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バイオタートルの玉手箱には、バドワイザーが入ってる


 大学院に入った途端に、授業内容は深度を増した。

 大学までは荒々しい船旅だった。転覆や座礁の危険があっても、酸素はそこにあった。

 でも大学院は海底を目指して、息継ぎ無しに潜り続けているみたいだ。

 頭を働かせすぎて、いつか肉体が呼吸の方法を忘れてしまいそうだ。





 あいかわらず殺戮的に襲ってくる研究と、一向に進まない論文と報告書を抱えているのに、研究発表会まで日数は迫る。副指導教官の面談を終えて、ぼくは研究室でひとり途方に暮れていた。 

「ぼえー……」

 意味のない音を発する。

 空っぽな息継ぎを繰り返していると、誰かやってきた。振り向かなくても特徴的な足音で分かる。

 友人の劉だ。

 東洋系の顔立ちは年齢不詳で、ぼくより年上にも年下にも見える。片耳には中華風の房飾りのついたピアスデバイス。骨格そのものが華奢で、片足はサイバネティックス義足。そのせいで足音は硬く軽かった。 

「マリオット、だいじょうぶですか? ホットミルク、レンジしますよ」

 劉は北京語のイントネーションを含んだ英語で、いたわりとやさしさを語る。

「ありがと……」

 ポケットのデバイスが、ブィブィと不快に鳴った。

 軽い緊急速報だ。

「なんかまたバイオの連中がやらかしたのかな?」

「マリオット。ほんとでも炎上発言ですよ。疲れのせいで、発言が精査されていませんね」

 窘められてしまった。

 でもだいたいやらかすの、バイオの研究室のやつらじゃないか。

 デバイスの画面を開く。


 『急募 バイオタートルかくれんぼ大会参加者』


「ほらやっぱバイオの連中じゃん!」

「研究対象を逃がすの、お家芸ですね」

 

 『バイオタートルが研究棟のどこかにかくれてるよ! 見つけた優勝者には、バドワイザー1ダース進呈!』


「アホだ……」

「バイオタートル。あれはプラスチック消化きのこを、体内で飼ってるやつですね。外部に流出したら、とてもとても問題な生物」

 海洋プラスチック汚染。

 海の生き物が、投棄されたプラスチックを食べて死ぬ。

 死亡座礁したクジラの胃を腑分けしたら、すべてポリエチレンとポリプロピレンで満ちていた。そんな事例はよくある。クジラは反芻類と同じく、胃が複数で複雑だ。いちど入り込んだプラスチックは吐き出されない。

 人類が齎した罪科と悲劇に、科学は挑んだ。

 生分解性プラスチックの開発、シチズンサイエンスでの汚染データ分析。

 そしてバイオの連中たちは「じゃあプラスチック消化できれば、可哀想なの減るやんけ」と、プラスチックを消化できるきのこと海洋生物の共存を研究している。最終的には治療薬として開発予定。

 それを逃がしたのだ。

 アホだ。

「バイオ組は解決策を講じるたびに、新しい問題を爆誕させるんじゃない」

「制御できない善意。とても問題です」

 研究室の外が騒がしくなってくる。

 もしかして結構な人数が、急募に参加してる?

 海洋環境工学の連中も一枚かんでる研究だから、かくれんぼに馳せ参じているんだろうけど、それにしても多いな。

「……そんなに現実から逃避したいのかな」

 亀を追ってるというより、現実から逃げている。

 ぼくだって目の前の現実に進む前に、かくれんぼに寄り路したいんだ。

「マリオット。これは過剰な現実認識を強いられる人間の、ささやかな非合理への願いですよ」

 劉は衒学的に言い直した。

「結局、それは現実から逃げてるってことだよね」

「はい。私たちも参加しますか?」

「そんなことしてる暇ない」

「正論ですね。ミルクもってきます」

 劉がドアを開けた。

 なぜか立ち止まっている。

「マリオット。ミルクじゃなくてバドワイザーにします?」

「は?」

 ドアへ視線を向ける。

 劉が床を指さしていた。

 廊下にいた来訪者は、ノックもできないつぶらな瞳のバイオタートル。

 無垢な眼差しに、ぼくの口が緩む。

 ついでに肺腑にあったため息の種もどこかに消えた。

「バドワイザーにしようか」

 ぼくの未来を救うのは完璧な論文じゃなくて、友情と、たぶんちょっとのビールかもしれない。



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