Lady Virtual
キッチンのディスプレイは、カレンダーモードになってる。
スイミングスクールのサマーキャンプが終われば、もう夏休みも終わりが目前だった。
「もうすぐ夏休み終わっちゃうね」
「本日より8連休だ」
ぼくは頷いて、手元のアイスミルクへ焦点を合わせた。
コップに残った飲み物の量の理論だ。
もうこれだけしかないと思うか、あとこれだけあると思うか、その積み重ねで日常が変わる。そういう心構え。過去よりも未来を。
未来を考えるなら、『アンドロイド・ジャーニー』ばかり視聴しているわけにはかない。
ぼくの学力が落ちたら、父さんの親としての力量が疑われる。まして落第したら、親権がどうなるんだろう。
父さんはアンドロイド。
今は問題ないから、ふたりで過ごせるけど、児相が介入するような問題が起きたら……
想像に喉が渇いてきた。冷たいミルクを飲み干して、マキノー風ファッジを食べ終わる。
ぼくが頑張ればいい。
それだけだ。
「父さん。文化館で次の学年の参考書、目を通してくるよ」
「いってらっしゃい」
不安に突き動かされて、自転車で文化館を目指す。
ル・デトロワ総合文化館の大噴水は涼しげに噴き上がり、R.ロビンのさえずりに合わせるように揺らいでいた。心地よい水の空間だ。
「こんにちは、R.レダ」
「ごきげんよう」
噴水に花びらが舞い散り、きれいな女性が投影される。館長のR.レダだ。
「美術展は今月までなの。見てくださった?」
「うん。この前、見たよ。いろんな女性の絵があったけど、ショッピングモールとかで見たことあった」
「ええ。ミュシャの姿は20世紀に街のポスターや、お菓子や香水のパッケージに使われていたから、吸引力があるの。その美しさをレディ・バーチャルたちが受け継いだのよ」
美術館内にも、そういうコラムが書かれていた気がする。
「次は何の美術展? R.レダはどんな姿になるの?」
「一応、候補は作ったのよ」
輪郭が揺らぎ、水飛沫が煌めき、姿が変わる。
「………わ」
「ちょっとびっくりよね?」
たしかに。
これは。
びっくりだ。
何の情報もなく目にすると、ぎょっとしてしまうかもしれない。
「浮世絵の美女たち展だけど」
ウキヨエの女性が等身大で喋っている。なんとなく抵抗感があるのは見慣れないせいかな。
ミュシャは写実的だったし、でもこの前の水彩画的なふわっとした……マリー・ローランサンだったっけ。あれは平気だったんだよね。
「理由は言語化できないけど、なんか抵抗ある。きれいだけど………」
「みんなそう言うのよ。やっぱり」
そしてミュシャの姿に戻る。
そういえばR.レダって……
ぼくは言いかけて、発言を飲み込む。言葉は出なかったけど、その気配は察されてしまった。
「パピアくん、なあに?」
「あー………えっとね、R.レダ。なりたいヴィジュアルってある?」
「美術展と連動すること、そのものが楽しいのよ。でも、そうね、強いて言えばフェルメール展を開催してほしいわ」
「開催されるといいね、ふぇるめーる」
図書館で次の学年の範囲をざっくりと予習して、関連書籍をピックアップしていく。
気晴らしに『アンドロイド・ジャーニー』を視聴して、帰宅した。
父さんが出迎えてくれる。
夕飯の香りが、うっすらと満ちていた。
「ねー、父さん。R.レダだけどね。館長の」
「うん」
「ボディを持ってないアンドロイドに、ディフォルトヴィジュアルを尋ねるのって失礼?」
R.レダは投影されるヴィジュアルだけ。
ボディはない。
そんなAIに標準の姿を尋ねるのは、ちょっと無神経だろうか。
「難しいな」
「アンドロイドの父さんにも難問なの?」
「父さんもむかしはボディを持っていなかったが、バーチャル投影はしていなかった。だからそこの機微は推察するしかない。ただ問わない方が無難だろう」
「そっか」
言わなくて正解なんだ。
ぼくはほっとして、鞄を片付ける。
夕食の香りは、優しい熱を帯びて広がっていった。




