのは許せない。


「ざけんじゃないわよ、あんた達何様?圭ちゃんに何の用?いいかげんにしなさいよ!」


自慢じゃないが、気の強さなら誰にも負けない。奈々は小さな身体を誇示するかのように胸を張って彼らに向かっていった。なおも言いかけた奈々を、しかし圭は無理矢理引っ張って行こうとした。


「圭ちゃん!ちょっとまだ全然言い足りないってば!」


「相手にするな。行こう、奈々」


「こいつらに言われっぱなしじゃない!」


「いいんだ、ほらもう、行こう」


彼らと目を合わせないようにしながら、圭は元来た道を戻り始めた。逃げるようで奈々はイヤだった。思わず後ずさりする。しかし圭の力は強かった。奈々のひじをつかむと、どんどん彼らから離そうとする。奈々はむきになってその手を振りほどいた。


「圭ちゃん!何でこんな事言われて黙ってんのよ!だいたいこいつら、圭ちゃんとどんな関係があるの?ねえ、圭ちゃん!」


「知りたいの?北川くん、教えてあげてもいいかな、この月ヶ瀬の素敵な彼女に。君が前の学校でどんなふうにレギュラーを……」


「やめてくれ!」


不意に圭が大声で怒鳴った。今まで聞いたこともないような怖い声に、奈々は驚いて圭を見つめた。圭は身体を震わせ、肩で息をしていた。苦しげに顔をゆがませ、唇を噛みしめる。その姿を見た奈々は、もう何も言えなくなってしまった。

学大附属の三人は、圭の反応に鼻白んだ様子でやはり押し黙った。しかし、圭が奈々の肩を押して歩き出すと、その背中に冷たく言葉を浴びせかけた。


「北川圭という人間なんか、この世に存在する価値もないよね。早く消えなよ」


圭は黙ったまま、うつむいて歩き続けた。唇を噛んだまま、青ざめた表情で。



楽器店の前を通り過ぎる。さっきまで奈々達を包んでいた温かい音の記憶はもう消えてしまった。無言でこわばったままの圭。背の高い圭が、大きな歩幅でどんどん歩いていくのに、奈々は黙って必死についていく。

角を曲がり、彼らの姿が見えなくなると、ようやく圭は足を止めた。止めていた息を吐き出す。アルトのケースを道路にそっと置くと、圭はその場にうずくまった。

丸めた背中が小刻みに揺れている。

奈々は、何と言葉をかけていいのかわからず、ただ圭の背中にそっと手を置いた。彼の身体が一瞬、びくっと震える。それでも、圭は無言だった。

奈々は、そんな彼を黙って見つめ続けることしかできなかった。


#4


「沢っち!どうして圭ちゃんの昔を知ってる人が誰もいないの?圭ちゃんってどこ中なの?」


奈々は息を切らせて数学教官室に飛び込んだ。数名の先生達が何事かと振り向く。その輪の真ん中で、担任の沢渡がプリントの採点をしていた。そんな事してる場合じゃないでしょ、と奈々は強引にその紙の束をひったくった。


「落ち着け栗原、何したんだ」


あまりの剣幕に押されたのか、いつもより大人しく沢渡が声をかける。普段なら豪快に笑い飛ばすか、こんな失礼な態度の生徒には怒鳴り散らすのだが、なぜだか今日はそうはしなかった。


「圭ちゃんが学校に来ない。もう一週間だよ?携帯にも出ないし、メールも返信来ないし。直接家に行こうと思っても住所知らないし!だからせめて同じ中学の人にでも訊こうと思って!」


奈々は沢渡の机をどんと叩くと、大声を出した。担任でしょ?何とかしなさいよ、そう沢渡に詰め寄る。


「栗原あのなあ、あいつは」


「一こ上なのは知ってるよ。受験失敗したんでしょ。一浪してガセ高受け直したんでしょ。だから先輩達に頼んで三年生に訊いて回ったのに、誰も知らないって。高校の時引っ越してきたの?違うよね。ずっとこの辺に住んでるんだよね?」


周りの先生達が意味ありげに目配せをして、決まり悪そうに黙りこくる。その雰囲気に気づいて奈々は辺りを見回した。しかし誰も奈々と目を合わせようとはしない。彼らはそっと離れていき、教官室には沢渡だけが残った。奈々は唇をとがらせた。


「風邪を引いて休む、とちゃんと保護者から連絡はあったんだ。心配しなくとも明日には出てくるよ」


沢渡が口ごもる。彼にしたら珍しく歯切れが悪い。奈々の怒りは治まらない。


「それでも担任?そんな電話一本で信じちゃうわけ?圭ちゃん何かに悩んでて、学校来れないんだったらどうするの?このままずっと学校来なかったらどうすんのよ」


「おい栗原。おまえ何か、心当たりがあるってのか」


沢渡が声を落としてそう奈々に言う。今度は奈々が押し黙った。あの時の圭の顔が思い出される。学年一番をさりげなく自慢する涼しい顔、バリサクを吹く時のちょっとカッコつけた顔、教室の前の席でふり返って奈々を見る時の優しげな顔。奈々の知っている圭ではなかった。どれとも違う、苦しげで辛そうなあの時の。

奈々が土曜日の話をする間、沢渡は難しい表情で腕を組んでいた。そして、視線を上げると奈々に向かってこう言った。


「それで、おまえはどうしたいんだ」


いつになく真剣な沢渡に、奈々は息を飲んだ。しかし彼女はきっ、と担任を見据えるときっぱり言った。


「放っておけないよ。きっと圭ちゃん、一人で悩んでるんだと思う。あいつらが何なのかわかんないけど、きっとやな思いたくさんしたんだと思う。圭ちゃんは大事なクラスの仲間だし、その、あの、あたし圭ちゃんの彼女だし。だから、会って話したい。何が辛いのか、何がイヤなのか、ちゃんと聞きたい。それで、また学校おいでって」


涙がこみ上げる。こうしている間にも圭が一人で苦しんでいるのではないかと、いても立ってもいられない。辛い時に手を差し伸べられなくて、何が彼女だ。あたしは圭ちゃんのこと何も知らない。何を見ているのか、何を思っているのか、肝心なことは何一つ話してはもらっていない。いつも温かくて優しくて、ふんわり包み込むような圭の笑顔。彼が見せてくれるのはその一面だけ。ううん、自分がそれしか見ようとしなかった。圭のいいところしか見てはいなかったのだ。奈々は自分を責めた。


再び黙ってしまった奈々の肩に、沢渡はそっと手を置いた。


「栗原ァ、おまえは本当に勉強ができねえ。バカぞろいの二年A組の中でも掛け値なしのバカだ。だが、おまえの神経はナイロンザイルみてぇに太い。ちょっとやそっとのことじゃ動じねえ。そうだな?」


「沢っち……。それってあたしのこと、これっぽっちも誉めてないよね」


奈々は恨めしげに担任を見下ろす。少なくとも女子高生が言われる言葉とは思えない。だが沢渡は、優しげな瞳を向けた。


「何を言う。この沢渡幸三郎最大級の賛辞じゃねえか」


そう言って笑う。奈々もつられて微笑んだ。沢渡はつと視線を外すと、奈々の肩から手を戻してもう一度胸の前で組んだ。しばらくうつむいていた沢渡が顔を上げる。一人頷きながら、言葉を続けた。


「なあ栗原、おまえ、北川を支えてやれるか?」


「……どういうこと?」


奈々が首を傾げる。独り言のように沢渡がゆっくり話す。奈々に諭すように、自分に言い聞かせるかのように。


「女は強い。強くてしかもしなやかだ。だが男は違う。脆くて繊細だ。特に北川みたいなヤツは、な。あいつが好きなんだろ?」


「うん。何をやったって圭ちゃんにはかなわないけど、不釣り合いだって言われちゃうけど。でも、好きだよ」


そう言い切る。奈々は沢渡の目をまっすぐに見た。圭を好きな気持ちは誰にも負けない。おそらく圭も、奈々を好きでいてくれるに違いない。確信を持つ。自信を持っていい。あたしは圭が好きで、圭の彼女なのだから。奈々は唇をきゅっと結び、沢渡の次の言葉を待った。

いかつい顔の担任は、ふっと表情をゆるめると、近くにあったメモ用紙に何か書き付けた。それを奈々に差し出す。


「ほら、これ、北川の住所だ。こっちの模試の申込用紙も持ってってやってくれ。それから……」


しばらく間があく。二人とも無言だった。

沢渡は立ち上がると、奈々の背中をぽんと叩いた。



「誰にも言うなよ、北川は一浪したんじゃない。あいつは学大附属中退だ」


#5


さっきから奈々は同じ通りを何度も行ったり来たりしていた。

沢渡のくれたメモには、確かにこの辺りの番地が書かれている。狭い路地に安普請のアパートが建ち並ぶ。「ベルハイツ」「ヴィラージュ・ヒル」「メゾンオム」。名前だけはまるで高級マンションなのに、木造の二階建てのあちこちからは、こんな時間にもかかわらず薄っぺらい布団と色とりどりの洗濯物がぶら下がっていた。

メモにもう一度目を通す。ソレイユという名前のあとに203の数字。このアパート群のどれか一つなのか。

駅前通りからかなり離れたやや不便な界隈、雑多な印象の家々、そしてアパート。どれも何だか圭のイメージと違っていた。ただの奈々の勝手な思いこみに過ぎないのに、この角をいくら曲がっても圭には会えないような、そんな気さえしてきた。

通りの端から、再び一つずつ確かめていく。意外にも二軒目で、その建物は見つかった。

周りのそれらより、ひときわ古めの錆び付いた外階段が目に付く。奈々は思い切ってそのステップを上がっていった。ギシ、ミシといった音を立てながら。雨風にさらされ、消えかかっているマジック書きの表札をのぞいていく。田中、安藤、そして……北川。

奈々がごくっとのどを鳴らしてから、こぶしで木製のドアを叩こうと振り上げた途端、それは突然外側に勢いよく開いた。奈々は思わず後ろに飛び下がる。


「じゃあね、圭。行ってくるから」


中から出てきたのは茶けた髪をカーラーでていねいに巻き、濃い化粧をした女性だった。今の季節にしても寒いんじゃないかと思うくらい薄手のひらついたブラウスは、インナーが透けて見えていた。わざとそうしているに違いない、見えるのを意識したデザイン。スカートは膝までのフレアで、やはり風を受けて身体にまとわりついている。細くてスタイルのよいそのシルエットと、引き締まった足首。かなり高いピンヒール。思わずまじまじと見とれていたのだろう、訝しげにその女性が奈々を見た。

二十代後半、いっても三十二、三というところか。色白の頬がほんのりピンクに染められている。目鼻立ちのくっきりした、人目を引く美人。瞳が大きくてどことなくかわいらしさを秘めている。

奈々は何も言えずに、その場に固まった。女性は逆に奈々の姿をじろじろ見てから、おもむろに口を開いた。


「あのさ、お宅何かウチに用?」


見た目より低く、枯れた声。タバコを吸うのか飲み過ぎたのか。そんな連想を奈々でさえもしてしまうようないでたち。奈々は逃げ出したい気持ちを抑え、何とかこう言った。


「北川さんの、いえあの、圭くんの家はこちらですか?」


「は……ん、あんた圭の友達?ちょっと待ってて」


奈々の言葉を聞くなり、彼女は表情をやわらげ、声のトーンを上げた。部屋の奥に向かって、「圭!早く来な、友達来たよ!」と大声で怒鳴る。


親しげに圭、と呼ぶこの人は誰なんだろう。奈々はこわばった顔つきのまま、圭を待った。なかなか出てこない。その間にも彼女から観察されているような気がして、奈々の心は落ち着かなかった。狭いドアの内側に、靴が数足置けるかどうかのわずかなスペース。彼女は手を腰にやりながらそこに立ち、顔を斜めに上げ、薄く笑って奈々を見つめていた。女の奈々から見ても、なんてドキドキするタイプの人なんだろう。


「何だよ、知子さん。早く仕事行けよ」


スウェットに長袖のTシャツ、まるで寝起きといった感じの圭が奥から出てきた。愛用のメガネも今日はかけてない。ぼさぼさの髪をかき上げ、けだるそうにそう言う。普段よりさらに大人びて、別人のような、圭。

奈々の胸の鼓動が激しくなった。目をつぶってしまいたかったのに、怖いもの見たさで逆に見開くような、イヤな感覚。奈々は何も言えずにいた。

圭が奈々を認め、驚いた表情でその場に立ちつくす。持っていたタオルが床に落ちる。知子さん、と呼ばれた彼女は二人を交互に見比べ、明るく声をかけた。


「じゃ、そういうことで。あたしは仕事行ってくるから、どうぞごゆっくり。あんたもそんな外に突っ立ってないで、こっち入ったら?狭いですけど、ほら」


そう言いながら奈々の腕を取る。奈々はされるがままに家の中に入る。身体がよろめいた。それでも目だけは圭から離せないでいた。


「奈々……どうしてここ」


圭の声がかすれていた。奈々は制服で来たことを激しく後悔した。あたし一人が子どもっぽいガキで、幼くて、場違いで。髪も染めればよかった、ピアスもあければよかった。バカな高校のバカな生徒のくせに、校則だけは律儀に守る小心者。黒い髪がうっとうしい。この場で一気に五つも十も歳が取れたら。奈々はとうとうこらえきれずに目を閉じた。


「へえ、もしかしてこの子、圭の彼女?かわいいじゃん」


はすっぱな口調で知子が圭に向かってそう言った。知子さんには関係ないだろ、圭が怒鳴る。


「照れなくてもいいってば、圭。することしてもいいけど、あんたがちゃんと気をつけんのよ。あたしこの歳でおばあちゃんなんてヤだからね」

「何バカなこと言ってんだよ!さっさと行けよ!」


圭が知子の背中を無理矢理押す。知子は身体を半分外に出し、顔だけを奈々に向けた。ふっと笑顔を見せる。反対に奈々は、顔をひきつらせた。


「わざわざ買いに行かなくても、あたしのあげるから。どこに入ってるか知ってる?そこの引き出しの……」


「いいかげんにしてよ、知子さん!おれだって怒るよ?」


「はいはいはい、わかりました。じゃあね」


圭の真剣な声に知子が生返事をかえす。出かけにぐいっと奈々の肩をつかむ。奈々は驚いて彼女の方を振り返った。


「圭を、よろしくね」


その目が温かく微笑んでいる。どこかで見たことのある、優しい瞳。その優しさだけを残して、知子は階段を下りていった。かつんかつんと、ヒールの音が響く。それを見送ってから圭がドアを閉めた。奈々はまだ、その場に凍り付いたままだった。



「上がってよ、狭いけど」


圭の声に、奈々はのろのろと自分の履いていたローファーを脱ぐ。本当は帰りたかった。このドアを飛び出して、真っ直ぐ家に帰ってしまいたかった。何も見ていない昨日に時を返して、ただ圭を案じるだけの自分に戻りたかった。頭が混乱して、どうしていいのかわからない。

あたしは本当に、圭のことを何も知らないんだ。唇を噛む。


「驚いた?すごいだろ、ここ。狭いし何もないし」


玄関と言えないドアの開閉部分を開けると、もう、すぐキッチンへとつながっている。華奢なテーブルに、イスが二脚。ポータブルのテレビと場違いなCDコンポ。ふすまの向こうは、居間か寝室か。開けられたすき間から、圭の物であろうたくさんの参考書と教科書類が見てとれた。まるで学生の一人暮らしにすら思えるほどの、少ない部屋とわずかな家具。

圭がそれだけは真新しいコーヒーメーカーをセットする。手慣れた様子で入れていく。奈々はぼんやりその手つきを眺めていた。訊きたいことはたくさんある。でも感覚が麻痺したかのように、何も言葉が出てこなかった。


「さっきの……人」


それでも、ようやくそれだけを絞り出す。訊くのが怖い、でもどうしても知りたかった。手を握りしめる。


「ああ、母親」


「えっ?」


びっくりして奈々が顔を上げた。目を見開く。だって、どう見たってあれは。


「圭の、お母さん?」


「あの人が十八の時の子だから、おれ」


圭が苦笑いをする。奈々の前に湯気の立ったカップを置く。大瓶の砂糖とスプーンと、冷蔵庫から牛乳をパックのまま出して、そのそばに並べた。奈々は、苦手なくせにわざとブラックで一口飲んだ。それはとても苦くて、口の中をひどく刺激した。


「綺麗な、お母さんだね」


「夜の仕事してるんだ。だから今から出勤。明け方はまだ冷えるから何か着てけって言ったんだけど、聞きやしない。もう三十六にもなるのに若作りで困るよ」


圭がその長くてきれいな指で、スプーンを操る。砂糖を二杯、それだけを入れてゆっくりかき混ぜる。二人とも黙った。

圭は大きなその左手で頬杖をつくと、じっと奈々を見つめた。優しい瞳はお母さん似なんだ。奈々の心の中に何かがそっと広がってゆく。奈々はカップを両手で囲んだ。思い切って顔を上げて、圭に訊く。


「圭ちゃん、学校……」


「ごめん、ずる休み」


笑顔のまま、何でもないかのように圭が言う。沢渡から聞いたことも、土曜日の連中のことも、結局何も奈々は口にできなかった。辛くないの?苦しくないの?何かに一人で悩んでるんじゃないの?そう問いつめて聞き出したかったのに、実際圭を目の前にすると何も言えなかった。自分のことを気が強いと、ずっと思っていた。負けん気が強くてけんかっ早くて、沢渡に言わせればナイロンザイル並の太さの神経で。でも、奈々だって本当はこんなに、やわな面を持っているのだ。圭があたしに見せなかったように、あたしだってすべてを圭に見せているわけじゃない。黙って下を向く。


「奈々に、嘘ついてた。おれ一浪じゃない。あいつら前の学校で……」


「いいよ、圭ちゃん。何も言わなくて」


思わず圭の言葉を遮る。言葉にすれば楽になるなんて、ある意味では嘘っぱちだ。きっと言うことで、自分の言葉に傷ついていく。言葉は跳ね返り、心を切り刻んでゆく。

しかし圭は、微笑みを絶やすことなく奈々に向き合った。聞いて欲しい、そう付け加えた。奈々はまだ下を向いたままだった。


「ずっといじめられてた。クラスでも部活でも。学大附属の中学に入ってからずっと」


「あの三人が、圭をいじめてたっていうの?」


憎々しげな連中の声が思い出される。冷ややかな響き、酷い言葉。なぜ人は他の人間に対して、あんなに冷酷になれるのだろう。 

だが圭は、そっとかぶりを振った。寂しそうな、瞳。


「違うよ。全員から。おれには誰もいなかった」


関東学芸大学附属と言えば、ちょっとテストの点がいいから程度では、とても入れそうにない難関の私立中学だ。圭はけれど、その附属中の学費免除特待生として入学した、と。


「圭ちゃんができすぎるから、賢すぎるから妬まれたんだ」


そんなことない、頭いいヤツはあきれるほどいたよ。圭がほんのちょっと笑う。


「じゃあどうして?何があったの?」


奈々はついそう訊いてしまっていた。だって圭が嫌われる原因なんて、奈々には全く思いつかなかった。いつも穏やかで優しくて、あまりに何もかもできすぎて妬まれることはあるだろう、けれど学校を辞めるほどいじめられる人には、到底思えない。なぜ……心の中に疑問符が充満する。


「さあ、異質だったんじゃないの?おれだけ」


しかし圭は、答えをはぐらかすかのように薄く笑うばかりだった。


「片親で金もない、家もこの通りぼろっちいアパートで。あいつらには気に入らなかったんだろ、そんなヤツが学大附属にいることが」


本当にそうなんだろうか。奈々の心に微かな疑問がわく。でもそれは口にはしなかった。今は圭の言葉がすべてだ。圭の話したいことを、思うままに伝えて欲しい。自分を傷つける言葉ではなく、圭が少しでも肩の荷物を降ろすことができたなら。奈々は圭をまっすぐに見た。


「今は?圭ちゃんは今でも辛い?」


「まさか」


いつもの笑顔を取り戻して、圭が奈々を見返す。手を伸ばして奈々の頬に触れる。そっと、最初はためらいがちに。大きな手のひらを奈々の右頬にぴたりとつけて、その温かさを感じるかのように力を込める。そのまま奈々の顔を引き寄せると、額を軽く合わせた。こん、ほんのわずか小さく鈍い音を立てたような気がした。メガネをかけていない優しげな瞳が、奈々の目の前にある。


「月ヶ瀬のみんなは、温かい。おれはここに入って、どんなに救われたか」


距離が短い分、ささやくように圭は言った。ほとんど声にならない、声。


「おバカだからね、ガセ高は。あんまり難しいことは考えられないのよ、きっと」


圭がそっと首を振る。奈々の声も細く小さく、唇だけでしゃべっている。誰もいないのに、この部屋にはただ二人の他、何も邪魔するものはいないはずなのに。まるで聞かれては困る秘密の話をしているかのように、二人はささやき合った。


「奈々に会えた。それが一番うれしい」


圭が右手をそっとずらす。頬にあったはずの大きな手のひらは、そのまま奈々の耳元を通って後ろへと回る。圭はその手で奈々を引き寄せ、彼女の唇に自分のそれを優しく重ね合わせた。触れ合うだけのキスに、それでも奈々は下を向いた。身体中が自分の物ではないかのように脈打っているのがわかる。さとられたくない、そう願うのに、きっと圭にはわかってしまっているに違いない。こんな事で動揺して、子どもっぽいってあきれられたらどうしよう。早く何とかして動悸を鎮めたかったのに、意に反して鼓動は早くなるばかりだった。

不意に奈々の大きな瞳から、涙がこぼれた。

悲しいからじゃない。わけなどなかった。圭は、そっと指先でそれを払ってやると、もう一度奈々の顔を引き寄せた。

今度は両手で奈々の頬を包み込む。圭の柔らかい唇が奈々をなぞっていく。幾度かそうすると圭は、ほうっと小さい息を吐いた。

奈々は涙の跡をつけたまま、圭を見た。彼は目を細め、好きだ、とつぶやいた。

奈々がこくんと頷く。まるで壊れ物でも扱うかのように、優しく圭が彼女の顔に手を回す。自分の頬に奈々のそれを押しつけると、ふざけたみたいにクスリと笑った。

奈々が驚いて圭を見返す。圭はくすくす笑い続けている。大きくため息をつくと奈々の肩に顔を埋めた。


「あ、あの、圭ちゃん?」


「あー緊張した!おれ初めてだから、どうしたらいいんだか、わかんなくて」


圭の笑顔がはじけた。肩に手を回し、ほっとするように奈々を抱きしめている。奈々は触れられているとまどいよりも、圭の言葉にどきまぎした。


「は、初めて?嘘?」


「初めてに決まってるじゃん。こんなふうに女の子に触った事なんてない。もうおれさ、ドキドキが止まんない」


優しい瞳が微笑んでいる。いつもよりずっと近くに圭がいる。息がかかるくらい、またふれ合えるくらい、こんな圭を見た事なんてない。奈々はどんな表情をしたらいいのかわからなくなって、ただ黙って圭を見返した。まつげが長いんだ。吸い込まれそうなくらい深くつややかに光る瞳。じっと見つめる。


「どうして、あたしなの?圭ちゃんなら好きになってくれる女の子なんてたくさんいるのに」


自然に奈々の口から言葉が出てゆく。卑下しているわけじゃない、自信がないわけじゃない。今知りたかった。明日になればきっと理由は変わる。それは自分も同じ事だ。でも、今あなたは何を考えてるの?それが知りたかった。


「奈々はまっすぐだ。初めて会った時からそう思ってた。強くて自分を持っていて、おれにはないものばかりだ。だからひかれた」


「それって無神経で凶暴って事?沢っちみたいなこと言わないでよ」


奈々がふくれてみせる。誉められているんだかけなされているんだか、これじゃわからない。そうじゃないよ、と圭がまた笑顔を見せる。

ふと、圭が奈々から身体を離した。テーブルの分だけ距離ができる。気づかないうちにひどく緊張していたようだ。肩に力が入っていた。奈々は小さく深呼吸した。

圭はそっと長いTシャツの左袖を少しずつ折り返してゆく。長い指が器用に服の端をめくっていくのが妙になまめかしくて、奈々の鼓動が再び早まっていった。白い手と手首、並みの女の子なんかよりずっと細いその手首が、あらわになる。


奈々は息を飲んだ。


圭の白いその肌に不釣り合いな、酷くひきつれた赤黒い傷跡。長いものも短いものもある。決してそれは一本では済まなかった。無数の、と言っていいほどの幾筋もの…傷。

 圭は黙って、袖を折り続けた。もうそれはひじの辺りまで来ていたのだけれど、傷が減っていく様子はなかった。腕が太さを増すごとに比例するかのように、傷跡は伸びていた。


「もう、いいよ。もうやめて圭ちゃん」


圭はやめない。ひじをすぎても続く赤い線。彼は淡々とその傷を晒していった。表情に変わりはない、笑顔すら浮かべて。

耐えきれず奈々は、圭の右手を押さえた。首を振って彼を止めようとした。圭は奈々の顔を見返すと、ふっと力を抜いた。その右手で圭は自分の左腕に触れる。いつも冬服のワイシャツに、長袖の学年ジャージに隠されていた、左腕。


「月ヶ瀬に行くようになって切らなくなった。その必要もなくなった。奈々に会ってから、自分がそんな事していたなんて、思い出すこともしなくなった。おれは奈々みたいになりたい。奈々になりたい。何にも負けない強さが欲しい」


「圭ちゃん……」


あたしは強くなんかない、その言葉を飲み込む。圭にとってあたしはそんなふうに映っていたのだから。奈々は小さく息を吸い込む。それでも、いい。それで圭が楽に生きられるのなら。奈々は圭ににっこり笑って見せた。

ひじの近くにまだ癒えていないうっすらとしたかさぶたがあるのに、奈々は気づいていた。圭はどんな思いで、この一週間を過ごしていたのだろう。そう思うと胸が痛んだ。一人で苦しむ事なんてないのに。ガセ高には圭の仲間が、たくさんの、圭を思う心があるというのに。


「学大附属はやっと入った学校だった。父親の、もっともその頃にはとっくに本宅に帰っちまってたけど、そいつの出身校だったんだって。いくら学費免除でも、金はかかるよな。知子さん無理して、私立の中学なんかに入れてさ。でも、勉強は父親に似たんだねってうれしそうで。いじめられてるなんて言えなかった。辞めたいなんて言えなかった。だけどあの夜……」


圭がアームカットをしていることは、母親にはずっと気づかれなかったらしい。いつも彼女が仕事に出てしまってから、たった一人で圭はここにいたのだから。

でも高校一年のある夜、辛い気持ちを何とか鎮めようと圭はまたカッターを持ち出した。薄く筋をつけるはずの刃は、肌の上で滑って思いのほか深く圭を傷つけた。押さえても押さえても、血は止まらなかった。細くない血管にまでその傷が届いてしまったのだろう、脈打つように吹き出してくる。圭は狼狽した。


「どこまで弱いんだろ、おれは。結局怖くなって知子さんの店に飛び込んだ。とても一人じゃいられなかった。母親に泣きついて救急で縫ってもらって、腕の傷を全部見られた。次の日にさ知子さんが、あんた学校辞めてもいいよ、って」


圭が何かをこらえるように視線を上げる。無理して微笑まなくていいのに、奈々は胸がいっぱいになった。圭はいつも笑ってる。でもそれは、きっと泣けないから。うまく自分じゃ泣けないから。泣ければいいのに。奈々みたいに大声で騒いで、イヤだって叫んで、ふざけんじゃねえって啖呵切って、思いっきり泣ければ。

ああ、だからきっと、圭は奈々のことを強いと言うのだろう。泣くためにも技術はいるのだ。それは学力とは全く関係なく、強く生きてゆくためのスキルなのだろう。


「奈々は、知子さんに似てる。おれってマザコン、かな」


圭が照れたように笑う。くすぐったいような笑顔。


「そりゃああんなに綺麗なお母さんがいれば、マザコンにもなりましょうよ。あたしはあんな美人じゃないよ?」


「奈々はかわいい。すっごく、かわいい」


「はあん、さすがの圭ちゃんでも、綺麗という言葉をうまく避けたな?どうせあたしは子どもっぽいですよ」


わざと怒った顔をする。振り上げた手を奈々は圭の頭の上に載せた。そのまま乱暴に引き寄せる。やめろよ、圭がふざけて抵抗する。ありったけの力で奈々は圭を抱きしめた。 制服のリボンが邪魔で苦しい。あわてて右手でそれを外すと、奈々は圭の顔を胸に押しあてた。


圭の動きが止まった。


奈々も何も言わない。ただ、静かに抱きしめ続けた。圭の肩が微かに震え始める。泣けたらどんなにか楽だろうに。

奈々は、なおも彼を優しく包み込むようにそのままじっとしていた。


#6


奈々は朝練をサボって圭を迎えに行った。駅からの道を一緒に歩く。二人とも何も言わなかった。言葉はなくても心が温かかった。時折目を見合わせる。それだけでよかった。

朝練よりも何よりも、圭が学校に来られることの方が大事。奈々はいつものように元気よく教室のドアをがらっと開けた。


「おっはよー。って、何かみんなテンション低くない?」


それまで教室中のあちこちでざわめきが起こっていたようだったのに、奈々たちが入ってきた途端、それはざっという音を立てたかのように静まりかえった。クラスのほとんどが登校していたから四十人はいるのに声がしない。数多くのとげとげしい目が奈々たちを見据えている。奈々は息を飲んだ。いつもと違う。何か変だ。とてもそれは、イヤな感じ。奈々は教室の奥でこちらをうかがっている岸本を見つけた。


「ちょっと岸本!あんた何隠してんのよ!」


「隠してなんか、ねえよ」


岸本だけじゃない、クラスのほとんどが奈々と目を合わせようとはしなかった。あわてて顔を背け、下を向く。そのくせ、皆、奈々と圭がどうしているのか気になって仕方がないのだ。視線だけを感じた。


圭の顔がこわばる。


血の気が引いているのが奈々にもわかった。圭は青白い顔でそれでも何も言わず、自席に着く。かばんを横に掛け、何事もないかのように教科書とノートを出す。その右手が微かに震えていた。ペンケースの触れ合う音が、ほんの小さな音のはずなのに、教室中に響く。圭は怯えたように黙りこむ。誰も何も言わなかった。


奈々の心の中に猛然とした怒りが沸き起こる。机をばんと叩いた。何が何だかわからない、でもみんなは確実に圭を傷つけている。こんな、こんなやり方って。


「何か言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!黙ってちゃわからないでしょ?二年A組はいつからそんな、卑怯者ばっかになっちゃったのよ!」


「奈々……」


あゆみが取りなすように声をかける。しかし彼女も、それ以上は言えなかった。

奈々はもう一度岸本に向かっていった。そう背の高くない彼の胸ぐらをつかむ。岸本の顔がひきつった。


「あんたね、この栗原奈々さんを敵に回そうってんじゃないでしょうね?」


「は、離せよ。わかったよ言うよ」


観念したように岸本がそうつぶやく。奈々が手を少しゆるめると、彼はわざとらしく咳き込んだ。


「ガセ高BBSってあるだろ」


「えっ?あの学校裏掲示板ってヤツ?」


話には聞いていた。学校のどうでもいいようなうわさ話から先生の悪口、中には友達同士の陰口も書き込まれるという掲示板のことを。ただ、奈々はそれ自体は見たことがなかった。


「それにさ、夕べ書き込みがあって。その、圭が前の学校でいじめられて孤立して、それでやけになって女の子をレイプして、それで退学になったって」


「何それ、あんたまさかそんなの信じたの?」


奈々は血が逆流するほどの怒りを覚えた。レイプなんてでたらめにもほどがある。だが岸本は、こうなればヤケだと思ったのか、さっきよりも勢いづいて言葉を続けた。


「だってさ、そいつの書き込みやたら詳しいんだよ。シチュとか個人情報とかさ。みんなからいじめられてたこととかずっげえ細かく書いてあって、そのときの圭の反応がおもしろかったとかなんとか。それだけじゃない、圭のお母さんとブラバンの顧問が不倫してて、それで圭は一年生からレギュラーになれたんだ、って」


知子の顔が頭をよぎる。奈々はよほど岸本の頬をはり倒してやろうかと思った。その衝動を必死に押さえる。書いたのは岸本じゃない、悪意の固まりの見知らぬ誰か。


「まさかと思うけど、そんなデマ信じる奴なんていないよね?」


奈々が低い声で唸る。こいつを怒らせたら怖い、それはクラスの連中も知っている。でも、誰も返事をするものはいなかった。


「あんた達いい加減に!」


「じゃあ何で、圭はガセ高なんかに来たんだ?」


奈々を遮るように小田切が叫んだ。いつも圭と一緒に笑い合っているグループの一人。思い詰めたような声にさすがの奈々も言葉を切った。


「学大附属の特待生だったんだろ?めちゃくちゃ頭いいんだろ?何でよりによってガセ高なんか入るんだよ!オレたちみたいなバカ相手に一番気取って、優越感でオレたちを見下してたのかよ!」


「圭ちゃんはそんな人じゃない!」



がたん。



圭が立ち上がった。教室が一瞬で音をなくす。皆が息を詰めて圭を見た。圭はゆっくりとかばんを手に取ると、ドアに向かって歩いていく。奈々でさえも、声をかけることができなかった。木製の大きな入り口に手をかけ、圭は振り向いた。皆を見渡す。顔は青白いまま、かすかに微笑む。

そのまま圭は出ていった。

金縛りにあったように誰も動くことができなかった。奈々もまた、その場に立ちつくした。

始業の合図が鳴る。よほど刷り込まれているのか皆のろのろと席に戻る。奈々だけ、彼女だけは呆然と立ったままだった。

一限目は国語、教師の有本が入ってくる。まるでそれを合図にしたみたいに、奈々は弾かれたように教室を飛び出した。

二年の教室がある三階、その下の三年廊下、特別棟。どこを見ても圭はいなかった。体育館、講堂。いない。そんなに長い時間、フリーズしていたつもりはなかった。なのにいくら奈々が探しても圭は見つからなかった。

ふと気づいて下駄箱を見に行く。靴はある、校内にいるはず。それとも上靴で外にでも出てしまったのだろうか。奈々は気ばかり焦って、じれて仕方がなかった。一人になんて、させられない。


渡り廊下の端から、人影が見えた。中庭!奈々は白い靴のまま外に飛び出した。


「圭ちゃん!」


圭はそこに立っていた。かばんを足元に置き、手に何か持っている。シャーペンほどのそれは光を受けてきらりと反射した。


「ダメ!圭ちゃん切っちゃダメ!圭ちゃん!」


手にしていたのは銀色に輝くカッターナイフだった。かばんの中に隠し持っていたのだろう。もう左の袖は半分以上めくられていて、奈々のいる場所からも圭の酷い傷達が見てとれた。圭がゆっくり、左腕に刃を当ててゆく。


奈々は思わず圭の腕に飛びついた。

もう切らせちゃいけない。これ以上自分を傷つけさせてはいけない。

圭の心がどくどく血を流している。微笑みの下で苦痛にゆがんでいる。そうなのだ、こんな時でさえ、圭は笑っている。どうして泣いてくれないの?

圭は奈々を振り払おうとした。けれど彼女は必死にその腕にしがみつく。


「離せよ」

「ダメ!もう切っちゃダメだよ圭ちゃん!」

「同じだ。あの時と同じ……。みんながおれを見る目は変わらない。おれはどこへ行っても」

「違う!ガセ高は違う!ガセ高のみんなは違う!あたし達を信じて!お願い!」


奈々は叫んだ。あたし達と学大附属の連中とは違う。ガセ高のみんなはおバカで何も考えてなくて、でも、でもあったかいんだよ!


けれど圭には、その言葉が届かない。


圭はこわばった顔に張り付いた笑みを浮かべて、カッターを持つ手に力を込めた。奈々が振りほどかれる。奈々はそれでもあきらめなかった。もう一度圭を抱き止めようとした。


「もう……いいんだ」


冷ややかな響きで圭が吐き捨てる。腕力ではかなわない。振り上げた腕に、それでも奈々は向かっていく。圭が思い切りひじを引いた。


「痛っ!」


奈々が頬を押さえてうずくまった。圭の動きが止まる。信じられないものを見たかのように目を見開く。


「な……な?奈々?」


奈々の名前ばかりつぶやき続ける。奈々は自分が押さえた右手をそっと外して、おそるおそる手のひらを見た。一筋の赤い、血?

奈々の頬が切れていた。痛みよりも驚きで、奈々は息を飲んだ。顔を上げて圭を見る。圭はカッターを持つ手を力無く下ろすと、頭を抱えてその場にへたり込んだ。


「おれは、奈々を」


「圭ちゃん?あたしは大丈夫だよ?大したことないし。ねえ圭ちゃん?」


「奈々を傷つけた」


うわごとのように繰り返す。奈々は立ち上がり、圭の肩を押さえて揺さぶった。


「圭ちゃん!大丈夫だってば!ねえ!しっかりして!」


「おれは奈々を!」


圭の悲痛な叫び声だけが、朝の白い光を浴びた中庭に響き渡った。


#7


「はい、あんたは絆創膏一つで十分!彼氏の方が……重症だわ、こりゃ」


柔らかい光がさしこむ保健室で、奈々は養護教諭の魚住と向き合っていた。固い丸イスに腰掛け、脚を揺らす。頬には大きめのバンドエイドが一つ。奈々は首を傾けてそっと窓際の方を見た。

圭は、誰も寝ていないベッドに、肩を落として座っていた。左腕は袖が大きくめくられ、その傷をあらわにしている。圭は何も言う気力もないのか、うつろな目でうつむくばかりだった。

魚住は大きなため息をつくと、圭の足元に落ちていたカッターを拾って彼に差し出した。


「はいよ、切るなら切れば?それだけ派手にやっちゃってるんだもの、今さら一つ二つ傷が増えたところで、どうってことないって」


圭がのろのろと視線を上げる。じっとカッターナイフを見つめる。そして震える手でそれを受け取った。


「魚住センセ、それってあんまりじゃないですか?先生がアムカ勧めてどうするんですか」


奈々は焦ってそう小声で文句を言うが、魚住は涼しい顔で相手にしない。


「しょうがないのよ、アームカットはそう簡単に治らないって。もう自動思考働いちゃってるからね、イヤなことあれば切るって。その衝動は抑えきれるもんじゃないわ。下手にとめてもダメだから。やるんならね、こう思い切りよくぐさっと!」


「センセ!やめてください」


もともと痛いのは好きじゃない。奈々は顔をひきつらせた。奈々には自分で自分を傷つけることも、ナイフを自分に向けることも、とても理解できなかった。圭がそれをやめられないことが辛かった。笑いながら血を流し続ける圭が、辛かった。何もできない。自分には圭をとめることができない。それが、本当に辛かった。


「奈々ちゃんにはわからないよね、アームカットをするヤツらの心理なんて。ちゃんとみんな、自分の言葉でイヤなことはイヤ、自分はこんなに辛いんだって吐き出せるようにならなきゃね。奈々ちゃんみたいに。」


「それって、あたしが単純でおバカって事ですか?」


「いいじゃない、心が健康ってことよ」


魚住は奈々に向かってにっこり笑った。三十代後半の保健室の主。情報通でおしゃべりで明るくて、彼女と話したくてここに通う生徒も多い。健康優良児の奈々はめったに保健室には来ないけれど、それでも彼女に会うとこうやって声をかけてくれるのがうれしかった。


「一年やそこらの傷じゃないでしょ。いつからやってるの?答えたくなきゃいいけど」


魚住がそっと圭に向かって話しかける。

圭はまだナイフを見つめていた。レバーを押して刃を繰り出す。鈍く光る銀色の刃先が、圭の心をとらえて離さないのだろうか。奈々は痛々しそうに彼を見た。


「中一。入学してからずっと、いじめられてた」


「学校なんか、休んじゃえばよかったのに。サボるの怖かった?」


魚住があおり立てるように言う。奈々は、何を言い出すのかとはらはらした。


「休むなんてできなかった、どんなにいじめられても。学大附属にいた四年間、おれの名前は名簿になかった。先生が何度入力しても誰かがLANにアクセスして消してしまう。仕方なく自分で書き込むんだけど、それも必ず修正液で消されて。きちんとレイアウトされたおれの死亡記事が配られたこともあったっけ。中等部の卒業写真は黒枠で塗られてたし。迷惑メールをおれの名前であちこち送りつけられて、逆にうちの電話番号も住所もネットで晒された。ごていねいにアパートの外観写真付きで。学生ズボンを隠されて式に一人だけジャージで出たこともある。先生から場をわきまえろってこっぴどく叱られて」


圭は淡々とした口調で話し出す。まるで他人事のように、笑顔すら浮かべて。


「そんな!学大附属は賢いんでしょ?何だってそんな酷いこと」


「頭いい分、陰険だよ。表だってはばれないようにやるから。あいつらさ跡が残らないように画鋲を使うんだ。どこに刺すか知ってる?」


奈々はかぶりを振る。


「爪の間。ここが一番目立たない」


圭は自分の両手に目を落とした。奈々も魚住も、掛ける言葉が見つからずただ黙って彼の話を聞いていた。


「わざとクラスの代表委員にさせられて、おれが誰にも相手にされないのをおもしろがって見ているんだ。柔道とかやるとおれはいつも受け身役で、脳しんとう起こして倒れたこともあった。吐き気がずっと止まらなくて。でもみんなは、圭くんが受け身の練習したいって言ったから協力してたんです、って口裏を合わせて。教師たちはあっさりとその言い分を信じた。仲がいいと思っているよ、今でもきっと。高等部に入っても状況は変わらなかった。むしろもっと酷くなった。でも、休んだら負け、だろ?何があっても学校に行った。負けたくなかった」


圭は唇をきゅっと結んだ。


「担任の先生は知ってたの?ちゃんと話したの?」


一瞬、圭が身体を震わせた。うつろな目で奈々を見ると彼は薄く笑った。


「担任が首謀者なのに?何を言えって」


「……どういう、こと?」


奈々と魚住は目を見合わせた。しばらく間が空く。それでも圭は、話そうと心に決めたようだった。ぽつりぽつりと言葉を続ける。


「学大附属のブラスは中高合同だったんだ。うちの顧問が、そいつは高等部の教師だったんだけど、おれの母親にずっとつきまとってた。店に押し掛けたり家の前で待ち伏せたり。部活でさ、おれを露骨に贔屓するんだそいつ。おれはなぜか中一からレギュラーで、特別に目かけられて」


「まさか、それがいじめの……原因?」


「わかんない、おれにはよくわかんないよ。ただ、高等部になってそいつはおれを自分のクラスに入れた。おれは本当にどこにも行き場がなくなった。つきまといもしつこい電話もエスカレートしていった。知子さんがたまりかねて警察に届けると言った途端、そいつは手のひらを返すようにおれに辛く当たるようになって。おまえの母親は淫乱で、身体で息子を中学に上げたんだとか、レギュラーを取ったのも同じ手口だとか、でたらめばっか言いふらして」


お母さん、そのこと知ってるの?魚住の問いに圭はかぶりを振る。言えるわけない、と。


「もっと早く辞められればよかったね。学校も部活も」


魚住がつぶやく。圭にとってはどうしてもあきらめきれなかったんだろう。一緒には暮らせない父親の記憶が残る学校、唯一つながりが持てるブラスバンドの思い出。それをいつまでも思い続ける母親、圭の家族の形。


「知子さん、中学受かった時もレギュラー決まった時もすごく喜んで。無理して昼も夜も働いて。辞めたくなかった。おれはずっと続けたかった」


その代わりに圭は自分を傷つけ続けた。夜ごと一人で、腕にその刃を押し当てて。


「北川くん、よく一人で耐えたね」


魚住が圭の肩にそっと触れる。圭は怯えるような目で彼女を見上げた。


「たった一人でお母さんを守ったんだ。えらかったね」


圭の目が大きく広がる。身体がわずかに震え始める。とうとうこらえきれず、圭は涙をこぼした。一度流れ始めた涙は止まることなくあとからあとからあふれてゆく。肩をふるわせ圭は泣きじゃくった。まるで小さい子のように、大きくしゃくり上げる。


終業なのか始業なのか、チャイムの音が遠くから響く。

ここは管理棟の一番下で、普通教室のざわめきは届かない。まるで社会から隔離されてしまったかのように、口に出せない思いを抱えたまま、黙り込む。

圭はまだ泣いている。誰の前でも泣けなかった圭が。辛かった感情を押し流すかのように、声を上げて。

奈々は圭のとなりに座ると背中に手を回した。腕をつかんで引き寄せ、圭の大きな身体を精いっぱい抱きしめる。圭のお母さんの代わりにはとてもなれない、でも、温かな体温を伝えることはできる。圭は額を奈々の肩に預けると、大きく息を吸い込んだ。


魚住が白いタオルを差し出す。ようやく少し落ち着いたのか、圭ははにかむような顔を向け、それを受け取った。


「圭ちゃん、もっと泣いていいよ」


奈々はそっと声をかけた。メガネを外した圭が真っ赤な目で奈々を見返す。ありがとう、そうつぶやく。じっと身体を寄せ合い、心を温め合う。時がゆっくり過ぎてゆく。


「どうする?今からなら四限目間に合うけど。もう、家に帰る?」


魚住は保健室用のパソコンに向かって作業をしながら二人に声をかけた。圭と奈々はお互い顔を見合わせて、少しだけ笑った。

圭は立ち上がるとかばんを手に取った。教室に行きます、魚住にそう告げる。


「圭ちゃん、無理しなくても」


「大丈夫、おれには……奈々がいる」


圭が奈々の左手に手を伸ばす。指を絡め、ぎゅっと握りしめる。母を慕う幼子のように。


「北川くん、忘れ物」


魚住はそう言って、保健室を出ようとする彼にカッターナイフを差し出した。

ふり返った圭は、静かに答えた。「もう、いりません」と。


「そ、じゃあ預かっとくわ。切りたくなったらいつでも言ってね、ここにあるから」


魚住はわざと明るい声を出した。圭はそれに笑顔を返すと、奈々の背中を押して教室へ向かった。



四限目は数学、もう沢渡のどら声が廊下にまで響いている。小さく息を吸い、奈々は木製のドアを引き開けた。

教室中の目が、現れた圭と奈々をとらえる。気まずい沈黙。圭は気にしないかのように自分の席まで歩いてゆく。ほんのわずかの距離が、とてつもなく遠く感じる。


「おい、二人そろって遅刻か。いい度胸だな」


沢渡の声も、心なしか遠慮気味だ。教室の空気がいつもと違うことに、この強面で実は気のいい担任もとっくに気づいているのだろう。それ以上何も言わなかった。


何事もなかったように授業が進んでいく。奈々にとって数学は異国の言葉、頭の上を通り過ぎてゆく。他の生徒も黙ったままだ。ぶしつけな視線すらも、二人に向けようとはしない。この重苦しい時間のがまん比べはいつまで続くのか。

圭はいつも、こんな空気の中を過ごしてきたというのだろうか。たった一人で立ち向かってきたというのか。奈々は、圭の芯の強さに思いをはせた。


「ここまでの証明はわかったか。何か質問あるヤツいるか」


沢渡が声を張り上げる。誰も反応しない。不意に圭が右手を挙げた。教室中が息を飲んで彼を見つめた。圭はゆっくり立ち上がった。


「先生、童貞を証明するにはどうしたらいいんでしょうか」


「何?」


沢渡は目を白黒させ、絶句した。声にならないざわめきがあたりに充満する。何を急に言い出すのか、奈々は顔をひきつらせて圭を見た。いつも圭は奈々を驚かす。奈々の知らない圭がいくつも現れる。周りの混乱をよそに、圭は涼しい顔で言葉を続けた。


「正弦定理の証明より、おれにとってはこっちの方が切実な問題なんです。好きな子にちょっとでも疑われたままでいるのはイヤです」


沢渡が居住まいを正す。圭の顔を正面から見る。


「おれが前の学校でレイプしたって噂立てられて、どうしていいかわからなくて。おれなんて本当は口ばっかで、昨日生まれて初めてキスしたくらいの奥手だってのに。ましてや親が顧問と不倫してたなんて、根も葉もないでたらめなのに。どうやったらみんなに信じてもらえますか」


辺りは静まりかえった。圭はいつものような笑顔は浮かべてはいなかった。にらむような真剣な眼差しで沢渡の返事を待っている。沢渡はその顔を見返すと、いつになく真面目に答え始めた。


「今の質問には二つの命題があるな。わかった、おれなりの答えでいいか?まず一つ目だが、これはなあ男はしょうがないんだよ。証拠見せろったって何にもねぇからな。正直に胸を開いて頭を下げて、女にわかってもらうしかねぇ。初めてがいいとは一概に言えないが、どうしてもおまえがわかって欲しいのなら心を込めて伝えるんだな。二つ目は……」


沢渡はここで少し言葉を切って、周りを見渡した。それから優しげに圭へと視線を戻す。クラス全員が、沢渡をじっと見つめていた。次の言葉を息を飲んで待つ。沢渡は続けた。


「北川、人に信じてもらうにはな、まずおまえ自身が人を信じることだ。違うか?その結果、裏切られるかもしれん、傷つくかもしれん。だがそれを怖がってちゃ何もできねぇ」


圭は何も言わなかった。黙ったままワイシャツの袖ボタンを外しだした。右側、そして左の腕。前のボタンも上から順に外してゆく。ばさっと音を立ててシャツを脱いだ。 

初夏の太陽の白い光が射し込む教室に、傷だらけの左腕がさらされた。皆、ハッとしたように圭を見る。


圭はそっと辺りを見回してから、静かに話し出した。


「中学のときからアムカがやめられなかった。学大附属で酷くいじめられて、それでも学校では何でもないって顔で笑ってみせて行き続けた。意地でも泣くもんかって思ってた。だけど一人になると、気づくとカッターを握ってた」


皆の視線が、自然と圭の腕に集まる。痛々しそうに顔をゆがませる。


「月ヶ瀬のみんなは、そんなおれを温かく迎えてくれた。知り合いも友達もいない頑なだったおれに、誰もが何にも分け隔てなく話しかけてきて。少しくらい勉強ができたからって、関係ねえよって普通につきあってくれて。しょうもないことで笑ってさわいで、何でもないちょっとしたことが心の底からうれしくて。ここに来てから切らずにすんでた。おれはおれでいられた。おれは月ヶ瀬が好きだ。月ヶ瀬のみんなのことが、大好き……なんだ」


そう言うと圭はそっと目を閉じた。ひとすじの涙が頬を伝う。


教室が静まりかえる中、圭は一人、泣き続けた。凍りついた微笑みでがちがちに武装する必要なんてない。泣きたい時に泣けばいい。いびつでぎこちない八分の五の笑顔なんて、もういらない。

誰も何も言わないけれど、どいつもこいつも、まるで自分のことのように胸を痛めてる。おバカで何も考えてなくて、でもここにいるのは、みんな圭の仲間。



「おれは最初っから北川を信じてたね」


沈黙を破ってそうつぶやいたのは、クラス委員の板東だった。それに、うわっきったねー今さらそう言うか?あちこちから非難の声があがる。


「ざけんなてめ、おれもだよ。だいたいあんなガセネタ、信じろったって、なあ」


あわてた口調で笹倉が続ける。あたしも、あゆみが声を上げる。


「だいたいさ、圭がオレよかススんでるわきゃないんだよ。な、圭。何でもオレに訊けよ、経験豊富なこのオレが」


調子に乗って岸本が軽口を叩く。あんたはすっこんでなさいよ、女子の冷ややかな声に首をすくめる。


「ねえそれより奈々、昨日が初チューってホント?」


「すごいよねー圭ちゃん。クラス全員の前で告白なんて結構大胆だよね」


「いいなあ奈々は。愛されてるよねー」


教室中が一気に大騒ぎになった。もう三角形の証明がどうのこうのなんて、誰も頭になかった。 奈々はばんと机を叩くと、大声で叫んだ。


「ええい、うるさーい!今は数学の時間だ!おまえら勉強しろ!」


みんなあっけにとられて、奈々を見た。


「栗原……おまえが言うか、そのセリフ」


呆然とした声で、小田切がつぶやく。クラス中がどっと沸いた。見ると沢渡まで大口あけて笑っている。奈々は悔しさと恥ずかしさといろんな気持ちが入り交じって、顔中を真っ赤にした。


圭を見る。


圭も笑っていた。それはけっして偽りの微笑みでも、辛い思いをひた隠しにした仮面でもなかった。腕をさらしたタンクトップ姿で、それでも全く気にせずに、小田切に肩を叩かれながら、うれしそうに笑っている。

奈々も笑った。笑いすぎて涙が出た。心がとくとく鳴って、温かいもので満たされてゆく。おバカであったかいガセ高が、奈々にはとても誇らしく思えてならなかった。


#コーダ


合奏が始まる。


サックスパートは三列目の真ん中。奈々はそっと、あゆみのとなりでバリサクを構える圭を見た。

夏服の半袖が涼しそうに風を受けている。幾筋ものひきつれた傷跡も、白い夏の日差しの元ではただのすぎてしまった過去でしかない。

圭にもう、カッターナイフはいらない。


すぐにやめられるものではない、と魚住は言っていた。もしかしたら奈々の気づかないところで、圭は苦しんでまた刃を向けるかもしれない。

でも、今は、少なくとも今は、きっときっと大丈夫。圭は一人じゃない。


三ツ橋がタクトを大きく振り上げた。

アルフレッド・リードの「アルメニアンダンスパートワン」。

雄大な旋律の冒頭部分が終わり、曲がエスニック調に変わる。パーッカションが変則的な八分の五拍子を叩き出す。そして。

圭の奏でるバリトンサックスの力強い低音リズムが、バンド全体を引き締める。アクセントが的確にビートを生み出す。二、三、そしてまた三と二。拍子がめまぐるしく変わる。圭の安定した音が、その場をすべて支えている。不安定でいびつだと感じていた変拍子が、心地よいそれに変わる。

圭の作り出すグルーブに乗って、奈々はアルトサックスのメロディーを吹く。


何て気持ちいいんだろう。


奈々にもほんの少しだけ、八分の五が作り出す、あやうさの上に成り立つ美しさがわかってきたような気がする。いびつさもぎこちなさもすべて飲み込んで、曲はだんだん高みへと上ってゆく。

そして、全楽器によるトゥッティへ。

奈々が吹く。そして圭が。全員の気持ちが一つになって豊かな和音を華やかに響かせる。


ハチブンノゴは今、輝くばかりの笑顔に変わった。


           (了) <ご愛読ありがとうございました>


北川圭 Copyright© 2009-2010  keikitagawa All Rights Reserved

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