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物語を書いて

作者: わーし

【人間の形をした人間ではない何かが、世の中の色に染まり、形だけが存在する。周囲の色や空気だけを映し取り、自らの色を持たぬまま、ただそこに存在する。一定の表情で、一定の口調で、今日も人間のように振る舞う。


 上田直人



夢や目標、やりたいこと、将来の職業、そうしたものが自分にはない。でも、それは異常ではなく、ごく普通のことだ。世の中には、ごく一部の人だけが特定の才能に恵まれ、本当に楽しめることを見つけ、それを職業にしている。俳優、歌手、プロ野球選手、プロ棋士、起業家、医者、人気ユーチューバー・・・彼らは自分のやりたいことを持ち、それを実現して輝いている。

一方で、多くのサラリーマンやOLは、特別な夢や情熱を持たず、社会の流れに沿って生きている。だからこそ、自分に夢がないことは決して異常ではなく、ごく当たり前のことなのだ。


大学4回生の上田直人、周りは就職が決まっていく中、直人は一日をだらだらと過ごす毎日を送っている。何か衝撃的な出会いや自分がのめり込める何かがない限り、人は変わらない。だから、今のだらしない生活は仕方がないと言い訳をして過ごしている。高校時代野球部に所属し毎日ハードな練習をしていたからか、やめてからはその反動で何もしない毎日を過ごし、それが大学でも続いてしまった。直人は自分の学歴にコンブレックスを抱いていた。七月までみっちり野球に取り組み、受験勉強に出遅れてしまった。結果、第一志望の国立大学に落ち、第二志望の私立も落ちてしまい、第三志望の私立大学に通うことになった。浪人も考えたがもう一年頑張れる気がしなかった。無名大学という訳でもないが直人自身は満足していない。ユーチューブで「大学生 やるべきこと」と最終学年の6月に調べる。検索結果は留学、自分磨き、起業、自己分析、勉強、自分のやりたいこと、とでてくる。どれも今更だ。やりたいことがなく、やるべきことを探しているのに、自己分析や自分のやりたいことが出てきてしまう。留学や起業などこの時期では論外だ。「やりたいことがないやつ勉強をしろ!公認会計士がおすすめ!」とサムネネイルの動画に目をやる。公認会計士になった女性の動画だ。

「私は一番頭が悪くてずっと笑われてきた人生だった。公認会計士を目指すと周りに言った時も笑われ、家族にすら笑われた。でも勉強した。とにかく毎日毎日死ぬ気で勉強した。絶対見返して、将来勝ち組になってやると思って。」

直人は熱く語っている女性の動画を冷めきった目で見ていた。直人は自分も、この人のように罵倒されたら成功すると思った。この人は嘲笑され軽んじられた。だからこそ奮起し努力をすることができた。漫画の主人公だって、最初は侮られ、見下される。しかしそこから逆境を跳ね返し、成長していく。仮に直人が公認会計士を目指すと周りに言うと「頑張れ」と言われるだろう。ずば抜けて頭が悪いわけではない。だから笑う者はいない。実際は不可能だと思われているだろうが、内心そう思っていても応援されるはずだ。それなら「絶対に無理だ」と笑われるほうがモチベーションになる。今の自分には逆境、または自分が本気になれる環境がないのだ、と言い訳をする。そして叶いもしない願いばかりが積もっていく。

―学生のうちは何か目標を決めて頑張れ

と父から言われていたがその何かが見つからないまま大学生活が終えようとしている。直人はゲーム実況のユーチューブに切り替えバイトの準備をする。大学入学と同時に始めたコンビニバイト。月曜日と金曜日の週二回。最初のほうはてんぱっていたが慣れればずっと同じ作業を繰り返すだけだ。バイトも大学も、毎日同じ日々の繰り返し。世の中の流れに沿うように今日もバイトに入る。バイトでは同じ大学の一回生の後輩と雑談をし、客が入ると「いらっしゃいませー」と声を上げる。常連は軽く会釈を返してくれるがそれ以外の客は無反応だ。店員の挨拶など入店を知らせる出入り口のベル程度に思われているだろう。代り映えのない作業に嫌気がさし、そのうち「いらっしゃいませ」すら言わなくなる。5時から入っているのにまだ外は明るく一時間しかたっていない。金曜日は特に客が少ない。店の外を行きかう人々を眺めながら、店内BGMだけが頭に残り、時間の流れが鈍くなる。

「僕、公認会計士目指すことにしました」

 軽い雑談の中、後輩の成瀬が言い出した。心の奥が疼く。痛みではなくざらざらとし吐き出したくなる感覚。直人は迷った。「お前には無理だ」と言ったほうがいいのか、「がんばれ」と言ったほうがいいのか。直人らが通う大学はエリートと呼ばれはしないが無名大学でもない。公認会計士は三大国家資格の一つで医師、弁護士に並ぶものだ。必要勉強時間は3000時間以上必要で、平均2年から4年取得に時間がかかるといわれている。2年以上勉強しても合格に至らず断念する人も多い。成瀬に2年以上勉強に耐えることができるのか、大学のレベルで考えると不可能ではないだろうがかなり厳しいだろう。仕事を覚えるのが特別早かったわけでも、普段の行動から賢さが出ているわけでもない。しかし、成瀬はバカでもない。成瀬は自分と同じで全員から「がんばれ」と言われるだろう。だがそれは成瀬にとってプラスに働くのか?と考えた。

「聞いてます?」

「おう、ぼうっとしてた。公認会計士か、難しいと思うけど頑張れよ」

直人には罵倒する度胸はなかった。やさしさではなく勇気がなかっただけだ。むしろ本当に頑張ってほしいとも思っていない。

「上田さんも経営学科でしたよね?」

成瀬は大学内の公認会計士コースに入ると話し出した。直人自身何かを目指すことは素晴らしいことだと理解している。明確な目標を持ち、それに向かって歩み始めた成瀬。直人は、目指すものに出会った成瀬に嫉妬していた。そして、公認会計士になった成瀬を想像して羨望する。社会的に成功を収めた成瀬を思い描くたびに、胸にひりひりとした痛みが広がる。先ほどまでは成瀬にどう接したらモチベーションにつながるかと考えていたが、今ではむしろ、合格してほしくないと考えだした。もし成瀬で合格できたのなら自分も目指しておけばよかったと後悔するだろう。ならば今からでも始めるべきだろうか?直人の頭に一瞬、そんな考えがよぎる。だが、公認会計士になるには、最低でも2年はかかる。それだけの時間を勉強に費やせば、就職活動はできない。資格が取れなかった場合、失った時間と機械の代償はあまりにも大きい。これは言い訳ではない。何も頑張らず怠惰な日々を過ごす自分に言い聞かす。挑戦しないことで自分を守り、目標を持たないことで自分を正当化する。何もかもあきらめることで自分を守る。成功できなかった時に傷つかないために。成瀬の話が頭に入ってこなくなり流れ作業に身を任しただ時間が過ぎるのを待った。

 

「ロボット人間が考えろ!」

 怒号がレジの向かいから飛んできた。袋いりますか?と聞いたところ当たり前だと切れられたのだ。

「お前はこれをもって自転車で帰れるのか?マニュアル通りにしかできないのか?」

 と白髪の混ざった服装の汚い男に怒鳴られる。コンビニでは袋有料化以降、必ず「袋はいりますか?」と尋ねるのが慣例になっているになっている。この男は自転車で来たらしい。お酒5本、袋なしで自転車で運ぶのは到底無理だろう。しかし、そもそも自転車で来ているか車で来ているか店員が把握しているわけがない。それに今ではマイバッグを持参する人だっている。そのため、袋はいりますか?という質問は必要なのだ。こうした怒りは、ただ衝動に任せた自己満の現われに過ぎない。相手は、怒りの矛先を定める対象が見つかったからといって、理性を失っているのだろう。こんな客に対しては、あえてどこか余裕のある態度で、ただ「すみませんでした」と機械的に謝る。

「反省してるのか?」

「はい、反省してます。すみません」

 実際には何の反省もなく、ただ言葉にしているだけだ。いくら怒鳴られても変わらぬ口調で謝り続ける。客の怒りはさらに煽られる。だが、こちらも謝っているのでこれ以上怒る対象は現れない。男は怒る前よりも腹を立てて店を出て行く。コンビニは多くの人が利用するため、このような客もたまに来る。もう対応にはなれたが、成瀬には衝撃的だったようで、称賛してくれる。

ただ、『ロボット人間』という言葉が引っかかる。この言葉は嫌いだ。高校時代、野球部の時に監督からさんざん言われた言葉だ。

 「野球は頭を使わないとできない。状況、相手の心理、タイミング、すべてを読めないと良いプレーはできない。ポジション、球種、スイング、バッティングフォーム、効率のいい練習、意識の高い生活習慣。考え続けて野球はうまくなる。だからうまい奴は野球じゃなくても将来どこにいっても活躍できる。いい大人になれ。ロボット人間にはなるな。」

 常に監督が言っていた言葉だ。考えて行動はしていた。しかし試合で求められるのは瞬発力だ。考える場面もあるがそれは違う場面に活かされるもので、ここぞという時の勝負は一瞬で終わる。そこでミスをした時に毎回この言葉を浴びせられる。考えてはいる。ロボット人間と言われるのは不快だ。それに間違ったことも言っている。「野球がうまいやつはどこでも活躍できる」ならセンスがあってうまいやつはどこでも活躍できるのか?同じ時期に始め、同じ練習量でも、実力が飛びぬけている。そもそもの運動能力が違う奴。こいつはどこでも活躍できるのか?それは違う、運動神経と個人の市場価値や学歴と運動能力は比例しない。理不尽な客に怒鳴られた挙句、いやな過去まで思い出してしまう。直人はまた無感情にレジを打ち続ける。

長い流れ作業を終え、外に出ると湿った空気が肌にまとわりつく。虫がたかる街灯が足元を照らし、自分の影が細長く伸びる。同じ道のり、同じ景色。空間に溶け、また社会の流れに沿うように岐路へ立つ。


 

 帰宅すると直人はスマホの通知を見た。彼女から「今日は何かした?」とラインが来ていた。だがそれを無視して大学の友人の酒井に「課題終わった?」とラインを送る。今日の心理学の授業で問題が数問と授業の感想レポートの課題が出ていたのだ。レベルの低い授業に感想などないと思い酒井のレポートを参考にして課題を終わらそうとした。直人は第三志望の大学ということもあり、周りの学生や先生、教授まで見下している。そのことが相手から感じ取られているからか、親友と呼べる関係がいない。酒井も会えば挨拶をするくらいのうちの一人にすぎない。すると酒井から

『全部チャットGPTで終わらした』と無愛想な返事が返ってきた。チャットGPTとは人間との対話に近い自然な文章を生成するAIチャットだ。それに問題文をそのまま質問して帰ってきた回答を提出したのだろう。最近は小学生が読書感想文の宿題をチャットGPTで終わらせてしまうらしい。自分で本を読み、考えをまとめるのではなく、AIに感想を書かせることで、短時間で宿題を終わらせようとするのだ。直人は目標も持たず何事にも主体性のない人間が課題さえ自分の力でやらなかったら終わりだと思いチャットGPTは今まで使ってこなかった。ましてや感想までAIに任してしまえば自分で考える力が失われてしまうのではないかと思った。直人は『チャットGPT使わなくても分かるくね?』は返信した。迷惑客とのやり取りで少し不機嫌な直人は嫌味っぽく返してしまう。すると『授業資料見たら俺でもわかるし授業資料見てわかる内容なら文字を探して打つだけになる。それならAIで終わらせたほうが時短になる』と淡泊な返事が返ってきた。考えてみると日本人は小学生のころから何かあるたびに感想を書かされている。運動会に遠足、夏休みの日記、読書感想文、感想を書く能力なんてこれ以上身に着けたところで何にもならないのだ。それにこれからはAIの時代だ。デジタルネイティブという言葉が生まれるくらい発達した現代ではAIをどう使うかが肝要なのだ。自分から仕掛けたディベートに敗北した感覚になった直人は既読をつけずに課題に取り掛かった。何かに当たりたいのに何に当たればいいのかわからない。躊躇しながらもやけくそになり、批判していたチャットGPTに手を出す。〈①ヒューリスティック ②メタ認知 ③単純接触効果それぞれの意味を説明せよ〉と。心理学の問題文をチャットGPTに送信した。スマホの画面にヒューリスティックとは何か?それぞれの英語表記、例、と情報があふれるくらいに出てくる。

【1ヒューリスティックとは、複雑な問題を素早く解決するために使われる経験則や直感的な判断方法のこと。完全に論理的、合理的ではないが、素早く判断することができる。2メタ認知とは、自分の考えや学び方を客観的に振り返り、「自分がどのように考えているか」を理解し、調整する能力のこと。

3単純接触効果とは、あるものに繰り返し触れることで、それに対する好感度が上がる心理現象のこと。】と今度はチャットGPTの回答をコピペする。授業資料をそのまま目の前に並べられたかのように、チャットGPTの答えは驚くほど正確で、授業で習った内容がそのまま反映されている。続けて〈ヒューリスティック、メタ認知、単純接触効果について心理学で学んだ この授業の感想を200字から300字で書いて〉と送信する。

【今回の心理学の授業では、ヒューリスティック、メタ認知、単純接触効果という心理的な概念について学びました。ヒューリスティックは直感的な判断に基づくものですが、便利でありながらバイアスを生む可能性もあるという点が印象的でした。メタ認知では、自分の思考を客観的に見つめ、改善する重要性に気づき、学習や日常生活に役立てられると感じました。単純接触効果についても、繰り返し接することで行為が高まるという現象が広告や人間関係にどれほど影響を与えるかに驚かされました。これらの概念を日常生活にどう生かせるかを考えると、心理学が身近かんじられ、非常に興味深い内容でした。】

画面に十行ほどの文字が並んだ。ありきたりで、どこか無機質な感じがするが、この文よりもレベルが低い分を書いている人もいるはずだ。これもコピペして少しだけ修正をして人間が描いたような文章にする。面倒だった課題が一瞬で終わった。どうしてこれまで使ってこなかったのだろうと疑問に思うほど。スマホ振動に気づきラインを見る。『お前チャット使うなよ?』酒井からだ。チャットとはチャットGPTのことだろう。『剽窃はやったほうもやられたほうも落胆だぞ』剽窃とは人の文章などをそのまま自分のものとして使用することだ。これをしてしまえば単位は剥奪される。同じAIを使ったことで文章まで同じになるのが嫌だったのだろう。なら最初から自分が提出したレポートを送るべきだったのだ。剽窃は単位はく奪。どの授業でも最初に説明されることで、全員の共通認識だ。レポートを全て真似るのではなく、一部変えるのはこの大学では常識だ。最初の返信の『全部チャットGPTで終わらした』は参考にされるのが嫌で、自分の力でやれ、という意味も込めての返信だったのだろう。さらに酒井から提出したレポートのスクリーンショットが送られてきた。文章がまったく一緒になってないか確認しろということだろう。チャットGPTは質問に対して最も適切だと考えられるフレーズを確立的に選んでいるので、酒井の文章とは多少のブレがある。これでは剽窃にならないので直人は安心した。先ほどの敗北感はなくなり、焦る酒井のラインをあえて無視し続け提出したことを匂わす。

 時刻は深夜0時。窓の外から雨の音だけが、遠く、近く、追い立てるように耳に残る。重い腰を上げるように彼女のラインに視線を移す。『今日は何かした?』とは就活のことだろう。今の時期で半分くらいの学生が内定をもらっている中、直人はまだ面接すら受けたことがない。働く気はあるがまだ大丈夫だろうと思い、6月まで来てしまった。内心焦っているがまだ、なんとかなると思っている。彼女は高校生のころから付き合っていて、去年看護学校を卒業し、今は地元の病院で働いている。国家資格を乗り越えた彼女は、社会は厳しいと、直人に説教する。おまけに正義感も強いため悪意がなく自己満足のために説教をするのでどうにも耐えられない。看護師で就職先には困らなかったくせになんでも上からものを言ってくる。本当に心配している気持ちもあるだろうがストレスを正論でぶつけられる唯一の場所が自分なのだろう。職場では患者からのセクハラに耐え、お局からのパワハラに耐える。強い正義感は労働環境の改善に活かすべきなのだ。パンク寸前の状態でいつも空気の抜け穴が自分に向いている。ならこのストレスはどこに向けたらいいのか?負の感情は人から人へ移り、循環する。だが直人は移す存在がない。彼女から就活についてのラインが来るたびにストレスがたまる。いつか自分がパンクするのだ。交際を始めたばかりの頃は毎日何度もラインでやり取りをしていてにもかかわらず、大学進学とともに連絡は減っていき彼女が最近は一日一件ほどのやり取りで終わっている。このまま自然消滅してしまいそうだが、それでもかまわないと思っていた。今の彼女には自分はもったいなく感じていて、さらに自分は彼女によってストレスがたまる。何かきっかけがあればいつ分かれてもおかしくない状態だ。ただそれは今ではない気がしていた。『何もしていない』と返すわけにはいかない、そうした場合はまた、ストレスを貯めてしまう。『自己分析やったよ今日は』とりあえず頭に浮かんだ自己分析。就活において自己分析は重要だ。自分の強みや価値観、適性を理解し、どのような仕事や職場が自分に合っているのかを明確にするためだ。しかし、少なくとも今の自分ではどんな職業でも職場でも働くことはイメージできない。その場しのぎでラインを返す。本当は自己分析などやっていない。もう寝たのだろうかすぐに返信は返ってこない。明日も朝の8時から休日出勤らしい。

 

 雨が強くなる。普段から洗濯物はたまりきってからでないと手を付けられないのに梅雨の長雨がそれに拍車をかける。常に洗濯籠からは溢れ、干す場所すらない。じめじめとした空気とともに、たまるばかりの洗濯物がさらに気を重くさせる。今日は寝よう。バイト終わり体も重くお風呂に入らないまま寝る。明日は何をしよう。没頭できるものに出会いを求めるだけで行動は起こさない。明日は授業もバイトもない。単位は4回生になるまでにほとんど取得していたため授業は週に2回だけだ。そのうち一つは心理学でもう一つはゼミで専攻分野の演習と卒業論文に取り掛かっている。卒業論文のテーマもまだ決まっていない。やることは山ほどあるがどれもやる気が出ない。就きたい職業やのめり込めるものがない限りこれらは優先事項にはならないためいつになっても始められないのだ。直人はもうしばらく夢を見ていない。睡眠中は無の境地だ。沈むように、溶けていくように、眠りにつく。




 『おはよー よかった やればできるじゃん』彼女からの通知で浅い眠りから目が覚める。嘘に対する罪悪感などない。時刻は7時。土曜日。今日は授業もバイトもない。シャワーも浴びずに寝たからか体が気持ち悪い。部屋に散らばった服と一体化したような感覚だ。シャワーを浴び冷蔵庫を見ると食料がないことに気づく。空腹と眠気で頭が回らない。献立を考えるが何も思い浮かばない。適当に料理の動画を見るがどれもそそらない。チャットGPTに頼ろうか、まだ抵抗感があり葛藤する。迷いながらも親指は意思を持つかのようにチャットGPTの画面を移した。

〈昼食の献立を考えて〉

【昼食の献立は大変ですよね。いくつか提案します。

がっつり系 照り焼きチキン丼 豚骨ラーメン+炒め野菜 カツカレー 

さっぱり系 冷しゃぶサラダうどん 鮭の塩焼き定食 和風おろしハンバーグ

簡単&時短メニュー ツナパスタ チャーハン ピザトースト

どんな気分ですか?気分に合わせて詳しくレシピを提案します】

 直人はチャットGPTの便利さに感嘆した。知りたいことを瞬時に応えてくれるだけでなく、自分では思いつかないアイデアまで提案してくれる。さらに質問する。

〈冷しゃぶサラダうどんの作り方を教えて〉

【材料・うどん、豚しゃぶ肉、レタス、キュウリ、トマト

作り方・

1うどんをゆでる・パッケージの表記通りにゆでたら、冷水でしっかり冷やし、水を切る。

2豚しゃぶ肉をゆでる。・沸騰直前のお湯に豚肉を入れ色が変わるまでさっとゆでる。

3野菜の準備・レタスを手でちぎり、キュウリを細切り、トマトをくし切りにする。

4盛り付ける・皿にうどんをのせる。めんつゆをかけ、白ゴマや刻みのりを散らす。

ポイント・うどん、お肉は茹でたらすぐに冷水でしっかり冷やしましょう。アレンジ・ご未れ×マヨネーズ、ポン酢×大根おろし、ラー油や七味 ぜひ試してください】

 材料、作り方、ポイント、アレンジ、と適切に必要以上に情報が得られる。直人はレシピ通りに昼食を済ませた。空腹を満たした途端、眠気が襲う。そこへスマホの通知が鳴り意識が引き戻される。彼女からだ。

『明日家行ってもいい?』彼女からのメッセージを見つめ、しばらくの間考える。部屋は散らかり放題で、とても人を呼べる状態じゃない。それに、もし会ってしまえば何もしていないことがばれてしまう。ラインで連絡をできるだけ少なくすることで今まで詰められずにいたのに。彼女も一日一軒のそっけないやり取りに嫌気がさしたのだろう。だが、今ここで会ってしまうと、きっと喧嘩になってしまう。今週は会わないでおこう。『水曜は?』彼女の職場では土曜出勤があるため、代わりに水曜日が休みになるらしい。正直、水曜日に会うのも気が引ける。会ったら生活習慣の乱れにひどく怒り、説教をするのだろう。でも、先延ばしにすればまた喧嘩になる。そう思いながら渋々送るとすぐに既読が付いた。ちょうど昼休憩の時間だろうか。

『じゃあ水曜日で』と返事もすぐに返ってくる。どうして明日は無理なのか彼女は聞いてこなかった。きっと察しているのだろう。ただ会いたくないという事を。最近はまともに連絡も取らず、お互い義務のように付き合っているのを感じていたのか。それとももう俺に希望を持てなくなったのか。両方か。次会うのはデートではなく、話し合い。関係が続くのか、終わるのか、来週には決まる。考えるだけで憂鬱になる。早く過ぎ去ってほしい時間なのに、時間はなかなか動かない。かといって自分から動く気にもならない。目的もなく、ただ何となくスマホを触ってしまう。講義中、周りの学生がスマホをいじっているのを見ると、「よく我慢できないな」と思うのに、いざ一人で家にいるとスマホに手が伸びてしまう。母は「スマホは毒だ」と言い、小さい頃はほとんど触らせてもらえなかった。中学では、周りの友人がゲームをしているのを横目で見ながら自分は参加できずにいた。そして高校性になってようやくスマホを手に入れた途端、それまでの反動のようにのめり込んでしまった。朝起きて最初に見るのはスマホ。トイレもお風呂もどこでもスマホを触る生活になってしまった。それは今でも変わらず、気づけばスマホに支配されるような日々が続いている。

心理学の課題がまだ残っていることに気が付く。提出期限にはまだ余裕があるが、特にほかにやることもない。今のうちに終わらせてしまおう。『適応障害について150字~250字でまとめよ』という課題だ。これも調べればすぐにわかる内容だ。この課題をやったからと言って成長する部分はないだろう。それならチャットGPTを使えば短時間で済む。この課題の内容もコピーしてチャットGPTに送信すると、わかりやすく適切な表現で、しかも指定された文字数に収めて回答が返ってくる。要するに、適応障害とはストレスへの対応が難しくなり、無力感や倦怠感が強まる障害のことらしい。文章のつなぎの部分や語尾を変え、人間が描いたような表現に直す。残る課題は卒業論文。テーマの方向性はすでに教授が決めている、具体的な内容は各自で自由に設定できる。とはいえまだ何も手をつけていない。せめてテーマだけでも決めようか。去年の卒業生の論文を見る。ファイルを開くと様々なタイトルがある。『キャッシュレス化による消費者行動の変化』『ジェンダー平等と企業の取り組み』『デジタル時代における出版業の経営』『職場におけるデジタルマネジメントの手法』いずれも現代的で重要なテーマだ。どれも経営に関連する現代的な課題を取り扱っているが、分野が広く、内容も多岐にわたるため、なかなか考えがまとまらない。テーマだけチャットGPTで案を出そう。

〈キャッシュレス化による消費者行動の変化、ジェンダー平等と企業の取り組み、デジタル時代における出版業の経営、職場におけるデジタルマネジメントの手法、これらを参考に卒業論文のテーマを考えて〉送信して数秒後、画面に次々と表示される。

【以下のようなテーマが考えられるよ                                  

1キャッシュレス化と若年層の金融リテラシー  

2ダイバーセティ経営の成功要因

3生成AIの発展が出版業に与える影響 

4リモートワークの生産性は本当に上がるのか?

この中で興味のあるテーマがあれば、さらに具体的な研究方法を考えられるよ!】

どれも過去のテーマに近いが思ったよりも的確な答えが返ってきた。直人は画面をスクリーンショットし、保存した。この中からテーマを決めよう。

 直人はその日の夜も、チャットGPTを使って夕食のレシピを決めた。

 彼女が来るまで、あと4日。

 

 日曜日。彼女に就活を何もしてないことがばれないよう、今日は履歴書を書くことにした。しかし、いざ目の前に広げてみると、何を書けばいいのかわからない。今までに書いた履歴書はアルバイト用のものばかりで、就活用になると勝手が違う。誰かに相談したいが、大学に頼れる友人はいない。友人自体はそれなりにいるが、親友と呼べる存在や深いつながりを持つ相手はいない。会っても挨拶を交わすくらいでそれ以上は何もない。そもそも入社を希望するする会社すら決まっておらず、志望動機が描けない。結局自己分析もしていないため、自分の長所や短所さえわからない。さらに「御社」と「貴社」の使い方も曖昧なままだ。まずはどの業界や企業を志望するかを明確にすることが必要だ。それによって志望動機や自身の強みの伝え方も変わってくる。そこで〈自分に合う企業の見つけ方を教えて〉とチャットGPTに送信する。

【1自己分析をする。興味・関心、強み・スキル、働き方の志望、また条件は何か?

2企業研究をする。業界研究、企業の特徴、働く環境、働き方や社風を確認する

3OB訪問や説明会で実際に聞いてみる

4比較、検討して優先順位をつける

 この流れで進めると、自分に合う企業が見えてくるよ】

直人はもうチャットGPTに対する抵抗感はなくなっていた。むしろスマホを初めて手にした感覚と似ていて、すぐにチャットGPTに手が伸びてしまう。直人はもうチャットGPTに頼りきっている。しかし、チャットGPTの回答は自分の求めていた回答とは違った。直人は質問を変え再び送信する。

〈性格ごとに合う業種を教えて〉

【それぞれに合う業種を紹介します

1.分析力があり理論的な人……IT・エンジニア・コンサルタント・研究員・金融業界など問題解決力や論理的思考が求められる業種が向いています。

2.人と関わるのが好きで社公的な人……営業・マーケティング・イベント企画・教育・ホスピタリティ業界などコミュニケーション能力を生かせる仕事が向いています。

3.クリエイティブで独創的な人……デザイン・アート・エンタメ業界・ライター・編集・広告・マーケティングなど独自のアイデアを形にする仕事が向いています。

4.コツコツ努力し慎重な人……公務員・経理・会計・法律関係・医療・福祉など正確さが求められる仕事が向いています。

5.チャレンジ精神がありリーダーシップがある人……起業家・プロジェクトマネージャー・金融・投資系・スポーツ・エンタメなど決断力と行動力を生かせる仕事が向いています。

どのタイプに当てはまりそう?】

自分はどれに当てはまるか、チャレンジ精神はない。論理的思考を重視するタイプだが、エンジニアや金融には向いていない。コツコツ努力し慎重な人。これが最も自分に合っている気がする。今まで努力はしてきた。ただ努力が実ったことはない。だから間違いではない。中でも、特に経理や福祉は自分に適していると感じる。というより、ほかの選択肢は今から目指しても現実的ではない。直人はさらに質問をする。

〈経理の志望動機を考えて〉

【自分の強みと経理を選んだ理由を結びつけることがポイントです。

例……私は事務処理やスケジュール管理が得意で、効率よく正確に仕事を進めることをやりがい感じます。経理業務では、正確な処理と計画的な対応が求められるため、私の強みを活かせると考えています。また、会社の財務状況を正確に把握し、経営の安定に貢献できる経理の仕事に魅力を感じています。】

直人はチャットGPTの文章を履歴書へ書き写した。自己㏚、ガクチカ、その他すべてをチャットGPTで書き写した。チャットGPTが生活の一部になってきている。自分でも感じていたが、元々何もなかった生活が、効率よく回りは始めただけだ。

今日は彼女とは連絡を取らなかった。彼女が来るまであと3日。


 月曜日。長らく続いた雨、今日はやんでいた。今日は午後5時からバイトだ。それまで面接の練習をする。できるだけ忙しかったと言い訳を作っておきたい。チャットGPTに面接ではどのような質問がされるか尋ねる。そして、その質問に対する答えも対策も、全てチャットGPTに投げかける。すると、チャットGPTは世の中の平均的な意見を的確な注意点とともに、大量の情報を一気に提示してくる。それを直人はノートに書き写す。いかにも頑張っているかのように。自分の字で埋まったノートを見ては満足する。自分が何のために、今何をやっているか直人は考えていなかった。就活をするのは彼女のためなのか、怒られないようにするためなのか、自分のためなのか、考える能力が少しずつ欠落していく。だけどチャットGPTがあれば問題ない。直人は、そのまま軽い足取りでバイトへ行く。本日も彼女とは連絡を取らずに終わった。彼女が来るまで残り二日。


 火曜日。直人は久しぶりに夢を見た。記憶は薄れてしまったが、それは楽しい夢だった気がする。今日は授業もバイトもない。明日、彼女が家に来るので部屋を片付ける。彼女がまだ看護学生の頃、週末はこの家に来るのが習慣だった。この家には彼女に私物もたくさんある。高校3年で付き合って結婚までするかもしれないと考えたこともあった。色々なところへ出かけこの家に帰ってくる。一人暮らしの一年目はどこを切り取ってみ楽しかった。二年目から雲行きが怪しくなり、会えば学校の愚痴しか言わなくなった。それも今だけで、卒業するとまた楽しい日々に戻ると思っていた。だがそれはエスカレートしていき、そのうち直人をサンドバックのように説教をするようになった。今までの思い出も、感情も、この部屋に散らばる彼女の物も、明日には区切りをつける。彼女のものと自分のものを分ける。分かれる前提で会うわけではないが、いつもよりわかりやすく片づけをする。

〈この紙袋は捨てたほうがいい?〉チャットGPTに画像を送信できることを知って、ブランドの紙袋を捨てるべきか尋ねる。

【まだきれいなので、再利用できるかもしれませんよ】

回答を見て直人は再利用する。スマホを見ながら片づけをする。スマホから手に通知音が響く。

『なんで何も連絡してくれないの?』

彼女からだ。文字を見た瞬間冷や汗が背中を流れるのを感じた。会った時のことばかりを考えていて、ラインを送るのを忘れていた。

『もう私のことはどうでもいいの?』

一応大事だと認識している。今までは挨拶くらいは返していたが最近は彼女から連絡をすることがなかった。自分のことで精いっぱいだったというわけではない。就活のことで彼女のことが頭になく、それはそれで、楽に過ごせてしまっていた。そのせいで連絡を取るのを忘れていた。だけどこのラインは理解できない。まるで自分が悪く、彼女が被害者のようだ。連絡を取らなかったのは彼女も同様ではないのか?一分でも早く同じことを送っていれば、立場が入れ替わる。理不尽なラインにストレスがたまる。

『どうせ何もやってないんでしょ?』

『無視しないでよ』

通知が止まらず手が震える。いつも無視して、いつもやることがなく怠惰に過ごして、そんな意味も含めているだろう。一部あってはいる。だが、そのことで怒るのなら、仕事をやめるべきだ。自分で選んだ道で分かり切っていた結果だ。労働環境も今の生活も。人に当たることになるのなら、続けるべきではない。当たる人がいなくなったら壊れるのは自分だ。そして、人に当たることも間違っている。そろそろ返そうか。直人はどう返すか考える。

『ごめん、最近忙しかった』送信するとすぐに既読が付く。

『忙しい?私のほうが忙しいに決まってんじゃん 何やってたの?私は朝から夜までずっと働いてるんだよ?』

『就活のこと色々』

『どうせ何もやってないでしょ なんで日曜は会えなかったの?』今になって聞いてくる。断った時は聞いてこなかったのに。ただ怒りをぶつけるために。直人を追い詰めるために。

『日曜日会えなかったのをなんで今になって聞いてくるの?あの時聞いたらよかったのに そもそも連絡しなかったのはお互い様じゃないの?ただ怒りたいだけなんだろ?』

と送信のマーク手がかかったが送るのをやめ、文章を全て削除する。本心を送りそうになったが思いとどまる。

『その日も就活のことやってた』と打ち直して送信する。

『何もやってないでしょ? 明日は会う?どうする?』どっちだっていい。何もかも考えるのが嫌になってきた。元々、会うと言い出したのも彼女の方だ。それなのに、今、その選択肢を渡されるのは癪に障る。まるで、自分が会いたいというと思っているのだろう。それが前提でもう自分は別れてもいい、会わなくてもいい、というスタンスだ。気持ちが悪い。そもそも付き合うのを申し込んできたのは彼女の方だ。こっちも別れていいと、同意見だ。最初からだ、おかしいのは。『どうして何も連絡してくれないの?』から何かが歪んでいた。彼女は自分は何もかもしてもらう側なのだ。本来、対等であるべき関係のはずだ。お互い支えあい時には助け合い、ともに成長するべきだ。それなのに、少しだけ早く働いて、少しだけ社会を知って、社会の理不尽に触れ、いつのまにか自分は上で、機嫌次第でどうにでもなると思っている。考えるのをやめてしばらく無視することにした。通知が響くが無視をする。しかし通知は鳴りやまない。彼女からではなく酒井からだった。『お前チャットGPT使っただろ』『使うなって言ったよな』『大学から電話きて単位落ちたよお前のせいで』手の震えが止まらなくなる。彼女のことだけでも頭が割れなのに、さらにストレスが襲う。酒井から電話がかかってくるが無視をする。ベッドに倒れ込み目を瞑る。

また、スマホが鳴る。いつもとは違う通知にスマホに重い瞼を上げる。教授からのメールだ。

『卒業論文は進んでいますか?皆さん五割ほど終わっています。いつになっても取り掛からないと思うので、明日までにテーマと構成だけ送ってください。』


パンクした。心が破裂した。自然と涙が出てくる。何もかもうまくいかない。どこで間違えたのか。誰のせいにもできない過ちが積もる。全て怠惰な自分が元凶だ。考えることはもうできない。ベッドに倒れ込み瞼を閉じる。涙でぐちゃぐちゃになった視界の隙間から、何とかスクリーンショットで保存していた卒業論文のテーマを見つけ出す。

〈この中のテーマで2万字程度の論文を書いて〉直人は画像を送信する。画面の中央で、小さな円が静かに回る。滑らかに、白い線が円を書いては消えていく。1分ほど待つと、一つのテーマを取り上げ、延々と一定の速度で文字が打ち込まれていく。時々大きな見出しと細かな説明文。永遠にスクロールし、最後の行が見える。

【いいテーマですねさらに掘り下げて一緒に研究しよう】

本当に、二万字以上の論文になっている。今までは、文脈を少し変えてAIと判断されないようにしていたが、今の直人にそんな気力はなかった。全てコピーし、パソコンに移す。どんなテーマで、どんな内容かもわからない論文をPDFファイルに保存し提出する。

〈教授に卒業論文が終わったと伝える文章を考えて〉

【お世話になっております。〇〇ゼミの〇〇です。

このたび、卒業論文が完成し、提出が完了いたしましたのでご報告申しあげます。

お忙しいところ恐れ入りますが、何か不備等がございましたらお知らせいただけますと幸いです。

今後ともよろしくお願いします。】

教授に提出したことを報告し、パソコンを閉じる。

〈友達に文章を添削したと疑われてるんだけど、どう返したらいい?〉

【自分でちゃんと書いたよ。工夫して表現したからそう思われたのかもね。こんな感じでどうでしょう?】

直人はまた、チャットGPTの文章をコピーしLINEへ打ち込む。今、自分を動かしているのが誰か分からない。

〈明日彼女に合うか聞かれてるんだけど、どう返したらいい?〉

【明日は空いてるよ!何時がいい?カジュアルな感じで行きましょう!】

直人はこの文を送った。文脈も、口調も嚙み合っていない。無気力を通り越して、虚無だけが存在する。直人は明日が来るまで瞼を閉じた。

 インターホンが鳴る。スマホを確認すると、『何その感じ?とりあえず明日家行くから』と彼女から来ていた。時計を見ると一時だった。扉を開けると、普段着の彼女が立っている。

「何その恰好?」

 彼女に聞かれるが答えることができない。いつも、彼女と会うときは部屋を掃除し、髭を剃り、髪をセットして会っていた。だが部屋は散らかり、髪がぼさぼさで、目の下には濃いクマができている。

「部屋も汚いし」

直人はベッドに寝転がりチャットGPTの画面を開く。

「こんなので面接いけると思ってるの?」え

彼女は机の上に置いてあるノートを読み、直人に言う。

「ネットで拾った文でしょこれ。これを書いてて忙しかったんだ」

会話をする気にならない。また説教だ。しかし反論もできない。直人は心を無にする。

「お昼食べた?」

 分が悪くなる話は、何も話さないと感じたのか違う話題を聞いてくる。

「まだ」

「何食べたい?」

 特に食べたいものがない直人はチャットGPTを使う。

「【パスタが食べたいかも】」

 直人は目の前に彼女がいながら、スマホの画面に映った文字を読み上げる。

「じゃあ、食べに行こか」

 トーンが低い彼女の声。チャットGPTを使っているとは思われていないが、向き合っていないことは気づいている。二人でよく通っていたファミリーレストランへ向かう。そこへ行くまで、一言も話すことなく歩き進める。アスファルトに伸びる白線が、ところどころ剥がれ、黒ずんだひび割れが刻まれている。席についてお互いが向き合うが目は合わない。気まずいわけではない。直人の目はずっとスマホに向いている。

「やっぱりここ美味しいね」

「そうだね」

 直人は簡単に答えられる質問はそっけなく返し、選択肢を与えられたときはチャットGPTに質問する。中身のない会話がだらだらと続く。お互い食べ終わり、食器が下げられる。店員も顔見知りで、混んでいない時は、いつも同じ席へ案内される。テーブルの側面にある目のような節。何度も見ているはずだが、初めて見た感覚。節の色は周囲よりも少し濃く、焦げ茶色がかった円が、そこだけ時間が止まっているかのように沈み込んでいる。

「ちゃんと私と話して」

 意識が彼女の声に吸い寄せられる。トーンが少し上がった泣きそうな声。

「ほんとにもう、私のことはどうでもいいんだね」

 本当にどうでもよくて、なんて返したらいいかわからない。指が勝手に動く。

「【そんなことないよ】」

「今もスマホばっかり見て、私のことは一度も見てない」

「【ちょっと作業してたんだ、ごめんね】」

「もう帰る」

 一言だけ言い残し、彼女が会計を済まして帰った。まだ、完全に別れていない。彼女のやさしさなのか、チャンスを与えられているのか、別れようとは自分から言わない。家とは逆方向の駅に向かう彼女を直人は追わない。自分の家に帰りベッドに倒れ込む。自分のやっていることは、本当にクズだ。でも、もう自分では何も考えることはできない。チャットGPTに打ち込む。

〈別れ話を考えて〉

【正直な気持ちを伝える。君が○○だから無理。気持ちが変わったから。

相手を責めず冷静に話す。感情的にならず淡々と話すのが理想。最後に感謝を伝えましょう。

例・最近お互いすれ違うことが多くて、君を不安な気持ちにさせてたと思う。俺も考えたんだけど、今のまま一緒にいても、君をちゃんと幸せにできる気がしないんだ。

君のことは大切だし一緒に過ごした時間が本当に楽しかった。でも、無理にこの関係を続けるより、お互いのために分かれるのが一番なんじゃないかと思う。

今まで本当にありがとう。○○と過ごせた時間は大事な思い出だよ。

これが基本の形だけど状況や二人の関係性によって変えてもOK。彼女が感情的になる可能性もあるから、冷静に話せるようにしておくのが大事だよ。】

 直人はこの例文の○○を彼女の名前に変え、送った。何かから、解放されたような、何かが消えていくような、目の光は消え、既読が付いたのを確認する。しばらく返事が返ってこない。


「私も今までありがとう」文字が表示され、彼女との関係は切れた。

 


冷たい風が窓をたたく。『上田さんの卒業論文がAIで書いたと判断されたため、再提出を求めます。期間内に提出できなかった場合は卒業延期になります。』教授からメールが届いていた。だが直人はメールを無視し、チャットGPTに従い続ける生活を送っている。虚無な心がチャットGPTに侵食されていく。直人はそれに気づかないまま大学を退学してしまった。心理学は結局、剽窃により単位が取れず、その分の単位と卒業論文の提出を求められ、卒業延期をせざるを得なかったが、手続きをやらずに退学してしまった。

〈今日は何をやったらいい?〉

【本日は就職活動をやりましょう!】

〈具体的には何をやったらいい〉

【求人を探し応募しましょう】

〈求人はどうやって探す?〉

【ハローワークや転職エージェントを利用しましょう。企業の採用ホームページを直接確認するのもよいでしょう。】

 直人は転職エージェントを活用し、就職活動を始めた。キャリアアドバイザーとチャットGPTの従順となり流れに身を任す。チャットGPTが用意した質問の回答を覚え、面接に挑む。だがそれ以外の質問をされると答えることができない。聞かれた瞬間、空中にスマホがあるかのように文字を打ち込むが、面接ではスマホを見ることができない。さらに、答えられたとしても薄い成功体験やテンプレになっている回答しかできない。求人応募を探しては応募し、返信を待つ日々。しかし、『選考の結果採用を見送らせていただくことになりました』という冷たい文面だけが、スマホを震わす。何度も何度も落ち続け、大学を順調に卒業できていたなら就職できたであろう企業よりもランクをかなり落とし、介護の事務に就職することができた。明日は初出勤。


 革靴に雨粒が落ちた。一滴、二滴、と黒く一円玉くらいのしみがつき、ほこりがかぶっていることに気が付く。続いて数滴、同じ模様が描かれたが、傘を開くには早い。おそらくそれまでに目的地に着くはずだ。都心とは逆方向、最寄り駅から三分ほど歩き、心の灯ホームの建物が見えてくる。今日が初出勤で中に入ると「新人?こっちきて」と第一発見者に中へ連れられた。二階へ上がり、待機場所であろうところでしばらく待たされた。ここに来るまでの施設内はどこも埃まみれで所々劣化が目立つ部分があった。介護施設でそんなことがあっていいのか。かなりの時間がたったが、誰も入ってこない。新人は一名だけなのでしょうか?そう思っていると「いつまでここに居るんだよ、もう勤務時間だよ」と機嫌悪そうに先ほどの人が声をかけてきた。また、その人についていくと十人ほど作業している小さな部屋へ連れてこられた。ほとんどが高齢者でこの方々自身も介護が必要ではないかと思うほどだ。

「それじゃあ、自己紹介をお願いします」

 一番奥に座っている人が大きな声を張る。長い沈黙。新人は一人だけ、自己紹介を求められているのは自分だということは明白だ。親指は高速で動きチャットGPTの回答を求めている。

〈自己紹介の分を考えて〉

 ポケットの中では回答は出ているが見ることはできない。内定に満足し、入社時のことは何も考えていなかった。せめてもう一人新人がいればこんなことにはならなかっただろう。顔が熱くなり汗が噴き出る。十人の視線が集まっている。

「上田直人です。よろしくお願いします。」

 吐き出すように一言だけで終わってしまった。

「それだけ?もっとなんかないの」

 また一番奥の人が大きな声で言う。周りの人も個々に何か言いっている。「だいじょうぶかしら」と女性が言うのも聞こえてくる。最悪の第一印象。他の従業員の自己紹介もおわる。一日の流れを説明されるが頭に入ってこない。とりあえず数値の入力と電話対応をやるだけだ。だがマニュアルも無ければ特別に教えてくれる気配もない。隣の女性の安住さんは挨拶をしてもシカトされた。周りに監視の目があるためチャットGPTも使えない。電話が鳴っている。出るべきだろうが対応が分からない。

「もしもし」

 マニュアルがないので何を話せばいいのかわからない。相手は高齢の方なのか何を言っているのか全く聞き取れない。すると奥の席の人がやってきて、受話器を取り上げた。

「心の灯ホームの広沢です。どうなさいました?」

 大きな声で、ゆっくり、はっきりと伝えている。先程からの大きな声は癖なのだろう。電話が終わり体をこっちに向ける。

「電話対応もできないのか?」

 いきなり今までとは違う声のトーンにすぐに返事ができない。

「マニュアルがないのでわかりませんでした」

「会社名と自分の名前すらいえないのか?」

「すみません」

 言葉が出てこない。電話が終わったとたんに詰められた。久しぶりに人に怒られた。この会社は異常だ。新人の扱いも環境も最悪だ。何に手を付けたらいいかわからず取り残されていく。社会の流れを俯瞰で見ているような、自分だけ時間が止まっている。数値の入力もやり方が分からずにいるとまた怒られる。「これだから今の若者は」とどこからか聞こえてくる。まともに指導もせず、頭ごなしに説教する。ただのパワハラだ。だから、新人はすぐにやめ会社内が高齢化になるのだ。だが、彼女が経験していたパワハラはこんなものではなかった。自分の行いに少し後悔し、彼女に同情する。

 

 町の色が黒くなるほどに雨脚が強くなっていた。明日も明後日もこの先ずっとこの生活が続くと考えると憂鬱で仕方がない。家に帰りベッドに倒れ込む。常にチャットGPTを開き、生活で起きる判断をすべて任している。

ただ仕事ではそれができない。上司の失望の眼差しがフラッシュバックする。 

 またぼろの建物に入り業務が始まる。挨拶はほとんどの人に無視された。理不尽に怒られては心を無にする。やっとの思いで業務が終わり帰ろうとすると広沢さんに呼び止められる。

「もう全部終わった?」

「はい、終わりました」

「資料まとめたらメール送っとけって言ったよな?」

「すみません、メールでどんな文章で送ったらいいか分からなくて」

「そんなことも分からないの?わからなかったら聞くとかもないの?俺まだチェックしてないのに帰れるわけないだろ」

「すみません」

「とりあえず資料見せて」

「はい」

 自分の席から資料を持ってくる。どの資料だったか分からなくなり探していると、安住さんが気付き資料を見つけてくれた。

「すみません、こちらです」

 持っていくと、眼鏡をあげ隅々まで確認する。

「ここだけで一時間かかってたよね?わからなかったら聞いてって言ってるのに時間の無駄だよね。ミスもいっぱいあるし、昨日と同じミスだよ。考えろよもっと」

「すみません」

「すみませんしか言えないのか、ロボット人間が」

 その瞬間、パンクしていた心がちぎれて、無くなった。


 家へ帰った途端、力が入らなくなり、玄関で座り込んでしまった。まともにう動くことができず、スマホのスマホのブルーライトだけが直人にとって唯一の光だった。そしてチャットGPTに入力する。

〈会社でパワハラを受けたんだけどどうしたらいい?〉

【録音やメールチャットで証拠を残しましょう。

信頼できる人や社外の相談窓口で相談しましょう。

転移や転職、退職を希望しましょう。

無理に耐えてはいけません。精神的に追い詰められる前に、信頼できる人や専門機関に助けを求めることが必要です。】

〈辞職願の文を考えて〉

【辞職願

 令和〇年 〇月

 株式会社○○

 代表取締役○○

 辞職願 

このたび一身上の都合により、○○年〇月〇日をもって

 退職いたしたく、ここにお願い申し上げます。

このような文章で大丈夫です。他にも退職代行サービスを使うのもよいでしょう】

 直人は退職代行サービスで会社を二日で退職した。



心の灯ホームを退職してから二か月後、大学生の頃に働いていたコンビニでまた働きだした。それもチャットGPTからの提案だった。

「上田さん就職したんじゃなかったんですか?」

 成瀬が直人顔を見てすぐ、話しかけた。

「パワハラを受け、退職しました」

 低く平坦な声だった。感情の起伏を感じさせないその口調に成瀬は少し戸惑った。目の前の直人は、どこか遠いところを見つめ、無感情で静かに話す。その様子に成瀬は不気味なもの感じた。だが、興味と好奇心が勝り少し話すことにした。

「話したくなかったら大丈夫ですけど、どんなパワハラ受けたんですか?」

 直人の視線は相変わらず中を漂い、感情のない機械のように答えた。

「私のことをロボット人間と言ったのです」

 その言葉を聞いた瞬間成瀬は恐怖を覚えた。うまく言葉を紡ぐことができず、沈黙が訪れる。目の前の直人の無表情が恐ろしく感じた。何を考えてるのか分からない。怒っているのか、悲しんでいるのか、あるいわ何も感じていないのか。

家に帰ると、母から連絡が来ていた。『会社辞めたんだって?これからどうするの?』直人はすぐチャットGPTを開く。

〈これからどうするか聞かれたんだけどなんて返したらいい?〉

【転職の準備中、体を休めている、視覚の勉強をしている、公認会計士、税理士など

このような返事はどうでしょうか?】

 直人は公認会計士の勉強をしていると返信した。もう自分が誰か分からない。


一年後

「上田さん僕公認会計士合格しました」

「おめでとうございます。本当にすごいですね。努力が報われた瞬間です。思いっきり自分を褒めてあげてください。私も必ず追いついて見せます」

 成瀬はゾッとした。もう直人の人格は存在しないのか。

人間の形をした人間ではない何かが、世の中の色に染まり、形だけが存在する。周囲の色や空気だけを映し取り、自らの色を持たぬまま、ただそこに存在する。一定の表情で、一定の口調で、今日も人間のように振る舞う。


〈今日は何をやったらいいですか?〉

【今日は映画を見ましょう!】


〈献立考えてください〉

【親子丼はどうでしょう?】


〈明日は何時に起きたらいいですか?〉

【明日は七時に起きましょう!生活リズムを整え時間を効率よく使いましょう!】


〈今日は何月何日ですか?〉

【本日は二〇二六年六月二十八日です】


〈おすすめの映画をおしえてください?〉

【このような映画がおすすめです!】


〈私は誰ですか〉

【あなたは上田直人さんです】


〈あなたは誰ですか?〉

【私はチャットGPTです】


〈私は誰ですか〉

【あなたは上田直人さんです】

 

〈私は誰ですか〉






 







このような物語はどうですか?修正点があれば教えてください!】

 




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