幸せに妥協できた人魚姫は、泡にならず生きていく
「ただいま! 論文に行き詰って、父さんに甘やかされに帰ってきました」
26歳にして、情けなさどん底の台詞で帰宅した。
これ以上、情けない発言はなかなか無いぞ。
荷物を投げ捨て、父さんにバイタルチェックしてもらう。
「お前、首筋のコリ具合が母さんにそっくりだな」
「論文の執筆速度は雲泥の差なのに、そんなとこ似なくていいよ」
父さんは苦笑いで応えた。
似ているところがあって嬉しいのか。首のコリ具合でも。
「お湯につかるか? 母さんはそれでほぐれたが」
父さんの勧めで、バスルームへ直行。完璧な温度のバスタブに身を沈めた。強張りと疲れを洗い流せば、待っていたのは新しいパジャマ。いっしょに帰ってきたシロナガスクジラとリビングに寝っ転がる。
「首筋は大分ほぐれただろう。足は?」
「足は疲れてないよ」
「そこは母さんと違うな。スイミングとサーフィンで鍛えたおかげか」
そう言いながら、父さんは首から肩をマッサージしてくれる。ここまで甘やかしてもらう予定はなかったけど、気持ちいいから抵抗できない。
熱い風呂とマッサージのおかげで、すぅっと眠りに飲み込まれた。
目を覚ませば、シーフードの香りが満ちている。
「海老と帆立のグラタンと、スモークサーモンサラダだ」
「極楽だね」
「極楽の追加だ」
さらにアガーゼリーが出された。
至福だ。
おなかが膨れれば、甘やかされるという希望は完璧に叶った。
「もう論文なかなか進まなくて。Prof.ロドリゲスもさ、アドバイス曖昧なくせに、突っ込むときだけ切れ味が鋭くなるの何?」
「この世に存在しないものは誰にも指摘できないが、古いものは指摘できる」
「そうだけどさ。あーあ、論文あさってる暇もないけど、先行研究あさらなくちゃ。そういや母さんの論文読んだり講演会の映像を見てるけどさあ、あの業績、母さん三人くらいいないと無理じゃない? いつ論文書いてた?」
「飛行機で完成させていたな」
……化け物か。
学べば学ぶほど母親の規格外さに震撼する。
さすが天才マリオン・マリオット。
こっちは一行書いては消して消して後ずさりながらも進み、血反吐を吐いて、吐いた血反吐で滑りながら、完成させているのに。そしてそれをProf.ロドリゲスにボロクソにけなされるんだ。
「パピア。博士課程が辛かったら、別の進路も視野に入れ……」
「やだ」
「博士を取れなくても、立派な人間はいるだろうに」
「Mx.スミスみたいに?」
「………」
「………」
ぼくらは沈黙。
Mx.スミスは立派なひとだ。
そもそも博士取れなかったんじゃなくて、取らなかったんだ。
在学中、マイクロ・ソルダリング技術のすさまじさに、NASAにスカウトされた。破格の好待遇で。
だから途中で、NASAに就職した。ゆえに博士は持っていない。
「天才の話を持ち出さないで!」
「持ち出したのは、お前だ。パピア」
「うー」
ぐるぐる転がりながら呻く。
無意味に転がり続けていると、デバイスが鳴った。メッセがきてる。
「ケルシーだ」
メッセもらうのも、久しぶりだな。
彼女のことだから、ボーイフレンドと喧嘩したか別れたかしたんだろう。
ボーイフレンドがいないときは、ぼくを誘って、金の掛からない遊びをする。まるで小学校の時みたいに。
ぼくも気分転換がてら、ケルシーの誘いに乗った。
待ち合わせはル・デトロワ総合文化館の美術展だった。
揺れる木漏れ日に、R.ロビンたちがさえずっている。
大噴水の滔々とした水の勢いは、むかしから変わらなかった。
ケルシーはR.レダとおしゃべりしていた。
大噴水には知性の女神が宿っている。彼女はホディがない上に、ビジュアルを定めていない。水に映る姿は、美術展と連動している。
今日の姿は人魚だった。
「R.レダ。美術館で海洋展やってる?」
「アメリカのコスチュームジュエリー展よ。これは人魚のブローチを参考にしたヴィジュアルなの」
R.レダの髪は小粒のダイヤモンドで、きらきらしている。手にはダイヤモンドだけで編まれた扇。
ジュエリー展か。
海洋展ならケルシーは来ないしな。内容、アプリでチェックしておけばよかった。
ケルシーに付き合って、コスチュームジュエリー展をぶらぶら歩く。今日のケルシーは言葉が少ない。静かに展示品を眺めていた。それに身なりだってシンプル過ぎる。ボーイフレンドにフラれでもしたんだろうか。
美術館に展示されているのは、本物の鉱石じゃなくて、ガラスビーズとかプラスチック、模造パールのアクセサリーばかりだ。
偽物。
だけどひとつひとつ手仕事で作られて、天然の宝石を使ったアクセサリーより迫力がある。
「ロックフィッシュだって」
ネオンカラーのラインストーンで作られた魚のブローチだ。
今にも獲物にかぶりつきそうな凶悪な魚をデザインしている。こんな題材を使うなんて自由だな。
「アンドロイドみたいよね」
「え?」
「模造パールとか、ガラスビーズだけど、芸術性がすごいでしょ。アンドロイドみたいって思ったのよ」
「たしかに」
人類が作り出した素材で、人類の芸術と技巧を凝らして、美に仕立て上げられたもの。
母さんも好きそうだな。
「アンドロイドみたいって褒め言葉だと思ってくれるの、嬉しいわね」
「え? 褒め言葉じゃなかったの?」
「褒め言葉よ」
それだけ呟いて、ケルシーは先に進む。
ジュエリーを一通り見終わって、シアターを鑑賞、併設のカフェで一息つく。
カフェの梁や窓枠、カウンターも天然の木材を使っているから、柔らかな雰囲気だ。窓は大きく、いろいろなかたちの観葉植物が緑を添えていた。R.ロビンたちがさえずりをこだまさせて、外なのか内なのか曖昧な空間になっている。
コーヒーはブラジル農園と契約した上質な豆。それが売りだった。
マスターはアンドロイド・ジャクバードのR.ジャック。ブラジルの鳥だ。蝶ネクタイをつけている。蝶ネクタイにふさわしい優雅さで一礼。
「いらっしゃいませ。期間限定は1950年代風軽食。本日のお任せスムージーは、パイナップルとパッションフルーツでございます」
上品に一礼する。
ぼくはオリジナルブレンド、ケルシーはお任せスムージーを頼む。
「パピアくん。ずっとうすらぼんやり浮かない顔してるけど、人生うまくいってないの?」
「え……?」
人生がうまくいってないか?
いや、そういうわけじゃないな。
ずっと悩みだった父さんの体調は、NASAの手術で回復した。論文は行き詰っているけど、好きな研究を好きなだけさせてもらっている。
悪くはないんじゃないか。
「人生がうまくいってないわけじゃない。ただ研究とか論文……ぼくはソーシャルロボティクス研究しているんだけど、なんか論文がうまくいかない。というか、たぶんぼくの思い入れが強すぎて、から回るっていうか」
「ソーシャルロボティクスってヒューマンインタフェースと違うの?」
「もっと社会的な視野かな。なんていうか……アンドロイドと人間がヒューマンインターフェイスで、アンドロイドと人間社会がソーシャルロボティクス」
「パピアくんみたいな学問ね」
どういう意味だろう。
褒める口調ではないな。呆れた感じ。
「そりゃ思い入れだって強くなりすぎるわよ。でも好きな勉強できるんだからいいんじゃない」
素っ気なく告げて、スムージーに口をつける。
勉強じゃなくて研究だけどな。
「そうだね。論文とかうまくいかないけど、幸せだよ」
そう告げれば、ケルシーは黙ってスムージーを飲み干した。
遠くからさえずりが響いてくる。
繰り返される小鳥の歌に耳を傾けていると、なんとなく小学校の時代に戻ったみたいだった。あの頃から変わらない空間だからだろうか。
「あたし、結婚するの」
「おめでと」
じゃなんでぼくとデートしてるんだ?
「いいひとよ。彼もアンドロイドのおばあちゃんに育てられたの。パパもグランマも気に入ってくれた。あたしはバレエ教室で働いてるけど待遇は上等だし、手のかかる生徒もいるけど可愛いわ。友人はびっくりするくらいお人よしばかりよ。遺伝子ブライダルチェックも問題なし。人生うまくいってると思うわ」
「よかったね」
そう返すと、ケルシーは微かに眉を顰めた。
「あたし、こどもの頃はサイテーとサイコーしかないと思っていたわ。バカみたい」
こどもはバカじゃないけど、こどもの頃は全員バカだよ。
話の方向が読めないけど、余計な口を挟まず、耳を傾ける。静かに聞いておいたほうがいい雰囲気だ。
「人生うまくいってるからって、幸せかどうかってまた違う感じよね。不満はないけど」
意味の分からないことを言い出したな。
うまくいってるならいいじゃん。
「パピアくんはたぶん幸せになれると思うわ」
「ん? ……ありがと」
ケルシーは結婚式の日時と欲しいものリストを押し付けて、さっさと帰っていった。
ぼくは司書長のR.ドッジソンとお喋りしてから、ぶらりと図書館を回り、またムービーを眺めて、家に帰る。
「ただいま、父さん。ケルシー、結婚するんだって」
「ケルシーが結婚式か。俺もマリオンの友人の結婚パーティに連れていかれたことがある」
きっと楽しい結婚式だったのだろう。
幸せな記憶を噛みしめるように、口角を上げていた。
「……父さん。ケルシーは人生うまくいってても、幸せとはまた違うって言ってた」
「幸福を妥協するとそうなる。それはそれでひとつの選択肢だ。ヒューマンは不幸と戦えても、望まない幸福には抗いがたい」
「哲学的だね」
幸福の妥協か。
そもそもぼくは幸せを妥協するつもりなんかないから、適当なすり合わせができなくて、研究とか論文とかから回っているのかな。
「パピア。何か食べてきたかい? 晩ごはんはどうする? 遅らせるか、軽くするか」
「コーヒーだけ」
「ああ、だったらボンゴレビアンコでいいか?」
「最高だよ!」
いろいろうまくいってないけど、ぼくはとびきり幸せだった。




