アクアクリスタル
幼稚園から帰って、バイタルチェック。
それからおやつの時間。
焼きたてのパンケーキと、冷たいアイスクリーム。ふたつともにチョコシロップをたっぷりだ。ミルクにもすかさずシロップをぶち込む。ばしゃっとミルクが散った。
父さんは微笑みながらすっとお皿とコップを引き、ぼくにウェットティッシュを出した。
テーブルに散った雫を拭くと、おやつが戻ってくる。やれやれ。
「父さん。ケルシーがね、バレエかふゅぎゅあで悩んでるって。両方は習えないって」
ふたつのおやつ食べながら、幼稚園の出来事を話す。
ケルシーはグランマがアンドロイドの女の子だ。今日もぼくに勝手に話しかけてきて、勝手に悩み事を話していった。
「バレエかフィギュアか。どちらも大変な習い事だな」
「ふゅぎゅあって何?」
父さんはディスプレイを見せてくれた。
きらきらしたドレスの女の子が、氷の上で滑ってる。
「これはスケート」
「スケートでも速さを競うのがスピードスケートで、ジャンプやダンスを競うのがフィギュアスケートだよ」
「ふーん。父さん。ケルシーがこれやってるなら、ぼくもできるの?」
幼稚園がお休みの日、ぼくはスケートリンクまで連れて行ってもらえた。
すっごく広い氷のホールだ。ひんやりとした冷気と、洗濯されちゃったみたいな色のライトが混ざって、冬っぽいけど冬とはなんだか違った。
「スケートリンク、水平線だよ!」
これはちょっと嘘。とにかく広いって言いたかった。
「このアクアクリスタルは、ミシガン州でいちばん大きなスケートリンクだからな。それにペンギンもいる」
父さんがリンクの果てを示した。
たくさんの人たちに混ざって、アンドロイド・ペンギンたちも滑っている。
アンドロイド・ペンギンと一緒に滑れる。これはすごい。
「もしかしてここが南極……?」
「似ているが、南極はもっと南だな。さ、ヘルメットを付けようか」
カモメ模様のベンチに座る。
ヘルメットや膝パットをつけてもらって、最後にスケート靴を履いた。気分は、しゃきーん。
「レッツゴーふゅぎゅあ」
「パピア。力を抜いて、俺に掴まるといい」
父さんの腕に掴まって、氷を滑っていく。
つるつるする。
ケルシーはここでジャンプを……? そんな、なんてすごい……!
「父さんはいつ練習したの。ぼくに内緒で行った?」
「練習したというなら、お前が生まれる前だな。稼働空間レベル3はスケートリンクの項目がある。スケートリンク、プール、スキー場、ボルタリングだな」
「スキーも出来るんだ」
「可能だよ。お前が望むなら連れていけるが、今はスケートだな。膝が曲がり過ぎているから、もう少しだけ伸ばして……そう。身体を前方に倒してから、足をその地点に持ってくるようにするといい」
ぼくは震えながら、父さんに手を取ってもらって足を動かした。
なんてへっぴり腰だ。
ペンギンたちのおめめに、ぼくのみっともない姿が映っている。
あの瞳は防犯カメラになっているんだ。
ぼくたちを見守ってくれているけど、今はちょっぴり恥ずかしい。
スケートリンクのアンドロイド・ペンギンたちは腹ばいになって、すぃーすぃー滑っている。海洋科学館オートマタ・オーシャンのてちてち歩きとは、動きがまったく違う。
アンドロイド・ペンギンも、地面と氷じゃ姿勢が違うんだな。
ぼくも頑張って、姿勢を氷用にする。
足からじゃなくて、上体から、前へ、前へ。
なんとなく滑れるようになった。
「パピア。今の調子で行けば、手を離せそうだな」
「い、一回、一回だけ、ちょっとだけ、手を放してみて。少しだけだからね!」
父さんが笑いながら手を離した。
すぅーと身体が独りでに進んでいく。
変な感じ。
あれ? 身体って今までどう動かしていたんだっけ。
そんなことを思ってしまった瞬間、膝ががくんと落ちる。
斜めに崩れた。
「うわ…ッ!」
まずい。
倒れる。
リンクに入る前に転び方をマットで練習したのに、両手も両足も縮こまって動けない。
痛みを予感したけど、次に訪れたのは優しい体温。
縮こまってしまった身体を、父さんがすっと抱きかかえてくれる。
「大丈夫だよ、パピア」
ぼくを抱きかかえたまま、すっと氷を滑る。
ひとの少ないところへ運んでくれた。
アンドロイド・ペンギンたちがぼくを見つめていた。恥ずかしいな。
「ペンギンたちに心配させちゃった? ずっと見てるよ」
「初心者児童の優先順位が高いからな」
「優先順位?」
「あのペンギンたちは転びそうになったこどものため、下に滑り込んで、エアバックになってくれる。身体が膨らんで守ってくれるよ」
父さんの口調は優しかったけど、心臓が冷たくなっていった。
「ペンギンの身体、傷まない?」
「傷む。だがそれがあのペンギンたちの仕事だ」
仕事……
防犯の仕事をしているのは知っていた。落とし物を拾ってくれるし、迷子を連れて行ってくれる。だけどクッションにまでなるなんて。
もう絶対に転ばないようにしなくちゃ。
ペンギンたちをクッションにしたくない。
「父さん。もうちょっと手を繋いでいて」
「分かったよ、パピア」
父さんの暖かな手をぎゅっと握る。
離さないように、ぼくは氷を滑りだした。