幼生プランクトン
色なき風が、ニューヨークの海を撫でていく。
サーフィンには打って付けの波が幾重にも寄せてきて縞模様を描き、日差しは乱反射する。瑪瑙模様めいていた。
ぼくはサーフィンを楽しむ。
波間の向こうで、友達のダコタが手を振っていた。
「パピア。アイゼンが疲れたみたいだし、おれ戻る」
「じゃぼくも休憩するよ」
ドーベルマンのアイゼンはもう9歳だ。健康は問題ないらしいけど、ご高齢だもんな。遊びたいけどすぐ疲れてしまうらしい。
「っていうかダコタがいちばん疲れてない? ここまで車で九時間だよね」
「そんなに疲れないって。別にぶっ通しで運転したわけじゃねーし」
ダコタは大学が終わってすぐにミシガンを出発して、PVパークで眠ってから朝イチで出立、ぼくのアパートまでやってきた。
長時間運転からサーフィンって、体力どれだけあるんだろう。
R.シュヴァルツも連れだって、キャンピングカーまで戻る。
ダコタはアイゼンをシャンプー、ぼくはドリンク。
ぼんやりしてるとデバイスが明滅していた。
父さんからのメッセだ。なんだろ。
『パピア。母さんの友人をしばらく滞在させたい。相談の時間はあるか』
そんなの父さんが決めてくれればいいのに。
だけど、どうしようもないことに父さんはアンドロイドで、不動産の権利はぼくだ。一応はお伺いを立ててくれるのだろう。
『いいよ』
すぐにデバイスディスプレイに切り替わる。
元気そうな父さんが映った。
「実はDr.ディンブルビーを匿いたくてな」
「あのひと、なにしたの!」
Dr.ディンブルビー。
母に三度求婚して四度フラれた工学者。
陰鬱な雰囲気を持っているけど、なにかとんでもないことをやらかしたのか?
「お前、サイエンス・ニュースは見てないか?」
「ニュース? パートリッジ総帥死去以外のニュース流れた?」
ここ最近、ずっとパートリッジ社の創始者が亡くなったニュースで持ち切りだ。
それ以外に目ぼしい話題はない。
「まさかニュースになるようなこと、しでかしたの?」
喋りながら、デバイスを操作して、小さい画面でサイエンスニュースを開き、ディンブルビーと打ち込む。
ニュースが再生された。
『今年のノーベル物理学賞にはARTのDr.ダリウス・ディンブルビーの【双方向量子的主観認識システム】が……』
「うわあ!」
間抜けな絶叫を出してしまった。
そ、そうか、ノーベル物理学賞を授与したのか……
アメリカン・ロボット・シンクタンクは、合衆国でもロボット研究のトップ。そこのフルオーダーアンドロイドに携われるなら、ノーベル賞の可能性は十分だ。
「めでたい話だが、インタビューを避けたいそうだ」
「あんまり人づきあいが良さそうなタイプでもなかったもんね」
「喋れば炎上、話せば凍結、SNSは絶対禁止。それが彼に対するマリオンの評価だった」
母さんもなかなか酷な評価を下したものだ。
「というわけで、Dr.ディンブルビーは今、うちに滞在して授賞式の準備だ」
「………月末には一度、帰るよ」
慣れ親しんだ実家のリビングに、Dr.ディンブルビーがいる。
しかも憂鬱な面持ちで。
科学者として最上級クラスの名誉を受けておきながら、Dr.ディンブルビーの表情も雰囲気も陰鬱のどん底だった。ぼくと目を合わせるなり溜息をついてくる。
呼吸しているだけで陰惨な空気になってきたぞ。
このまま滞在されたら、うちがホーンデッドマンションになりそうだな。
「断りたかった」
ぼそっと呟くDr.ディンブルビー。
「ノーベル賞をですか?」
「当然だ。だいたいノーベル賞など、研究を世間に知らしめ、価値があると認めさせるものだ。私は世間の人間が理解できる程度の研究はしていない」
「………」
炎上しそうな発言だな。
「講演会に引っ張り出されたり、政府のご意見番にされたりと使われて、己の研究がおろそかになるなど本末転倒ではないか」
「でも名誉ですよ」
「私は名誉乞食ではない」
「………」
凍結されそうな発言だな。
母さんの評価は手厳しいかと思ったけど、まさか的確だったのか。
「賞金も大きいのに」
まとまった賞金がもらえる。研究設備に投資したり、科学者支援する団体に寄付したり、新しい科学賞を創設したり、いろいろと夢が広がる。
「そこは分からなくもないが、煩わしい」
一蹴した。
庶民の生涯賃金の半分くらいの金額を、本気で一蹴した。
「ただ共同研究者を慮らんわけにもいかん。私が固辞すれば、あれも辞退するだろう」
そして溜息。
どんより淀んだリビングに、ぽろんとディスプレイから電子音が響く。通信が入った音だ。
「Dr.エイヴァリーか」
「繋げますよ」
父さんがディスプレイを操作する。
映ったのは、ぽっちゃりとした赤ら顔に、銀ぶち眼鏡を埋め込んだ中年男性だ。ぱりっとした白衣を纏っている。
陽気そうな雰囲気だな。
このひとが共同研究者?
「ひどいよ、Dr.ディンブルビー。きみが主体の研究だってのにいきなり逐電雲隠れして、インタビューをぜぇんぶボクに任すなんてさ! ま、いいけどね! ボクは嫌いじゃないよ、喋ってちやほやされるの」
シロップ漬けのドーナツを齧りながら怒って、すぐ笑った。
共同研究者に対して、Dr.ディンブルビーはうんざりしたような表情を浮かべる。
「スピーチだのインタビューだのは、お前向きだ。受賞は構わんが式は欠席する」
「OK、OK。スピーチはボクが引き受けるから、受賞式は出席するんだよ。きちんと礼服を仕立てておいてよね」
そう言ってドーナツを一口で頬張る。
ぼくをちらっと一瞥した。
「や、そっちはプランクトンくんか。すっかり大きくなったね。偏屈なDr.ディンブルビーは持て余すと思うけど我慢してね。んじゃ」
笑いながら通信を切る。
Dr.ディンブルビーを引き受けるのはいいとして、ぼくの脳裏に疑問符が泳ぐ。
「なんでプランクトン……?」
首を傾げてしまう。
いや、そういえばDr.ディンブルビーも以前、ぼくに対して、プランクトンって言っていなかったか?
「どうしてぼく、プランクトンって呼ばれるんです?」
「………」
「………」
Dr.ディンブルビーも父さんも黙って、顔を見合わせた。
「パピア。子供には過去の言動に縛られず自由に成長する権利がある。忘れられる権利だ。大人の都合で、幼少期のエピソードを蒸し返すのは倫理プログラムが……」
「ナーサリープログラムを発動させないで」
嫌な気まずさの空気が続く。
やっと口を開いたのは、父さんだった。
「パピア。お前が三歳の頃……」
「その不吉な出だし何?」
「お前は「ぼくはかわいいプランクトン」って自己紹介するのがマイブームで、ホームパーティーの客には必ずそう名乗っていた」
「う……」
三歳児の行動を、まだぼくは笑えなかった。気恥ずかしさだけが募る。
沈黙の中、次に口を開いたのはDr.ディンブルビー。
「幼い子供は、幼生プランクトンだ。正しい認識だな」
「そうですね……」
Dr.ディンブルビーはフォローしてくれたのか、いや、あるいはただ思ったことを口に出したのか。特に慰めにならなかった。
そう、慰めではなかった。
鋭い眼差しが向けられる。
「それがもう成人か。幼生プランクトンだったきみは、どこかへ突き進むネクトンになれたかね? あるいは誰かのためのベントスになれたか? それとも自由なプランクトンを貫くか」
「………」
どこかへ突き進む遊泳生物か、誰かのための水底生物か。自由な浮遊生物か。
問いかけに、答えられなかった。
たしかに大学で望みの講義を受けている。夢に向かって進んでいるけど、ノーベル賞を授与される科学者から真向に問いかけられれば、自信を持って答えられなかった。
まだぼくは幼生プランクトンなんだろうか。
「遊泳生物になりますよ。まだちょっと発育段階です」
「楽しみだ」
Dr.ディンブルビーは口許だけで笑う。
やっぱり陰鬱な笑みだったけど、ぼくは悪い気分にならなかった。




