Dr.アンディニーに祝杯を
審査会。
14時開始、終了予定は16時半。
50分のプレゼン、50分の教授陣からの質疑応答時間。10分の一般聴講者質問時間。10分休憩の後、結果発表。
教授陣は五名。指導教官のProf.ロドリゲス、他、副指導教官、同じ大学の違う学部の教授、違う大学のソーシャルロボティクスの教授、そしてProf.ロドリゲスが選んだ教授。
ぼくは紺碧のネクタイ(海洋科学館限定)を締めて……正しくは父さんに締めてもらって、博士課程の最終関門に挑む。
Dr.ディンブルビーの手厳しい質疑と比べたら、本番の質問は手心が加えられていた。
データの解釈性など問題がなかったわけじゃないけど、恙なく質疑が進んでいく。
大丈夫だ、ぼくは自分の研究を守り切れている。
勉強は成果を出せば褒められるが、研究は結果を出せば審査の目に晒される。血反吐に濡れて産み出しても、褒められない。猜疑や値踏みから守り抜く。ぼくはそういう世界で生きていく。そう決めた。
『最後に聴講者の方から、ご質問はありますか?』
リモート審査会は誰でも聴講できる。
もちろん質問も可能だった。
とはいえ論文を熟読した専門家でもない限り、一般聴講者からの質問は怖くはない。ほぼ想定質問内だ。
『あだ名を研究して何の役に立ちますか?』
素朴な質問がきた。
「ぼくの目的は、「アンドロイド=財産」という法的枠組みに揺さぶりをかけ、新たな共進化モデルを提示することです。人間とアンドロイド関係を「命名の相互性」という視点から再定義し、将来的なロボット法・文化政策の議論に資すればと願っています」
そう、ぼくは最初からそれを願っていた。
アンドロイドが動産であるという現実を、リサイクルやリコールが当然という社会を、打破したかった。アンドロイドの文化や情緒が成熟しているならば、動産として扱うのは倫理的誤謬であり、存在論的カテゴリー錯誤だ。
質問終了まであと一分。
ぽろんと質問が出る。
「……劉?」
『あなたは『境界操作』という単語を使いました。しかしそれは人間側の解釈であって、アンドロイドが境界を認識しているかは証明できていません。これを【自己完結的な自律ではない】と定義するのは、早計ではありませんか?』
「……」
想定質問を相談した友人が!
本番の審査会で予想外の質問を飛ばしてくるのは!
もう、裏切りなんだよ!
「……ぼくは境界意識の内在性ではなく、社会的相互作用の実効性から捉え、新規性の発揮、すなわち主体性があると定義しました」
背筋を伸ばして、踏みとどまれ。
自分の足に釘を打ってでも、死守すべきものから離れない。
『アンドロイドの【主体性】による『境界操作』によって、誰の目的関数が最終的に最適化されているか。アンドロイド、人間側、双方から観測可能ですか?』
「……ッ、その観測は現時点で不可能です」
ぼくは切れそうな血管を振り絞って、答えを出していった。
審査会は時間をオーバーしつつも終了し、論文は認められる。
そしてぼくの敬称は、『Mx.』から『Dr.』へと変わった。
『おめでとうございます、Dr.マリオット』
しれっとお祝いを述べてくる。
ディスプレイ向こうの劉は、善意のかたまりみたいな笑顔を浮かべていた。
実際、善意と好意だろう。
『Dr.アンディニーの方がよろしかったですか?』
「劉。なんで本番で質問飛ばしてくるの。野生の専門家やめて」
『教授陣の質疑を聞いていたら、新しい疑問が湧きました。いい機会なのでついでに質問を』
朗らかに言ってくる。
その「ついで」のせいで、寿命が縮んだ気がするぞ。
劉の横にちょこんと女の子が現れる。珊ちゃんと玥ちゃんだ。
『おめでとうございます』
『おめでとー』
拍手してくれる珊ちゃんと、ペンギンチックを掲げる玥ちゃん。
愛らしい祝辞に怒りは萎む。
怒っていてもしかたない。
劉も仕事と子育てで忙しいのに、ぼくの想定質問の相談に時間を割いてくれたんだ。感謝してもしきれない。
『マリオット。お祝いに茶葉とドライフルーツの詰め合わせを送ってます。そろそろ届くと思います』
「……ありがとう、劉」
Prof.ロドリゲスにお礼のメッセを出して、シャワーを浴びてラフな格好になる。リビングのソファで崩れ落ちた。
健康的な匂いがすると思ったら、劉からのお祝いが届いていた。
幾重もの梱包を開いてみれば、いろんな茶葉と、ぼくが気に入ったドライフルーツがたくさん入っている。自分で買うには高いけど、もらうと嬉しいやつだ。
「まさか劉が野生の専門家になるとは……想定質問を協力しておいてやること?」
感謝しているんだけど、やっぱりちょっと恨み節が滲む。
「母さんは共同研究者相手に、それをやった」
「…………母さん頭だいじょうぶ? 刺されなかった?」
「刺されてはいないな。やり返されただけで」
わりと平和な着地点だな。
習慣的にデバイスに触れれば、友人たちからのお祝いのメッセで溢れかえっていた。
……『Dr.』か。
そう、ぼくは母さんと同じ『Dr.』になったんだ。
ゆっくりと実感が滲んでくる。
「ワインを開けるか?」
「うん」
ふたりきりで祝杯をあげる。
コルクが抜かれたワインは、母さんの形見だった。
母さんはお酒は何でも愛していたけど、ワインではクロアチア黒葡萄を好み、とっておきの赤が何本か残された。ぼくが成人してからは、特別にめでたい時に開ける習慣になっていた。成人祝いや、大学院に入った時。
そして今日の博士修了に。
「母さんが買った最後のワインだな」
「名残惜しいね……」
「この銘柄が気に入ったなら、お前が買えばいいさ。母さんの分まで」
ワイングラスはふたつ、ぼくと母さんの分。
デキャンタからワイングラスにそそげば、成熟したワインの独特の香りが広がる。
グラスからは芳香。
ぼくからはため息。
「八年だよ、父さん」
「八年だな」
父さんは微笑んでいるけど、八年は長い。
博士課程を終わらせるのに、なんと八年もかかった。
「よくもここまで掛かったものだと我ながら思う」
三十路が目前だと気づいた時には、ぞっとした。
自分の年齢を客観的に考えた瞬間、まるでなめし皮を口に突っ込まれた衝撃が走ったな。見た目の年齢も、父さんより上になってしまったし。
「ワインが成熟するより早いな」
「ぼくはワインじゃないし」
唇を尖らせれば、父さんは浅く笑う。
「そもそも一年はアラスカでインターンをしていただろう。他にもいろいろと資格を取って充実していた」
「でも母さんは一年で博士課程、終わらせたね。化け物なの?」
「外れ値は排除すべきだ」
「中央値は五年だね」
母さんのクレイジーな頭脳は除外するとして、やっぱりさすがに八年はちょっと多いんじゃないか。
「好きな研究を続けさせてくれた父さんには感謝している」
「妥協せず貫いたんだ。誇らしいし、喜ばしいよ」
ワインの熟しきった芳香が立ち上る中、父さんの微笑みはひときわ優しかった。




