喪と記憶に凪ぐ水面
Cpt. シルバーライニングの解剖。
北極巡回船で定期点検されていても、放射線にされられ長期稼働していたCpt. シルバーライニングのボディは痛ましかった。
解剖の分析後、非稼働個体保管室で眠っている。
世界が終わるまで、眠っている。
デトロイトは雨がずっと続いているせいで、海洋科学館も客入りはやや減じていた。
子供の数が少ないからといって、迷子保護官の巡回が薄くなるわけではない。より子供たちと触れ合い、ていねいに挨拶を交わしていく。
「本日の探検おわりです」
「クリーニングお願いします」
「お疲れさま、R.ノクス、R.アルバ」
可愛らしいシロクマ双子のアンドロイド、R.ノクスとR.アルバ。
そのふたりはぼくを見上げて、それから目を見合わせ、もう一度、ぼくを見上げた。
「Dr.アンディニーはお疲れ?」
「やっぱり分かるかな? だから明日から一週間、まとめて休暇を取るよ」
仕事はできているつもりだけど、やっぱり雰囲気が淀んでいたんだろう。
ぼくがあまりに消沈しているから、R.エミールに病気休暇を勧められてしまったんだ。R.エミールは海洋科学館のEAPによって、常駐しているカウンセラーだ。R.エマソンとよく似たアンドロイドに休みを勧められたら断れない。
職場の空気を悪くしたくはなかったから、休暇をまとめて取った。
ポスドクになってから初めての連休だ。
「じゃあまた元気になって、戻ってきてくれるんですね」
「いっぱい休んで、いっぱいHAPPYになってね」
嬉しそうにはにかむ双子。
それだけでこの喪失が癒されたならよかったのに。
連休を取ったらカリフォルニアサイエンスセンターにでも行こうと思っていたけど、今はそんな気分になれなかった。
スイミングスクールの一般開放日に、何も思考できなくなるまで泳ぐ。気持ちがぐちゃぐちゃになっている時は、息継ぎの失敗さえ救いだ。思考が手放せる。
そんな様子に、さすがにライフセーバーのR.ショーンは心配そうにしていた。
「Dr.マリオット。休憩をお願いします」
「ありがとう」
休憩室で独り休んでいると、窓の外では雨はやんでいた。
うっすらと曇っている。降るか降らないか曖昧な曇りだな。
「……墓参りにいくか」
目的を言葉にする。
そうしないと足が動かなかった。
浄土真宗の寺院は、幼いころから馴染みある空間だった。軒先を通り抜ける風の匂いも、柱の湿り気も、石の陰のかたちさえ懐かしい。
母の葬儀もここで行って、墓もある。
本堂で阿弥陀さまにご拝礼してから、水たまりを躱して墓地へ歩いていった。御影石の墓は父さんがいつも掃除しているのか、雑草ひとつ、苔ひとかけらもなくきれいだった。雨上がりで御影石は濡れて、しっとりとした黒さになっていた。
ぼくは祈る。
水泳のあとの気だるさを引きずって、本堂の陰に腰を下ろした。
しばらくうずくまっていると、すっと小さな陰が近づいてくる。お香の馨しさが鼻孔をくすぐった。
ちんまりとしたお年寄りのお坊さまだ。
「お水はいかがかな、パピアさん」
「……ご院主さま」
二十年前に、母さんのために読経してくれた僧侶だ。今はこの寺院の代表になられている。
庫裏へと案内され、お水を頂き、一息つく。
ご院主さまの他に僧侶の姿はない。
軒の雨どいから、雨の名残が響いてくるほど静かだ。
「今日はCpt. シルバーライニングに祈っているんです」
「ああ、北極のアンドロイドさんだね」
そうつぶやき、ご院主さまは両手を合わせた。
ご院主さまは『Mx.』や『R.』の分け隔てなく、『さん』と敬称する。ぼくが博士を取っても変わらない。
飴と猫は『ちゃん』だけど、世界のあまたすべてを『さん』付けしている。
ぼくは『パピアさん』、父さんは『ギャラントさん』。
ご院主さまの前では、人種や性別どころか、動物やアンドロイドであっても同じだ。
小さな機械音を響かせて、掃除ロボットが転がってきた。本堂を掃除しているロボットだ。あさがおのシールが貼られている。
「あさがおさん、こっちは大丈夫ですよ。ありがとうございます」
一礼して方向転換させて、ロボットを本堂へと戻す。
穏やかな態度は、人間やアンドロイドに対してと変わらない。どれほど優秀な人間でも、どれほど壊れた家電でも、そしてきっと非合法なクローンであったとしても、院主さまの瞳からすれば、等しく阿弥陀さまのご本願に照らされるものなのだろう。
なにひとつ分け隔てない。
それがぼくにとって不思議なくらい心地よかった。
湿った空気を吸って、外を見上げる。
デトロイトの大空は青く眩しく晴れ、大地の水たまりはきらきらと反射していた。
「……R.パラスケバス。おはよう」
「おはよう、エレノアちゃん。今日もダイスキ! 天気良くなったヨ! エレノアちゃんの休日のハジマリにぴったりのお天気!」
楽しそうにさえずっているのは、わたくしの盲導鳥R.パラスケバス。
枕元で踊っている。
「エレノアちゃん、カーテン開ける?」
「ええ、お願い」
暁のまどろみのまま、庭を眺める。
わたくしの傷ついた網膜に映るのは、雨上がりの水たまりたちのきらめきだった。
乱反射の明滅が、色彩をかき乱していく。
日差しのきらめきに、紅茶の馨しさが含まれた。
オオウミガラス型のアンドロイドが、ワゴンを押してきた。
執事のR.ピンキーJr.だわ。
「Mx.エレノア・パートリッジ。おはようございます、紅茶が入りました」
「ありがとう……いい香りね」
仕事のことを考えず、ただ香りにひたる。
「こんな風にぼんやりと過ごすのは、何か月ぶりかしら……」
リフレッシュのために、一応、おじいさまの命日前後には仕事から離れる習慣をつけている。わたくしが不在でも企業を回るようにしておかないと、不測の事態が恐ろしいもの。
「R.ピンキーJr.。今日は温かくて咀嚼できるタイプの朝食を取りたいわ。陶器の食器で。もし食材があれば何か……」
仕事に行く前は、車内で栄養ゼリー。余裕があってもグラノーラだけで済ませていたわ。弱視でも食べるのが簡単な手軽なもの。
今日はゆっくりできるけど、屋敷に食材があるのかしら。
「まともなお食事ですね。バターミルクビスケットとグレープフルーツでしたら、2分でご用意できます。もし10分お時間を頂ければ、エッグベネディクトをお作り致します。グリルドグレープフルーツも添えましょうか」
朝食としては一般的なエッグベネディクトだけど、もう何年も口にしてないわね。
「エッグベネディクトをお願い。たまごはひとつで、グリルドグレープフルーツは付けてちょうだい」
「畏まりました」
R.ピンキーJr.はすっと退出する。いつもより足音が早い。
「嬉しそうな口ぶりだったわね」
「Jr.ちゃんだって、エレノアちゃんがゴハン食べるの、嬉しい! アイツね、今日はエレノアちゃんお休みだから、新鮮な卵を注文してたヨ!」
「ふふ、そうなの? アンドロイドは食事できないのに、人間に食べてもらえるの嬉しいのね」
「ニンゲンが食事してるの面白いヨ。ごはん食べてる様子、『ウァー、ニンゲンだァー』って感じる」
見世物かしら?
「もちろんエレノアちゃんがごはん食べてるとシアワセ。原初の生命を感じるヨ。ずっとごはん食べててほしい。いのち続いて! ぴっ!」
R.パラスケバスもR.ピンキーJr.も、いのちの終わりを知っている。
だからこそ食べない状態より、食べる状態を好ましく思うのね。
「ふふっ、そうね。きちんと食事しなくちゃね」
紅茶を飲み終えて、ひといきつく。
「R.パラスケバス。あれからニュースはあった?」
Cpt. シルバーライニングが亡くなって、アルゴ重工と会議してから休みに入った。
それ以後、何かニュースがあったのかしら。
「イツモとそんな変わんないヨ、ぴちゅっ! エレノアちゃんはお休みなんだから、緊急以外はぜんぶナシ」
つまり経済的にも政治的にもビックニュースはなかったのね。
心穏やかに紅茶を味わう。
「映画でも聞こうかしら。でも最近は多様化で、話題性も横並びね」
「エレノアちゃん好みのオモシロB級翻訳は、減ってるしネ」
「別にわたくし、おもしろB級翻訳が趣味というわけではないのだけど……」
「ぴちゅぅ」
曖昧なさえずりを返されてしまった。
「R.パラスケバスは個人的に興味深いことあった?」
「ウーン、イロイロあったけど……パピア・マリオットくん、覚えてる?」
唐突な名前に、首を傾げてしまう。
誰かと思った一秒後、思い出した。天才マリオン・マリオットの一人息子。
もうほとんど思い出せないけど、幼いころにどこかの空港で出会った。あれはCpt.サンダースの空港だったかしら。
「R.パラスケバスはあの子がお気に入りね」
「ぴちゅ。トモダチって思ったからネ。あの子はアンドロイドに対しての礼儀が分かってる子!」
「そんなに礼儀正しい子だったかしら?」
たしか金髪の男の子だったわよね。
記憶が定かではない。
いえ、わたくしはもうおじいさまとの思い出さえ揺らいでいるの。交わした会話や、優しいお声、しわがれた手も、わたくしの日々から剥離していく。
人間の記憶なんて水面にゆらぐ反射ほどの儚さだけど、アンドロイドの記録は完全。
きっとR.パラスケバスは、23年前の記憶を鮮明に残している。少なくともR.パラスケバスにとっては、礼儀を弁えた少年だったんでしょう。
「パピア・マリオットくんはR.が敬称だって、身に着いてる子だよ。身に着ついてないヤツの発音は鼻持ちならないからネ!」
「アンドロイドの主観?」
「ソウダヨ。それでこの前ネ、公開リモート審査会やってたから、ボク視聴してた。博士取ってたヨ。オメデトだネ!」
くるくる踊るR.パラスケバス。
「分野は?」
「ソーシャルロボテイクス。タイトルは『共生の試金石 アンドロイドと人間の親密性の境界操作における主体性』」
「再生して」
わたくしの声で、ディスプレイが灯った。
卵のとろみをゆっくり味わいながら、プレゼンと質疑を聞いていく。
三度目の紅茶のお代わりで、パピア・マリオットの審査会が終わる。
紅茶を飲みつつ論文の内容を考えていると、R.パラスケバスが寄り添ってくれた。
「面白かったネ! ボクああいう理想論、ダイスキ!」
「そうね。突き詰めれば、現存在の拡張ね。生きるということは、現在の選択と未来へ問いかけであって、タンパク質か金属質かの素材問題ではないわ」
「タンパク質主義なヒト多いけどネ! ビジュッ!」
R.パラスケバスが羽根を激しく動かす。
金属の羽根は苛立ちを表現しているのでしょうけど、窓からの光を反射させて綺麗だった。
「ふふ、パピア・マリオット。とても青臭い理想……わたくしは好きよ」
理想を現実に変えるのは、それを胸に抱く人間だけ。
少女時代の感覚が、甘く熱く広がる。わたくしが世界の倫理を再構築すると誓った、あの少女時代。
「彼とお話したら、どんなアンドロイド論が聞けるのかしら?」
境界操作によって現存在が押し広げられた世界を夢想する。
アンドロイドを人間に含むのではなく、今まで人間しかいなかった現存在に、人間とアンドロイドを包括するのよ。
わたくしは瞼を伏せる。
瞳の中の暗闇には、少女のころに見た海洋科学館オートマタ・オーシャンの蒼さが漂っていた。




