Chapter5 マーライオンの波濤
ぼくは幼稚園から小学校へ上がる。
背丈は伸びて、水泳のタイムは縮んだ。友達や読める本も増えた。
アンドロイドが嫌いな人間のせいで、父さんの部品が作れないのは変わらなくて、許せなかった。
それでも母さんの気持ちも、父さんの言い分も、少し呑み込めるようなってきた。
研究がリモートで片付く時期が終わってしまったのか、母さんはまた研究所に詰めた。
あと学会とか視察とか立て込んでいて、なかなか戻ってこれない。
会話はリモートだ。
「母さんもニュース見た? この前、誕生したクローンジュゴンの赤ちゃん! 公開されたんだ!」
ディスプレイの母さんと喋りながら、朝ごはんのクロワッサンを頬張る。
母さんも食事しているけど、あれは晩ごはん。今はシンガポールの学会に出席しているから、12時間の時差がある。
「今日はその動物園に行けるんだよ。バスでね」
「楽しみね。帰ってきたら、詳しい話を聞かせてちょうだい」
「うん、いってきます」
「いってらっしゃい」
ディスプレイの母さんに手を振り、父さんに見送られてスクールバスに乗る。
学校に到着したら、校庭で担任の話を聞いて、別の大型バスに乗り込む。
校外実習先の動物園は、クローン研究施設に付属した施設だ。遺伝子バンクからクローン再生されて、自然の中では絶滅しちゃったはずの動物たちが、人工のサバンナやジャングルで生きている。
それよりぼくが行きたいのは、水族館。
ジュゴンの赤ちゃん、早く見たいな。
「ねえ。ぼくだけ先に水族館に行っていい?」
「ルート通りに行かないとダメ。うちの班はまず本館から」
班長に注意されたら従うしかない。
本館ではクローン誕生のメカニズムが、模型として並んでいた。
遺伝子。
この血肉は細胞でできていて、細胞の中に染色体があって、染色体には遺伝子が宿る。肉体の設計図。
「ぼくもクローンだったらいいな」
「唐突に何?」
訝しげに一瞥された。
「ぼくの父さん、アンドロイドだから。一人で産むならクローンかなって」
いっしょうけんめい説明すると、班長の訝しさが呆れに変わった。
「クローンは性別が同じになるわよ。オスメスを好きに分けられたら、繁殖も楽だけど」
「そうだね……」
遺伝の提供者は母さんだけでいい。夾雑物はいらないのに。
自分の内側に宿ってる異物を認めたくない。
考えたくないから遺伝コーナーはさらっと流して、環境保全や動物保護の歴史のところを重点的に見た。レポートはここら辺を書けばいいだろう。
本館が終われば、みんなでズーカートに乗って、動物たちのゾーンに入る。
空気を遮断していないから、野生の哺乳類の匂いが押し寄せてきた。思わず鼻腔を塞ぐ。
「動物って匂いがすごいね……生きてる空気が伝わってくる感じ」
ぼくは呟きをレコーダーに収めていく。後で書くレポートのためだ。
他の子はフォトしていたり、スワイプしたり、各々やりやすい方式でメモを取っている。
シロサイやアジアゾウたちを眺めて、念願の水族館へ行く。
赤ちゃんジュゴンだ。
先輩ジュゴンたちの間で、くるくる泳いでいる。可愛い。
ぼくもジュゴンも肺呼吸しているのに、生きていられる場所が違う。硝子に隔てられている。不思議で神秘的だ。
「パピアくん。もうすぐ14時よ」
集合の時間だ。
「おかしい。分が秒で過ぎ去ってる……」
もっと眺めていたいのに、帰りの時間だ。
バスに乗り込む。
ネットが繋がらないようにされているから、クラスみんなはお喋りしたり、昼寝したり、レポートの下準備をしていた。
ぼくもレコーダーから、レポートに使えそうな感想をピックアップして、テキスト化していく。
学校のレポートはお行儀よく書けばいいけど、母さんにはなんて話そうか。どうしたらこの楽しさを伝えられるかな。
水族館はもっといたかったから、今度みんなでお出かけするならあそこがいい。ちょっと遠いけど、でも行きたい。
次に行ったら、赤ちゃんのジュゴンも大きくなっているかな?
わくわくを心の中で言葉にしていく。
「パピア・マリオットくん」
不意打ちで話しかけてきたのは、副担任の先生だった。絞られた声の低さが普段と違う。叱られるようなことは何一つしてないつもりなのに。
「緊急連絡が入ったわ」
副担任の先生はアンドロイドだから、ネットが繋がらない場所でも通信できる。
「あなただけ家の近くで下ろすわ。お父さまが迎えにきている」
「……え? どうして?」
火事? 事故?
不安だけが湧き出して固まっていると、バスが停車した。デバイスを落としてしまう。
副担任が拾ってくれて、鞄も掛けてもらう。背中を押されて、バスを降りた。友達に挨拶するのも忘れて。
駐車場では父さんが待っていた。
父さんには顔色を変える機能なんてないはずなのに、ぼくには蒼褪めているように見えた。
「パピア、良くないニュースだ。たぶん最悪に近い」
「……母さんが事故?」
母さんは今、シンガポールの学会に出席しているはずだ。
ひょっとして何か事故に遭ったの。最悪に近いって何?
危篤?
「じゃあ急ごう!」
シンガポールなんて遠い。地球の反対側だ。間に合わないかもしれない。
だからって母さんの元へ駆けつけない理由にならない。
「入れないんだ」
「なんで? 大事故?」
「反アンドロイド過激派のテロだ」
「……テロ」
遠いニュースか映画でしか登場しない単語じゃないか。
どうしてそんな単語が、ぼくの日常を踏み荒らしてくるんだ。
「大量の爆発物が詰まったヘリコプターが、ホテルに落とされた。混乱極まっている。現地に行くのも難しいだろう」
「……母さんは?」
「生死不明だ。死傷者数のカウントは上がり続けているが、生存者発見はゼロのまま。酷い事を伝えるが、生存は絶望的だと覚悟してくれ」
やっぱりアンドロイドを嫌うやつらなんて、いなくなってしまえばよかったんだ。