引き波のはなむけ
劉に中国茶を飲みながら愚痴ったり、中国茶をおかわりしながら相談したり、さんざん迷惑をかけて論文を書き上げた。
そう、論文は書きあがり、予備審査までたどり着いた!
大都会ニューヨークから、大自然アラスカへと舞い戻る。
ここでインターンできるのは、あと少し。現場の空気をもっと吸収しなくちゃ。
挨拶がてら職員食堂に行けば、仲良くなったメンツがにこにこ出迎えてくれた。
「よ、お帰り。どうだった?」
グリズリーみたいな職員、Dr.グレゴリーが問うてくる。
「なんとか予備審査に通してもらえましたよ。推敲した論文に不備がなければ、次は審査会です」
「懐かしい響きだな」
博士課程の最終関門、審査会。
ぼくはもうすぐ挑む。
「おれはリモート審査会やったけど、当日、マイクとスピーカーがご臨終してて。開始ギリギリで友人が持ってきてくれたな。秒速で胃炎になるかと思った」
「うわあ、そういうハプニングもあるんですね」
「今はめったに無いけど、やっぱシステムエラーはたまに聞くんだよなあ。リモートのシステムエラーは怖いけど、対面だからって万全とは限らない。対面やるんだったら、リハはその発表する部屋でやらないとな。自分があてがわれた部屋だけ、空調の騒音がひどいやつもいたし」
「肝に銘じます」
発表するときの機材のチェックか。
論文発表や質問想定ばかりじゃなくて、物理的な面も下見しないとな。
「そういや、Mx.アンディニーはDr.マリオン・マリオットを知ってるよな。ずいぶん昔に亡くなったが、Cpt.スマルトウェイクのAIをプログラミングした科学者だ」
「良く知ってます。論文はすべて読破しました」
ぼくの母親。
目を離せばお酒を無限に飲むし、ハイヒールとデトロイト瑪瑙が大好きだし、そして一人息子を心から愛していたことも知っている。
「あのひとの審査会は伝説でなあ」
「伝説? 有名じゃなくて伝説?」
「オフェンスって呼ばれてる」
審査会は基本的に、偉い教授たちに囲まれて研究内容に質問を飛ばされまくる。専門外の教授も招かれて、自分の学んでいない専門家からの疑問にも、毅然と答えられないといけない。
飛ばされる質問から、ひたすら研究を守る。ゆえにディフェンス。
そのディフェンスが、どうしてオフェンスと呼ばれるんだ……
母さんの所業に呆然としていると、年配の女性が近づいてきた。Mx.テンプルズだ。
「あら、Mx.アンディニーは審査会に挑むの?」
「認めてもらえれば」
「あたしね、審査会まで進んだのに、落ちちゃって。あれはもう絶望だったわ。審査会のプレゼン、油断しないでね!」
「はい」
指導教官にほぼ博士が取れると認められたから、審査会を開いてもらえる。
だけど絶対じゃない。
「Mx.テンプルズは審査にDr.ディンブルビーがいたんだろ」
「え、あのDr.ディンブルビーがいたんですか?」
ぼくの言葉に頷くMx.テンプルズ。
「あの頃はまだノーベル賞取ってなかったけど、ホントに別格の威圧感があって、あたしうまく受け答えできなかったのよ。対面選んだから……」
「Dr.ディンブルビーは仕方ないですよ」
陰鬱で偏屈な科学者。
懇意にしてもらっているぼくだって、自分の審査会にDr.ディンブルビーはご遠慮願いたい。
というか若手の対面審査会に、Dr.ディンブルビーを呼ぶのは間違っている。
「論文通らなかったら、満期退学するって決めてたの」
惜しかったんじゃないか。
外野の勝手な感想だけど、審査会までたどり着いたんだ。再挑戦すれば勝算はある。
そんなぼくの想いを読み取ったのか、あるいは言われ慣れているのかMx.テンプルズは柔らかな視線を向けてきた。
「Mx.アンディニーは惜しいと思う?」
「正直、そう思います」
「でもそもそも研究室に所属できたら、授業料免除な上に生活費はもらえるし、医療保険や家賃も補助してもらえる。研究助手や講義助手にありつければ、貯金もできるじゃない。だからこそきちんと自分で見切りを決めないと、学生のままで人生が終わりそうだったし」
怖い話だ……!
っていうか、ぼくは他人事じゃない。
だって来年は…………三十歳……ぅわ……うそ……
「肝に銘じます……」
インターンで働きながら、リモートでProf.ロドリゲスと論文をブラッシュアップ。並行して、就職活動。そしてアラスカの見納めだ。
休みをもらって、マウンテンバイクに乗る。
フィヨルドの風を感じながら、敷地を漕いでいった。
一時間ほど漕いでいると、岩陰に白さを見つけた。
Cpt.スマルトウェイクだ。
青い瞳のシロクマ型アンドロイドは、黒岩と残雪の風景に溶け込んでいた。ああやって見回りをして縄張りを形成し、野生のグリズリーやシロクマを傷つけずに追い払っているんだ。
アンドロイドだからこそできる任務。
人類 vs. 自然という対立じゃなく、人類から自然の保護でもなく、アンドロイドという媒介が入り込むことで、保全の多様化が生まれたんだ。
アンドロイドが自然を守る。その尊い光景を、ぼくはじっと眺めていた。
さすがにCpt.スマルトウェイクのセンサーに引っ掛かる。
「おや。Mx.アンディニー。こんなところまで」
二本足になるCpt.スマルトウェイク。
「巡回の邪魔してごめん」
「いえ、センターからかなり距離があるのに、電動でもないマウンテンバイクひとつで来たんですか? 帰りはジープで送りますよ」
「体力あるから平気だよ」
スイミングとサーフィンで鍛えた体力と脚力には、ちょっと自信がある。
「そうですね、激務のあとにリバーサーフィンやってたインターンは、Mx.アンディニーくらいですよ」
「疲れてるからリフレッシュしようと思って」
アラスカの氷河でも、リバーサーフィンできる時期と区間がある。
リバーサーフィン期間は、休みの日によく通った。
乾ききった風が頬を打ち付ける。ぼくはイルカのマイボトルから、水分を補充した。ああ、もうからっぽだ。
「北極って意外と喉が渇くね」
渇きを知らないCpt.スマルトウェイクに対して不躾な雑談だったけど、意外にも深く頷いてくれた。
「動物たちも氷点下の方が水を求めています。空気中の水分がなくなるからでしょうかね。遭難者用のお水がありますよ」
「緊急用の水を奪っちゃうのは気が引けるよ」
「帰りもマウンテンバイクなら、水分を補給していってください。たくさんありますから」
そう言いながら、Cpt.スマルトウェイクはジープへと向かう。
「Mx.アンディニー。帰ったら渡そうと思っていましたが……」
黒い肉球に封筒が乗っていた。
「ポラリスシリーズへのお返事を書けました。配達はお願いできますか?」
「ありがとう!」
ポーラーベアシリーズから派生した、仔シロクマ型アンドロイドのポラリスシリーズ。
子供たちからのファンレターを学習し、手紙を書いた。それにお返事がくるんだ。
「室内で書いてもよかったのですが、アラスカの寒風の中で書いた方が赴きがあると判断しました」
「おもむき……」
アンドロイドの口から語られると、おもむきもひとしおだった。
たしかに物理の紙だから、残り香とか影響するかもしれないな。
「私たちポーラーベアシリーズは過去の負債を引き継ぎ、それを未来に行かせないように留めています。誇らしい仕事だ」
アンドロイドといえば未来的な象徴だったけど、多くの仕事は、人類の負の遺産の始末だった。
核物質や不法投棄の処理は、人類の愚かさを肩代わりさせている。
そんなに高尚な言い方されると、罪悪感が軋む。
「ポラリスシリーズはこどもを守るアンドロイド。過去の負債が、未来を傷つけないよう守護しています。誇らしい仕事です」
Cpt.スマルトウェイクは微笑みながら語る。
「あなたの未来がより良くあるよう、私はここで使命を果たします」
「ありがとう」
それは先に進もうとするぼくにとって、何よりのはなむけだった。




