八月の禁酒日
デバイスの通話に、エデンが映っていた。
背景はヨーロピアンな室内って感じだ。
エデンは今、パリのアパルトマンホテルにいる。母親のひとりがフランスに出張して、そこで借りているウィークリーマンション的なホテルだ。
「おはよ、エデン。音声つながってる?」
「音声ばっちりだよ。そっちはおはようなんだ」
エデンは笑う。
パリは今、下がりすぎた昼だろう。あるいは夕方の一歩手前。
「今日のルーブルツアーは、ヘレニズム期の大理石彫刻がメインでね。すっごいかっこ良かった! ギリシャ彫刻だとヘレニズムが好きかも」
エデンは語ってくるけど、よく分からない。
友達が楽しそうにしていると嬉しくなるから、うんうんと頷いておく。内容は頭に入ってない。
「こういう彫刻!」
ぼくがいまひとつ理解していないと悟って、動画アドレスを送り付けてきた。
ギリシャ神話って感じの彫刻だな。
「明日はナポレオン時代の戦利品がテーマのツアーなんだ」
「エデン。またルーブルなんだ」
母親は日中お仕事だから、エデンは毎日ティーンエイジャー用のガイド付きツアーに参加していた。
おんなじ美術館を独りで毎日なんて、絶対に飽きそう。
「パピアくんはルーブルどれだけ広いと思ってる? アメリカひとつぶんの美術品はあるよ」
真顔で言いきってきた。
それは言い過ぎな気がする。アメリカにだって美術品はあるよ。
「ツアーのあとはラクシュミママとディナーするけど、外国のコミックの話しても尖がらないのがいい」
「尖がる?」
「ガブリエルママはコミックより勉強しろって空気を醸してくるし、ブリギッテママは興味なさそうだもん。でもラクシュミママは外国の文芸に興味を持つ一歩って感じで、コミックの話まで楽しそうに聞いてくれるんだ。ラクシュミママも少女コミックが切っ掛けで、フランス留学したんだって」
「へー、良かったね」
「……不思議だよ。趣味っていうか、感性も似てる。食べ物の好き嫌いも。育てられたわけじゃないのにね」
エデンは母親が三人いる。
出産母と養育母、それから遺伝母。
ラクシュミママとエデンは目元や髪がそっくりで、血を継いでいるのが一目で分かる。食べ物や読書の傾向も似ているんだ。
「パピアくんの今日はこれからだよね」
「カドー湖でカヌーする予定。湖面から木が生えまくっている湖。木々の隙間を縫ってカヌーするんだ!」
「マングローブみたいな?」
「それと似てる。カドー湖に生えているのは、沼杉ってまっすぐな木でね、南部の木だからデトロイトやカナダにはないよ」
「あとで動画見せて」
「うん」
キャンピングカーのドアが開く。ダコタが犬の散歩から帰ってきたんだ。
「朝飯できてるぞ。おっ、エデン。ひさしぶり」
「二か月ぶり? ダコタくんも日焼けすごいね。痛くない?」
「UVカットスプレーしてるから平気。おれ、日に焼けやすいんだよ、じーちゃんといっしょ」
快活に笑う。
日の焼け方だけじゃなくて、その笑い方も祖父譲りだ。
ダコタは目鼻立ちが似ているわけじゃないけど、雰囲気とか笑顔は祖父似だった。
「じゃ、エデン、またね」
通話を切って外に行けば、そこはビックフット伝説の森。
杉の群生が立ち並び、スパニッシュモスが絡み合って自然の天蓋を織っていた。キャンピングカーだから、停車のたびに大自然が一変する。
そこに父さんが、紙皿を広げていた。
エーゲ海みたいな瞳に、整った顔立ち。すらっとした長身。
ああ、さっきエデンが語っていたヘレニズムの彫刻そっくりじゃないか。
ぼくは父さんに何ひとつ似てない。
だって父さんはアンドロイドだ。仕方ないけど、たまに苦しい。
「パピア、食べごろだよ」
カーサイドタープの影では、グリルが熱くなり、缶詰がそのままかけられていた。
ベーコンビッツを山盛り入れたコーン缶、ハーブを足した肉入りのチリ缶、つぶしにんにく入れたオイルサーディン缶、黒コショウのスモークオイスター缶。
豪快に並ぶ缶詰たち。
うちのローリングストックの缶詰だ。
父さんが切り分けてくれたバケットに乗せて、ひとつひとつ味わう。久しぶりの海の幸にぼくの味覚がダンスしている。
「このスモークオイスター缶、家でより美味しい。あったかさがぎゅっとしてる」
「そうか。直火の影響だろうな」
食事できない父さんが分析していく。
思考は分析に費やされ、手はライムの皮を剥いていく。
柑橘の青くて爽やかな香りが広がった。香りのシャワーだ。
いい香りだけど、アイゼンは鼻をひくつかせてから、R.シュヴァルツの腹の下へと潜り込んだ。お気に召さない香りだったらしい。
「ライム? それ缶詰に絞るの?」
「甘さ控えめジュースを作っている」
父さんが出してきたのは、ミントと氷をこれでもかというほど詰め込んだピッチャーだ。ライムの皮をふたつぶん、実をひとつぶん入れた。トニックウォーターをそそいで、ガムシロップを入れる。
ミントライムのさっぱりウォーターって感じ。
「これ、牡蠣に合う」
香りは胸いっぱいになるけど、酸っぱくない。夏って感じ。
「父さん。これ、好き。どうして今まで作ってくれなかったの?」
「これは八月の禁酒日に、外で牡蠣を食べるときに飲むドリンクだからだ」
イースターを諳んじる口ぶりで説明してくれる。
禁酒日……それって、つまり。
「母さんが好きだったの?」
「ああ、お前も気に入ってくれたみたいだな」
八月の禁酒日に、外で牡蠣を食べるときに飲むドリンク。
母さんのルールか。
こんな素敵な飲み物もっと早く飲みたかったけど、それが母さんの作ったルールだったら仕方ない。父さんが守ってきたならなおさらだ。ぼくは父さんの守ってきたルールを受け継ごう。
ミントライムを飲み干す。
グラスの底越しで眺める空は、エーゲ海みたいに瑞々しかった。




